11.すりかえられた遊戯(ゲーム)
一
「珍しいな。お前がわざわざこちらの領土に出向いてまで私に会いに来るなんて」
一口飲んだ紅茶をソーサーに戻して、夢魔は薄灰色の瞳を意味深に細める。
革張りの上質なソファ。
照明は明るすぎず、暗すぎず、静かなジャズの音色が落ち着いた雰囲気を醸し出している。
飲み物を届けに出た者が部屋を出てからは、静かだった室内に音が生まれた。
「・・・何の用件かは、分かっているのだろう」
組んだ足に両手を置いて視線を合わせる。
内密にということで夢魔が選んだ店だが、紅茶の質は悪くない。
だが、そんな美味いはずの紅茶をいくら飲んでも、気が晴れることは無かった。
その翠碧色の一対の宝石は、少しばかり物騒な光を宿している。
「怖いな。そう睨むな。私とて彼女をみすみす失うつもりは無いよ」
「・・・見つかったのか?」
ナイトメアはため息をついた。
眼前の物騒な男に言われるまでもない。
部下から「こんな時に、寝ぼけている場合ですか!仕事をしてください、仕事を!」と、鬼気迫る表情で怒鳴られながらも、夢の世界にいっているのは。
「・・・いいや。見つかっていない」
「ちっ。使えないな」
「おいっ!私だって恐ろしい部下に怒鳴られながらも、必死に探し回っているんだぞ!」
思うだけでなく、そんなにあからさまに落胆してみせなくてもいいじゃないか・・とぶつぶつと呟く夢魔に、対面で足を組んで座ってみていた男はふんと鼻を鳴らした。
「こんなときでなく、いつお前が役に立つというんだ」
「そういうお前こそ、努力が足りないんじゃないか、帽子屋」
言えば、氷点下の視線が返されて、ナイトメアはそっと視線をそらした。
帽子屋屋敷で眠っているアリスは、今や魂の抜けた器のような状態だった。
どんなに周囲の薔薇ごと体の成長を促してみても、中身が無い身体は何の反応も示さない。
「はあ・・・こんな無駄なことを話し合うために、わざわざ私は出向いて来た訳ではないんだが」
ハートの城で倒れたアリスは、一向に目を覚ます気配が無い。
彼女がただ眠っているのなら、夢の世界を統べる夢魔が探し出せないはずがない。
なのに、彼女の意識はどこにも見つからない。
「ああ、分かっているさ。私にも見つからないように、彼女を巧妙に隠しているのはおそらく・・」
「あのくたばりぞこない、か」
「・・・ジョーカーだろうな」
小さい体は、いつになくアリスの存在を不安定にしてしまった。
ジョーカーが、あんな状態のアリスを見逃すはずもない。
それでも、クローバーの塔の中にいる間は、ナイトメアがその存在を見守ることが出来た。
ジョーカーに手を出させないように見張り、頻繁に夢魔の領域である夢の世界に隠し、また眠る時は深い夢の底に包み込んだ。
彼女自身に気付かれぬように、閉じ込めていたと言っても過言ではない。
だが、騎士が強引に連れ出してしまったせいで、彼女を守るための鳥篭は破られてしまった。
「まったく、厄介な迷子だよ」
白ウサギは鳥篭から解き放たれた淡く小さな光を追いかけて、一度はその手に掴むことが出来た。
彼は、彼女の案内人だ。
だから夢の中でさ迷うアリスを、導くことが出来た。
しかし、光はまたその手から飛び立ってしまった。
そして、凝った闇で編んだ網に捕らえられて、黒い箱に閉じ込められた。
「早く探し出せ」
器が限界を迎える前に、早急に中身を呼び戻して目覚めさせないといけない。
「言われなくてもそうするさ。そのためにこれを・・・帽子屋」
ナイトメアが取り出したのは、一冊の深緑色の装丁の本だった。
ブラッドは、差し出されたその分厚い本を受け取る。
「草木の薬効、か。お嬢さんが実験に使ったのか?」
「そうだが、それだけじゃない」
ナイトメアの薄灰色の瞳が、煙のようにゆらりと揺らめく。
訝しげに眉を寄せるマフィアのボスに、夢魔はひそやかに言葉を紡ぐ。
「彼女の過去のどこかにこの本が関わっている。これを使って私が道をこじ開けるから、その隙に鍵を内側から開けて欲しい」
「こういう時の、城の宰相殿はどうした」
「自らおとりを買って出た」
ブラッドの目が少し見開かれ、ついで細められる。
くつくつと笑うブラッドを、ナイトメアは呆れた顔で眺めた。
「まったく・・・宰相殿の自己犠牲の精神には、恐れ入るな」
「彼女が一番愛した時間だからな。だからこそ、出来るとも言う。それで、アリスの体は帽子屋屋敷にあるんだろうな」
「ああ。この私が、みすみすあいつらに手出しをさせると思うのか?」
肩をすくめて見せる夢魔に、帽子屋は不敵に笑って返した。
ボスンッ
風を感じて目を開ける前に、下にしていた背中に軽い衝撃が走った。
彼女を支えてくれる存在がいない今、落ちれば大怪我は免れないだろうと思っていたのに、想像していた痛みはおろか、それ以上何の衝撃も伝わってこない。
むしろ、ふかふかしたものに受け止められて、緊張しきった体がふっと弛緩するのが分かった。
「ここは・・?」
見渡してぎょっとする。
かつては、見慣れていた風景。
そこは元の世界の、アリスの住んでいた家の、アリスの部屋。
背中に感じたのは、自分の部屋のベッドだった。
急いで上を見上げても、落ちてきた穴は見当たらず、ただののっぺりとした天井が広がっているだけだった。
「まさか、帰ってきちゃったの?」
弱弱しく呟いてから、不意にくらっと視界がまわる。
額を押さえながら、今しがた自分の呟いた言葉を反芻しようとして、上手くできないことに気がついた。
帰ってきちゃった、とは、どういうことだろう。
自分は一体、どこから帰ってきた、というのだろうか。
何かが頭の中から抜け落ちてしまっているような気がしたが、記憶の底をいくら掘り起こそうとも答えが見つからない。
真っ白になった頭のまま、ぺたんとベッドの上に力なく座り込んだ。
トントン
部屋の扉が外から叩かれる音がした。
ぼおっとした頭でじっと扉を見ていると、きいと音を立てて扉は外から開かれた。
「アリス?もう、庭で待っててねって言ったのに」
困った顔をした姉が、扉から顔を覗かせてこちらを見ていた。
「姉さんっ!」
急いでベッドから飛び降りて、姉の下へと走り寄る。
勢いのまま腰に抱きつけば、驚いたように声を上げた姉は、それでも笑ってアリスの頭を撫でてくれた。
優しい姉。
きれいな姉。
尊敬できて・・・誰からも好かれる姉。
一瞬、胸にちくりと針でつつかれたような痛みが走る。
「まあまあ、どうしたのアリス。ふふふっ、まるで小さいときみたいね」
「あ、・・・」
急に恥ずかしくなって、アリスは腕を離した。
赤くなった顔を俯かせて、でも頭は姉に撫でられるままにしていた。
「でも、本当にどうしたの?・・・あなた、オセロゲームがしたいって言っていたじゃない」
「え、ええ・・・え?」
「だから、ちゃんと持ってきたわ」
ほら、と見せられたのは、二つ折りの外に持ち運びが出来る、小さなオセロ盤だった。
でも、何かが違う。
「オセロゲーム・・・・?」
本当に自分は、オセロゲームがしたいと言ったのだろうか。
姉が開いて見せたオセロ盤の箱の内側には、白と黒が両面に塗られた平べったく丸いコイン型の石が、綺麗に並んで収まっている。
どこかから、甲高い笑い声が聞こえたような気がした。
ボタンを掛け違えたような違和感が頭を掠めるが、その石をじっと見ているうちにその違和感も消えていく。
「ごめんなさい、姉さん」
自分がオセロゲームをしたいと言ったかはともかくとしても、妹の我がままに付き合った姉を庭に放っておいて、自分の部屋に戻ってきてしまっていたことには、素直に謝るべきだ。
眉を下げて謝る妹にロリーナは、良いのよ、と笑顔で答えた。
ほっとしたと同時に、アリスのお腹がくうと小さく鳴いて、さっき以上に赤くなったアリスはとっさにお腹を押さえた。
「そうね。じゃあ、甘いものでも持って、庭に戻りましょうか」
さっきより楽しげに笑う姉に何も言えず、アリスはロリーナに続いて部屋を出てキッチンへと向かった。
ロリーナは、キッチンについて手早くクッキーやスコーンをバスケットに詰めている。
その横で、沸かしたお湯をポットに注いでいたアリスは、不意に足元に触れた柔らかい感触にどきっとして見下ろせば、そこには真っ白な猫がいた。
「ダイナ・・・」
にゃあと鳴く相手に、しゃがみ込んで撫でることで答えながら、アリスは一瞬浮かんだ光景に首をひねっていた。
ダイナは真っ白な猫だ。
ピンク色の、しかもしましまの猫なんて見たことがない・・はずだ。
「はい、アリス」
姉に渡された牛乳をダイナ用の容器に注げば、今まで撫でられるままに大人しくしていたのが、さっとそちらに行ってしまう。
「もう。牛乳が欲しかっただけなら、そう言えば良いのに」
つい、口にしてしまった言葉にも驚く。
「あら、アリス。いつの間にダイナとお話が出来るようになったの?」
「えっ!ち、違うわよ、姉さん。冗談よ、冗談」
「そうなの?・・・ダイナとお話が出来るようになったら、私にも教えてね」
「・・・・・」
まったく、姉といったら、冗談だか本気だかよく分からない。
いつだって、優しくアリスを見守っていてくれて、からかったり怒ったりするようなことは滅多に無い。
本当に、大丈夫かしら。
母親が亡くなって、ずっと私たち姉妹の面倒を見てくれた芯の強い女性ではあるが、どうにも抜けているようなところがある。
心配にもなる。
いつか、自分が家を出ても大丈夫なのだろうか、と。
ザザッ
不意に、葬式の光景が眼裏に蘇って、アリスは持っていた牛乳を取りこぼした。
モノクロの映像。
雨が降る中、墓石の前に立ち尽くしているのは・・・・。
「アリス?大丈夫!?」
さっと寄ってきた姉の気配に、アリスははっと意識を取り戻してパチパチと瞬きを繰り返した。
足元には、牛乳がこぼれて白い水たまりが出来ていた。
「あっ・・ごめんなさ・・」
「いいのよ。それより、さっきからぼおっとしてるけど、どこか具合でも悪いの?」
アリスの服と足元の牛乳を手早く拭いてから、さっと立ち上がった姉は真剣な瞳でアリスのおでこに手を当てた。
ひんやりとした姉の手が気持ち良い。
当てられるままに、ぼんやりとしているアリスを見て、ロリーナは眉を下げた。
「少し熱があるかもしれないわ。部屋に戻って寝た方がいいわね」
「え、でも庭に本を置いてきてしまったわ」
「庭の本は、私が後で部屋に届けるわ。今は大人しく寝てちょうだい」
お願い、と姉に言われれば、アリスは無言で頷くしかない。
小さく背中を押されつつ、未練がましくバスケットを見れば、その視線に気付いた姉にまた笑われる。
「本と一緒に、後で、ね?」
「分かったわ、姉さん」
微笑む姉に見送られて、アリスはまた自分の部屋に戻った。
パタンと扉を閉じて寄りかかれば、見慣れた部屋が広がっている。
その視界の端に、机の上には先ほど姉が持ってきたオセロ盤が開かれた状態で置かれていた。
吸い寄せられるように、机に近づく。
両面を白と黒に塗られた石を1つ摘み上げ、目の前に持ち上げてまじまじと見つめる。
先ほど聞こえた笑い声はもう聞こえない。
1つ手に持ったまま、ベッドに倒れこむように横たわる。
そのまま、もぞもぞと布団に潜り込んで目を閉じた。
◆アトガキ
2013.3.11
ロリーナ姉さんのターン、って程でもないですが
割合的にはまあそうかなと。
・・・姉のロリーナと、妹のイーディスの名前が混ざって
途中「イリーナ」という表記になっておりました。
直したはずなのですが、他にも見つけたらこっそり教えてくださると嬉しいです。。。
時々読み返して、ちょこっとずつ誤字とかも直しているのですが、
何分アバウトな性格なもので・・・申し訳ないです。