散るのを恐れ、咲くのを拒んだ *8
一
ビバルディに会ってからずっと考えている。
否。
それはもうずっと心の片隅に存在して、自身の脳内の話題にのぼるのを今か今かと待ちわびていた。
・・ずっと、無理やり忘れてしまった振りをして無視をしてきた。
主の居なくなった屋敷の庭。
唯一の血縁である彼女と自分だけが入ることを許された、赤い薔薇の咲き誇る秘密の庭。
あれから一度も入っていない。 もしかしたらブラッドが死んでしまったことで、もうあの庭には入ることは出来なくなってしまったかもしれないと、無意識に敬遠していた。
いくら彼が居ない時にも入る許可が与えられていたとはいえ、そのルールの執行者が失われたのだ、有り得ないことはない。
・・・そう無理に思い込もうとして。
だが、それを確かめようとしたことは無かった。
「・・・・・」
臆病な気持ちがあの庭から足を遠ざけさせる。
入れないことが怖いのでは無い。
入れることが怖いのだ。
主を失った庭に入ることが出来てしまったら、きっとどうしようも無いほど取り乱してしまうに違いない。
自分ではとても満足に手入れをすることは出来ず、後はただもう廃れていくだけの庭となるだろうに。
美しい記憶ばかりを眼裏に残して、古びていく眼前の現実に直面するのが怖いのだ。
「ビバルディ・・・」
彼女は庭に来ているのだろうか。
いつか、三人であの庭で過ごした時に話したことを思い出す。
もし、ブラッドが居なくなったら、と。
この庭をくれてやろうと、彼は不適に笑って言った。
私は、「いらない」とあの時答えたはずだ。
あなたのいないこの庭をもらっても仕方が無いわと。
でもあれは、ただの戯れで、本当にこんなことになるなんて思ってなかったから。
世間話にも満たない、些細でくだらない軽口の応酬のようなものだった・・筈なのに。
ビバルディは何て言っていただろう。
そう、確か。
どちらかがいなくなり、残る二人でその姿を愛でるのも悪く無い、二人が生きる限りその記憶の中で生きると、艶やかに笑ってはいなかっただろうか。
だとすれば、彼女はまだあの庭に来ているのだろうか。
臆病な自分が居ない間にもあの庭の中で、憔悴していく薔薇に囲まれ独り・・ブラッドのことを想って・・・。
「!!っ」
そう思えば恐怖をも押し殺して、行かなくてはいけないと追い立てられるような気持ちになる。
彼女を一人であの庭にいさせてはいけない。
あの庭に彼女だけを居させるわけには・・・。
「・・・?」
自分の思った気持ちに、ふと引っ掛かりを覚えた。
庭に向かおうと急いていた足がもつれそうになって、終には立ち止まる。
僅かな差異。
自分の考えた言葉を反芻して、知らず目を見開く。
彼女を一人にさせたくないと思う気持ちは、もちろんある。
ビバルディは素敵な親友で、自分では到底なれないだろう憧れの大人の女性だ。
そんな親友を、肉親を失った親友をあの場所で一人ぼっちにはさせたくない。
・・それが例え、自分が原因だとしても。
庭であった瞬間に罵倒か・・もしくは平手の1つも飛んできたとしても、だ。
そう素直に思う気持ち、もある。
でもそれだけではなかった。
「・・・・・っ」
俯いて、両手の拳を強く握った。
何て浅ましい、醜い自分。
それはあの庭に・・・ブラッドが居なくなったあの場所に、彼女だけが出入りしているなんてという嫉妬。
そんな嫉妬、するだけ無駄なものだ。
何しろ肝心の対象がすでに失われている。
「馬鹿みたい・・・・」
自嘲して、誰に言うとも無く呟いた。
ただ行けば良い。
行ってみさえして、ビバルディがいたら聞いてみれば良いのだ。
薔薇園を、一体この先どうすれば良いだろうか、と。
元々、自分がこの世界に来なければ、あの薔薇園は美しい姉弟だけの場所だったのだから、どうするか彼女に決めてもらうのが筋だろう。
--------------+**
ガサリ、パサ。
「・・・・・」
奥歯を噛み締めれば、ギリと嫌な音がした。
明るい光の下で見る勇気はやはり出なくて、夜の時間帯に廊下の扉を潜り抜けた。
薔薇園へと続くその扉。
開いた瞬間に香った芳香に、むせ返る程だった艶やかさが、無い。
手をかけるともなく、ハラリと散る葉か花びらか。
その音に耳を両手で塞ぎたくなった。
「おや、そこにおるのはアリス・・お前かえ?」
「!!」
薔薇の茂みの向こうから、艶やかな声が聞こえてはっと顔を上げた。
躊躇したのは一瞬で、後はもう急いでその声がした方へ走る。
「っ・・ビバルディっ!」
薔薇園でお茶をするのはいつもそこだった。
綺麗な鳥篭のような東屋の中。
ビバルディは綺麗な足を優美に組み、行儀悪くもついた両肘に形の良い顎を乗せてこちらを見ている。
駆け寄っていたのが急に力を失くした様に失速し、数歩進んでみたものの東屋の手前でとうとう足は止まってしまった。
どうしよう、なんて言えばいいのだろう。
ぐるぐると焦る頭が混乱を招き、開いた口からは呼気が漏れるのみのアリスを、ビバルディは微動だにせずじっと見つめている。
と、思えばその顔がすっと逸らされた。
「っ・・ビバル・・」
「今宵は・・良い月夜じゃな」
「・・・え・?」
アリスの言葉を遮って紡がれたその言葉に、つられるように空を仰ぐも、星ばかりが瞬く夜の色をした空の中には月の影も形も見当たらない。
動揺したように空とビバルディを交互に見ているアリスに、ビバルディの口元が不意にくっと持ち上がった。
「ふっ・・ははっ」
「え・・・?え?」
「お前・・そんなに妙ちきりんな顔をするのでは無いよ。・・・ああ、おかしい」
そう言ってまた笑い出す相手に、アリスはついていけずに目を点にした。
固まるアリスの前でひとしきり笑い終えたビバルディは、その目元を拭ってこちらについと視線を向ける。
「はあ、久々によう笑ったわ・・・おいで」
目元を拭った長い指先がふらりと揺れて、誘われるままにアリスは東屋に近付いた。
「お座り」
示されるままに向かいに腰を下ろして、相手の顔をそろりと見つめる。
ビバルディは微笑んでいた。
その顔のどこにも、怒りや悲しみは見当たらない。
見つからない感情に、逆にアリスの心が悲鳴を上げそうになる。
耐え切れなくなって、アリスは胸元を片手で掴んだ。
「私を・・責めないのね」
今、自分の顔は泣きそうに歪んでいるだろう。
それはとても醜悪な・・・。
ふわり。
急に近くで香ったふくよかな香りにハッと顔を上げる。
思いの他、近くにあったビバルディの顔に瞠目するアリスの頬を、赤く艶やかな爪の甲がするりと撫で上げる。
「責めが、欲しいのかえ?」
「!・・・・・いいえ」
悩んだ末に出てきた否定の言葉。
その答えを選んだ自分自身に、また失望する。
本当は、責めて欲しかった。
思う存分責めてくれたら、もう立ち直れない程に痛めつけられてしまえば。
そうされたら疲弊した精神は耐えきれずに崩れ落ちてしまうかもしれない。
でも、そうなってしまったら後はもう、ただずっと暗い淵の中に沈んでいればいいだけだ。
甘美な、絶望と後悔の暗い・・檻の中に。
でもやっぱりこの素敵な親友に罵倒なんてされたくはないと、冷たい瞳で見られるなんて耐えられないと以前の自分が簡単に叫ぶ。
脆弱な精神、貧弱な魂・・・保身したがる浅ましい自分。
言ってからまた俯いたままの頭に手が乗せられて、さらりと柔らかく撫でられる。
「わらわはな、アリス。今、とても凪いだ気持ちなのじゃ」
手つきと同じく、思いがけない優しい声に思わず顔を上げる。
言葉を紡いだ美しい女性の瞳は、遠くを見つめるように細められていた。
最後まで生きようとする生命の香りが辺りに漂っている。
それはまるで、暗闇の中で最後の光を放たんとする、星の命の終なる輝きのように。
「そして羨ましいと、ただもう、それだけ」
アリスの方を見るビバルディの顔はひどく安らいだもので、それを見たアリスの頭の中は、それまで荒れ狂っていた感情や言葉といったものが一瞬にして消えさり、後は真っ白になった。
「ほれ見たことか、わらわの言ったとおりじゃ・・・実に悔しい」
「ビバルディ・・」
呆然と見つめていた視界が不意にぼやける。
頬を伝う水滴をまるで他人事のように感じていれば、困ったように笑うビバルディがそれを拭う。
涙でぼやけても美しい人は、その濡れた指先を暫く眺めてから悪戯に舐め上げた。
「あやつのことなど想って泣くのはお止め。悔しすぎてお前を殺したくなってしまう。あんな・・お前の姓すら変えられなかったような愚弟など・・知らぬわ」
光を失った彼女の瞳から流れる宝石のような涙を拭っても、静かに嫉妬する弟はいない。
微笑むビバルディの前で、アリスの瞳にまた涙の滴が生まれる。
自分を取り合う美しい姉弟の姿は、記憶と幻想の彼方に消えていく。
そうして後はもう、この滅び始めた薔薇園の中に埋もれていくだけだ。
「ふふ。ビバルディに処刑台に送られるなんて・・それは、怖いわね」
何とか微笑めば艶やかな笑みが返ってきて、アリスの頬にはまた一筋の光が転がり落ちた。