**+ 小さく淡く瞬く星


9.闇の帳





姉から渡された、幼い少女。
この世界の誰もが好きになる要素と、そしてこの世界の誰もが焦がれる唯一を持つ少女。
腕の中の重みは、いつもより軽く儚くも感じられた。
首の後ろを支える右腕を少し伸ばして、月の下で淡くけぶる細い髪を梳く。
指先で額にかかる髪の毛を少し避けて、覗く白く小さな額に唇を寄せる。

目覚めることが約束されているのなら、その薄く開かれた花びらのような唇に何度だって口付けを落としてやる。

ぴくりとも動く様子が無いアリスを、しばし見つめてから視線をそらす。
夜の帳に包まれた薔薇園から、濃厚な薔薇の香りを纏わせてブラッドは屋敷へと足を向けた。




「ナイトメア様っ」

「お、おおっグレイよく帰ってきた・・な・・・ぼろぼろだな」

執務室の扉を勢いよく開けて入ってきたグレイは、いつもはきっちりとしている髪を乱して、そのコートの裾もぼろぼろだった。
珍しく逃げずに書類と向き合っていたナイトメアは、瞠目して息も荒い部下を椅子に座ったまま見上げた。
よく見れば、少し線が細くなった頬にも二筋の赤い線が走っている。

「さっき廊下で部下から聞いた話は、本当なんですか!」

「ん?ああ、その話なら本当だ」

いつになく思考が駄々漏れの部下から、廊下で聞いた話とやらの内容を読み取って、ナイトメアは頷く。
グレイが帰ってくる前に、アリスがハートの城にいるという書状が届いたという内容だ。

「ちっ・・・そういうことか。あの×××の女王め」

すぐに気が付いたらしいグレイが、低い声で毒づく。
その手の内に隠されていたことに気が付かずに無駄足を踏まされて、手ぶらで戻ってくることになった。
挙句に、無駄足を踏んだ先では、思う存分無駄な時間を取らされたのだ。

「帽子屋の領土で門番たちに遊ばれたのか・・・」

いつもなら門番たちの攻撃など軽くかわして、さっさと引き上げることも出来ただろうに、アリスのこととなると途端に余裕が無くなる。
ナイトメアが覗くだけ、グレイの思考の中では先ほどの出来事が回想されていった。
若くなった体でいつものように動くことが出来ずに、大人姿の双子と同い年の青年のように攻防を繰り広げる。
グレイの持つナイフがダムの斧をはじき、斜め後ろから振り回されたディーの斧を身を翻してかわせば、その直後に角度を変えて再度迫るダムの斧が頬が掠めた。
飛び散った血が、視界の中でスローモーションのように、赤い花を咲かせる。
ナイトメアは、一度ゆっくりと瞬きをした。

「ハートの城へは時計屋が行ってくれたが、この分だと時計屋も無駄足を踏むかもしれないな。だが、いずれ誰かが動く」

「それまで待っていて、もし彼女に何か危害が加えられたら」

「危害を加えられることより、もしかしたら彼女の体の限界が、先に来るかもしれない」

「なっ・・」

絶句する部下に、ナイトメアは静かな薄灰色の瞳を向ける。

「この世界にいる限り、どんなに待っていても彼女の体が成長することはない。実験が失敗した原因を探り、その要因を彼女から取り除けば元に戻るだろうと思っていたんだが・・・アリスだけが持つあの心臓は、果たしてその間大人しく待っていてくれるかどうか、だ」

聞くや否や、グレイは踵を返し執務室から走り出ていった。
実験のことを調べている、塔の医療チームのところに向かったのだろう。
その必死さに、ついナイトメアは笑ってしまった。
気付いているのだろうか。
いつでも落ち着いて余裕を崩さなかったはずの部下を、ここまで変えたことに。
他者に何の関心も持たなかった時計屋が、自ら動いて見せるなど。

「本当に、君は偉大だな」

そして、分かりきったように同じことを繰り返す世界を見てきた私の眼前に、何度も見たいほど楽しい光景を見せてくれた。
そんな君を愛しく想うから。

「早く、帰っておいで」




「女王陛下っ!アリスをどこへやったんですっ」

「ああ、うるさい」

執務から逃げ回っていたビバルディの下に、白く長い耳を持つうるさい部下がやってきた。
と、思えば、反対側の薔薇の花咲く回廊から、藍色の髪の長身の男が近づいてくる。

「ほお。今度は時計屋か」

「なんであなたがここにいるんです」

中立の立場にある塔にいる者であろうと構わず、今にも銃を向けそうなほどハートの城の宰相の瞳は剣呑だった。

「白ウサギ、理由はおまえと同じだ」

暗い藍色の瞳が、赤い瞳からワイン色の瞳へと視線を向けられる。
訝しげだったペーターは、その言葉を聞いて再度女王の方へと向き直る。

「私はおまえたちのように暇では無いんだ。さっさと話せ」

「そうですよっ!アリスは今、どこでどうしているんですか。ああっ、きっと起きたら僕がいないことに気が付いて、心細くて泣いているに違いありません」

まくし立てるペーターの言葉の内容に、ユリウスの眉がひくりと動く。
その様子を眺めていたビバルディの口元に、笑みが浮かぶ。

「アリスは元気になって、わらわの元に遊びに来てくれておるのじゃ。まだ帰す気などない。・・・・分かったのなら、時計屋。はようここから出て行け」

「でも、女王陛下の部屋にはいなかったじゃありませんかっ」

ビバルディというより、アリスの姿を求めて城中を探し回った白ウサギが、抗議する。

「だ、そうだが?」

「そう簡単に見つけさせぬよ。塔のものどもが、こぞってわらわの可愛いアリスを隠すのが悪い」

先に隠したお前たちが悪い、とすげなく言い放ち、飲んでいた紅茶を置いてビバルディはさっさと城へ去っていってしまった。
後には、考え込む時計屋と白ウサギが残される。

「本当にどうしようもない女だな。おい、白ウサギ」

「・・・何ですか」

「おまえは、まだアリスがこの城にいると思っているのか」

「・・知りませんよ。知っていても、あなたには教えません」

きっとユリウスを睨みつけて、案内人は薔薇の庭園の中を、女王とは違う道へと去っていった。
トカゲと同じ無駄足を踏まされたようだと、ユリウスは嘆息して踵を返した。




屋敷の中の、最奥の部屋。
それは屋敷の主の部屋だったが、そこから繋がるさらに奥の部屋に、彼女はいた。
薄い紗の天蓋つきの寝台の上に、ずっとずっと昔からそこで眠り続けているかのように。
寝台を囲むように薔薇の蔦が這い回り、その蔦の上では次々と蕾が膨らみ、そして優美にその花弁を開かせては、その一瞬後には色を失い枯れていく。
床一面に、そうして枯れ落ちた薔薇の花びらが降り積もっていた。

「・・・っ・・・はあ」

ずっと神経を集中させていた米神が痛みを発して、寝台の端に座っていた男は、左手に持っていたステッキにかざしていた右手を遠ざけた。
途端に、燈されていた光が消え、部屋が暗闇に包まれる。
花びらが降り積もる音が途絶えて、替わりに不規則に乱れた荒い呼吸が闇のなかに響く。
その呼吸が徐々に静まれば、さらにその替わりに聞こえてくるのは、規則正しい時計の針の音と、そして駆け足の。

「・・・ちっ」

舌打ちをして、足元に投げ出されたシルクハットを拾い上げて、男は部屋を出て行く。
荒々しい足音とは裏腹に、扉は静かに閉められた。
真の暗闇に覆われたその部屋の中で、床に降り積もった枯れた薔薇の花びらが瑞々しさを取り戻し、がくへと舞い戻ってはくるりと優雅にその身をくねらせて、美しい蕾の姿を取り戻す。
まるで、映像を巻き戻しているような光景が繰り広げられ、やがてしゅるりと音を立てて、全ての蔦が部屋の中から消えた。
おとぎ話のような眠りに落ちていた少女は、それらのことに何一つ気が付かず、ただ深い夢の底をさ迷っていた。





◆アトガキ



2013.2.19



幕間的な話。
起きてるアリスと、帽子屋のやりとりを楽しみにしてくださっていた方、すいませぬ。
・・・遊園地組に、いつになったらたどり着けるのやら!

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