2.穏やかな夜色の毛布
一
クローバーの塔の肌寒い廊下。
アリスはグレイにかけてもらった毛布の前を左手で抑え、右手は何だか楽しげな夢魔と手を繋いで歩いていた。
行く先は、塔の中でも端の方にあるユリウスの作業部屋。
毛布を持って追い掛けて来てくれたグレイは、苦虫をかみつぶしたような顔で、1時間帯だけですよとナイトメアに言い含めていた。
その後、アリスの頭を撫でて忙しそうに仕事に戻って行った。
いわゆるお許しを得たナイトメアは、隣で実に楽しげにしている。
おそらく・・・1時間帯で帰るつもりはなさそうだ。
アリスはため息をついた。
「ん?どうしたんだ、アリス。さっきまでは楽しみにしていたじゃないか」
「寒い廊下を歩いていて、色々と頭が冷えたのよ」
確かにさっきまではユリウスの部屋を訪ねることに何の異論も無かった。
風邪の時に見舞いに来てくれたことやリゾットのお礼を告げようという、大義名分を掲げていたことに浮かれていたのかもしれない。
(でも・・さすがにこれはきっと呆れられるわね)
途中の窓ガラスに映ったこども姿の自分をみて思う。
ユリウスは間違いなく、呆れてため息をつく。
お前はまた、いったい何をどうしたらそんなことになるんだ、とお叱りを受けるぐらいならまだましだ。
この程度ですんで良かったな、と嫌味まで言われてしまったらどうしよう。
ユリウスならため息混じりにさらっと言いそうだが、言われたら間違いなく落ち込む。
ついこの間、お世話になったばかりだというのに、この体たらくだ。
(情けないわ…もっとしっかりしたいのに・・・)
アリスのそんな心の声に、夢魔は笑う。
「何を暗い顔をしているかと思えば、そんなことか。大丈夫だよ、アリス。心配はいらない」
(・・何を根拠にすれば、そんな自信が出るっていうのよ)
じとっと隣を睨みつければ、ふっと夢魔らしい意味深な含み笑いを返される。
「さあ、着いた」
目で合図するナイトメアに、しぶしぶ手を伸ばしてコンコンとノックする。
しばし待っても、中からは何の反応も返ってこない。
いつもなら、開いてる、とか入れとかぶっきらぼうだが言ってくれるのに、扉の向こうはシーンとして時計をいじる音さえしない。
「ユリウス、いないのかしら」
「いや、いるぞ。おい時計屋、邪魔するぞ」
結局、ナイトメアが勝手に扉を開けて入ってしまったので、アリスも気持ちその背後に隠れながらこそこそとつづく。
ユリウスは、いつもの作業机に座って手元の時計をじっと見ていた。
ナイトメアは構わず近寄る。
「時計屋、いるなら返事してやれ」
「聞こえている」
手元の時計から、目線だけ上げて近寄った夢魔を見上げる。
睨む、まではいかないが、そのちょっと強めの視線に早くもナイトメアは降参して、数歩後ろに下がった。
下がってきたナイトメアに、アリスは軽くぶつかる。
「あ、ああ悪い、アリス」
「いえ、大丈夫よ」
高さ的に、危うく伸ばした両手で、ナイトメアにひざかっくんをしてしまいそうだった。
もちろん、そういう意図で伸ばしたわけではないが、今ナイトメアが倒れ掛かってきたら、支えてあげられそうになくて申し訳ないわと思った。
「何故そこで謝るんだ」
どこか釈然としない顔で、振り向いたナイトメアがアリスを見下ろす。
「いや、助けにならないのは、申し訳ないなーと」
「アリス。君を支えにしないといけないほど、私はひ弱じゃないぞ!・・だから、倒れる前提で考えるんじゃないっ」
「・・・・・アリス?」
腰に手を当てて納得いかない顔をするナイトメアに、ふふと笑いを返していると、ユリウスの不思議そうな声が聞こえた。
顔を上げたものの姿が見えなくて、といったところだろうか。
途端にリラックスしていたアリスに、緊張がみなぎる。
ナイトメアが小さな笑みを口元に宿して、ふわりと横に移動してしまったので、アリスはなんと言おうか考えているうちに、ユリウスと対峙してしまった。
「ユっユリウス、あの、ええと・・・こんにちは」
まずは挨拶だ。
何はともあれ挨拶、これは基本だろう。
何から言おうか迷って、焦ったアリスの頭が空回りする。
説明しようと思うのだが、続く言葉が上手く出てこない。
でも、ユリウスからも何の返事も返ってこない。
うろうろとさ迷わせていた視線をそろりとユリウスに戻せば、ユリウスの目が見開かれている。
「お前・・・何だその格好は」
ああ、やっぱり呆れているわ。
「あの、この前は見舞いにきてくれて、リゾットは助かったわ。・・これは、そのちょっと実験で失敗して・・」
しどろもどろに説明するが、腕を組んでアリスの話を聞いたユリウスは、はあとため息をついた。
予想通りの展開に心構えはしていたが、それでもやっぱりユリウスに呆れられたかと思うと、情けなさがこみ上げてきて、アリスは目線を床に落とした。
「でも、ちょうど通りかかったグレイに、助けてもらったんだけど」
「・・・ほお、トカゲが」
急にユリウスの声音が低くなる。
アリスの肩がびくりと小さく震える。
「時計屋ー。アリスが怖がっているじゃないか」
「私はっ、別に・・」
憮然としたユリウスが、ついと視線を外す。
小さいものいじめは良くないぞ、とナイトメアがアリスを少し隠すように、前に立つ。
ピクリとユリウスの眉が上がったが、少しすると静かな顔をアリスに向けた。
「お前は・・・いつも厄介事に巻き込まれすぎだと思っていたが、自分から飛び込んでどうする」
「う・・ごめんなさい」
「時計屋ー」
「分かっている。・・うるさいぞ芋虫」
机を回ってユリウスはアリスの下へと歩いてきた。
ナイトメアの陰にいたアリスに向かって、方膝を床につけてしゃがみ込んで、視線を合わせてくる。
それでやっとアリスとユリウスの視線が合った。
戸惑うアリスの髪を大きな手が撫でる。
「今回はトカゲがいて・・まあ良かったが、あまり危ないことをするんじゃない。何度も私に言わせるな」
心配しているんだ、と言外に言われてアリスの顔が赤くなる。
この前は風邪で顔を赤くして、今は小さな女の子になってしまった。
全く、結局は心配ばかりかけさせて、目が離せない。
それでもユリウスは、いつも強気でいようとするこの少女がたまに弱弱しくなって自分を頼ってくれることに、仄暗い喜びを感じている。
そしてその感情は少しばかり、横で不敵に微笑む夢魔に伝わってしまっているらしい。
構うものかと、開き直る。
「で。お前、ここにいるということは塔に滞在するのか?」
「ええ、元に戻れるまで、そうさせてもらおうと思って」
「そうだなそれがいい。それは、いいが・・・」
(トカゲが面倒だな)
あのトカゲは、見かけによらず小動物といった、小さくてかわいいものに目が無い。
この状態のアリスが何か事件に巻き込まれる前に、無事に回収出来たことには、感謝している。
だが、きっと塔で引き取ったら引き取ったで、トカゲは間違いなくアリスにまとわりつくだろう。
それはもう、べったべったと・・・。
「時計屋・・負のオーラが出てるぞ。あれに関してはまあ、私も反論してやりたい気持ちはあるが、概ねその通りだろうな」
きっと、次の休憩時間には、アリスの服を買ってくるだろう。
それも一着といわず、何着も。
あとは、お菓子をたんまり買ってきそうだ。
「どうしたの、ユリウス。何だか顔色が悪いわ」
「おーい、気持ちは分かるがもどってこーい」
口々に呼ばれ、ユリウスは恐ろしい想像をひとまず中断して、額に手を当てた。
「まさかと思うが、トカゲの部屋に・・」
「大丈夫だ、それは私が却下した」
「芋虫にしては英断だな」
ほっとしたような息をついて、ユリウスはアリスを見た。
いつもの彼女よりだいぶ小さいが、基本的な部分は変わらない。
ただ、頬は少し丸くて瞳は大きく、声がちょっと高い。
顔にも思考にもぎりぎり出さなかったが、トカゲではなくとも、かわいくないわけがなかった。
「それなら、アリス・・・私の部屋にくるか?」
思いがけない発言を聞いて、ユリウス以外の二人は固まった。
ナイトメアは、ありえないぞ、時計屋!と吐血しそうな気分だった。
グレイほどではないが、こいつももしかしてロリコンだろうか、と危ぶむ。
思考を探るが、そういった類の嗜好は無さそうでほっとする。
さて、この驚きの発言にアリスはどうするのかと、視線を下に向ければ。
(え、ちょっといきなり何を言い出すのよ、ユリウス?!大丈夫?顔色悪いし、疲れているんじゃないの?グレイみたいに小動物で癒せるのかしら、この人。じゃあ、何か犬とか猫とか連れてきた方がいいかしら。あ、でも毛が落ちるから、作業部屋に動物はダメなのよね。さっきの発言は・・私が小さいからかしら?小さい私が、犬や猫の代理で、部屋にいればいいのかしら?)
ナイトメアは、吐血した。
「それは、違うだろう・・・」
もはや混乱しきったアリスの頭に、そんなナイトメアの呟きは届かない。
ユリウスは、先ほどの彼女の説明を聞いたから、さすがに中身まで子どもに戻ってしまったとは思っていない。
思っていないらしいが、この発言だ。
むしろ、いちおう中身がしっかりした、今のアリスのままだからさらりと言えたのだろうか。
中身まで子どもに戻っていたら、逆に面倒くさそうにしそうだ。
(甲斐甲斐しく、子どもの世話を焼くユリウス。・・・申し訳ないけど、似合わないわね)
そんなアリスの思考に、口元をぬぐいながら同感だとナイトメアも頷く。
二人が、声に出さないコミュニケーションをしているのを、ユリウスはじっと見ている。
こんな小さい子どもの姿になってしまったアリスに対して、やましい気持ちがあるわけがない。
ユリウスが考えているのは、もっと現実的なことだった。
「私なら、あまり部屋から出ないからな」
その言葉を聞いて、アリスも少し冷静になって、自分の状況を考え直しはじめる。
小さい子どもが真剣な顔をして考え込んでいる様子を、ナイトメアは微笑ましく見守っていたが、そこへユリウスの心の声が聞こえてきた。
(塔の連中では忙しすぎて、アリスは声をかけるのを遠慮するだろう、芋虫?)
アリスに気を使わせないようにと、あえて心の中で静かに問いかけるユリウスに、ナイトメアの目が少し見開かれた。
顔には出さないが、アリスはおそらく心細いはずだ、とユリウスは思っていた。
ユリウスは用が無ければ、集中力が続く限り、いつまでも部屋にこもって仕事をする。
アリスにとっては、不健康で改善させたい生活態度ではあるが、今回のように何かあったときに、すぐそばに人がいてくれるという安心に勝ることは無いだろう。
特に今のアリスは常でない不安定な姿で、このままでいるのか、時がたったら何か進展があるのか、元に戻るのかすら分からない。
塔の人たちは、アリスにとても優しく丁寧に接してくれて、何かあったら助けになってくれようとするだろう。
だが、彼らは常に忙しそうに動き回っている。
そんな彼らを呼び止めて、あれこれと頼みごとはしたくはない。
「そうね・・・」
別にユリウスの作業部屋の傍に、部屋を借りれば良いことだったが、小さくなったことでいつもより広く見えるこの世界に、アリスは少し心細く、気が弱くなっていた。
ユリウスの感じた、アリスのその気持ちが、ナイトメアにも伝わってくる。
「それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらうわ。仕事の邪魔はしないから、よろしくユリウス」
「というわけだ、芋虫。アリスはここで保護する」
「・・ああ、分かった」
ナイトメアは、二人がそれでいいなら何も言わないさ、と苦笑しながら言った。
ちなみに、保護という言葉をことさら強調したユリウスだったが、守る対象は危険な輩というより、・・・ナイトメアの忠実な部下からだろう。
時計屋の部屋に泊まることになったと知ったら、グレイがどういう反応するのか。
そのことに思いついて、ナイトメアは青くなったが、ちらと視線を寄越した先の、時計屋のフォローは期待できそうに無い。
ユリウスの思考いわく、自分の部下だ、自分でどうにかしろ、ということらしい。
グレイの反応は怖いが、ナイトメアだって、心細いアリスを一人にさせるつもりは無い。
ナイトメアは悩んだ末に、二人が撃ち合いにでもなったら、アリスを新しいに部屋に移させようと、とりあえず問題を先延ばしにした。
ひとまずは、自分がグレイの冷気から、いかに生き延びるかを模索しなければいけないだろうから。
「ではな、アリス。何かあったら遠慮なく言ってくれ・・・」
何だか、急に遠い目をして出て行ったナイトメアを見送って、アリスはさっそく備え付けの小さなキッチンへ向かった。
珈琲を入れて気を落ち着かせよう、これからのことはそれから考えよう、と思ったのだ。
だが。
「あ、あら・・・」
アリスの背はだいぶ低くなってしまって、いつもなら届くコーヒーミルが入っている棚にも、マグカップが入っている棚にも、手が届かない。
背伸びをして届かなかったので、ジャンプをしてそしてやっと触れたコーヒーミルは、後ろから伸びたユリウスの手が奪っていった。
「あ、ユリウス・・」
「無理するな。あとはやっておくから、座ってろ」
しっしと手で邪険に追い払われて、仕方なくアリスはテーブルの椅子に、ちょこんと座った。
じきにユリウスが挽く、コーヒー豆の良い匂いが漂ってきた。
カチコチとなる時計の針の音と機械油の匂い。
ゴリゴリと挽かれる豆の音と、珈琲の香り。
それ以外には、何もいらない、心地よい空間。
ユリウスが近くにいてくれることが分かって、不安だった心が緩む。
アリスは、行儀悪くもテーブルに頬杖をついて、ユリウスの長身の後姿をぼんやりと見る。
その視界がふんわりとぼやけて、かくっと支える手から顎が落ちた。
いけないいけない、と目をこすって椅子に座り直すが、睡魔には勝てない。
「・・・・・」
2つのマグカップを持って戻ってきたユリウスの前には、椅子の上で肩をちぢ込めるように背もたれに丸く収まって、器用に寝るアリスの姿があった。
それでも、うとうとと揺れる体は、今にも椅子から落ちそうだ。
仕方が無いので、マグカップをテーブルの上に置いて、ユリウスは両手でその体を抱き上げた。
くてんともたれかかるアリスは、あどけない子どもの寝顔を晒している。
金茶の髪はいつもより柔らかく、ユリウスの腕や髪にまとわりついた。
小さい姿になってしまっても、相変わらずアリスにひかれる心は変わらない。
おそらくそれは、塔の役持ちも職員も同じで、そしてあまり考えたくはないが、この世界のアリスを知る誰もが、同じ思いを抱えるのだろう。
今は、自分の片腕でも軽く納まるほどの、小さなアリスでも。
軽い体を難なく抱えたまま、静かにロフトベッドの上に運ぶ。
ユリウスの長い藍色の髪に、アリスの金茶の髪が触れて、ほどける。
細い髪は、光に透き通るように輝いているように見える。
夜のしじまに、明滅する淡い星の光のように。
横たえれば、寝心地の良い姿勢を探してもぞりと小さく動き、猫のように丸まる。
そのユリウスのほうへ向けられた額に、そっと唇を寄せた。
気のせいか、自分の時計が穏やかな針音を響かせた気がした。
◆アトガキ
2012.11.29
塔メンバーになるつもりが、3人揃わなかった・・・。
しかも、小さいままどんどん話が進んでいく!
ユリウスは最初のアリスのノックが聞こえなかったわけではなく、
彼女だと思ったのにその音の高さがあまりにも低くて、
返事をすべきか迷っていた、という裏設定。
仕事をしているふりをして、その戸惑いをごまかしました。
折角アリスを小さくしたんだから、あんなことやこんなことや
色々考えているので、まだ小さいままで話は進みます。
と、いうわけで、小さい間の話は一つのくくりとして
タイトルとメニューをまとめました。
次は、今回我慢したトカゲさんの予定!
格好良くは出来ない・・・予定!(すいません。