14.ナルコレプシーの蕾
一
パチリと目を開いて、アリスは声を出そうとして口を開いたまま静止した。
「おはよう、お嬢さん」
見覚えのあるソファの上、何度か招かれことのある本が並んだた部屋の内装。
そして、かけられた部屋の主のけだるげな声。
その声を聞いてから、止まっていた動きを瞬時に再稼動させて急いで自分の状態を確認する。
起き上がって服の乱れが無いか見渡して、ソファの上、少し離れたベッドの上、そして声をかけた男の顔を観察する。
「・・・残念ながら、何もしていないぞ」
あからさまにほっとして見せれば、椅子に座って何やら書類を処理していたブラッドは呆れた顔をして、それから口角を少し上げる。
「やれやれ、御望みなら先に言ってくれれば、私も君の要望を飲むことも吝かではなかったんだが」
さすがにそれは冗談だとわかるから、アリスもまともに取り合わない。
「あら、あなたがその・・・そういった趣味の持ち主だなんて今まで知らなかったわ。でも安心してちょうだい、わたしそこまでの偏見はないわ。だから、これからもずっと友達でいましょうね」
ニッコリと笑って「友達」の部分をことさら強調する。
ブラッドは肩を竦めて見せた。
「でも、私いつの間に寝ていたのかしら・・・」
ジョーカーのいた空間を出て、気が付いたら帽子屋屋敷にいて、そのままお茶会に招かれて・・・・。
何だか色々と疲れる出来事があったはずだが、知らぬ間に寝てしまうほどのものでは無かったはずだ。
なのに、気がついたらブラッドの部屋にいる。
間に何かあっただろうかと思い出そうとするが、何も思い出せない。
何か忘れてしまっているのだろうか。
「お嬢さん」
書類の処理に一区切りついたのか、ブラッドは立ち上がってソファに歩み寄る。
だが、アリスは考え込んでいてそれには気がつかなかった。
「・・・そう、不安そうな顔なんてするものじゃない」
するりと指の背で頬を撫でられて、アリスははっと顔をあげた。
背後からソファの背もたれ越しにこちらを覗き込んでいた男の顔をじっと見る。
いつの間に寝ていたのか、自分は何か忘れているのか。
聞こうか迷って、結局口を噤む。
「そんな顔は、男を付け入らせる隙にしかならない」
そう言いながらも、宥めるように髪を梳く指先は思いのほか優しい。
彼らしくもない態度に触れれば、それは自分の感じている違和感から気をそらそうとしているのだと分かった。
後ろ暗いことも含めて、様々なことをその中に隠し込んでいる翠碧色の宝石。
覗き込んで暴く気には、なれなかった。
「ご忠告どうもありがとう」
いつもどおりを装って、伸ばされた指先を軽く払いのける。
大丈夫だと意思を持って見つめ返せば、一瞬見開かれた瞳はふっと細められた。
いつ呼んだのか、タイミングよくノックの音がして屋敷の使用人が紅茶の入ったティーセットを運んでくる。
受け取って扉を閉めたブラッドは、戸棚から茶葉の入った缶を取り出して、自分で淹れ始めた。
静かな室内に、ふくよかな香りが漂う。
「えっと、それで私は塔に戻っても良いのかしら」
「そのことなんだが」
目の前で、琥珀色の美しい液体が揺れる。
差し出されたカップを受け取って、一口飲む。
胸の片隅にあったもやもやとした不安が、じんわりと広がる暖かさと落ち着いた苦味に溶けて消えていく。
「美味しい」
満足そうに笑みを返す相手に、話の続きを促す。
「夢魔と話をして、君のことはこちらで暫らく預かることとなった」
「え?どうして・・」
「あの芋虫が言うことには、どうやら過保護すぎる輩が多すぎて君が窮屈そうだという話だったが。ここで、君の実験の続きをすればいい。必要なものはすぐに取り寄せよう」
そしてどこからか、深緑色の装丁の本を取り出して差し出してくる。
「!」
受け取ったのは、クローバーの塔で最後に読んでいた「草木の薬効」、実験に失敗した要因があると思って調べていた本だった。
さらに、自分のメモ書きがされたノートも手渡される。
ブラッドの話は、願ってもないことだった。
クローバーの塔のみんなは優しいが、みんな心配性過ぎる。
実験のやり直しだって自分こそがやるべきことなのに、見た目も相まって危険だからと手を出させてくれない。
居心地は悪いはずもないのだが、用意された暖かい寝床に包まっていれば良いと言う話でもないはずで、もどかしい気持ちが溜まっていたのは事実だった。
「その分だと、君もそれで問題無さそうだな」
勘の良い相手は、こちらの表情の変化を仔細に眺めてそう結論付ける。
「本当に良いのかしら?迷惑にならない?」
「そのサイズの君がかける迷惑だったら、喜んで巻き込まれてみたいものだな」
「・・・遠慮なく、滞在させてもらうわね」
要するに、滞在させて尚且つ実験の手伝いもしてやるから、その代わり自分を退屈させないようにしろ、といったところだろうか。
適当に、お茶会の相手をしていれば良いだろう。
目の前に、白い手袋をした手が伸ばされる。
「取引成立だな、お嬢さん」
「お邪魔するわ、よろしくねブラッド」
その手を自分から握り返した。
「で、そのアリスはどこ行ったんだ?」
「今は、研究用に貸した倉庫にこもっている」
手元の文書に目を通しながら、書類を受け取るのを待っているエリオットに答える。
あれから、手が必要ならといって数人の部下と、多少の爆発物なら耐えられる構造の屋敷の裏手にある倉庫の一つをアリスに貸した。
部下が頻繁に出入りしているところを見ると、それなりに順調に実験は進められているのかもしれない。
だが、お茶会の誘いをする隙も与える気が無いようだった。
もしかすると、塔でのもどかしい状態は彼女にとってだいぶストレスだったのかもしれない。
コンコン
「ボス、裏庭の薔薇の蕾なんですが~」
「分かった。今行く」
ゆっくりとした部下の報告を聞いて、ブラッドは書類を置いて立ち上がる。
そのやり取りを聞いて、エリオットは耳をひょこりと動かしながら首を傾げた。
「裏手に薔薇なんて植えてたっけか?」
「ああ、常々殺風景だと思っていてな。これから植える予定だ」
「ふーん・・・」
NO.2のうさぎさんが、尊敬するボスのすることに異議を唱えるわけもなく、けれど何やら考えていたエリオットは良いことを思いついたと手を打った。
「なあなあ、ブラッド」
「・・なんだ」
ちらと振り向けば、エリオットのキラキラとした視線が返ってきて、ブラッドはそっと視線を他所に逃がした。
何だか、その続きをとても聞きたくない気になってくる。
「そのさ、薔薇を植える場所以外のところでいいから、俺にもちょっとだけ植える場所くれねぇか?」
「・・・・・何に使うんだ」
聞きたくない、知りたくない。
だというのに、自分は何を律儀に聞いてやってしまっているんだ。
すでに後悔しかけている耳に、嬉々としたうさぎさんの返事が返ってくる。
「にんじんばt」
「ああ、エリオット残念ながら裏手には薔薇しか植えない予定だ申し訳ないが他をあたってくれ。それからこれとこの書類を処理しておけ」
「え、えー・・・そ、そっか」
かぶせる勢いで相手の言葉をかき消す。
いやいや、かき消すつもりはない・・私は、何も、聞いていない。
がっくりと肩を落として耳を垂れたうさぎさんに、手元の書類を押し付ける。
「あと次の次の時間帯の予定だが」
「ん?ブラッド都合悪いのか?じゃあ、俺が行ってくるぜ」
「・・・頼んだ」
「ああ!任せておけって」
さっき凹んでいたのが嘘のように、満面の笑みで引き受けたという部下に後を頼んで、ブラッドは部屋を出た。
「あ、ボス~」
屋敷の裏手の倉庫に入れば、数人いた部下が振り向いてくる。
その隙間に見えたもの。
簡素な椅子を二つ並べた上に、寝かされた小さな少女。
「お嬢さんはこちらで預かる。お前たちはそのまま研究を続けていろ」
「分かりました~」
指示を受けて、集まっていた部下はそれぞれの持ち場に散らばっていく。
「・・・・・」
寝返りでもしたら落ちてしまいそうな狭い椅子の上で、眠りの園に旅立っている少女を見つめて、小さく息を吐く。
腕を伸ばしてその身体を持ち上げた。
出来るだけ揺らさぬように慎重に。
だが、今揺さぶってもみても彼女は容易に目覚めないだろうことも分かっていた。
どんなに集中していても、ふっと糸が切れたようにアリスは眠ってしまう。
彼女は自分がそうやって知らぬ間に寝入っていることには薄々気がついていても、通常の倍以上もの時間帯を寝ていることには気がつかない。
ここでは昼と夕方と夜が不規則に訪れるから、誰も知らせなければ気が付くはずもない。
そして、ブラッドはそのことを彼女に知らせるつもりはなかった。
腕の中に納まって眠る彼女の意識は、おそらく夢魔の領域の深い底にあるはずで。
そう考えれば起こしてしまいたくもある。
「・・・・・?」
不意に彼女が身じろぎをして、白い上着にその小さな額をすり寄せてくる。
思いのほか、今回は早く起きるかもしれない。
それとも、夢魔が付きっ切りで夢でも見せてやっているのかもしれない。
今はまだ開かれる様子はない目蓋と、はたりと音を立てそうなまつげの先をしばし見つめる。
夢魔なんかではなく、今は自分に頼れば良い。
もう少し歩けば彼女に宛がった客室にたどり着く、その手前で立ち止まって、安心しきって眠るその目元に口付けを落とした。
◆アトガキ
2013.6.14
ブラッド、連投です・・・動かしやすくてつい。
エリオットを一人で動かすのが苦手なので、次回もボスが出張ることになるかと思います。
エリオットファンの方、いらっしゃいましたら申し訳ありません。
彼とだけの絡みは・・・(黙。