Nightingale doesn't have a Dream of Our Lady's tears.


天使と金色の花 *7





塔から帰る途中。
ふらりと、無意識に足を向けていた。
木々の合間に覗く白い教会の壁は、夕方の時間帯の赤い夕陽に照らされて赤銅色に燃えているようだ。
夕日は郷愁を誘う。
だが郷愁に駆られて想うものは、もう元の世界のことでは無い。
今想い描くのは、ブラッドが生きていた頃のこと。
過ぎ去ってしまった、それは恥ずかしくも少女の瞳で見ていた景色。

ここでもかつて、自分の見ていない景色の中で、ブラッドがこの教会を訪れてあの司祭と短く言葉を交わしていた、そんな光景さえ見えてきそうだった。

「・・でも、ブラッドが来るならきっと真夜中ね」

目を細めて、近づくその建物を眺める。
ビバルディが好きな夕方の時間帯。
どこか懐かしさを感じるその色に心まで染められてしまえば、どうしようもなく取り乱してしまいそうになる。
この世界に残ると決めたその決意の楔が抜け落ちて、足場がぐらぐらと揺れている。
今にも、落ちてしまいそうだった。


--------------+**


「えっと・・お邪魔します」

教会に入るのに一声かけてみたが、礼拝も行われていない教会の中には誰もおらず薄暗くてガランとしていた。
まるで、今の自分の心のようだ。
思い出ばかりで満たされて他には何も無い、空っぽの心。
そんなことを考えて、一番後ろの端の席に腰をかけて自嘲した。
ユリウスに会いに時計塔に行き、階段を上りながら思ったことをまたぐるぐると考えてしまう。
教会なんかに来て、やはり自分は懺悔でもしたかったのだろうか。

「アリス様っ」

不意に説教台の横にある木の扉が開いて、驚いたような声をかけられた。
礼拝堂に入ってきた黒い服に金色のクロスを下げた神父が、慌てたように近寄ってくる。
近づくのと同時に、アリスも座っていた席から立ち上がった。

「こんにちは。勝手に入ってしまってごめんなさい」

「何をおっしゃっているんですか、そんなことは良いのですよ。そうではなく、何故こんなところに・・しかもお一人で!」

焦ったような口調で、おろおろと心配そうにこちらの様子を窺ってくる。
アリスは首を傾げて、ああとようやく気が付いた。

「大丈夫よ、何かあって逃げ込んできたわけではないわ」

「本当に、大丈夫なんですか?」

「ええ。それに一人では無いわ。今もきっと、どこかで見ていてくれているはずよ」

「・・・そうですか」

微笑んで言えば、相手はやっと安心したように息をついてから、立ったままだったことを詫びて座るように手で促した。
並んで腰を掛ける。
神父は静かに沈黙を守り、アリスが話し出すのをじっと待っていた。

「・・あの、一つ聞いてもいいかしら」

「何なりと」

「・・・領主の懺悔も、ここでは聞いてくれるのかしら」

「アリス様には懺悔したいことが、あるのですか」

はっきりとした口調で聞かれる。
まるで窘められたような気がして、膝の上に置いた手の上に視線を落とした。

「ああ、責めているわけではありません。ただ、その前例が無いもので・・・不躾なことをお聞きいたしました。どうかご容赦ください」

「怒ってはいないわよ。許すも何も無いわ」

前の領主であり、組織の長だったブラッドがどうして死んでしまったのか、この神父は知らないのだろうか。
ちらと視線を上げてその目を凝らして見ていれば、段々と相手の貌が見えてくる。
初老にさしかかったその面立ちの中で、緑がかった静かな湖面のような瞳がこちらを見ていることが分かった。
眉を少し下げて困っているような表情は、でもまるで幼子か迷子を気遣っているようにも見えた。
さしずめ、今のアリスは迷子のエースと同じだ。
空虚を抱えてさ迷い歩く。
いつしか彼のように狂って行くのだろうか。

「では、こちらへ」

司祭がそっと立ち上がって、入ってきたほうとは逆の木の扉を手のひらで示す。
小さな小窓にはレースの模様。
まるで試着室のようなその小さな小部屋が、懺悔室のようだった。
ただ、今設えたばかりのように真新しい木材に、曇りひとつ無い取っ手に微かな違和感を覚える。

「・・ここを使う人はどのぐらいいるの?」

扉に手をかけたところで、つい気になって聞いてみる。
神父は首を横に振った。

「使うものなどいませんよ」

「そうなの?」

「ええ。これは形だけある、無意味なものです。この世界に溢れている意味の無いものの一つなのです」

「教会なら、懺悔を求めるものが来てもおかしくはないと思うのだけど・・一人も?」

重ねて聞けば、神父は目を瞑って深く頷いた。

「ええ、唯の一人もここで罪を打ち明けるものなどいませんよ。何故なら・・・・は・・・だから・・・す。そうなれば・・・・・」

「え?・・ごめんなさい、良く聞こえなくって・・もう一度お願いしてもいいかしら」

不意にキーンと耳鳴りが響いて、神父の声が遠ざかる。
何を言っているのか分からなくて、アリスは耳元に手をかざして申し訳無さそうに聞き返した。
その様子に、神父の顔にはっとしたような表情が浮かび、説明を繰り返すことはなくその口は閉じられた。

「・・・・?どうか、したの?」

「アリス様。あなたの罪はこの扉に触れたことで、もう許されました。どうぞその罪はお忘れください」

深々と頭を下げられて、アリスは目を瞬かせた。
そんなことがあるだろうか。
懺悔室が目の前にあるのに、扉を触っただけだなんて、そんな。

「・・・そろそろお戻りにならないと、エリオット様が心配されますよ」

はっきりとした口調で言われて、これ以上は長居をさせてもらえそうにないと諦める。
本当は、屋敷に戻るのをぐずぐずと先延ばしにしていたのだ。
時計塔に行ってユリウスと話したことを思い出せば、屋敷に戻ってエリオットの顔を真っ直ぐに見られない気がした。
だからもう少し遠回りをして、その間に気持ちを落ち着かせようと思ったのだ。
でもずっと外出をしていれば、心配をかけるのも事実。
最後に、あと少しだけ。

「・・庭を見てから帰っても良いかしら」

それを聞いた神父の瞳がきょとんと見開かれる。
その顔は神聖な教会の中とはそぐわなかったがとても人間らしく、そしてとても愛嬌があった。

「ここが、気に入ったのよ。・・駄目かしら?」

「とんでもない。アリス様にそう言っていただき、光栄に存じます」

驚いた顔を破顔させて、神父はにっこりと笑った。
裏の見えないその笑みに、アリスもつられて微笑んだ。
小さく会釈をして、以前通らせてもらった廊下を抜けて、アリスは教会の裏手の庭へと回った。

--------------+**


のびのびと育つ草原を踏みしめる。
傍をひらひらと舞う蝶を何とはなしに目で追った。
裏表の無い、素の笑顔。
それは例えば、こうなってしまう以前にエリオットもよく向けてくれたものだった。
マフィアのボスになってからというもの、その立場上、笑顔を向けてくるものは多いが、そのほとんどはこちらにおもね媚びへつらうものだろう。
笑顔を向ける裏側で、如何にこちらに取り入るか、利益をあげるか、契約を取り付けるか等の計算がなされているに違いない。
そんな笑みは、ひどく滑稽で醜い。
アリスも立場上、笑みには笑みで返しているが、時に冷たく見据えてしまいたくもなる。
きっと、ブラッドだったら遠慮なくそうしただろう。
けれど自分には力が無い。
そうして睨みすえたところで、威厳も何も保てないのだ。

「・・・・?」

そこまで考えたところで、視界の隅で何かが目に入った。
庭園の端に座り込んで蹲る姿。
小さくて細い少年の背中、その背に散らばる少し長めの黒い髪。
この前も庭であった少年だ。
急いで駆け寄る。

「ちょっと、あなたどうしたの?どこか具合でも・・」

肩に手をかけたところで、相手が振り向いた。
驚いた様子も無く、まるでこちらがおかしなことでもしたかのように、その顔には訝しげに歪められている。
しゃがみ込んで、土に埋められた2本の指先。

「またあんたか。・・・何の用」

素っ気無い態度。
でもそれよりも、何をしていたのかが気になってその指先を眺めてしまう。

「用が無いのなら帰れば」

「・・・・何しているのかしら」

可愛げ無い相手に、こちらもつい大人気ない態度で返してしまう。

「何しているように見えるのさ」

「分からないから聞いたんじゃない」

いじわるな物言いに向きになってしまう。
分かっているなら聞く必要は無いと言うのに、はぐらかそうとするような様子に言いたくない事でもしていたのだろうかと邪推する。

「・・天まで届くはしごを作ろうとしたんじゃないのは、確かだね」

ぼそりと呟かれた言葉に、不意をつかれて瞠目する。
天まで届くはしご、それは天国という概念があるということだ。
この世界では死んでも替えが利き、死んだものも残像となって再び器が与えられる順番待ちをしている。
つまり、輪廻の輪からは抜け出せない。
天国に行くものなんていないから、その考えも無いと思っていた。

「じゃあ、地獄でも掘り当てようとしていた、とか?」

「・・・・・あんた、馬鹿だろう」

呆れたような、小ばかにしたような鼻息が漏れたのが聞こえる。
けれど、天国なんて言い出すのが悪い。
もしそんなはしごがあるのなら、そこに相手がいるのかどうかを確かめに上がって見たくなってしまうではないか。

「仮にどっちに行こうが、俺が会いたい相手なんかいない」

考え込むアリスを見て少年はきっぱりと答え、地面に埋めていた指を引き抜いた。
綺麗な桜色の爪の間に土が入り込んでいるが、それを頓着した様子も無い。
ポケットから取り出した小さな麻袋から、土に汚れた手の平に取り出す小さな粒。
成るほどと頷いた。

「今度は、何を植えるの?」

少年の手の平に落ちた幾つかの種を見て、問う。
植物の種を見てそれが何か分かるほど、アリスは植物には精通していなかった。

「さっきからあんたは聞いてばっかりだな。・・俺はそれに答える義務なんて無いと思ってるんだけど?」

手の平の種を握りつぶさんばかりに手を硬く閉じて、少年の目がひたりとこちらを見据えた。
思いがけず低い声で、まるで邪魔だと言われたような気がした。
ぼんやりと見えてきた瞳のその色を見る前に、投げつけられた怒気に当てられてアリスは思わず瞳を泳がせた。
確かにそうだが、それがそんなに怒ることだろうか。
・・・でも作業の邪魔はしているかもしれない。
ここは帽子屋ファミリーに好意的に接してくれる教会ではあるものの、帽子屋ファミリーのものというわけではない。
教会としては今のところ友好的な関係を築いているが、彼ら個人の内心も一様にそうだとは言えない。
立場をかさに着て命令をするつもりはもちろん無く、そう考えればその言葉は正論だ。

「・・・邪魔をしたわね」

アリスは立ち上がった。
少年は種を包んだ手を握り締めたまま、足元に目を落としてこちらは見ない。
それ以上は何も言わず踵を返した。
その種が何の種だか知りたかった気持ちは、さらさらと砂になって風に乗って飛ばされていくようだ。
ただ、その時気になっただけ。
歩き出せばもう気にもならないものだ。

「・・・・」

・・・そう思っていたのに、少年がしゃがんでいた場所を覚えていようと思う気持ちもある。
次にまた来たときに、そこには何が生えているのだろうか。
無意識にまた来ようと思っていることも何だか不思議だった。


--------------+**


屋敷に戻っても、幸いエリオットとは顔を合わさなかった。
外での取引に手間取っているらしい。
屋敷の奥の静かな室内で、アリスはそっと小箱を開ける。
組織に入るときに渡された、ビロード張りの黒く小さな宝石箱のような箱。
その底に、折りたたまれて入れられていた紙をそっと開く。
紙に滲み込まされていた香りが鼻をやさしくくすぐる。
いつまでこの匂いは残っていられるのだろうか。

「・・・もう、だいぶ薄れてしまったわね」

もらった後にも何度も開いて眺めていたからか、最初に嗅いだ頃よりはもうだいぶその匂いは薄まってしまっている。
そうしていつかは、消えてしまうのだろう。
でも私は忘れない。
・・・忘れてはいけないし、忘れるわけが無い。

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