**+ 小さく淡く瞬く星


3.胸焼けするほど甘い熱





「時計屋、邪魔するぞ」

ノックの音の後に、望まぬ来訪者、もといトカゲが扉を開けて入ってきた。
声をかけたからといって、こちらは入室の許可はしていない。
しかも勝手に入ってきたと思えば、もうユリウスのことなど視界に入っていないように、辺りに目を向けている。
その視線が何を探しているか分かっていて、ユリウスは無言で作業を続け、相手の好きなようにさせた。

「・・・アリスはいないのか?」

少し迷ったような沈黙の後、仕方なくといった態で、トカゲが聞いてくる。

「ああ、今は用事で部屋を出ている」

顔も向けずに、ユリウスは時計をいじりながら静かに答えた。
そうか、とグレイは心底残念そうに呟いて、ユリウスの机の上に甘い匂いと湯気を立てるマグカップを置いた。

「アリスが帰るころには冷めてしまうかもしれないが・・その前に帰ったら渡しておいてくれ」

「おい・・・」

置かれたマグカップは2つだ。
胡乱気に見上げたユリウスに向けて、冷たい金色の瞳が挑戦的に瞬く。

「飲めるんだったら、飲めば良い」

そう言われると心なしか、ユリウスの傍に置かれたマグカップの中の色は、ココアと違う気がする。

「・・・・・」

置かれたマグカップを、無言でしばし見遣る。
それから、意を決してユリウスは一気に飲み干した。

「毒は入ってないから、安心しろ」

飲んだマグカップを持ったまま、その甘さに仏頂面のユリウスを一瞥して、それだけ言うとグレイはさっさと部屋を出て行ってしまった。
アリスのいない部屋に用は無いのだろうし、ユリウスには居座られても困るので、それは有り難かったが。
マグカップの中身はココアではなく、ビターのホットチョコレートだった。
それでも甘くて、胸焼けがしそうだった。



アリスはいったいどこに行ったのか。
あえて「用事」といった時計屋のこと、聞きなおすのも癪なので、グレイは自分の足でもう少し探してみようと、塔の中を歩く。
と、曲がり角の先から、複数の部下の声が聞こえた。

「アリスさん、かわいかったですねー」

「ああ、あれは確かに。でも、うちの子の方がかわいいですよ、見ます?」

「それより、ここ何かやけに寒くないですか?」

妻子持ちの部下が写真をみせようとしているのだろう、それをもう一人はスルーして、腕をさすりながら怪訝そうにして、徐々にこちらに近づいてくる。

「・・・おい」

「あっグレイ様!」

曲がり角から姿を現せば、二人は慌ててかしこまる。
じっと金色の瞳で見れば、その場に少し緊張が走る。
おずおずと、片方が声をかけてきた。

「何か、問題でもありましたでしょうか?」

「いや・・・アリスを見なかっただろうか」

「アリスさんですか?でしたらさっき、書庫にいらっしゃいましたよ」

「そうか、報告ありがとう。・・ああ、あと」

問いかけられた内容から、特に問題が無さそうだったことにほっとした様子の部下は、続けてかけられた言葉にさっと顔を上げる。
その目を見て、一言一言ゆっくり伝えた。

「アリスのほうが、間違いなく、かわいい」

一瞬の沈黙の後、はっはい!と青ざめた部下が答えるのを一瞥して、グレイは書庫へと向かった。



その頃、アリスは書庫の中、医学書が並ぶ棚の前にいた。
さすが、クローバーの塔の書庫だ。
そこには、領主がアレなおかげで、様々な医学に関する本が揃っていた。
しかも、街中で見かけても買える値段じゃないような、貴重な医学書もある。
この姿を元に戻す方法も、これならすぐに見つかるかもしれない。
でも、それ以外にも色々と気になる本が並んでいて、アリスはこんな状況のときに不謹慎だと思いながらも、どれを手に取ろうか迷っていた。

見上げた棚の上段には、今回使った薬の材料について書かれていそうな、分厚い専門書があった。
すでに、アリスの両手には3冊の本が抱えられている。
見上げた本の厚みから、重さ的にもこれが限界だろうと思う。
これを取ったら、部屋に戻って読もう。
しかし、今のアリスには、棚の上段には背伸びをしてもとても届かない。
普通の大人だったなら、確実に届くぐらいの高さの棚だ。
見渡しても、踏み台の類は見当たらない。
仕方が無いので周りに人がいないのを確認してから、1回、2回とジャンプをしてみる。
届いた瞬間だけ端の方を掴んで、少しずつずりずりと引きずり出してみるが、片腕に抱えた本の重さもあり、先に息が切れてしまった。
忙しい塔の人たちには申し訳ないけれど、やっぱり誰かに声をかけてとってもらうべきかしら。
真剣な顔で棚の上段を眺めていたアリスの耳には、書庫の扉が開く音は聞こえなかった。

「アリス・・?」

背後からかけられた声に急に意識が戻されて、驚いたアリスは持っていた本を取りこぼした。

「いっ」

「アリス!」

本の角が直撃した足の甲がじんわりと痛んで、アリスはしゃがみ込んだ。
そのそばに、急いで駆け寄ったグレイがしゃがみ込む。
本を集めて横にどかし、アリスが抱えていた足から、手早く靴を脱がす。

「すまない、俺がいきなり声をかけたから」

心底落ち込んだように、足の甲に手を滑らすグレイを、アリスは反射的に出てしまった涙が潤む瞳で見上げた。
その瞳が、視線をあげたグレイの瞳とぶつかる。
書庫の間の狭い暗がりで、闇色の髪がつくる影の中、グレイの見開かれた金色の瞳が涙で滲んだ視界の中で光る。

「っ本当にすまない、アリス・・・」

大丈夫よと言おうとした声が、喉の奥でとどまる。
アリスの実験に巻き込まれて、落ち着いた大人っぽさがなくなって、ちょっと若く線が細くなったグレイ。
罪悪感は常に感じているが、今まで見たことの無いグレイが見れることに、ちょっとドキドキしていた。
今、アリスの代わりに痛みをこらえているようなそんな様子は、青年くらいのどこかかわいい要素も垣間見えて、目が釘付けになる。
驚きに涙は無事止まったが、瞬きした拍子に縁にたまった分が、ほろりと零れ落ちた。
すっと伸びてきた指の背が、流れた涙を掬い取るのが、視界の隅に入る。
痛ましげに見つめてくるグレイに、知らず胸の鼓動が高まる。

「大丈夫・・じゃないな」

「いいえ、大丈夫よ」

今度こそしっかり言えた。
アリスは、相手に聞こえてしまいそうな距離で、不覚にもドキドキと高鳴る心臓を抑えて、慌てて立ち上がろうとする。
途端に、ズキリと痛んだ足に思わず体がふらついて、踏ん張りきれずに本棚にぶつかってしまった。
手をついた衝撃で更に棚が揺れて、アリスが取ろうとして先ほど中途半端に引き出していた本が落ちてくる。
降ってくる影にはっと視線を上げたアリスは、次の瞬間、力強い腕に体を引き寄せられるのを感じた。

「!!ッ」

ガツッという衝撃音とバサリと落ちる本の音が、離れたところで聞こえた。
アリスの体は、素早く動いたグレイの体に、抱きしめられるようにすっぽりと覆われていた。

「グッ・・・グレイ?」

よろめいたアリスを支えるように、膝の後ろと肩を抱いたままのグレイが、ほっと息をついたのが、押し付けられた胸元から伝わる。

「グレイ!本がっ」

「俺は大丈夫だ。鍛えているからな」

重い本がぶつかったはずだ、とアリスは両手を突っぱねて体を少し離す。
そのまま慌ててグレイの様子をあちこち窺うアリスに、グレイは軽く笑い返す。
アリスの体を片腕で支えたまま、ぶつかってくる前に腕で弾き飛ばしてしまった本に手を伸ばした。

「それより、この本は君が読む予定だったか?」

「え、ええ。私が中途半端に引き出しちゃったから・・」

しょんぼりするアリスの頭を、宥めるようになでる。
壁にぶつかって、ちょっとページが折れてしまっているが、破損はなさそうだ。
アリスを腕の輪の中に囲うようにして、拾った本のほこりを軽く叩き落とす。
ちらりと見下ろしたアリスの足の甲は、少し赤くなって腫れてしまっているようだった。
無言で横によけておいた3冊も拾い上げて、合わせてアリスに手渡す。
ありがとう、と微笑んでアリスが本を受け取る。
よいしょと少々重そうにしながら何度か持ち方を変えて、その細い腕で本をしっかり抱えたのを見届けてから、グレイは支えていない方の腕を、アリスの膝裏に滑らせた。
その際に、脱げたアリスの靴を指先に引っ掛けて、立ち上がる。

「えっ?!ちょっとグレイ!」

「あまり暴れないでくれ。落としはしないが・・・」

いきなり視界が揺れて体が浮き上がり、次の瞬間にグレイにお姫様抱っこをされたことに驚くアリスは、降りようともがく。
そこに上から声がかけられて、ぐっと腕に力が込められたのが分かり、アリスは慌てて本を抱えて大人しくなった。
心配と不安がない交ぜになった顔で見上げてくるアリスに、助かる、と微笑みかければ、その頬に赤みが差す。

「大丈夫よ、グレイ。歩けるわ」

赤い顔をちょっと背けながら下ろしてと小さく頼むアリスは、それでも少しでも負担がかからないようにと、腕の中でじっとしている。
いじましいその姿に、抱える腕に力がこもる。
もしいつものグレイだったなら、今のアリスを片腕に乗せて、もう片腕で本を持つことも可能だったかもしれないが、今のグレイにはさすがにそれは難しかった。

「本を落とさないように、しっかり抱えていてくれ」

「・・・わかったわ」

下ろしてくれなさそうなことに観念したアリスが、きゅっと抱える本を抱きしめる。
その姿は、とてもかわいい。
腕の中のアリスに目元を和らげて、今度ぬいぐるみを買ってあげようと、心に決めるグレイは、アリスの中身が見た目のように子どもに戻ってないことは、もう忘れかけている。

「・・・そういえば、その服は気に入ってもらえただろうか」

「え・・!この服、グレイが用意してくれたの?」

驚いて、アリスはばっと顔を上げる。
小さくなってしまったことで、いつもの青いワンピースが着れないので、アリスはいつの間にか誰かが用意してくれた子ども服に感謝しつつ、遠慮なく着用させもらっていた。
ちなみに、今着ているのは、レースのリボンが腰で結ばれている、白い丸襟にレモンイエローのワンピースと、丸い毛糸の飾りとフードがついたチェックの毛糸のポンチョで、冬の寒い塔の廊下で、そのポンチョはとても暖かくて助かっていた。

「で、でもユリウスはそんなこと一言も言ってなかったわ・・・確かめればよかったわね。お礼を言うのが遅くなってごめんなさい、グレイ。とても嬉しいわ」

「いいんだ。喜んでもらえたなら、良かった」

わざと用意した者のことを伝えなかったであろう時計屋への苛立ちと、それでも今、腕の中から笑いかけてもらえているのは自分だという優越感が混じるが、そんなことはおくびにも出さずに、グレイははにかむアリスににこりと笑い返した。
その足は、ユリウスの作業部屋ではなく、談話室へとたどり着く。
暖炉の傍のソファのひとつにアリスを下ろして、その前にしゃがみ込み、足の腫れの様子を見る。
痛くないように、軽く甲に触れるグレイの手に、アリスはくすぐったくてくすくすと笑ってしまう。

「湿布を持ってくるから、ここで待っていてくれ」

「え、いいわよ。腫れただけだから、すぐに収まるわ」

「いいや、手当てさせてくれ。あと、君と食べようと思って、街で買ってきたお菓子があるから、出来たらもう少し俺との休憩に付き合ってくれないか」

そう言われて、断る理由もなく、アリスは頷いた。
グレイは心底嬉しそうな顔で、アリスの髪を梳いてから、足早に談話室を出て行った。
ほどなく、アリスの目の前には、紅茶とケーキが並べられた。
グレイは、アリスの足元に屈み込んで、足の甲に湿布を貼ってくれている。

お兄さんがいたら、こんな感じかしら。

目の前でさらりと揺れている闇色の髪の毛をぼんやりと見ながら、アリスは思った。
湿布を貼るのはさすがに自分でやろうと一度は断ったのだが、グレイは笑顔で引いてはくれなかった。
いつもアリスにはたいてい笑顔を向けてくれるが、今はなんだか常以上に上機嫌で、しかも押しが強く、そんなグレイにアリスは甘えっぱなしだった。
珈琲派なはずなのに、アリスのために用意してくれたらしいお茶菓子に合わせて、そこには二人分の紅茶の良い匂いが漂っている。

「よし。これでいいだろう」

いつも周囲の者から不器用の烙印を押されているグレイだが、さすがに怪我やらの処置は的確で、しっかりと固定された湿布からは、ひんやりとした冷たさと独特の香りがする。

「あまり動かさないように。安静にして冷やしていれば、すぐに良くなるだろう・・・っと、君は薬局を開いていたんだったな」

片膝をたてて、顔を上げて話していたグレイの顔が、一瞬はっとしてから、余計な世話だったなと申し訳なさそうな顔になる。

「そうだけれど・・・グレイの手際は本当にいいわね。今度、時間があったらでいいから、怪我の処置について色々聞いてもいいかしら」

手を振って慌てて言葉を返せば、金色の瞳が優しく細められて、喜んでと返事が返ってくる。
その顔がふっと瞬きする間に近づいて、驚いて見つめてくるアリスの頬に、湿ったぬくもりが触れた。
ちゅと可愛らしい音がして、はっとしたように離れたアリスは、頬を押さえて固まっている。

二人がけのソファの、アリスが離れた分だけ空いたそのスペースに、何事も無かったかのようにグレイは座りなおして、紅茶を口に運ぶ。
いつものグレイだったら珈琲を飲むし、アリスも一緒に珈琲を飲んでいるが、今のアリスの体は子どもの体だ。
中身が珈琲が飲めるアリスだとしても、体があまりその苦味を受け付けないかもしれないと、考慮した結果だった。
とはいえ、時計屋のところには珈琲しか無いだろうから、今度そのことについて、言っておいた方がいいかもしれない。

そんなことをつらつらと考えている横で、アリスは真っ赤になってグレイをガン見していた。
グレイはやっぱり大人だわ・・・。
平然と紅茶を飲んでいるグレイに、アリスは身の危険を感じる間もなく、普通のペースに戻らざるをえない。
急いで、紅茶を飲んで気を落ち着かせてから、ケーキをそっと口に運んだ。

「美味しい・・」

「そうか。良かった」

組んだ足に紅茶を下ろした手を乗せて、グレイは優しく微笑んでいる。

(兄さん!そうだわ、まさしくお兄さんだわ!)

今の自分の姿を顧みて、さすがに恋人はないだろうと思っているアリスにとっては、グレイが優しくしてくれればしてくれるだけ、グレイに対する認識がお兄さんに固定されていき、同時にそのお兄さん度がアップしていく。
格好良い、兄さん。
完璧な姉さんを持っているアリスにとっては、お兄さんが欲しいと思ったことは無かったが、それでもこんなお兄さんがいたら、それはそれで嬉しい。
でも、きっとこんなに格好いいから、もてまくって、たくさん誘いの声がかかるだろう。
そして、その中でも姉さんみたいなきれいな彼女が出来て、そうして出かけていく二人に嫉妬したりして・・・。

「どうかしたのか、アリス?」

急に遠い目になったアリスに、心配そうにグレイが声をかける。
ぼんやりとグレイを見るアリスは、どこか寂しそうだった。
さっきまで美味しそうにケーキを食べていた手が、いまや完全に止まっている。
何かあったのか、それとも自分が何かしてしまっただろうかと、グレイは内心焦った。
頭をなでようと手を伸ばせば、びくっとしてそっと離れようとする。

「俺が、何か・・気に障ることをしてしまっただろうか」

仕方なく手を引っ込めて、真剣な目で問いかける。
アリスは、ふるふると頭を振った。

「なんでもないわ。ちょっと考え事をしてしまっただけ」

力なく笑う顔に、ちりりとした何ともいえない痛みが胸に走る。
グレイは何も悪くないわと続ける彼女は、やっぱり何処か寂しげで、先ほどまでの楽しげな時と違って、自分との間に何か見えない壁を作っているように感じる。
それに、無性に腹が立った。
腕を伸ばして、その小さな体を掬うように引き寄せて、膝の上に座らせる。
降りようと身じろぎするのを腕の中に閉じ込めて、その顎に手をかけて少しばかり荒く、自分の方へ向かせた。
きつく寄せられた眉と暗く沈んだ青い瞳は、グレイの瞳から逃れるようにそらされている。
いつもはきらきらとして眩しい光が煌くアリスの瞳は、今は曇った空のようだった。

「こっちを見ろ、アリス」

「・・・・・」

「何故、そんな顔をするんだ。・・こんなに近くにいるのに、まるでひとりでいるみたいな顔はしないでくれ」

「・・グレイ」

「俺には、話せないようなことなのか。俺では・・何の力にもなれないか」

顎から手を離して、その指を金茶の髪の中にうずめ、その頭ごと胸の中に閉じ込める。
たばこの匂いがするジャケットに顔を埋めて、アリスはグレイの苦しそうな声を聞いた。
自分が勝手に色々と思い込んで、勝手にへこんだだけだったのに。
この人は、そんな身勝手な自分を、こんなにも案じてくれている。
充分頼りになっているグレイなのに、甘やかされればされるだけ、ついつい寄りかかってしまう。
だから、寄りかかり過ぎないように、注意していたのに。

「そんなことないわ。グレイは、とても頼りになるわ」

グレイは、本当に甘えさせ上手な人だ。
申し訳なさと、心を満たすほろ苦い甘さ。
この姿なら許されるだろうと自分に言い聞かせて、アリスはジャケットを掴んで自分からその胸元に頬を摺り寄せた。
いつもの大人なグレイを思い出させる、静かな針の音が聞こえる。
自分の少し早い鼓動を包み込むような、ゆっくりとしたリズム。

「ごめんなさい。姉さんのことを思い出していたの」

そうアリスが言えば、グレイの腕が少し緩まって、労わるように慰めるように髪を梳かれる。
いつかきっと、グレイにもきれいな恋人が現れるだろうけれど、自分にそれを嫉妬する権利は無い。
それでも、今だけちょっと贅沢をさせてもらおう。

「ねえ、グレイ。ちょっとだけ、ちょっとだけでいいから、お兄さんって呼んでもいいかしら」

「!?」

腕の中の心地よい重みとアリスから香る甘い匂いに、梳いていた髪に顔をうずめていたグレイは、びっくりして顔をあげた。

「お、お兄さん・・・?」

「ええ・・駄目かしら?」

「!!・・・っ」

眉は下がっていたが、目には小さな期待の光が瞬いている。
無意識のアリスの上目遣いのおねだりに、グレイが断れるわけが無かった。

「すっ・・好きなだけ呼べばいい」

赤い顔でそっぽを向いて、グレイはなんとかそう答えた。
まあ、小さな子どもの姿だし、そう呼ばれても見た目には違和感はあまり無い。
姉のことを思い出して寂しがっているのだろうし、それで元気になってくれるなら、呼びたいだけ呼べばいい。
心中は、至極複雑だったが、グレイはそういうことにして自分を納得させた。

(それにしても、お兄さん、か)

むずがゆいが、そう呼ばれている者は他にいないと思えば、役得かもしれない。
名前を呼ばれるほうが、もちろんそれは嬉しいのだが。
そっと、膝の上に横座りに座っているアリスに顔を向き直せば、恥ずかしげにためらった後、アリスは小さな声でグレイを呼んだ。

「お、お兄さん・・」

「!!」

ちょっと赤い顔で、恥ずかしげにしている様が、何だかとてもやばかった。
無意識に口と鼻元を手で覆う。
自分の上司と違って、赤いものがついていないのを確認して、かなりほっとした。

「お兄さん、だと近所のお兄さん、みたいね。グレイ兄さん、かしら」

「!!!・・アリス、君は俺の事を殺す気か・・」

「え?」

「いや、何でもない」

思わず、ぽろりとこぼした呟きは、アリスには良く聞こえなかったらしい。
きょとんとした顔でこちらを見ている。
なんとか息をついて気を落ち着かせて、額に手を添えた。
手も額も熱く感じる。
アリスの顔も赤いが、自分の顔も今相当赤いだろう。
手を伸ばして冷めかけた紅茶を飲み干す。
底にたまっていた苦味が、グレイの頭を少し冷ましてくれた。
危うく、危険な世界に入ってしまうところだった。
子ども姿相手で、しかもお兄さんと呼んでくれた相手に、だ。

一方、グレイをお兄さんと呼べたアリスは、至極満足だった。
グレイも照れたように顔を赤くしてくれて、それが嬉しい。
これで大人の対応をされたら、それはそれでちょっと寂しいからだ。
一緒に戸惑ってくれるグレイが若い姿と相まって、なんだかいつも感じている年の差や距離が縮まった気もする。
年の差といっても、自分は子どもの姿なのだけれど。



それからは、グレイの休憩時間が終わるまで、楽しく話をしながら、淹れ直した紅茶とお菓子を楽しんだ。
部屋へは一人で行けるわと言ったが、心配だからとここでも引かないグレイと手を繋いで、アリスはユリウスの作業部屋へと戻ることになった。
4冊ある本は、平等に2冊ずつ持っていたが、グレイが分厚い方をさっさと持ってしまったので、アリスが抱える本はそんなに重くない。

本当に、お兄さんみたい。
じゃあ、今向かっている部屋の主は、誰にあたるだろう。
・・・お父さんかしら?
ユリウスの仏頂面が頭に思い浮かんで、くすくすと笑いがこみ上げる。
グレイは不思議そうにしながらも、楽しげなアリスを見守っている。
廊下を歩きながら、アリスの薬屋は薬品を扱うものを呼んで作業室と店舗を綺麗に片付けて、扉も直しておいたと教えてくれた。

「本当に、ありがとうグレイ。今度その人たちにもお礼を言いたいわ」

「ああ、分かった。俺から伝えておこう」

名前を聞こうと思ったが、にこりと先手を打たれてしまった。

「グレイ兄さん、過保護だわ」

「妹がかわいすぎるからいけない」

ふざけてまたからかうように兄と呼べば、ごく自然にさらりと返事が返ってきた。
さっきはあんなに動揺していたのに、とやり返されて悔しいで見上げてみれば、少し意地が悪い顔をしてアリスの顔を見下ろしてくる。
言葉に出すなら、してやったり、だろうか。

「私は、かわいい妹、なんかじゃないわよ」

言葉の中に、ちょっとだけ本音を混ぜる。
拗ねたようなアリスに、笑みを深くしたグレイは、あとちょっとでユリウスの部屋といったところで、急にアリスを抱き上げた。

「ちょ、ちょっと!グレイっ」

「そうだな。こんなにかわいい妹がいたら困る」

耳元で囁かれる声は、少しだけ色めいて甘く、アリスは腕の中でひくりと震える。

「・・・妹には、手は出せないからな」

それだけ言うと、戸惑って赤くなるアリスを静かに下ろす。
部屋をノックして、中からの返事も待たずに、さっさと扉を開けてしまった。
グレイとユリウスの声が聞こえる。
アリスがまだ赤い顔のまま、扉の中に入るのをためらっていると、中からいぶかしげに自分を呼ぶユリウスの声がした。

ああもう、朝帰りを怒られる娘の気持ちだなんて!

ユリウスとグレイがいる部屋の中へ、アリスは意を決して足を踏み込んだ。





◆アトガキ



2012.11.30



今回こそは、グレイのターンです。

何回しゃがみ込んだんですか、っていうくらい違和感無く、
グレイはさりげなくしゃがみ込んで、アリスと目線を合わせていますね。
全く、抜け目無いですね。
内容のほとんどは、でれでれのグレイです。
滞在場所をユリウスにとられて、ストレスがたまっていたのを
もうアリスをとろとろに甘やかして解消しています。
一見、青年姿のグレイですが、中身は結構抜け目ない大人ですからね。
一部狙ってます。

アリスの姿が戻ったら、抜け目無く卑怯な大人の手で、気付かれぬように罠を張るグレイとか、書きたいですね。
今のままだと、本当にもう犯罪・・・。

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