Nightingale doesn't have a Dream of Our Lady's tears.


皇帝陛下の小夜啼鳥 *10





「あなたはあの変な・・いや、失礼。しゃれた帽子は被らないんですな」

交渉も終えて、後は挨拶でも一言交わして席を立つだけといった場面で男が放った言葉に、その場が一瞬にして凍りついた。
相手からしたら、こんな小娘相手に下手に出てやっているのだから嫌味の一つくらい、と思ったのかもしれない。
だが、不在となった今でも彼の求心力に惹かれている部下たちにとっては侮辱にも等しい言葉であったし、アリスにとっても屈辱的な言葉だった。
室内には、一気に不穏な空気が漂い始める。
折角、ファミリーにとって十分な利益をもたらす条件で、上手く交渉を成立させたところだったというのに、これでは台無しになりかねない。
空笑いで、ジョークですよなんて言われた日には、この場で銃撃戦が始まってもおかしくは無かった。
一触即発な空気を感じた相手がそれ以上何かを言う前に、アリスは口を開いた。

「私にはまだまだとても・・・あのハイセンスには辿りつけそうに無くって」

笑顔で相手の嫌味にのってやる。
事実、ハイセンスというところは自分でもそう思っているので、そう返すことが出来た。
だからといって、例え自分でもそう思っていたとしても、こんな奴に言われたくは無い。
だがアリスが折角宥めた空気を、空気の読めない相手がまたかき乱した。

「はははっ、やはりあなたもそう感じていたんですな。儂だけが思っていたんじゃなくてほっとしましたわ」

先ほどの比では無いくらいに、ひんやりとした空気が漂った。
ただし発信源は他の誰でも無い、アリスからだった。

「・・帽子を被ると顔がよく見えなくなってしまいますから、・・ほら、顔の見えない相手だと信用に足らないと思いません?」

ブラッドは交渉の際でも、あの帽子を外すことは無かった。
帽子屋ファミリーの名を掲げていたのだから、当然と言えば当然でもある。
微笑みながら、一見前任者を否定するような言葉に相手の顔も「ん?」と戸惑うものに変わるのもお構いなしに、アリスは続けた。

「相手の背が高いならなおさら、帽子しか見えなくなってしまいますし」

座ってアリスとほぼ同じ目線の相手は、立つと寄る年波と贅肉で丸まる背丈はアリスより低い。
椅子に座りながら、肘掛けに置いていた手が小さく動揺したように揺れ、立てかけてあった杖を倒した。
カターンとよく磨かれた無駄に高そうな床に、杖が落ちた音が響く。
相手の部下が椅子の背から慌ててそれを拾いに行くより先に、立ち上がったアリスがその杖を拾った。
にっこりとほほ笑みながら、どうぞと差し出す。

「それに」

「・・・・・」

「ずっと帽子を被っていると、頭が蒸れて髪にも悪いですから」

相手の小刻みに震える手に杖を持たせるのは早々に諦めて、彼の部下に手渡し、アリスは自身の部下を引き連れて部屋を出て行った。


--------------+**


「あいつのあの顔見た、兄弟?」

「見た見た、真っ青になって震えてんの!」

他の仕事を任せる予定だったのに、何かの手違いで抗争になったらとアリスとは真逆の期待をしてついてきた双子が、帰りの道々でご機嫌に騒ぐ。

「いっそ殺しちゃった方が、あのおじさんのためだったんじゃないかな?」

「そうだよねー、もうこれから一生芽は出せないって決まっちゃったようなもんだしね」

「・・・せいぜい、絞りつくして見せるわ」

アリスが同調すれば、気分が最高潮になったらしい双子に左右から抱きつかれる。

「本当にお姉さんってば、「最っ高!!」」

「もう、ちょっと歩きづらいから離れて頂戴」

体格差からもみくちゃにされそうになって、アリスが諭せば二人は渋々離れていくも、両脇に引っ付くのはやめない。
部下によって道で転倒するような無様なボスじゃ、マフィアとしてどうなのよと思わなくもないが、二人が笑顔で喜んでくれているのは、交渉を無事成立させたこともあって、アリスにとっても純粋に嬉しい気分にさせた。

「いやー、それにしてもあのおっさん。チビ・デブ・ハゲの王道をいく小物だったね」

「ほんと、ほんと。もうその3重苦に視界に入るたびに撃っちゃいたくなったよ」

バーコードハゲ、と口を揃えて笑う双子に、アリスの口元も思わず緩んだ矢先。

「ボスっ」

道の向かいから、帽子屋ファミリーの構成員が数人走ってくる。
何事かとざわつく周囲に構わず、部下が口にした報告にアリスは慌てて走り出した。


--------------+**


「ファミリーの振りをして、入り込んだようです」

「・・・・・」

自分の迂闊な行動に、アリスは唇を噛む。
木漏れ日の中に立つ教会からは、不似合な銃撃戦の音と硝煙の匂いがした。
静かな木製の祭壇は引き倒されてかけられていた布には銃の丸い焼き痕が散らばり、綺麗に並べられていた長椅子は斧で叩き割ったかのように破壊されていた。

「っ・・神父とシスターと・・こどもたちは?!」

「神父と数人のシスターがやられました。子供たちも何人か・・。残ったシスターが子供たちを地下室へ避難させたようで、そちらは無事です」

「!!!」

視界がぐらりと揺れたように、よろめいたアリスは壁に片手をついた。
心配そうに覗き込む双子の方を見る余裕なんて無かった。
あの、森の中のような温かい瞳の神父が、軽率な行動をとった自分のせいで・・・。

「以前から不審な行動をしていた男が主犯格のようです」

「私の不手際だわ」

ブラッドは殺されて、ファミリーの中でも複数名の不穏な動きが目立って。
殺した方が後々面倒にならないと再三言われていたにも関わらず、その決断が下せなかった。

”あんたは何も見なかったし聞かなかったし、言わなかったことにしてくれて構わねえ。俺にやらせてくれ”

これがマフィアのけじめだと、エリオットも言ってくれたのに。
自分は手を下さなかったからと、それで納得させることがどうしても出来なかった。
追放、という処分をくだしたのは、自分だ。
そのツケが回ってきた結果が、これだ。
部下が周囲の安全を確認してから地下室から誘導させてきた子どもたちは、脅えた顔で周囲と、そしてアリスを見上げてきた。
そこに、エリオットに遊んでとせがんでいた無邪気な笑顔はどこにも無い。
これから先もずっとこんな顔をさせるのかと思うと・・こんな顔でずっと見られるのかと思うと、アリスの顔からも表情が消えて行く。

「・・分かり切った結果だろ」

俯きそうになったアリスの耳に、静かな声が届く。
庭にいた黒髪の少年はこちらを見てはいなかったが、その言葉は自分に宛てられたものだと分かった。

「マフィアと懇意にしてその恩恵で生きてきたんだ。その分、巻き込まれて死ぬ確率が増えたって、当然だろ」

誰も何も言わなかった。
彼の口を慌てて塞ごうとした、子供たちと同様に脅えた顔をしたシスターに、アリスは怒ってはいないと作り笑顔で伝えることしか出来なかった。


--------------+**


「アリス」

「・・・エリオット」

同様の関係を持った施設の警戒と、見回りの強化を指示し終えたエリオットが部屋に残る。

「・・・・・」

彼の、痛々しい視線から逃げるように目をそらした。
そらしたところで、何の解決にもなりはしないと分かってはいる。

「・・・だから言ったろって、言わないのね」

「っ・・言わねえよ。あんたは頭がいいから、俺がいちいちそんなこと言わなくったって分かってる」

「・・・・うん」

「でもな、これだけは覚えておいてくれ」

「・・うん」

視線を上げないアリスに焦れたように、大きな手に両肩を掴まれる。
覗き込むように寄せられた顔は、怒ったような、でもどこか泣きそうな必死な顔をしていた。

「あんたが全部背負う必要はねえんだ」

「・・・・・」

「俺だって、あいつらだっていんだ。あんたが一人で全部やらなくちゃいけねえもんじゃねえだろ。だから、俺らがちゃんとやるから・・・許可を出してくれ。・・頼む」

「・・・・・」

エリオットは何の許可を、とは言わなかった。
でもそれが、武力と死を持っての制裁をすることへの、判断や決定権を任せてくれということだと言わずとも勿論分かっていた。
結局のところアリスは一般庶民であり、血なまぐさいことは出来ないのだと、アリス自身どうしようも出来ないことで。
徐々に、慣れていくしか無いと頭の隅で思っていても、思っているだけで実際には何も出来ないのだ。
そして、エリオットにもそれは分かっている。
だから、いつかはと思っていたとしても、無理にやらせようとはしないし、むしろその機会を与えないように率先してそちらを自分たちで片付けようとしてくれていた。

「分かった。そういった判断や処理はエリオット、あなたに任せます」

アリスの固い言葉に、それでもエリオットの寄せられていた眉根から力が抜けていくのが分かった。
膝に乗せていた両手をぎゅっと握られる。

「任せろ、アリス」

勝気な目でウインクする目の前の相手は、何だか久々に見たような近所のお兄さんみたいな雰囲気をしていて、ぴこぴこと耳を揺らしながらきっと頭の中ではもう、何をどうすべきか・・・誰をどうすべきかを自分に変わって考えてくれている。
力強く握られた手をアリスはじっと見下ろした。
彼らは、優しい。
マフィアが優しいなんて言葉似合わないだろうけど、アリスにとっては、本当に優しくて頼もしい、家族みたいな存在だ。
自分を血なまぐさいことから、出来る限り遠ざけようとしてくれる。
だからマフィアのボスだというのに、この手は相変わらず白いままだ。
でも。

「・・・ねえ、エリオット」

今、命令をくだしたことで、この手は間接的に人を殺す手になった。
そもそも、ボスの座についた時点で、ブラッドの血を受けて真っ赤に染まったも同然ではあるのだが、ここからは違う。
自分の意思を伴って、見えなくとも血と硝煙を纏わせる手になることを決めたのだ。

「ん?何だ、アリス」

「私に、銃の扱いを教えて欲しいの」

エリオットの目が見開かれる。
それもそのはずだ。
ついさっき、彼女の手をそういった事柄から遠ざけたばかりだというのに。
見る間に険しくなるその目つきに、苦笑する。

「駄目だ。・・・あんたには、無理だ」

「違うわ。護身用によ」

「護衛をつけさせる。それで良いだろ?」

「・・・・・」

どうあっても、アリスに銃を持たせる気は無いらしい。
エリオットが自分を大切にしてくれようとしているのは、とても良く分かる。
分かるからこそ、アリスは尚更切なくなった。
自分が考えることなんて、他の誰かにも思いつくような事ばかりで、この組織にとって何か利益を生み出せているのかが不安で。
まるでただのお飾りのように感じていた。
周りで実際に銃撃戦が起こっても、誰かが自分の身代わりとなって死に、この手はその近くにいた誰か・・・家族のようにも思っているファミリーの一員ですら守れない。
ただ、いるだけの・・お荷物のような気持ち。
ファミリーのボスと言う座についても、一員のようでいて馴染めないまま、この先もずっとこの白い手は見た目はずっと白いまま・・・。

「・・、分かったわ」

見るからにほっとした様子のエリオットに、笑顔を向けてみせる。

「ちょっと出てきても良いかしら。この屋敷の敷地内からは出ないわ」

「どこに行くんだ?今、誰か護衛を・・」

「ごめんなさい、護衛は無しで・・・ちょっとだけ。少し一人で考えたいの」

途端に、しょんぼりしたように垂れ下がる耳を、今は撫でる気にはなれない。 銃を持たせないことや、その前の命令のこともあってか、心底不安そうにしながらもエリオットはそれ以上は反対しなかった。
きっとどこからか見張りを付けるのだろう。
そう思いながらもアリスは人目を避けるように部屋を出て、そして駆け出す。
喉を何かが塞いでいるような、胸の詰まるような圧迫感から逃げるように廊下の扉を潜りぬけた。

途端に包まれる、薔薇と緑と土の香り。
夕方の時間帯に照らされて、辺りは真っ赤に染まっていた。
息をするのも精一杯で、喘ぐように呼吸を繰り返す。
吹き抜ける風がザアザアと唸り、体を透き通らせるように通り抜けて行った。
少しだけ息が楽になる。

パチン、。

不意に響いた音に、アリスはびくりと体を震わせた。
生け垣を早足で抜け出て、曲がった隅。
音のした方を呆然と見れば、しゃがみ込んでいた相手もちらとこちらを見た。

「あんた、どうかしたのか?」

「・・・・・え・・?」

何で、どうしてここにいるのだろう。
教会の孤児院にいたはずの黒髪の少年が、当然のようにそこで薔薇の剪定をしている。
似て非なる、少し長めの黒髪を無地のシャツの背に泳がせて平然とこちらを見返す瞳が、少しだけ見開かれた気がした。
ぼんやりと見えるその瞳の色は・・・。

「おい・・おい!」

「え、あ・・え?どうして、ここに」

瞬きをして、いつの間にか目の前に立っている少年に、驚いて後ずさる。
そんなアリスを見て、眉根を寄せていた相手は深い溜息を吐いた。

「どうしても何も、あんたが連れてきたんだろう」

「え?私・・???」

「覚えてないのか」

「えっと、・・・ごめんなさい」

本当に覚えていない。
いつ、そんなことを言ったのだろう。
でも彼がここに、この庭にいる以上は自分が招き入れたに間違いないのだろう。
屋敷の主の許可が無ければ入れない、秘密に庭だから。

「あんたが言ったんだよ。・・死にかけた庭を助けてくれるかって」

「・・・・・」

少年が辺りをぐるりと見渡す。
そう言った、ような気もする。
良く覚えてはいないが、孤児院が襲撃を受けて急いで駆けつけて。
生き残ったシスターと子供たちの引受先を手配している時に、ふと無残に荒らされた庭を見たのだ。
懺悔、だったのかもしれない。
または、何も考えてなかっただけかもしれない。
そんな無意識の言葉をこの少年は受け取ってくれて、で、着いた先がマフィアの屋敷の庭だとは、相手もさぞ驚いただろうに記憶が無い。

「見事なもんだな」

枯れかけてるけど、と続いた言葉が胸を軋ませる。
その瞳がまたこちらに向けられて、何かを喋りかけた少年の背後で生け垣がざわりとうねった。

「おや。・・・・ほう」

現れた深紅のドレスの相手に、少年が口を開いたまま固まったのが分かって、アリスも慌てた。
ビバルディにも確認をせずに、勝手に他の人を入れてしまったことに顔が青ざめていくのを感じる。
この場所を知ったものは全て殺し、彼女と彼女の弟のものだったというのに、その輪に入れてもらった立場のアリスが、たとえ所有者であったブラッドから引き継いだとしてもあまりにも自分勝手なことをした。

「ごっ、ごめんなさいビバルディ!!私、なんてこと・・」

バッと勢いよく頭を下げて、必死に謝る。
ビバルディからは何の応えも無い。
無音が広がって、アリスが背中に冷や汗を感じ始めた頃、小さくふっと吐息が漏れるような音がした。
そろそろと視線を上げる。

「ビ・・ビバルディ・・・・?」

「ふっ・・ははっ・・・ああいや、こんなおかしなこと・・・」

赤い爪の先を優雅に揃えて口に当て、おかしげに笑う様子を呆然と見つめる。
そんなアリスに問題ないと手をひらひらと振りながらも、くすりくすりと堪えきれずに笑うビバルディにアリスは心底戸惑っていた。

「ああ、本当におかしい」

「・・・・・」

これだけ笑われるのも久しぶりなことだ。
ついていけずに、笑った理由を話してくれるのを大人しく待っていれば、ビバルディの視線がちらりと少年の方を向く。
少年はすでに平然としていて、ビバルディを前に赤面をするでもなくほぼ無表情で動じる様子も無いことにも驚いた。
そして、ビバルディの視線が何やら含みを持って、少年と自分の方を交互に見ているのが分かって、今度は嫌な予感に背筋が冷えてくる。

「・・・ほおぉ」

「・・・・・違うわよ」

「何がじゃ、アリス。まだ何も言ってはいないよ」

「じゃあ、その目付き止めてもらえないかしら」

辟易してそう言えば、またふふ、ほほほと笑う。

「安心せい、わらわは何も怒ってはおらぬ」

「ええ、そのようね・・!」

ちらちらと細めた視線で見られて、アリスはどこかやけくそな気分になった。
領土争いをしているはずの領主同士が、こんなところで懇意にしているなど外部の物に知られるなんて、本来ならもっての外のことだ。
だから秘密の薔薇園であったというのに。

「やっぱりこのまま枯れていくなんて、私には耐えられなかったの!」

「ほうほう、そうか」

そんな、あっさりと。
残った二人で、愛でるのじゃとしっとりとした雰囲気で言っていたのは一体何だったのかと聞きたくなるほどだ。
だが、まあここでいきなり死刑宣告をされるのも勘弁願いたいので、そういう事態にはならなくて心底ほっとしたのだが。

「して、アリス。わらわには教えずとは、つれないの」

「・・・何のことかしら」

何となく、先の展開が分かりつつも全力で知らぬふりをしたい。
そんな、アリスの空ろな視線を見て、ビバルディは拗ねたように口を尖らせた。
普段なら、かわいいと思える仕草も、状況が状況なだけにもう止めて欲しい、鬱陶しさしか感じない。

「お前がよもやショタコン、だったとは、な」

「・・・・・」

やっぱりか、とその含みを持った目線を、どこか死んだ目でアリスは見つめ返した。
もちろんアリスにその気は無い・・、つもりである。

「え・・・あんた」

「違う違う違う、そんなわけないしそんな趣味を持つつもりはこれから先もあり得ない」

ちょっと後ずさるのは止めてほしいし、その警戒するような視線も止めて欲しい。
思わずといった様子で声を発した孤児院から引き取った相手に、同じく死んだような視線を返しつつ、ないないと全力で頭を振る。
眩暈がするのは、気のせいだということにした。

「違うのか・・・つまらんの」

これまたあっさりとつまらん宣言をしたビバルディを思わず睨みつけたとしても、アリスには非は無いだろう。


--------------+**


マフィアのボスが、ショタコン。
そんな噂が広まったら終わりだわ、とアリスは憂鬱な溜息を漏らす。
幸いなことに、アリスが孤児院から一人子供を引き取ったことに対して、みな何も言ってはこなかった。
日々上がってくる報告書に目を通し続けて頭痛がする側頭部を軽く揉む。
そこそこ懇意にしていたところでの事件に対する後始末、という名の残党狩で今が常になく忙しい時期であったこともあるし、何よりボスのやることに口を出す部下なんてそもそもいるはずがなく、いてもアリスの耳に入る前にエリオットが噂ごと抹消させていた。
どんなに部下が優秀でも、どんなにエリオットや双子たちが献身的に動いてくれていたとしても重なる疲労は簡単に除けるものでは無く。
アリスが気付く余裕は無かった。

「あら・・・?」

そう言えば、彼を屋敷専属の庭師として雇うことになったのだった、と書類の山から出てきた任命書にサインをしながら、ふとその姿を最近見ていないことにやっと気が付いた。
忙しくて庭に出られない時間帯が続いたこともあるし、何より薔薇園も含め屋敷の庭は広い。
年齢上、取りあえず見習いの立場として、元から庭仕事を任せている者に着いて回るように指示を出したはずだが、今どうしているだろう。

息抜きがてら、その様子を見に行ってもいいかもしれない。
仕事も丁度一区切りついたところだ。
もし彼の仕事もひと段落つきそうなようだったら、紅茶と甘いものでも用意もさせてお茶会を開くのも良いかもしれない。

「よし」

少し浮上した気分に、紅茶の種類は何にしようそれに合うお茶菓子は何かしら、と頭に思い浮かべながら席を立って部屋を出た。
当然のように着いてくる部下に彼の様子を聞けば、まさかの返事が返ってきた。

「買い物?!」

「は、はい~・・その、庭の植木の様子が悪いから栄養剤と・・」

「専門書を見たいから古書店に行くって言ったのね」

「・・・そのようです~・・」

歯切れ悪く答える部下に、見習いにしたのは間違ったかと唇を噛んだ。
おそらく、誰かに頼むという立場では無かったことと、彼自身が誰かにものを頼むという意識を持たなかったせいもある。
だからといって。

「・・誰も付いてないわけ無いわよね」

「それは、もちろん~」

ハッキリと返された答えに、取りあえずほっとする。
近くで護衛替わりでも何でも、見張りが付いてるなら大丈夫だろうか。
・・ボスが自ら引き取っている子どもだ。
組織内はともかく、外からはどうみられるか分かったものでは無い。
最悪、取引の材料にと思う輩が出てくると思うのは、あながち間違ってはいないだろう。

「・・・何事も無ければ、いいわ」

彼が戻ってきたときにと、お茶会の指示を出す。
それまではまた書類の処理でもしていようかと、迷った末に、屋敷の門へとアリスは歩を進めた。
胸騒ぎがしたのは、何だか屋敷の外を強い風が通り抜けたような気がしたから。
ルール違反者が出ない限り、天気はいつも晴れな筈のこの狂った世界の空に、小さな雲が見えた。

「・・・・・」

廊下の窓から見えたその空から、無理やり視線を外す。
歩みが少し、速まった。

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