4.焦がれる、くるくると色を変える君に
一
バサッと重い音がして、ユリウスはソファの方を見た。
そこでは、さっきまではアリスが一人静かに、もくもくと書庫で借りてきた本とにらめっこをしていた。
その分厚い本は、開いたままアリスの座る足元に落ちていて、アリスはその落とした音にも気が付かなかったのか、眠ってしまっている。
首を前に俯かせて、両の手は軽く開かれて膝の上に置かれたまま、たった今まで本を読んでいた、そのままの姿勢だ。
ユリウスは、仕方なく作業途中の時計を机において立ち上がり、アリスの足元からその分厚い本を拾い上げて、テーブルの上に置いた。
「草木の薬効・・か」
アリスは、今回の実験の失敗の原因が、材料に使った実の選択ミスにあると見ているらしい。
書庫から持ってきた分厚い植物図鑑と見比べながら、何やらノートに書き込んでいた。
今、読んでいたのは、植物やその実に関する薬効について書かれた専門書らしい。
その深緑色の装丁に指を滑らせて、アリスの寝顔を見た。
この前、アリスを部屋に送って来た、トカゲが言っていたことを思い出した。
アリスの体は、おそらく見た目どおりの子どものものだろう、と。
中身が成長しているアリスだとしても、体の機能は子どものものだろうから、珈琲は体に良くないんじゃないか。
せめて、牛乳と砂糖を入れたほうがいい、とまるで母だか兄だかのような、さすが世話好きのトカゲらしい助言だった。
座ったまま、首をこっくりこっくりとさせるアリスを、そのままそっとソファに横にさせる。
アリスは最近、気付けば寝てばかりいる。
彼女自身もそのことに気が付いていて、調べ物が全然はかどらないわとぼやいていた。
トカゲの言うとおりなら、それは体が子ども仕様だから、睡眠をいつもより多く必要としているということなのだろう。
起こすのはしのびなくて、ユリウスは眠るアリスの上に毛布をかける。
「・・・そういえば、牛乳がないな」
ユリウスの作業部屋の備え付けのキッチンには、砂糖はあっても牛乳の買い置きが無かった。
目覚めたアリスのために、ホットミルクでも作ってやるかと、ユリウスは塔の厨房に向かった。
「ユリウス、遅れちゃってごめんなー!いやぁ、雪山で遭難しかけちゃって、さ・・・あれ?ユリウス、いないのかー?」
主不在の部屋の扉を、赤いコートがトレードマークのハートの騎士が開けた。
頭をかきながら申し訳なさそうに話し出すが、約束していた時間はだいぶ過ぎてしまっている。
また怒られるかなと思いきや、常日頃から部屋に引きこもっているはずの相手がいない。
エースは取りあえず、雪山で迷子になって冷えてしまった体を温めようと、暖炉のそばの椅子に座った。
「あ、毛布あるじゃないか。借してくれな!ん?あれ、この子って・・・」
誰に聞かせるわけでもなく勝手に、寒いから毛布借りるぞ宣言をしたエースは、その中に包まれている小さな女の子に気が付いた。
しみのないきれいですべすべの肌に落ちる、長いまつげの影。
淡い金茶色の髪に縁取られた頬は、少し赤く、ふっくらとして柔らかそうで、思わずつつきたくなる。
規則正しい小さな寝息の間に、焦がれてやまないこの世界に唯一の心臓の鼓動が聞こえた。
「アリス・・なんだ、こどもになっちゃったのか?それにしても、こんなに無防備なアリスを置いて、ユリウスはどこに行っちゃったんだろう、な」
眠るこどもの姿のアリスを、考え事をしながら見ていたエースの瞳が、ふいにきらりと瞬く。
その目は明らかに何かを企んでいて、アリスが起きていれば、あるいはユリウスがこの場にいてその様子を見ていたら、何かが起きる前に釘をさすなり行動を阻止するなり出来たはずだった。
だがあいにく、アリスは眠っていて、ユリウスは部屋を出ていて、赤い騎士を止めるものは誰もいない。
エースはにやりと笑って、アリスごとその毛布を抱え上げた。
耳元でうなる風を切る音と、得体の知れない体の浮遊感が強制的にアリスの目を覚ました。
体は毛布に包まれているのか、寒さは感じないが、思わず毛布から出した顔に水しぶきが飛んで来る。
「え、何!?何が起こってるの!!?」
「おはようアリス。良く眠ってたなー。でも今は、大人しくしててくれな」
上から降ってくる声がエースのものだと分かって、身動きが取りづらい毛布から更に顔を出そうとするが、その頭を押さえ込まれてそのままぐっと抱え込まれる。
「着水、するぜっ!」
くぐもった悲鳴をあげてもがくアリスを抱えたまま、滝を落ちていたエースは着地地点である滝壺に飛び込んだ。
水面にぶつかった、まるで叩かれたような衝撃音と、高い水柱があがる。
毛布とエースのコートに包まれていたとはいえ、伝わってきた衝撃にアリスはぎゅっと身を縮めた。
もし毛布もコートも無かったら、アリスの細い体は今頃、水面にたたき付けられて骨折、あるいは打ち所が悪ければ死んでいたかもしれない。
それでもまだ、一難去ってまた一難。
一気に流れ込んでくる冷たい水が、毛布を重くまとわりつかせる。
着水時に驚いて空気を吐き出してしまったので、はやく酸素を取り込みたいのに、目をきつく閉じた暗闇の中では、手探りをしても水を吸った毛布は絡まるばかりで、端すら見つからない。
苦しい、酸素が足りない。
上か下かも分からなくて恐慌状態に陥るアリスを、気泡の間から伸びた力強い手がぐっと押し出して、ついでにからまる毛布を剥ぎ取っていった。
急に目の前が明るくなって、眩しさに何度も瞬きしながら、アリスは肺いっぱいに新鮮な空気を吸い込む。
「はっはぁ、はぁはあ・・・」
咳込む胸元を抑えて、荒い呼吸をなんとか沈めていく。
アリスを水上に押し出したエースは、その襟元を掴んだまま、器用に泳いで岸までたどり着く。
アリスは抱えられて水からあがり、適当な芝の上におろされた。
滴をぬぐった視界で、エースがさっさと器用に焚き火を起こして、自分のコートをぬいで力いっぱい絞り、手近な木の枝に干しているのが見えた。
「エース・・あなた、私に何か、言うべきことがあるんじゃないかしら・・・?」
こどもの声ながら、感情が込められたとても低くて暗い声が出る。
「ん?ああ、アリス。君もはやくそれ脱いで、火にあたったほうがいいぜ!」
風邪引くからな!と、カラッと晴れたような笑顔で言うエースに、ふつふつと怒りが沸いてくる。
確か、最後の光景はユリウスの部屋で、作業をするユリウスのそばで、ソファに座って「草木の薬効」という本を読んでいたはずだ。
常識人なユリウスが、黙ってエースに自分を連れ出させるわけが無い。
断言できる。
つまり、ユリウスが何らかの用事で運悪く部屋を空けていたその隙に、この赤い悪魔がやってきて、アリスは寝ていたのだろう間に、外に連れ出された上に、何故か一緒に滝に落とされたのだ。
「すごいな、アリス。もしかして、きみ寝たふりしてただけで、起きてたのか?」
「寝てたわよ!寝ちゃった間に、何してくれてるのよ!!」
途中から声に出していたらしい、エースが心底感心したように、顎に手を当てて驚いた目でアリスを見ているが、アリスは半眼で睨み返した。
アリスを起こさずに連れ出したエースのことだ。
間違いなく、誰にも見つからないようにしただろう。
もしその様子を見ていた塔の職員がいたとしたら、すぐに誰かを呼んでくれただろうが、今この状態ということは、止めに入れなかったか、そもそも誰にも会わなかったかだろう。
もしくは、止めようとした職員を・・・。
いやいや、さすがにエースもそんなことで剣を抜いたりはしないはずだ、たぶん。
それでも、誰にも何も言わずに出て来てしまったことに変わりない。
いないアリスに気付いて、心配させてしまっているかもしれない。
「私、塔に戻らないと」
ぬれた服も靴も気持ち悪いが、アリスは芝を軽く払って歩き出す。
「待てよ、アリス。せめて服は乾かさないと。それに、森には獣もうろついてるんだ。さすがの俺も、その姿のきみを一人で行かせる気は無いぜ」
俯いて早足で歩き出したアリスだったが、歩幅もサイズも違うエースに、数歩も行かないうちに肩を掴んで止められる。
「離して。今はあなたと旅をする気にはなれないの」
「そんなつれないこと、言わないでくれよな」
頑なに一人で森を突き進もうとするアリスを、エースはひょいと肩に担ぎ上げてしまう。
慌てるのはアリスで、じたばたともがくけれど、腰に回された腕は少しも緩む様子が無い。
下ろしてと暴れるアリスの顔をちらりと見る騎士は、何故だか目を細めて口角をあげた。
嫌な予感に、アリスは無言でおとなしくなる。
「この服の趣味は・・・まさかと思うけど、トカゲさん?」
「・・よく分かったわね、そうよ・・って何してるのよ!!?」
ふーんとにやにやするエースの自由な方の手が、暴れてめくりあがった薄いピンク色のワンピースの、裾飾りのレースに触れる。
水にぬれた手袋は外されて、ひんやりと冷たい、重たい剣も扱う硬い指の腹が、アリスの膝裏からふくらはぎに伸ばされる。
冷えていた体が羞恥にぼっと赤くなったのが分かって、アリスは両腕を目いっぱい伸ばして、何とか裾を元に戻した。
ついでに、エースの手の甲をつねって、その目を睨み付ける。
「そういう顔は、煽るだけだぜ。でも、さすがに俺も今のアリスは対象外だな!」
ふざけていた顔を一変して笑顔に戻し、エースは焚き火のそばに置いた、大きめの石の上にアリスを下ろした。
焚き火の火と、その火でぬくもった石の暖かさを感じると、自分の体がいかに冷えているかがわかって、アリスは身震いをした。
肩にまとっていたケープをはずして、空いたところに広げてかける。
さっきまで昼間だったのが、夜になってしまって、寒さはより強まった。
無言で肩を抱いて小さく縮こまっていると、同じく無言で焚き火にあたっていたエースが、アリスの方を見る。
「・・・なに?」
「いいや。アリスは体が小さくなっちゃっただけで、中身はアリスのままなんだなと思って、さ」
「?」
にこりと笑ったエースは、おもむろに立ち上がって、いつもどこにしまっているのか謎な、テントを広げて組み立て始めた。
何だか歯切れが悪いエースに首を傾げたアリスから、クシュンと小さなくしゃみが飛び出た。
着替えも拭くものも無いし、まさかに全部脱いでしまうわけにもいかず、ぬれた服を着ていたせいで、アリスはとうとう風邪を引いてしまった。
小さくなっただけでなく、また風邪を引いてしまうなんて! 寒気と痛みを発しはじめた頭を抱えて、アリスは眉をぎゅっと寄せた。
それもこれも、すべてハートの騎士のせいだ。
冷える体を更に強く抱きしめて、石の上に体を丸める。
テントを黙々と整えるエースを、顔の前に垂れかかる髪の毛の間からじっとりと睨み付ける。
コートを脱いだその後姿をじっと見ているうちに、違う、とアリスの中で声が上がった。
違う、エースが悪いんじゃない。
本当に悪いのは、実験に失敗なんかした自分なのだ。
それがなければ、クローバーの塔にお邪魔することも無かったし、グレイを巻き込むこともなかったし、エースと今ここにいることもなかったのだ。
ちょっと滝に落ちたくらいで、風邪を引くことも・・・それはちょっとの出来事ではないが、とにもかくにも大人の体力だったら、風邪を引く前に、もっとどうにか頑張って、歩いて帰れたりしたかもしれない。
苛立ちが悔しさに代わり、情けなくてアリスの瞳に涙が盛り上がる。
本当に小さい子どもみたいだ。
「一人で鬱々と考えて自滅していくきみを見てるのも楽しいけど」
ふわり、と頭から何かをかぶせられる。
火にあたって暖かくぬくもりを宿した、赤い、ハートの騎士のコート。
そのまま、今度は腕に腰掛けるように、両腕の間に抱えられる。
揺れる視界の中、アリスはテントの奥に灯る、ランタンの火を見る。
テントの入り口をくぐって、ランタンのそばに腰を下ろしたエースは、その膝を曲げた両足の間にアリスをおろして、後ろから抱え込んだ。
「俺は、君が君でいることを忘れないでいたことに、ほっとしているんだ」
「どういうこと?」
「もし君が、姿だけじゃなくて中身まで、子どもに戻っちゃってたとするだろ?そしたら君は、この世界で過ごした時間も忘れているってことになる」
「・・ええ、そうね」
「つまりはさ、ここで余所者のアリスとして過ごした時間が、リセットされたってことだよね。それってずるいじゃないか」
「・・・ずるい?」
「ああ、ずるい。だから君がちゃんと記憶もそのままで、本当に良かった。そうでなかったら、俺は」
エースの言葉が不意に途切れる。
アリスの乾きかけた服に、かけてもらったコートのぬくもりが滲んで、さらに背中から感じるエース自身の体温が、アリスの眠気を誘う。
そんなアリスの様子に、気付いているのかどうか、エースはぽつりと呟く。
「君を殺したくなっちゃうだろう?」
「・・・おい、時計屋。どういうことだ」
「落ち着け、グレイ。領主たる私からも気付かれない間にアリスを連れ出したとしたら、それはおそらく役持ちの誰かでしかないだろう。だったらアリスに危害を加える可能性は極めて低い」
「確かに。どいつもこいつも、あいつのことは気に入ってるようだからな」
「時計屋。そんな悠長なことを言っている場合か。心当たりは無いのか?最後に見たのはお前だろう。もしアリスに何か起こったとしたら、きさ」
「あーあー、グレイー。とりあえず、落ち着け。今はアリスを見つけることが先決だ。それから時計屋、その頭に浮かんだ人物は、まさかここを訪ねる予定でもあったのか?」
ユリウスは牛乳をもらって帰ってきて、ソファの上にアリスがいないことに気が付いたが、起きて部屋を出歩いているだけかと思っていた。
だがいくら待てども、戻ってこない。
さすがに時間帯が3回変わるころには何かあったのかと、塔の職員に居場所を聞くが、誰もその居場所を知らないし、ずっと見ていないという。
一人で外に出るのは危険だから、出る時は3人の誰かに言伝をして、職員でもいいから誰かと一緒に出ること、とグレイが過保護な兄のようにアリスに言い聞かせていたから、さすがに誰にも告げずに、一人で外に出たということは無いだろう。
ということは。
「ああ、まあな・・・おそらくは」
「ハートの騎士か・・・」
クローバーの塔、執務室。
額に手を当てて重いため息をつくユリウスと、腕を組んで宙を見つめるナイトメアと、険しい顔でユリウスを睨み付けるグレイの姿があった。
◆アトガキ
2012.12.6
グレイの、アリスにめろめろタイム、終了のお知らせ。
エースは、どす暗い沼地を抱えているので、
余所者という役割からは離れていないとしても、
心だけでも自由になっちゃった記憶喪失のアリスには
心配どころか嫉妬してさくっとやっちゃいそうな危うさがあると思います。