**+ 小さく淡く瞬く星


10.虹のふもと





「ブラッド・・・なんだか疲れてないか?」

書類を眺めながら紅茶を飲んでいたブラッドに、傍のソファで添削されたばかりの別の書類と格闘していたはずの部下が声をかける。
ちらとそちらを見遣れば、オレンジ色の髪の間からにょっきりと生えた2本の長い耳が、いつもより力なく垂れ下がっている。
眉を下げてこちらをちらちらと窺う部下の瞳が鬱陶しくて、あからさまなほどに大きくため息をついて手に持っていた書類を机の上に投げ出した。

「私が今疲れているとしたら・・・鶏並に物覚えが悪い、お前のその頭の中身が原因だろうな」

「わ、悪いブラッド。でもよぉ、何度教えてもらってもここからどうやってこの式が導き出されるのか、わっかんねぇんだよな」

静かに憤ったような上司の声に、両耳をぴーんと伸ばしてエリオットは慌てて手元の書類に向き合い直る。
そんな部下に一瞥をくれてから、投げ出した書類を拾い上げることもなく紅茶を下ろした手で頬杖をついた。
視線の先にはたくさんの重厚な本が並ぶ本棚が並んでいたが、思考はそれらを通り過ぎ、本棚の裏に隠された1枚の扉へと向けられていた。
小さくなった彼女が眠る、今は暗闇に閉ざされた部屋。

「なあ、ブラッド」

「・・・なんだ。まだ分からないのか」

思考を遮る声にうんざりしながら返事を返せば、帽子屋ファミリーのナンバー2は怪訝そうな顔を一転、妙に真剣な表情を浮かべる。
なぜだろう、とても関わりたくない雰囲気を醸し出してくる。

「分かったぜ」

「・・・・」

「ブラッドの元気が無い原因は、ずばりにんじ」

「私は出かけてくる。お前はこの書類とああ、あとこっちの書類を片付けておけ。いいな、完璧に処理出来るまで私には持ってくるんじゃないぞ」

ジャケットを取り上げて羽織、いつものシルクハットとステッキを持って、驚いたように立ち上がったエリオットに書類を押し付けつつ廊下に押し出す。
部屋の前に書類を持って途方にくれた顔をした部下を置き去りにしたまま、ブラッドは屋敷を後にした。




足元が、とても暗い。
暗くてよく見えないが、何かがたくさん足元に転がって、床を埋めているのが分かった。
手を伸ばして触れてみれば、ごつごつとしたものや何かふわふわしたもの、様々な形をしている。
手元さえ良く見えない薄闇の中、手に取った一つを何となく指でたどっていく。
円筒形の先っぽ、そこからつるりとした曲面を経てちょんと尖ったものが触れる。
そこまでは金属の様な固い感触がするのに、そのさきは布のようなものに包まれた平面が続き、最後は二股に分かれて終わった。
何だか、こんな形をどこかで見たことがあるような気がする。
でもどこで見たのだろう。
脳裏に一瞬なにかが閃いたのに、それは手を伸ばす前に暗がりへと姿を消してしまった。

瞬きをして暗転した視界。

そして、いきなり周囲が眩しくなった。

手の中にあったものを床に投げ出して、慌てて両腕で視界を遮る。
カシャン、と軽い音がして手に持っていたものが落ちて、床にあたる音がする。
それでも、すぐに目を開くことは出来なかった。
ずっと暗闇でこらしていた目は急な光に怯えてぎゅっと縮こまり、そんな瞳を守るように眉を寄せてぎゅっと瞼をつむる。
誰かがクスクスと笑ったような声が聞こえて、徐々に薄目を開いてかざす腕の間から、周囲を見渡してみれば。

「ようこそ、アリス」

「じょ・・ジョーカー?!」

「何でそんなに驚いたような顔をするのかな」

「だ、だって・・え?どうして?ここは・・サーカス??!」

「そう、ここはサーカス。そして俺はこのサーカスの団長だよ。いてもおかしくはないだろう?・・・そう、変なことは何もない」

にっこりと笑って優雅に一礼してみせる、道化師。
アリスは目を白黒させて、目の前にいきなり現れた道化師と周囲を忙しなく見回した。
確かにここはジョーカーのサーカスで、前に立つ男は団長のジョーカー・・・笑顔とその話方からして、ホワイトさんの方のジョーカーだった。
ふと足元に目を落として、そしてさっき自分が持っていたものがどこにも見当たらないことに気が付いた。
確かに何かを持っていて、そして落とした音も聞こえたのに。
でも、思い出せない。

「アリス」

困惑したアリスに、ジョーカーがゆっくり近づいてくる。
スポットライトを浴びた、舞台の上。
足元を見つめて立ち尽くすアリスの腕を、ジョーカーがくっと引いた。

「そんな顔しないでよ。ここは、楽しむためにある場所だろう?」

「・・・どんな」

「泣きそうな顔、かな。迷子になって困り果てた子どもみたいだったけど・・・そういえば今、君は子どもの姿だったね」

そんな顔ってどんな顔?、と聞こうとしたアリスにジョーカーはくすくすと笑って答える。
はっとして自分の手を見れば、それは驚くほどに小さい子どもの手の平だった。
でも、どうしてこんな姿になってしまっているんだろう。
にこにこと何だか妙に嬉しそうに笑っているジョーカーを訝しげに見上げれば、ジョーカーはアリスを掴んでいる手と反対の手で何やらごそごそと服の中を探り始めた。

「ああ、あったあった。ほら。子どもには、飴をあげないとね」

「・・・いらないわよ」

「まあそう言わないで、一粒だけだしさ。ね、いいだろう」

何かを答えようと開いた口の中に、包み紙が外された小さな丸い飴玉がコロリと転がり落ちた。
いらないといった人の口に勝手に飴玉を放り込んだ相手を睨みつければ、自分も一粒食べはじめている。

「美味しくない?・・あ、もしかしてもう一つ欲しくなっちゃった?」

「だから・・いらないってば」

見た目はともかく、中身はもう飴玉が似合うような子どもでは無いと分かっているだろうに。
小さな口では、飴玉を食べるのも一苦労だ。
味は何だかもやもやしていて良くわからないが、特にまずくも無い。
もごもごと転がしてさっさと食べ終えてしまおうと思っているアリスの頭上が、ふっと翳った。
見上げようとする前に、両脇に伸ばされた腕によって体がいとも簡単に持ち上げられる。

「ちょ・・・っと、何?!下ろしてちょうだい!」

「ふふ。君は小さいと簡単に捕まえられちゃって、少しつまらないね」

つまらないと言いながら、アリスを肩の上に担ぎ上げて鼻歌交じりにジョーカーは歩き出してしまう。
ステージを降りて、幕の裏へ。
サーカスの舞台裏、そこに何があるのか。
そこで何か見たことがあるような気がして、そしてその記憶は決して良いものでは無かったと記憶が告げていて、アリスは降りようともがく。

「おっと。そんなに暴れたら落としちゃうじゃないか。危ないよ」

「下ろしてくれれば、危なくもないわ!下ろしてよ」

「今からいいものを見せてあげるから、大人しくしてて欲しいな」

「結構よ!どこにも連れて行かれたくなんかないわ!」

「へえ・・・そう?」

怒る肩の上に担ぎ上げたアリスの顔を、不意にジョーカーが振り向く。
口元は実に楽しそうに笑みを刷いているが、その目は少しも笑ってはいない。
その瞳と間近に見詰め合ってしまい、アリスは口をつぐんだ。
しばし無言で見詰め合って、ジョーカーはにっこりとその目を細めた。

「そんなに警戒しないでよ」

「・・・・・」

「ほら、これだよ」

再開した歩みは迷うことなく、雑多な舞台道具が並ぶ一角で立ち止まった。
ジョーカーが示したそこには、布がかけられた大きな物体が置いてある。
やっと下ろしてもらってほっとしているアリスの目の前で、楽しげなジョーカーがめくってみせた布のしたには、大きな宝箱のような形をした虹色の箱が置かれていた。
鈍く光る蝶番と巻かれた鎖、そして留め金に通された南京錠は、触れればじゃらりと重たい音を響かせる。

「これって、サーカスの公演で使っていた・・・?」

「ふふ、そうそう、君はすごく驚いた顔をして、それから満面の笑みで大きな拍手をしてくれたよね」

「あれは、だって・・うさぎがとっても可愛かったから」

答えてふと、他にもあんなにいっぱいのお客さんがいたのに、私のことなんか見えてるはずがないじゃないと思い直す。

「見えるよ。君のことは舞台からでもちゃんと、見える」

ナイトメアでも無いのに、ジョーカーは私の思い浮かべた疑問に答える。
そう。
あの時の公演も、人がいっぱいいた。

二つの脚立の上に、危なげなく置かれた七色に光る箱。
脚立には種もしかけも無いと言わんばかりに、その足元にはたくさんのうさぎが跳ね回っていた。
軽快な音楽と共に、どこからともなくサーカスの団員である子供たちが現れて、手を振りながら脚立を上って箱に入っていく。
ぐらぐらと揺れる箱、飛び跳ねる足元のうさぎたち。

そわそわがドキドキに変わっていく。

4、5人目が箱に入った辺りからは、客はもう固唾を呑んで見守るだけでなく、箱の中がどうなっているのかと興味津々になる。
途切れなく子供たちは笑顔で箱に入っていく・・・・どう大きく見積もっても5人も入ったらいっぱいになりそうな箱にも関わらず、だ。
そして子供たちが20人も入っていったところで、最後にジョーカーがきっちりと鎖を巻いて鍵をかけた。
音楽が止んで、薄暗くなる照明。
代わりに当てられるスポットライトが、時折思い出したかのようにがたごとと揺れる箱を、キラキラと輝かせている。
ドキドキしていたのが、何が始まるのかというワクワクとした予感に変わる。
新たに増えた二つのスポットライトが、舞台袖の右端と左端からそれぞれ顔を出した2頭の象を照らし出した。
指示に従い一声鳴いて、おもむろにその長い鼻を伸ばして箱を支える脚立を引っ張って・・・。

支えを失って傾く箱は、観客席に向かって倒れかかる。
その合間に、大きくシンバルが打ち鳴らされた。
その瞬間、ぐるぐると巻かれていた鎖がするりとほどけ、瞬きをした間に白い鳩へと姿を変えた。
鍵が開いたことで、中から押し上げるように箱の蓋が開かれる。
その裏からは、色とりどりの・・・。

「わぁ、お母さん、見て見て!風船っ」

「あっ!!うさちゃんだ!」

「服を来てる、すっごくかわいい!!あっ帽子してる子もいる!!」

わぁああ・・・・・!!

溢れ出した風船とシャボン玉が箱を覆い隠す。
その間、箱の内側からは、さっきまで足元で跳ねていたはずのたくさんのうさぎが飛び出してくる。
箱の中に入っていった子供たちと同じように、服や帽子を着せられた可愛らしいうさぎたちの姿に会場は笑い声と拍手に包まれる。
風船やシャボン玉に触ろうとはしゃぐ子供たちに、大人も楽しげにしていた。

「ええと、確かあの演目は「夢見るうさぎのレインボーボックス」・・・?」

「いやあ、覚えていてくれて嬉しいよ。お礼に、君には特別に箱の中を見せてあげよう」

「え・・いいわよ。仕掛けが分かっちゃったら、次の公演で使えなくなっちゃうし」

「また見に来てくれる気でいるんだね。・・・でも、一目で分かるような仕掛けじゃあ、無いと思うんだけどな」

だから見せても大丈夫、と少しいじわるそうに笑うジョーカーに、つい対抗意識を燃やしてしまう。
そこまで言うんだったら、じっくりたっぷり見せてもらって仕掛けを見破ってやりたくなる。

「分かるかもしれないじゃない」

むきになるアリスに笑いかけ、すいとその手を滑らせれば巻かれた鎖はいともたやすく外れて落ちた。

「そう?・・・それじゃあ、どうぞ」

優雅に一礼をして右手の先で箱を指し示す。
アリスは一歩箱に歩み寄った。
何故だか小さくなっている自分の背丈より、少し低いくらいのその箱。
かくれんぼでもするなら、今のアリスなら中に楽々隠れられそうだった。
その蓋に、無言で手をかけた。

「?・・・っ、ちょっと・・これ重いんだけど・・・」

「結構しっかりしてるでしょ、それ。自信作なんだ」

あなたが作ったの?と問うより前に、重たい蓋をこじ開けるのですでにいっぱいいっぱいだ。
ぎぃいと開かれた蓋を、渾身の力を込めてえいっと押し上げる。
無意識に額の汗をぬぐう仕草をしてしまったのは、不可抗力だ。
少し爪先立ちをして、箱の縁に両手をかけて中を覗き込んだ。

「何も・・入ってないのね」

黒く塗られた箱の中には、何も入っていない。
ぺたぺたと、手前の内側の壁を触ってみても、硬く冷たい感触しか伝わってこない。
ぺたんぺたん、とんとん、ばんばんばん・・・。

「・・・アリス・・・いくら君が小さくっても、ほら、もうちょっと遠慮とか・・」

徐々に、力を込めて平手を繰り返すアリスに、腕組みをして見守っていたジョーカーが呆れた声をかける。
それを無視して、アリスは側面に移動した。
観客側に見えない裏側の壁なら、外れると思ったからだ。
でも、その体はまたひょいっと持ち上げられる。

「なっ・・だから、いきなり持ち上げないでよ!」

「ごめんごめん。でも爪先立ちをしていたら疲れるだろう。だったら中に入っちゃえばいい」

確かに、それもそうか。
じっと暗い箱の中を見るアリスには、抱き上げていた男の表情は見えなかった。
道化師の顔の中で、にいとその口角がつりあがる。

「じゃあ、下ろすよ」

「ええ。お願い」

箱の真上に両脇を掴まれたまま、ぶらんと垂れ下がったアリスは背後に立つジョーカーを振り返ってみようとした。
その瞬間、すっと掴まれていた両腕が離される。

「・・っっ!?」

すぐに着地できると思って足の裏には、何も当たらない。
驚いて見上げた視界の中で、四角く切り取られた箱の入り口がぐんぐん遠ざかる。

「ジョーカーっっ!!?」

叫ぶ彼女にひらひらと手を振って、道化師は無情にも箱の蓋を閉めた。
ガタンと重たい音がして、辺りは真っ暗になった。

どうして?なんで?どうなっているの???

混乱した頭はクエスチョンマークだけを繰り返して、この状態を打開する案を模索してはくれない。
足元には相変わらず底の見えない闇が広がっていて、体は浮遊感を感じている。
まるで、あの時のように。
けれど、あの時とは違う。

「・・・ペーター・・・っ」

誰もいない闇の中を、ぐんぐんと落ちていく。
今度こそ自分は死ぬんじゃないだろうか。
疑問ばかりを繰り返していたのが、徐々に後悔に変わる。
何で、ジョーカーに手を離された瞬間に、サーカスから出ようとしなかったのだろう。
サーカスには、良い思い出なんて。

「・・うっ・・・・姉、さん・・」

重苦しい痛みが、胸元に広がる。
口の中に残っていた飴玉の残りが、急激に苦いものへと変わっていった。
咳き込んで吐き出そうとしたのに、飴玉のかけらは結局飲み込んでしまった。
心臓がうるさいくらいに鳴って、鼓動のたびに痛みが全身に広がっていく。
まるで飲み込んだ飴玉から、毒が全身に回っていくようだ。
寒気がして、手足を引き寄せ体をぎゅっと縮こませた。





◆アトガキ



2013.2.24



ジョーカー(ホワイトさん)のターン。
ブラックさんの方が好きだって方、いらっしゃったらすいません。
ホワイトさんの方が、動かしやすかったです。
でも、ブラックさんの方が好きだよ!
ほ・・・本当だよ!

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