1.天使、舞い降りるとき
一
さっきまで夕方だったが、今は明るい陽が差している。
狂った時間の世界だが、夜になるより明るい方が良い。
暗い時分に一人暮らしの女性の家を訪ねるのは、今の自分では躊躇われた。
昔の荒れた頃の自分だったら、そんなことは気にもしなかっただろうが。
やっとできた少し長めの休憩時間。
何をしようか迷って、そういえば時計屋が街に住むことにした余所者の少女、アリスのもとへ見舞いに行ったなんていう話を部下からちらと聞いたのを思い出す。
あの引きこもりで偏屈な時計屋が、だ。
珍しいにも程がある事態だが、アリスを好いてる身としては驚きばかりの感情ではない。
俺だって、まだ店に入ったこともない。
いつも訪ねてくれるのは彼女の方からだ。
塔のみんなの顔を見に、と彼女は時々笑顔を見せにきてくれる。
邪魔はしないようにと少しの時間だけ談笑したり、本を持ち込んで時計屋の部屋にいることもある。
…時計屋とは気が合うらしい。
そんな人間がこの世にいるなんて思ってもみなかったが、彼女はなんとほとんどの役持ちと交流をしていて、尚且つ好意を持たれているという全く稀有な人物だ。
何の力も無いのが本当に不思議なくらい貴重な存在で…そして自分もそんな彼女に惹かれている。
そろそろ体調も良くなって店も開けているかもしれないし、と快気祝いと称してこうして訪ねたくなるほどに。
「・・・いないのか」
巡回の際には何度も見ているアリスの薬屋だが、たどり着けば看板は出ていない。
見上げた居住空間にも明かりは点いてないから、もしかすると元気になってどこぞへ出掛けているのかもしれない。
それなら残念だが、仕方ない。
そう思って、どこか喫茶店にでも入ろうかと踵を返しかけたグレイの耳に、店の中からの微かな物音が聞こえた。
まさかアリスの留守に泥棒でも入ったかと、足を止め息を潜めてその物音に集中する。
中で扉が勢いよく開く音、サンダルをつっかけたようなぱたぱたとする音が店の入口、つまりグレイの目の前の扉まで近付いてくる。
一瞬身構えてから、その音の軽さからアリスだと思った瞬間。
ドンッ パァアンッ
軽い爆発音がして、ガラスの割れる音が響いた。
扉の内側で動いていた気配が止まる。
グレイは急いで店の扉に近寄った。
「おいっアリス!いるのかっ返事をしろ!!アリスっ」
中からは立て続けにガラスが割れる音が数秒した後は、もうしんとしてたまに何か物が落ちる音しか聞こえない。
ノブを回しても、アリスはそこまで無用心ではないので、しっかり鍵がかけてあって開かない。
「ちっ。・・アリス、悪い。後で責任を持って直す」
ガチャガチャと回していても拉致があかないので、ナイフを鍵穴に突き刺して叩き壊し、内側にいるであろうアリスにぶつからないように慎重に扉をあけた。
途端に灰色の煙りが流れ出す。
奇妙に甘いようなその煙りを少し吸ってしまってから、慌てて鼻と口元を抑え身を低くする。
煙りが立ち込めて暗く何も見えない店内の床を、勘で手探りすれば何やら布の固まりのようなものに触れた。
両腕で引き寄せてコートの内側に抱え込み、出来るだけ揺らさぬように気をつけて外へ出た。
「・・っ!なんだ・・・!?」
幸い煙りは外に出れば上空に霧散していく。
店の外へ歩き出したグレイは、いつものように動こうとして有り得ないものを踏み、足元を見つめて驚愕した。
コートの裾を踏んでいる。
いつも着ている自分のコートだ。
周囲に視線を走らせれば、視界が目算で10cm程低いことに気が付いた。
「あの煙りか・・・」
少し吸ってしまった、おかしな香りの灰色の煙り。
急いで腕に抱えたものを地面に横たわらせてみれば、布はアリスが着ていたのだろう白衣で、その中に歳のころは初等部くらいの女の子が隠れていた。
金茶のさらさらとした髪。
意識は無く、ぶかぶかの服から覗く力無く投げ出された手足は、細くて今にも折れそうだった。
最悪の事態が頭に過ぎりそんな自分を叱咤して、コートにアリスであろう女の子を包み込んで、出来る限りの速さで塔へ駆け戻った。
バタンッ!!!
「おおっ、ぐっグレイ・・いや、私は別にさぼってなどいな・・・」
「ナイトメア様、アリスに医者を!」
執務室の扉を蹴破らん勢いで開ければ、驚いてたじろいだ様子のクローバーの領主こと、ナイトメアがいた。
何やらあたふたと怪しい動作ともごもごと何やら言っているのを、とりあえずは無視してそのまま歩み寄る。
近付けばナイトメアもさすがにグレイの変化に気が付いたようで、目を丸くしたあと盛大に噴き出す。
「な、なんで縮んでるんだ、グレイ・・・ぶふ・・うっぐほっ」
笑い出して、ついでに吐血したナイトメアに冷たい眼差しを向けて、グレイは腕の中の少女を見せた。
途端にナイトメアの顔が青ざめる。
それを見たグレイはそんなにまずい状態なのかと、ソファに急いで運び寝かせた。
「・・グレイ、まさかお前、その・・・あー。あれだ、犯罪行為はよくないぞ」
「何を意味のわからないことをおっしゃっているんですか、ナイトメア様」
何やらぱくぱくと言い淀み、出て来た言葉が犯罪だったが、もちろんグレイには何の心当たりもない。
医者が来るまで出来ることをと、水やら何やらを持って動き回るグレイのそばにナイトメアが近寄る。
「ほ、ほんとーに・・何にも、してないよな?私はおまえを信じて、いいんだよなっ」
「何も無いわけないでしょう。アリスがこんな小さくなってしまったんですよ。非常事態です!」
「だから!小さいアリスとお前が・・いや、何も無いなら良い。と、いうかお前若干小さいが、もっと縮んで私より背が低くなってくれても・・・」
「邪魔です、どいてくださいナイトメア様」
ぶつぶつと役に立たないナイトメアをどかして、駆け付けてくれた塔の掛かり付けの医者にアリスの様子を診てもらう。
分かる範囲の状況説明をしてから、医者が彼女を診るのを見守る。
「・・んー。ただの脳震盪でしょう。あまり動かさないようにして、安静にしていれば直に目を覚ますはずです」
医者の言葉に、グレイも周りの部下もほっとした様子になる。
ナイトメアだけが、部屋の隅でひざを抱えて拗ねていたが、誰も声をかけない。
「小さくなった、というか若返ったのでしょうか。その辺は分からないですな」
「どういうことですか?」
「若返ったのが外見だけのことか、中まで若返ってしまっているのか。何の実験をしていたのかも存じませんし。いつ元に戻るかも・・彼女が目を覚まして、そのときの状況を覚えていることを願うのみですな」
確かにそうだ。
静かに寝ているだけにみえる少女に、記憶が無ければどうすればよいだろう。
幸いなことに自分の記憶は後退してないようだが、それが彼女にも当てはまるとは限らない。
彼女は余所者だから、この世界には普段では起こり得ないことも起こしかねない。
もし記憶を失ってしまっていたら…。
自分のことも、この世界に留まる決意をしたことも忘れてしまっていたら、こんな知らない人だらけのところにはいたくないだろう。
家族や友達なんかがいたであろう元いた世界へ…きっと帰りたいと思うのではないだろうか。
そう考えて、グレイはアリスから視線をそらした。
胸が痛んだのは、彼女のためだけではなかったから。
その日。
ユリウスの作り置きしてくれたリゾットも食べ終えてしまって薬も飲み、もうすっかり回復したアリスは、久しぶりに新しい材料を前にしてうきうきと実験をしていた。
店はもちろん閉めてある。
三脚にのせられてビーカーの中では飴色の液体がこぽこぽと化学反応を続けていた。
これなら順調だろう。
そう考えて少しだけ、ビーカーから視線を外した瞬間。
ゴボッ
沸き立つ気泡が急に大きくなった音がして、慌てて振り返れば飴色だった液体が底の方から急に濃いオレンジへ、そして暗く濁っていく。
明らかに尋常じゃない変化に、慌ててアルコールランプの火を消してみたが、反応はとまらない。
溢れ出てきた液体と煙りに、急いで換気窓を限界まで開けるが、その間にも熱せられて限界を訴えるガラスの軋む不快な音が続く。
「これは、やばいかもしれないわ」
避難しよう。
アリスが店へと続く扉を開けて数歩進んだところで、とうとうピシピシッとビーカーに亀裂が入った音がして。
ドンッ パァアンッ!!
背後で起きた衝撃につまづいて転び、流れ出た煙りを勢いよく吸ってしまって、アリスの意識は霞んで滲んで…溶けていった。
気遣うように額に触れる気配がする。
「・・・大丈夫よ、姉さん」
目をつむったまま、反射的に思い当たる人物の名前を呟いてから、あの人はここにはいないことに思い至る。
では、誰だろう。
間違って呼んでしまったからか、驚いたように、そして戸惑ったように離れていきそうな気配に、無理矢理目をこじ開ける。
うっすらと開いたぼやけた視界の中に映ったのは、闇色の髪と金色の瞳。
「ん・・グレイ?」
声をかければ、困ったようにこちらを窺っていた表情が優しく緩まる。
「起こしてしまった、悪かったな」
「いいえ」
大丈夫と続けようとして、自分の声に違和感を感じて喉に手を伸ばす。
「あ、あー・・・え?」
声を何回か出してみて、いつもより何オクターブか高いことに気が付く。
首元へ添えていた手を、恐る恐る目の前に持って来てまじまじと見詰める。
「!?」
「アリス・・・慌てずに聞いてくれ。君はどうやら実験の失敗で、その…若返ってしまったようだ」
心配そうに伝えてくれるグレイの声も、いつもの耳に心地好い低音が無い。
見れば、背は高く見えるが大人ではなく、青年のように見えた。
「グレイも?何で・・・」
「ああ、ちょうど君を訪ねに行ったところで…あ、謝らないでくれ。偶然でもすぐに駆け付けられて本当に良かった。俺は少し煙りを吸ったくらいだから、この程度で済んだし、仕事には何の支障もない」
巻き込んでしまったことにどんよりと落ち込んだアリスにすぐに気が付いて、優しくフォローしてくれる。
グレイはやっぱり大人だわ、と申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
そんなアリスに、何故かグレイがすまないと謝る。
「緊急事態とはいえ、店の扉を壊してしまった。急いで塔の者を向かわせたが、万が一店が荒らされてたりしたら遠慮無く言ってくれ。扉を含めて必ず弁償する」
「そんなのっ!全然かまわないわ・・・」
どちらにせよ実験の爆発で作業室も店内も荒れただろう。
この世界では壊れたものも時間がたてば元に戻ったりするが、今回はどうだろうか。
すくなくとも完全には戻らないだろうから片付けをして、そして早く原因を突き止めて二人とも元に戻す方法を見つけなければならない。
この状態だって、時間がたてば元に戻るという保証はないのだ。
「グレイ、本当に迷惑かけてごめんなさい。塔の人に見に行ってもらえたなら安心だわ。ありがとう」
もう大丈夫だから帰るわね、とベッドから降りようとしたアリスの前に真剣な表情のグレイが立つ。
背が低くなったとはいえ、ナイトメアよりもまだすこし高いくらいのグレイ。
初等部くらいに縮んでしまったアリスからすれば、いつも見上げるグレイは、今はまさに立ちはだかるといっても良いほどだった。
「もう少し、安静にしていてくれ」
「でも、私・・・」
「その状態の君を、あの家に一人帰すつもりはない。危険だ」
アリスは口ごもった。
確かにこの状態はよくない。
ただでさえ物騒な世界で、何の力もないアリスは今やただのこどもだ。
店は開けずにおけば良くとも、食べ物などの日用品の買い出しのためには少なくとも外を出歩かなくてはならないから、家に引きこもり続けることは出来ない。
「でも、早く原因を調べないと」
「君の記憶を頼りにこちらでも調べてみる」
「そんな、これ以上の迷惑は・・・」
「そうじゃない、アリス」
思いのほか力強く言葉を遮られて、アリスは服の裾を掴んで俯いた。
「ごめんなさい・・・」
「あ、いや。本当にそうじゃないんだ・・・」
急に声が動揺したように揺れて、ため息と共にグレイが目の前でしゃがみ込んだのが分かったが、アリスは前を向けなくて、俯いたままでいた。
「怖がらせたなら悪かった。怒ってないし、迷惑なんかじゃない」
君の助けになりたいし、頼ってくれたら嬉しいんだ、と優しい手つきで頭を撫でられて、焦る気持ちがほっと緩まるのを感じた。
そっと目線を向ければ、何故かグレイは赤くなって咳ばらいをして視線をそらした。
「どうだろう、アリス。しばらく、クローバーの塔に滞在しないか」
「え?」
「元に戻るまで、もしくは何か良い案が見つかるまででも良い。部屋はあまりすぎるほど余ってるし・・・そうだな、なんなら俺の」
「待て!まてまて、それはダメだ、グレイ。この塔の主としてその許可は出せないぞ。お願いだから、はやまるんじゃない!」
赤い顔でグレイが言いかけた何かを遮って、いつの間にか現れたのか青白い顔の夢魔がふわりと宙に浮かんでいた。
何か痛々しそうな悲壮な顔でグレイを見ていたが、アリスが見上げていることに気付いて降りて来る。
「こんにちは、アリス。もう具合はいいのかね」
「こんにちは、ナイトメア。迷惑かけてごめんなさい、お邪魔してるわ」
今更ながらにいまさらな挨拶だったが、ナイトメアは満足げに頷いてアリスの手をとる。
そして、何故か睨んでいるグレイを無視してすたすたと歩き始めてしまう。
「待ってください、ナイトメア様。アリスをどこに連れていく気ですか?彼女はまだ安静にして・・・」
「アリス。きみ部屋はどこが良いかな?時計屋の近くなんていいんじゃないか?」
「時計屋・・?ナイトメア様、時計屋の部屋は塔の中でも外れ過ぎます。それよりもっと近くで目に届く辺りが良いかと」
ユリウスの名前を聞いてすこし嬉しそうにするアリスを横目で見て、グレイが真剣な眼差しを向けながら、反論する。
そんなグレイの思考がだだもれてきて、ナイトメアはため息をつく。
「・・今は、お前の側の方がよほど危険だ。よし、時計屋に会いに行こうじゃないか」
もはや、こどものお使いに付いていく気分のナイトメアは、その用事を口実にもちろんさぼる気でいるし、こんな姿のアリスを見てユリウスがどんな反応をするか楽しみでたまらない。
アリスには、ナイトメアの言葉の前半は独り言のようでよく聞こえなかったが、ユリウスに会えるのは嬉しくないわけがない。
こんななりだが、たいていのことなら動じないユリウスなら普通に接してくれるだろうし、リゾットのお礼も伝えたい。
いつもよりだいぶテンションが高いナイトメアに若干いぶかしげな目線を送りつつも、そのテンションのまま吐血をかけられないように注意しながら、アリスも引かれた手に着いて行った。
◆アトガキ
2012.11.23
置いてけぼりグレイ・・・怖いですね、後が。
それにしても、最初は普通にお宅訪問的な流れだったんですが、
何か、二人とも動きが無くてですね。
それが、片方小さくしてみたらあら不思議!
犯罪の匂いがぷんぷn・・・(ぁ
グレイの脳内ではきっと、
「アリス!大丈夫か!(しかし、なんてかわいいんだ)」
「医者をはやく!(ああ、天使みたいだ・・)」
とか、きっとすれすれです。
ナイトメアはきっと吐血がとまらないね!