物騒な世界の一輪の花 *2
一
険しい顔をしたエリオットに懇願される。
私は、それを拒むことが出来なかった。
そんなこと無理だ、と思う気持ちが拒否の言葉を吐き出そうとするのを、必死に押し留めて、絞り出した一言。
「・・分かったわ」
何も、分かってない。
でもそれが、私に出来る最大のことならこれ以上何をぐちぐちと言っていても、仕方が無いことだ。
言った瞬間、自分の表情がすっと能面のように無表情になったのを他人事のように感じた。
返事を聞いたエリオットは、本当に久しぶりに表情を少し緩めてくれた。
ずっと殺気を放っていて、私でも肌を刺すようだったそれが和らいで。
泣きそうになった。
「じゃあ、早速・・・」
私を連れてどこかへと歩き出そうとしたその長身のコートの背中に、体当たりするようにぶつかる。
動揺したように、その長躯が揺れた。
「・・・少しだけ」
「・・・・・・」
本当は、その長い耳を貸して欲しかった。
その長い耳を濡らすほどの雨を降らして、伏せてしまいたくなるような悲鳴を上げたかった。
連れてこられたのは、それなりに長くここに滞在していたのに全く知らなかった、地下通路。
その先にある、大きな扉。
「入ったら、俺の言うとおりにしてくれればいい」
いつもとは違う、ひどく静かな声を出したエリオットに頷き返す。
用意されていた黒いスーツに着がえてみたが、それは重くまとわりつくような気がした。
着慣れていないのだからと言い聞かせてみたが、それだけではないと頭の中で声がする。
この扉の向こう側に入ったら、自分の知らない世界が待っていて。
ああ、でも彼はこの先に自分を連れて行こうとはしなかったのだと、改めて気がついた。
彼が私の目から隠していた扉。
その先に待っているものが何かはもう分かっている。
彼が待っているわけでもないのに、この扉をくぐるしかない自分はひどく惨めで、ちっぽけな存在に思えた。
「待たせた」
静かに扉が開いて、自分の背後で閉ざされる。
エリオットの声に、向けられる幾多もの視線。
尻込みをしそうな自分を必死に叱咤する。
エリオットにうながされて、ぐるりと囲まれる席の中央に連れて行かれる。
「2度は言わない。アリスに契約をさせてファミリーに迎え入れ、トップに据える」
ざわりと空気がうねった。
馬鹿にしたような視線、ちらちらとこちらを見て交わされる言葉。
自分が歓迎されていないのは入る前から分かっていた。
とはいえ、エリオットは組織のNO.2だ。
役持ちと顔なしの違いは大きいらしく面と向かって非難する声こそ上げないが、幾つかの視線はその言葉に否定的だ。
「それでは・・・あまりにも」
お粗末だと、そう言いたいのだろう。
中年にさしかかるといった風体の男が、こちらを値踏みするようにじろじろと見てくる。
冷徹に観察するようなものから、ねっとりとした粘着質なものまで、複数の視線に値踏みされて肌が粟立つ。
男が漏らしたその言葉に、部屋の中で小さくも失笑が湧き上がる。
握った拳の中で、爪を手の平に食い込ませた。
ガウンッ
はっとして隣を見上げる。
腕を真っ直ぐに伸ばしたエリオットの視線の先は、発言をした男へと真っ直ぐに向けられていた。
「2度は、言わねえと言ったはずだ。・・・異論は認めない。これ以上うだうだ抜かす奴はこの組織にはいらねえよ」
銃口を眉間に突きつけられたかのように、男は青ざめて少し仰け反った。
その間に少し冷静になった頭で、部屋の中を見渡した。
今、このときが重要なのだ。
出来るだけ、周囲の人間の顔を頭に叩き込む。
見えにくい顔が多いのは、普段接したことがないから仕方が無いが、それでも忘れないようにじっと睨みつけるように視線を向ける。
この先も組織を支えていく相手か、・・・今後、敵に回るか。
この瞬間に、すでにある程度は決まっているようなものだ。
エリオットに銃を突きつけられた相手も、また然り。
「・・・・良い目をなさるようだ」
初老の男性が静かに、けれど部屋に響くような低い声をあげる。
かち合った視線は決して柔らかいものではなかったが、頷くように静かに目を開閉させる。
「・・・・・」
男性の言葉が部屋全体に浸透して、ひそひそと紡がれていた音がひたりと止む。
全ての視線を集めて、そして決意する。
ブラッドに惹かれ集まってきた彼らの信用と信頼を得ること。
全ては無理でも、存続をさせるには力が必要だ。
それが出来なければ、自分がここにいる意味は無い。
「そろそろいいな・・おい、お前ら」
辺りをぐるりと見渡してから、横に立っていたエリオットが誰かを呼ぶ。
振り向けば大きな柱の両側に、いつの間にか双子が立っている。
目配せをし合い、同時に柱の両側に手を付いた。
ゴトン
何か重いものが動いた音がして双子の手がすっと壁の中に消え、そして何かを握って引っ張り出した。
握ったままの黒い取っ手のハンドルを、二人が同時に回し始める。
歯車の回る音、重たい金属音。
裏でどんなギミックが作動したのかは分からないが、正面の壁がポッカリと暗い穴を開ける。
アリスの手で覆える程の、小さな四角い穴。
「アリス」
エリオットに声をかけられ促されて、その穴の中に手を差し入れる。
宝石箱のような黒塗りの箱が一つ。
中に何が入っているか分からないので、揺らさない様に慎重に取り出した。
エリオットに手渡そうとするが、そのまま持っているように指示される。
彼のポケットから取り出された、その手の中で握りつぶされてしまいそうなほどに小さく黒い鍵が、鍵穴にそっと差し込まれて回される。
カチ、リ
持ち上げられた箱の中。
「・・・・・?」
赤いビロードの張られた底に、液体の入った小さな小瓶と黒い革のバンド、そして折りたたまれた紙が一枚。
その中から、エリオットは迷わず小瓶を取り出した。
「お前ら、持っててやれ」
すかさず手を出したディーの手の上に黒い箱を渡す。
そして、エリオットが持ち上げて眺めている小瓶を見上げた。
透明なガラスの内側で、とろりと濃く赤いものが揺れている。
見る角度によっては黒くも見える、その液体は・・・。
「まさか・・・」
「ああ・・・ブラッドの血だ」
どこか陶然としたようなエリオットの声。
こんなところに彼がいたなんて。
小瓶の中で揺れる赤い液体から、目が離せない。
気が付けば、会場内も水を打ったようにしんとしている。
見回す誰もが、その小瓶の中の血を欲しているかのようだった。
これが彼の・・、ブラッドの求心力。
死してもなお、惹きつけて止まない。
その血の一滴でさえも、彼らを捕らえて離さない。
・・・それは、私も同じだ。
吸い寄せられるように目をそらせない私の前に、銀色の輝きが入ってくる。
「これで親指を切れ、アリス」
渡された小型のナイフは一切の装飾がない、無骨なものだった。
怖い。
この屋敷の中には、もっと美しいナイフはいくらでもあるだろう。
凝った持ち手のもの、刃の部分に透かし彫りがされたもの。
そういった美しい装飾的なナイフを手渡されたのなら、血に酔った頭のまま操られるように迷い無く親指に刃を滑らせたかもしれない。
だが、これは違う。
まるで、目の前に突きつけられた現実に立ち戻らされた気分だ。
でも、そうでなければ駄目だ。
陶酔して夢のようにこなしていいものでは無い。
自分の意思で、自分で決めて前に進まなければいけないのだ。
「・・・・っ」
よく磨かれた銀色に映る自分の瞳を睨むように見据えて、研がれた刃を指先に滑らせた。
少し力を入れれば、ぷつりと皮が切れる感覚がする。
すっ、と一線を引けば、暫くして赤い線が浮かび上がる。
瞬く間にそれは血の玉を生み出して、それはころりと無事な皮膚の上を転がり落ちた。
「そのままだ」
エリオットが、小瓶の蓋を開けておもむろにそれを逆さにした。
つ、と赤い筋が目の前を走り、傷をつけた指先に到達する。
「っ・・」
痛みはそれほど無い。
ただ、傷口の上から注がれた液体に体が、心が震えるような気持ちになる。
たかが、自分のものではない血。
されどそれは彼の、今はもうここにはいないブラッドの血。
「血の掟だ。誓え、アリス。ブラッドに仕え、裏切らないことを」
低い、静かなエリオットの声が部屋に響く。
もう彼はいないのに。
だが、そんなことを言う愚かな者はここにはいない。
ぬるい血が指先を覆って、赤く染め上げていく。
「ファミリーと、ブラッドに忠誠を。利益と仲間と秘密を守れ。・・・あとは、すべて壊せ」
傷口から内側に入り込み、交じり合って溶けて行く。
自分の血と、ブラッドの血。
溢れて床に滴るのも、もったいないと思えるほどにその血が愛おしく感じる。
「誓うな?」
「・・・ええ」
吸い寄せられて離れない視線を何とか引き剥がして、エリオットの目を見て答える。
掠れてしまった声。
恥ずかしいと思う耳に、ポタリと床に落ちて染み込む血の音が聞こえる。
「アリス、あんたはもうブラッドの一部だ」
その一言が、ひどく嬉しくて、そして悲しい。
血に酔って狂わされて、だが求めるものは既に失われている。
それでも、彼の血が自分の中を巡ると思えば、頬が紅潮する。
「アリス=リデル、あんたを帽子屋ファミリーに迎える」
厳かに告げられた言葉。
エリオットが目の前で微笑む。
「ようこそ、お姉さん」
「歓迎するよ、お姉さん」
双子がまとわり付いてくる。
未だ赤い指先をじっと見て、そしてぎゅっと握ってきた。
少しだけ、痛い。
「・・・ブラッドは、もういないからな」
笑顔が少し歪んで、エリオットの瞳が双子の手にも移った緋色に向けられる。
つまりこれは、純粋なブラッド=デュプレの血で行う、最後の血の掟なのだと理解した。
どうりで、部屋全体に異様な熱気がこもっているはずだ。
最後の彼の血を惜しみなく捧げられて、指先に浴びた自分。
本当に、自分で良かったのだろうか。
もう後戻り出来ない道に立ってしまったのに、背後を振り向きそうになる。
後ろ向きな思考は生来のものだから、仕方が無い。
「これは、あんたのだ」
双子の手から預かったのだろう黒い箱を、改めてエリオットから手渡される。
戸惑いながら受け取れば、エリオットの手が箱の中から何かを取り出した。
小瓶の無くなった箱の中で、とぐろを巻くようにして入れられていたそれは、黒革の細身のベルトだった。
クリスタルで作られた小ぶりな薔薇が飾りとして付けられているだけの、実にシンプルなデザインだ。
よく見れば、透き通って透明な薔薇の中に、赤いものが見えて思わず顔を寄せた。
「エリオット、これは何かしら?」
「ん?・・ああ」
同じように手に持ったものに顔を寄せて、得心がいったようにエリオットが頷いた。
「これは、ブラッドが作った特注品だ。・・・あんたのために」
誇らしげに言うエリオットと、そのベルトを交互に眺める。
ベルトに見えたそれは、チョーカーだった。
表の黒い革は無骨だが、裏側にベルベットの生地があてられている。
まるで、首輪のようだと思う。
そう思ったし、相手がいたならそう言って罵ってしまったことだろう。
だが、言ってやりたい相手はもういない。
「・・・・・」
聞きたい事はそういうことではなかったのだが、だが思考が鈍るほどにその言葉は自分の中にゆっくりと溶け込んでいった。
ということは、彼はこうなることを予想していたのだろうか。
「本当は、あんたに直接渡したかっただろうな・・・ブラッド」
チョーカーを持ったエリオットの手が首筋に伸びてくる。
遮る間もなく、首を一周させて留め具を留める。
それはまるで、最初からそこにあるのが当たり前のように首元に馴染んだ。
「さすが、ブラッドだぜ」
一歩離れて腕を組んで、正面よりやや左の首筋に施されたクリスタルの薔薇を見て目を細めた。
それは怖い目ではない。
本当に満足げに、まるでそこに安らぎを見るかのような目。
そして、本当に私が聞きたかったことを教えてくれる。
「その薔薇の中に、ブラッドの血が一滴入ってるんだ」
思わず見ようとして、首に付けられたそれが見えないことがもどかしくなる。
「ブラッドは、もしものことがあったらって考えてて、そんであんたが引き受けるってことも、ちゃんと分かってたんだ」
だから、あんたは自信を持ってここに立って良いと、エリオットは言う。
これは、ブラッドの意思なのだと。
儀式が終わったことで、各自談笑したりとざわざわしていた部屋の中が少し静まった気がした。
ちらと見回した部屋の中、幾つもの視線がこちらに向けられている。
エリオットの声はそこまで大きいものではなかったが、近くにいたものには聞こえていただろう。
何となくその視線に熱を感じて、薔薇をそっと握りこむように手の中に隠した。
ブラッドの、最後の血。
帽子屋ファミリーの、最初の血。
ブラッド・デュ・プレ。
握り締めた手の中で、冷たい薔薇がそっと温もりを帯びた。