Nightingale doesn't have a Dream of Our Lady's tears.


君の影を偲ぶ *3





重要書類に目を通し、必要なところはサインをしてハンコを押して。
分からないものは以前のものを参照して、それでも分からないものは前回の様子を聞き出して。
責任と重圧感に押し潰されそうでもあったが、そんな感情にかかずらっている暇もないほどにやることはたくさんあった。
本当にこんな量の仕事を彼はこなしていたんだろうか。

いつも怠そうにして、時には準備万端で後は実行に移すのみといった計画も土壇場で自ら潰してしまったりしていた、あの男。
理由は、気が乗らないとかいう実にブラッドらしいものだったが、計画一つを実行する前にかけた労力を思えば、頭がおかしいとしか思えない。
資金を集めて必要な備品や武器を揃えて、人員のスケジュールを確認して計画に必要な人数の手を空けさせて、辺り一帯に根回しをして、そして期を待つ。
そのために、何回書類にサインをして、何枚もの機密文書を用意しただろうか。
どれだけの金が動いただろうか。
知り合えば、見た目ほどにはいい加減では無いことが分かるからこそ、見えないほどに繊細といって良いほど計画は細かく練り上げていただろう。
それを、呆れるほど簡単に無かったことにしてしまっていた。

自分が今、サインをしている書類にかかれた額だって、もしミスでもしたら冗談では済まされない損失が出るもので、目眩がしそうだ。
たった一枚の紙っぺらを介して、裏では嘘のように多額の金が動くなんて。
最初こそサインする度に手が緊張で汗ばんできたが、今ではやることの多さに押し流されて、そんな細かいことに気を使う神経も麻痺してきてしまった。
嫌でも慣れた、とも言う。

「ボス、こちらは持っていってもよろしいですか~」

「あ、お願い」

目の前の書類に集中し過ぎていて気が付かなかった。
返事を返してからまじまじと相手を見る。
いきなり無言で見られたからか、相手も動作を止めて指示のひとつもあるかと思ったのだろう、無言でかしこまって待つ姿勢をとる。

「あ、ごめんなさい。何でもないわ」

「・・そうですか~。では~」

そう怠そうに返事をしつつも、小さく会釈をしてさっさと出ていこうとする。
下げられた頭に、迷った末に声をかけた。

「あの、顔色が悪いわ。それを届けたらあなたはもう休んでちょうだい」

聞こえた相手の顔が、面食らったようになる。

「・・この程度、大丈夫です、問題ありません~」

呆けたような顔をしてから、慌てたように手を振る。
だが、ちらと見えたその顔は少し青白い。
部下がこんな顔色をしていたことにも気が付かないなんて、まだまだ駄目ねと自己嫌悪に陥る。

「問題あるわ。もしもの時に動けなかったら困るもの」

ここではそれが、死に直結する。
だから・・と言い募ろうとして、相手の眉が寄っていることに気が付いた。

「よっ。順調か?」

「エリオット!」

コンコンと扉が叩かれて、オレンジ色の頭と長い耳がひょこりと覗く。
エリオットは一歩部屋の中に入って来てから、アリスと書類を抱えた部下を交互に見遣った。

「ん、どうした。何か困りごとか?」

「あのね、エリオット・・」

「それでは、ボス。これで失礼します」

「あっ・・」

引き止める間もなく、再度小さく会釈をして彼は出て行ってしまった。
エリオットは片目を眇めて、閉められた扉を見遣る。

「何だ。あいつが何かしたか・・?」

「違うのよ・・・その・・」

言って良いものかどうか逡巡する。
自分の体調管理も出来ない奴だと、エリオットにそう思われてしまったらどうしようもない。
腕を組んだままのエリオットは、じっと言葉の続きを待っている。
それでもやはり伝えたほうが良いと、意を決して口を開いた。

「さっきの彼のその・・顔色が悪くて」

「・・は?顔色?」

エリオットは、先ほど出て行った部下と同じようにぽかんと口を開けた。

「ええ。最近、抗争や交渉やらでみんな忙しくしてるでしょう」

何気ない振りを装って言えば、何か言おうとしてエリオットは口を開いて、言うべき言葉が見当たらなかったのか、困ったようにその口を閉ざした。
その様子に苦笑する。
ブラッドを失って、次は我こそがと怪しい動きをする者が後を絶たない。
屋敷外の繋がりがあったものの中からも、そして屋敷内にも、だ。
更には自分がファミリーのボスになると分かって、この組織を取り巻く環境は目まぐるしく変わっている。
予想は付いたものの組織内で勝手な動きをし出すものも多く、裏切り者と呼ばれる者も少なくなかった。
今のところ、その動きは全て事前に察知したエリオットや信頼できる幹部が叩き潰してはいるが、どこから手引きがされるのかなかなかそういった者が減る気配が無い。
だが、それは仕方が無いことで。
所詮、アリスはただの小娘だ。
自分にある付加価値など、余所者というあやふやな立ち位置とそのネームバリューだけで、その他は何も無い。
力ある役持ちで領主をこなしたブラッドとは、比ぶべくもない。

「みんな、疲れてるし体調を崩す人だって出るわ。だから、もし良かったらエリオット、あなたからも休むように言って頂戴」

「それは、駄目だ」

即座に反対されて、アリスは驚いて相手を見上げた。
険しい顔をしたエリオットは苛立っているようだった。
何か、良くないことを言っただろうか。
こんなとき、ブラッドならどうしていただろう。
思い出そうとしても、彼と部下とのやり取りはぼんやりと霞を見るようでよく分からない。
それも、そのはずだ。
彼は、自分が仕事をしている姿を、極力アリスには見せようとはしなかったのだから。
そして、自分もあまり聞くまいと目も耳も他所へと向けていた。

「・・・・・はあ」

どんなことも、忘れないように良く見ておけばよかった。
こんなことになるのなら・・なるなんて思いも寄らなかった。
遠い目で溜息を吐けば、不意に視界が翳る。
見上げれば、仁王立ちのうさぎさん。
いつもなら、少し怖い雰囲気でもそれを和らげる効果のある長い耳は、ここまで間近に立たれると長さゆえに聳え立つ威圧感が増すアイテムへと成り果てる。

「アリス」

「え、えっと・・何かしら」

ボスになっても、何も関係は変わって無いかのよう。
それが嬉しいような、それでいいのだろうかとふと悩むような。

「・・・・あんただって、そんな顔してんのに」

怒りを無理やり押さえ込むような低い声。
思わず、びくりと肩を揺らしてしまう。

「ご、ごめんなさい」

「何で、俺に謝るんだ」

「・・・・・」

謝ってもどうにもならないことは、よく分かっている。
部下に謝ってしまうような、こんな頼りないボスでは駄目だ。
組織には害にしかならない。
こんなだから・・・。
だが、ブラッドのようにはなれない、何の力も無い、なれるわけも無い。
当たり前だ、彼と自分は違う。
でも、じゃあどうすれば良いのだろう。

ぐるぐると渦巻く思考はループを続けて、終わりが見えない。
まるでメビウスの輪の中にいるようだ。
少し痛む米神に指先を当てれば、その手が掴まれて強く握りこまれた。

「あ、エリオット・・」

「あんたが!・・・そんな顔してるのに、俺らが休めるわけねえだろう!」

思わず目を見開いて、相手の顔をじっと見た。
エリオットは掴んだ手に目を向けて、罰が悪そうに悪ぃと呟いてその手を離した。

「あんたが、俺らのためにあんまし寝ないでずっと頑張ってるのを、みんな知ってる」

「でも、それは・・・」

それは、当たり前のことだ。
積み上げてきたものが無いのなら、その分努力をして追いつかなければならない。
今の、この現状をどうにかしなければならない。

「ああ。あんたには覚えてもらうことや、嫌でもやってもらうこともまだまだある」

「・・・・・」

「だけどよ、もう少し俺らを頼れよ・・頼ってくれ」

大きな手が、頭の上に乗せられる。
くしゃりと髪をかき混ぜられて、ぐっと押し殺していたものが溢れ出そうになって、慌てて俯いた。

「俺が、背負わせたんだ。何なら、俺のせいにしても良い。・・だから、あんた一人で抱え込まないでくれ」

絞り出すようなエリオットの声が振ってくる。

「そんなに焦って無理したって、なるもんはなるようにしかなんねえ。俺らだって、今あんたに倒れられちゃ困る」

その言葉に、はっとして顔をあげた。
目が合ったエリオットは真剣な顔から一転、にかっと笑いかけてくる。

「時間はたっぷりあるんだ。少しずつで良いんだぜ」

「・・・そうね」

つられて、こわばっていた顔を少しほぐす。
それを見て、エリオットは更に笑顔になってぐりぐりと頭を撫でてきた。
首がぐらぐらと揺れるほどの力だ。
思わず、抗議の声を上げてしまう。

「ちょっと、エリオット!」

「そうそう。上司の頭を撫でる部下は、叱らないと駄目だぜ」

自分の事じゃないの、と文句を言いそうになってふ、と笑いが漏れる。

「ブラッドとあんたは違う。同じようにやる必要はねえんだ」

「・・・うん」

「あいつらも、ブラッドに対するものとは違う、あんたの・・・そのあんたらしさに惹かれて、ちゃんと付いていこうって決めてんだ」

「・・・うん・・・。ありがとう」

アリスの返事を聞いて、エリオットはぱちりと指を鳴らした。
何事かと見上げたその視線の中で、エリオットは嬉しそうに笑う。

「そうと決まれば、お茶会だな!」

「え・・?」

今さっき、ブラッドとは違うと言ったばかりではないか。
つい、そう文句を言ってしまいそうになる口を閉じた。
お茶会。
そうだ、お茶会だ。

「そうね・・お茶会を開きましょう」

本当に久しぶりだ。
儀式を行ってから・・いや、ブラッドを失ってからずっと。
いつも彼がいた場所を見るのが嫌で、意識して避けてしまっていた。
庭の、お茶会用の長いテーブル。
久しぶりに、そこでお茶会を開こう。
新しい白いテーブルクロスを広げて、ぴかぴかに磨かれたティーセットを並べて。

「ちゃんとにんじんスイーツも用意するからよ。いっぱい食べてくれよな!」

「ええ」

嫌そうな素振りを隠した裏で、押し付けあったオレンジ色のスイーツ。
顔を背けて紅茶を飲み続けるその姿は、もう見ることは出来ないけれど。
これからは、彼の分も自分がそのスイーツを少しだけ食べてあげてもいいかもしれない。

「屋敷のみんなも強制的に参加させるわよ」

休ませる口実にしたいと思うアリスの気持ちはしっかり伝わったようだ。
エリオットの紫色の瞳が、力強く輝く。

「ああ、最優先事項の命令だな」

任せておけよ、豪華なお茶会を開くぜ!と胸を張るエリオットによろしくねと頷く。
そしてエリオットは部屋を出て行った。
パタリと、閉じられる扉。

「・・・少しだけ、今だけ」

呟いて、机につっぷして蹲るように体を丸める。
腕の中に顔を埋めて、息を深く吐く。
肌の上に水滴が転がり落ちて、暗闇の中で瞬きを繰り返した。

「・・・ブラッド」

応える相手のいない、その名を呼ぶ。
お茶会をすれば嫌でも彼の不在を感じるだろう。
それでも美味しい紅茶を飲んで体を、疲れきった心を休めたい。
紅茶に慰めを求める日が来るなんて思いもよらなかった。

ふっと、時間帯が切り替わり夕方となる。
窓の外から入る夕日で、部屋の中が茜色に染まった。
まるで、紅茶の中に沈んだみたいだ。
ブラッドが愛したその色に、包み込まれた気がした。

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