5.微睡みの午後
一
足元は踏ん張る地面も無く、ふらふらと揺れて心もとない。
両腕は早くも疲労困憊で今にも根を上げそうだったが、あと少しだけと言い聞かせて、緩んでしまいそうな力を必死に込め続ける。
その姿勢のまま全く微動だにせず、ただじっと黙り込んだまま、アリスは前方を睨みつけていた。
正確には、茶色の髪の毛越しに、前方の岩盤を、だったが。
「アリスー、ちゃんといるのかー?」
「・・・・・」
「アリスー?」
「・・・・・」
「はあ。あんまり君が静かだと、つまらなくて・・・何か変なこと、しちゃいそうだぜっ」
ため息混じりに呟かれた、その聞き捨てならない言葉に、アリスの眉根ははね上がった。
「!!?ちょっと、エースっ?!さっきは、しゃべると気が散って、足を踏み外すかもしれないとか言ってたじゃないっ」
「ああ、ちゃんといたんだな!」
はははっよかったよかった、とあっけらかんと笑っている、その首を絞めたくて仕方が無い。
だが、そうすることは、結果的に自分の首を絞めることにもなりかねないので、深呼吸を繰り返すことでアリスは怒りを我慢した。
二人がいるのは高い崖の途中で、崖を登るエースの首に、アリスは必死にしがみついていた。
ヒュォオオオオ、と下から吹き付ける風が、二人の髪の毛と服の裾を巻き上げる。
「エースっ!お願いだからちゃんと・・コホッゴホゴホッ」
ふざけないで真剣にしてよ!と言おうとしたが、途中から咳が出てきて言葉がとまる。
首にしがみついているため、両手は塞がっていて手で口元を押さえることが出来ない。
顔を背けたことで、見るまいとしていた下の地面が見えてしまった。
「っっ!!」
高い。
一応、テント同様何故かエースが持っていたロープで、しっかり体を固定されてはいるものの、他は自分のこの今にも力が抜けそうな、細い子どもの腕だけで体を支えていた。
一方、エースはというと、背中にアリスを背負っているとは思えないほど軽やかな足取りで、一歩一歩崖を登っている。
鼻歌を歌うほど楽しそうな態度が、背中のアリスには理解できない。
内心は蒼白だったが、風邪が治らないアリスの顔は、実際には赤いものだった。
「・・・あなた、何でそんなに楽しそうなのかしら・・・」
咳が収まったアリスの声は、がらがらと掠れて低い。
「ひっどい声だな。でも、君が登ろうって言ったんだぜ?」
「・・・・」
確かに、そうだ。
だが、延々とエースと共にこの森の中を迷うには、アリスの体調は思わしくなかった。
風邪が治るまで大人しくしているという案もあったが、おそらく探してくれているだろう塔のみんなには、その分心配をかけてしまうことは確実で。
だからエースに頼んだのだ、落ちてきた滝を登ってちょうだい、と。
エースは、降りるのは楽だけど、登るのは面倒なんだぜ、と当たり前のことを言った挙句、君って本当に酔狂だなと笑いながらも、言うとおりにしてくれた。
「良いから、とにかく早く上に登ってちょうだい」
「ええー、そんなに急かさないでくれよ」
「少しでも早く、この心臓に悪い状態を抜け出したいのよ」
「でも、抜け出すのに頑張るのは、俺なんだぜ?」
「だから、頼んでいるんじゃない」
頼んでいるというか、もはや命令に近い口調だったが、アリスにはもうそんなことに気を回している余裕は無かった。
「はいはい。仰せの通りに、お姫様」
気を紛らわしたくて話続けるアリスに、エースは横暴だなーと笑いながらも、楽しそうに答えを返してくれる。
もう随分登ってきたはずだから、あと少しだろうと思って、首を伸ばして上を見上げた。
その視界に、何かが入り込む。
どうやら崖の上に何かがいるようだが、昼の時間帯の日差しが眩しくて、誰だか良く見えない。
目を細めたアリスは、見えない相手に首を傾げた。
楽しげなエースは、崖の上の存在に気付いているんだかいないんだか、特にスピードは緩めない。
近づく人影に、アリスは小さく声を上げた。
「えっ」
「ん?ああ、なんだ」
アリスの声に、上を見上げたエースは驚いた様子も無い。
エースが気付いていないはずはないと思ったが、余りにも警戒した様子が無いので、知り合いだろうかぐらいに思っていた。
崖の上に立った人物の、頭に生えた長い耳。
逆光でよく見えないが、そのシルエットは見間違えるはずは無い。
「・・ペーター」
「へえ・・こんなところまでくるなんてさ、愛の力って本当にすごいんだな!・・よっ、と」
崖のふちに手をかけて体を押し上げ、残りを軽やかにジャンプをすることでショートカットして、崖の上に降り立つ。
反動で放り投げだされそうになったアリスは、最後の力を振り絞って、必死に首にしがみついた。
「ぐっ・・お礼代わりに、首を絞めるなんて。ひどいぜ、全く」
「・・・今すぐ、彼女をこちらに渡していただけますか。エース君」
「はははっ!それってまるで、俺が誘拐犯みたいな言い方だな」
「・・・その通りでしょう」
エースは首もとを手でさすりながら、もう片方の手でアリスを固定していたロープをはずして、地面に下ろす。
アリスは熱が出てきて朦朧とした頭で、それ以上の悪態をつくことも出来ず、上手く立てなくて、そのままその場にぺたんと尻餅をついてしまった。
そんなアリスの様子に、腕を組んで静かにエースを睨みつけていたペーターは、慌ててアリスの元に近寄ってくる。
しゃがみ込んで顔を覗き込む、その頭の上にある白くて長い耳が、心配そうに垂れ下がっている。
「アリスっアリス大丈夫ですかっ?怪我はっ??ああ、こんなに顔を赤くして!!」
どうやらペーターは、小さな女の子の姿をしたアリスが、アリス自身であると分かっているらしい。
もしくは、姿かたちなど、ペーターにとっては何の問題も無いのかもしれない。
彼なら、アリスがどんな姿であっても、見つけ出して分かってくれる、そんな気もした。
少しだけほっとしたアリスは、また小さく咳き込む。
その様子を見たペーターは、即座に時計を銃に変えて、容赦なくエースに向かって発砲した。
「エース君、今すぐここで死んでください」
「ええー、頑張って崖を登ってきた俺に、みんなひどくないか?・・それに、俺が死んだとしても、アリスの風邪は治らないぜ」
ペーターの銃弾を、大剣と軽い身のこなしでで難なくかわしながら、エースは拗ねたように抗議する。
「死んでみないと、分からないかもしれないじゃありませんか。さあ、死んでください」
ガウンガウンガウンガウン
キンッ キンッ
エースの笑い声に、ペーターの怒った声。
耳元で立て続けになる発砲音と、それをかわす甲高い金属音。
アリスの頭は、もう限界だった。
「あなたたち、二人とも・・・いいかげんにしてよっ」
叫べば、くらりと視界が揺れて。
「あ」
「アリスっ!?アリスっっ」
仰け反るように崩れ落ちる体を支えてくれる、白ウサギ。
名前を呼ぶ声と、その真っ赤な宝石みたいな瞳を見たのが、最後。
アリスの視界は、暗転した。
「ほらいい子だから、仲直り、しましょう?」
・・・何でよ、姉さん。
アリスは眉根を寄せてそっぽを向き、部屋の窓から見るともなしに外を眺めた。
耳につく泣き声が、アリスをさらにイライラさせた。
腕を組んでむっつりしているアリスの横には、赤くなった腕をもう片方の手で押さえて泣く妹のイーディスがいた。
「・・・・・」
「・・アリス」
「っ!!」
静かな姉の声に呼ばれて、反射的に振り向きつつ、アリスはその顔を睨みつけてしまった。
姉の顔が悲しげに歪むのが見えて、アリスはまたさっと視線をそらす。
「・・・イーディスが悪いのに」
低く、憎憎しげな声。
でも、間違ってない。
また湧き上がってくる怒りを、声に出さずには入られなかった。
「私が悪いんじゃないわ!イーディスが私のお気に入りの本を壊したんだものっ」
姉の膝の上には、庭に投げつけられた時についた傷と、草のしみと泥でぐしゃぐしゃになってしまった、アリスの本があった。
お気に入りのお話がたくさんつまっている、深緑色の綺麗な装丁の本、だった。
アリスが本に夢中だったのが気に食わなかったらしい。
話しかけても無視を続ける姉に拗ねて、イーディスはそんな姉の一番のお気に入りを棚から取り出して、おもむろに窓の下、雨でぬかるんだ後の庭に投げ捨てたのだ。
一瞬の出来事だった。
呆然としているアリスの前で、やっと本から顔をあげた姉に、妹は無邪気に顔を輝かせた。
そして、怒ったアリスは、イーディスの腕を思いっきり引っぱたいたのだった。
「アリス・・・」
なんで・・・なんで姉さんはイーディスを怒ってくれないのだろう。
ひどいことをしたのはあっちなのに。
叩いた痕なんてすぐ治るけど、本はもう元の状態には戻らないのよ。
「アリスっ!」
最後の言葉は口から出ていたのだろう。
聞いた姉は、きゅっと眉を寄せた。
その顔のまま、またアリスに向かって口を開く。
姉さんが怒っている。
この上まだ怒られるなんて、アリスにはもう我慢できなかった。
部屋を飛び出して走り出す。
後ろから聞こえる、姉の自分を呼ぶ声は、聞こえない振りをした。
「私が悪いんじゃないのに・・・」
庭の隅、植木の陰で膝を抱えて座り込む。
姉が選んだ可愛いワンピースの裾が、泥で汚れるのも、もう構わない。
唇を噛みしめて、涙をこらえる。
こんなことで泣くような女にはなりたくなかった。
悲しい気持ちを怒りに無理やり摩り替えて、顔を膝に埋めた。
「・・・・アリス」
優しく、アリスの頭を撫でて、宥めるように髪を梳く手を感じる。
・・・私が、悪いんじゃないのに。
「ええ。あなたは悪くないですよ、アリス」
「・・・姉さんは、怒っていたわ」
「でも、あなたは悪くない。だから、泣かないでください」
「泣いてなんていないわ・・・でも、姉さんは泣きそうだった」
部屋を飛び出したとき、最後に焼きついたのは、泣きそうな姉の顔。
寸前まで、アリスを叱ろうとしていたはずなのに。
飛び出すアリスを、引きとめようとして、出来ずに泣きそうな顔をしていた。
・・・アリスは、余計に泣くことが出来なくなった。
「もう、悲しむ必要なんてないんですよ、アリス。だから・・・」
「・・・泣いてなんか、いないわ」
それでも、目じりに溜まる雫を感じる。
そして、零れ落ちるそれを優しくぬぐう、手袋をした繊細な長い指。
自分を包み込むような、暖かい気配。
日曜の午後、姉さんと過ごした、あの幸せな時間。
「・・・・アリス」
ぬくもりが一瞬だけ額に触れて、ふっと離れて少しひんやりとする。
頭の中にこもっていた熱も、すっと抜き取られたような気分がして、深呼吸をしたアリスはまた微睡みの中に沈んでいった。
◆アトガキ
2013.1.16
熱に浮かされて、元の世界の夢を見るアリス。
見守るのは、赤い目の白ウサギです。
泣きそうなロリーナの姿さえ、アリスには完璧に見えそうです。
例え泣いても、きっとそれは綺麗な涙で。
アリスは、同じようには泣けないと、涙をこらえる気がします。
ペーターは、泣かないでといいますが、それは、もう悲しむ必要が無いと知っているから、というお話でした。
・・・エースに「お姫様」とふざけ半分に呼ばせる。
という、個人的やってみたかったネタもしっかり入れたけど、
何かさらっと流してしまいました。(自分で。