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一
「ああ・・やはりここはいいな」
「お嬢さんを離してやってはどうだ」
しっかりと当てられていた手は、鼻も口も塞いでいて、アリスは酸欠になりそうだった。
ぷはっと水中から、水面にあがったように、急いで深呼吸をする。
息を整えれば、その吸い込む空気に、薔薇の香りが漂っているのが分かった。
見回せばそこは、紛れもなくブラッドの秘密の薔薇園だ。
「どっ、どうして?!」
「ここなら、誰の邪魔も入らない」
私の薔薇園へようこそ、とおどけたようにシルクハットをはずす、その黒髪が風に舞うのを見るともなしに見てしまう。
赤い麗人は、アリスの手から今度こそ贈り物の箱を受け取って、早速開けていった。
手から離れたレースのリボンが、風に舞って飛んでいく。
「ほお・・これは、なんと可愛らしい」
中から現れた、薔薇の形をした入浴剤と、本物の花びらが混じる石鹸をうっとりと見つめる。
だが、アリスは自分の作ったものが、そんな風に見られることに、ドキドキするより先に申し訳なさの方が募る。
「あの・・あなたがいつも使うような、いい物ではないのだけど。その折角だから手作りを贈りたくて・・」
しどろもどろになるアリスの頭を、ビバルディの細い指先がふわりとなでた。
何だか恥ずかしくて顔を上げられないアリスの、その顎の下に長い指が伸ばされる。
「お嬢さん。私を無視してくれるな」
「ええと、でも・・」
強制的に顔を持ち上げられて向けさせられた先に、翠碧色の瞳がある。
有無を言わさず、その手の中に残ったものを、奪い取られてしまう。
「あっブラッド!」
するするとリボンが外されて、そのリボンを指に絡めたまま、紅茶の銀色の缶の蓋が開かれていく。
その中を見て、ブラッドの動きが止まる。
アリスの角度からは、缶の中の様子が確認できない。
もしかしたら、中身が片寄って変になってしまったのかも、とアリスは慌てる。
「あ、あのブラッド」
「アリス」
中身が合ってるか確認したいから、見せてくれないかしらと言おうとしたアリスの言葉を遮るように、名前を呼ばれる。
見上げた顔は、実に機嫌が良さそうだ。
「ええと、気に入っていただけたのなら、良かったわ」
「お嬢さんからの贈り物を、気に入らないわけが無いだろう。ああ、実にいい香りだ」
ティーカップの中の香りをかぐように、紅茶缶の中に収められた入浴剤から香る、その芳香を楽しんでいるようだ。
目が少しうっとりしている。
二人がこんなに喜んでくれるなら、作った甲斐もあったというものだ。
「ふむ、それにしても入浴剤とは」
「あ、もしかして、ビバルディはあまり使わないかしら?」
不安になって急いで確認すれば、ビバルディは満面の笑顔でアリスの腰元に腕をからめてくる。
何だか妖しげなその笑みに、アリスの腰が引けるのもお構いなしだ。
「いつも使うわけではないが、嫌いではない。安心おし。だから、アリス」
ぐっと更に引き寄せられて、豊かな胸に顔が押し付けられる。
またも襲われる酸欠と、ふくよかな胸の柔らかさに、アリスの顔は瞬時に真っ赤になる。
その耳元に唇を寄せて、ビバルディは吐息を吹き込んだ。
「・・・これを使って一緒にお風呂に入ろう?」
「ビっ、ビバルディ?!」
その顔と声はまるで、パジャマパーティをしたいという少女のようで、どこか無邪気な誘いだったが、アリスの顔は更に赤くなってしまった。
まさか、お城の女王様にお風呂に入ろうと誘われてしまうとは。
そんな経験あるわけないので、どう答えていいか分からない。
そんなアリスの腰に、もう一組の腕が巻きつく。
背後の人物が誰か、分からないわけがなかったが、アリスは完全に動きが封じられてしまった。
「姉貴・・ずるいぞ。彼女は、先に私と風呂に入る予定だ」
「ふ・・・先に言ったもの勝ちじゃ」
「そんな予定は一切ないし、ビバルディもなに決定事項として話を進めているの?!」
「おや、アリス。わらわと一緒に入るのは嫌か?」
悲しげに言われてしまえば、アリスは嫌だと言えるわけもなく。
同性だし、きっとお城の風呂は広いから、こう密着することもないかと、改めて考え始める。
ただ、この目の前のビバルディの大人の体に、自分がどれだけ耐えられるかどうかだ。
自分のかなり平らな胸を見て、アリスは遠い目をした。
「お嬢さん」
「ないわ」
「そう固いことを言うな」
「ありえないわ。却下よ」
「・・・・」
「ほほ。ブラッド、観念おし」
笑うビバルディに、背後のブラッドがむっとしたのが気配で分かる。
その瞬間、アリスの体は後方にぐっと引っ張られた。
ブラッドの腕がお腹を圧迫して、苦しくて抗議の声を上げようとすれば、手袋が外されたブラッドの指先が、喉元に当てられる。
ひやりとするその感触に、思わずびくりと体が震えた。
「・・・甘く美味いと分かっているものを、私が食べずに我慢していられるかは、お嬢さんの返答しだいだが」
つつつと鎖骨から喉元を這い上がる指先が、するりと耳の先を掠めていく。
「それでも、話も聞かずに却下するかな」
「・・・分かった。話は聞くから離してちょうだいっ」
悲鳴のようなアリスの声に、くつくつと笑い声が降って来る。
笑いながらも、その腕の力は緩められて、その隙にアリスはなんとか抜け出した。
「では、今度私と一緒に」
「入らないわよ」
「・・・・・」
「はっ、話は聞いたでしょ!私、もう戻るわね」
ブラッドに何か言われる前にと、アリスは薔薇園を出て行こうとする。
その腕が掴まれる。
「そこから出ても、帽子屋屋敷に戻るだけじゃ」
「でも、そうするしか・・」
「まあ、お待ち。・・・ブラッド」
「チッ」
しかめ面でブラッドは舌打ちをしたが、その一瞬後にはもうアリスはもとの作業室の中へと戻っていた。
二人も、同じように作業室の中に立っている。
ありがとうとは言う気になれず、とりあえずみんなのところへ戻ろうとすれば、ビバルディの手がまたもアリスを押しとどめた。
「アリス。他の者にもプレゼントを贈るのかえ?」
「ええ、そうよ。みんなにはいつもお世話になってるもの」
ならば、というビバルディは、いつの間にか杖を取り出している。
何かしらと見つめるアリスの横で、ブラッドも動く。
「帽子屋・・・何のまねじゃ」
「女王に全て任せては、品が足りないだろうと思ってな」
薔薇園を出たことで、またも険悪な雰囲気に戻る二人と、その交わされるやり取りの意味が分からず、交互に二人を見つめるアリスに、ビバルディとブラッドが向き直る。
そして、ここは薔薇園ではないのに、実に息のあった調子で二人の手が、パンと打ち鳴らされた。
それは、舞踏会の時のことを思わせる。
どこかで、時計の針がカチリと音を立てるのが聞こえた。
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「電気は付けないのか」
「ああ、そういえば」
置いていかれてまたも騒ぎ出す、猫とネズミと双子組と、騎士と宰相組から離れて、グレイとユリウスが揃って店の入り口を見る。
点灯させる前に、ネズミやらうさぎやら女王が来て、すっかり忘れてしまっていたのだ。
とはいえ、主役もいないところで点灯させるのも、何だかむなしい。
女王に一括されたからというわけではないが、何だか呼ばれもしない間に屋内に勝手に戻るのもはばかられて、どうしたものかと玄関脇にもたれる。
ガチャ
「ん・・・アリス、か・・・?!」
脇で空いた扉に目を向けたユリウスの目が、見開かれる。
「ビバルディ?!ちょ、ちょっと!これこそ寒いわっ」
「おしゃれをする女は、寒さくらい耐えねば」
さっきと全く違うことを言って、楽しそうに笑う女王が扉の外に押し出そうとしているアリスの格好は、いわゆるサンタ服だった。
ただし、サンタが着ているようなもこもこな服というよりは、だいぶ露出が多い。
上着は首元こそきっちり覆われているが、袖がノースリーブのように途切れて肩が半分以上露出している。
袖の無くなった先は、ひじ上辺りから長手袋で覆われている。
胸元は、白と濃い緋色のビロードの紐が、左右に空いた穴を通して幾重にも絡まりあい、首元で薔薇の形をした金のアクセサリーによって留められている。
金茶の髪は編みこみが施され、耳元に少し垂れたあとに後ろにまとめられて、白いレースの縁取りがついた大きな赤いリボンで、一つに結ばれている。
「ユッ、ユリウス?!」
押さないでと背後に訴えていたアリスの顔が、目の前で固まるユリウスの視線とバッチリ合う。
その顔が一気に真っ赤になる。
何事かと、ユリウスの脇から顔を覗かせたグレイも、アリスの姿を見て驚いた顔になる。
「アリス・・・それは」
「えっと、似合ってないわよね?!そうよね?!」
もし、そうだなと一言返ってくれば、これ幸いと引き返して、自分の服に着替える気でいるアリスは、そう答えてくれそうな相手の顔をじっと見る。
ちょっと鬼気迫ったアリスだったが、その顔は朱がのぼっていて、目は潤んでいる。
「っ・・・」
ユリウスは、何の返事も返せるわけがなかった。
「・・・似合っている。似合ってはいるが・・ちょっと短過ぎやしないか?」
アリスにつられて、目元を赤らめて黙ってしまったユリウスに変わって、グレイが何とか返事をする。
その目線は、どうしても膝上のスカートの裾辺りをさ迷ってしまう。
膝より短い赤いスカートは、腰下で一度大きくふくらんだ後に、膝上の部分でしぼられている。
裾に白い小さなぼんぼんがたくさんついていて、アリスが動くと同時にその肌の上をぽんぽんとはねている。
グレイの視線の先がどこを見てるかすぐに分かり、アリスはぎゅっと裾を握ってぐいぐいと下に引っ張った。
その手が、赤い爪も鮮やかなビバルディの手に、そっと握られて止められる。
「無駄なことよ。あまり引っ張れば、スカートごと下がってしまうよ」
その言葉に、塔の二人は慌てて視線をよそに向けた。
くすくすと、明らかにアリス以外にも聞かせようとして言っているのが分かる、いじわるな言い様にアリスはきっと後方を睨みつける。
「この丈は無いって言ったじゃない!ちょっとどうしてくれるのよ、ブラッド!」
どうやら、店内の方には帽子屋がいるらしい。
くつくつと笑う気配がする。
「ほら、配るのだろう?」
「あなたの分なんて、作るんじゃなかったわ!」
開き直ったというよりは、もうやけっぱちだ。
後ろから差し出された白い大きな袋を受け取って、ぶんと振り回すような勢いでかつぎあげ、扉をばーんと開け放つ。
「アリスッ!ああ、アリス会いたかったです!!」
アリスという言葉が聞こえたからか、扉を開く音にかぶるように、エースに対峙していたペーターは、エースことを一瞬に忘れ去って、アリスの元へと駆け寄る。
走り寄る間にうさぎ姿に変わり、そのままアリスの腕の中に飛び込んでいく。
アリスは、持ち上げていた白い袋を急いで足元において、大きく跳ねて飛んできた、ふわふわでもこもこの白いうさぎを抱きとめた。
「どれだけ離れていようとも、僕はあなたを愛しています!!」
はいはいと、ペーターのいつもの電波のような、一方的な愛の叫びは受け流しながらも、アリスはそんなうさぎを手放せなくなった。
やけくそではあったが、肌に触れる外気はやはり寒く、あったかくてもこもこでふわふわなペーターは、ゆたんぽのようにちょうどよくアリスの腕の中に落ち着いている。
ペーターを片腕で抱えて、もう片方の手で白い袋を持ち上げて、モミの木の下に他の役持ちのメンバーを呼び寄せた。