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一
「なんだったのかしら」
颯爽と去っていったハートの城の騎士が言っていた仕事とは、おそらくユリウスの部下としての仕事のことだろう。
そうでなければ、雪山で遭難したりアリスの店に辿りついたりと、ここクローバーの塔の周りをうろうろするはずがない。
全く、あの調子では、ユリウスもだいぶ長い時間待ちくたびれているに違いない。
そうと知っていれば、送り届けるくらいはしたのに、とアリスは思う。
たとえ、道案内をエースが拒んだとしても、アリスは仕事人であり、職人であるユリウスの味方である。
「アリス」
何だかものすごく疲れた気がするわ、とため息をついたアリスを、自分の方に意識を向けさせるように、ブラッドがぐっと引き寄せる。
そこで、やっとアリスは、今度こそブラッドと二人きりになってしまったことに気が付いた。
「お嬢さん。どうしてお嬢さんは、こんなに美味しそうな香りがするのかな?」
赤い騎士が去ったのを気配で確認したブラッドは、アリスを腕の中に閉じ込めて、そのまとめ上げたアリスの髪の毛を一房掬って、口付ける。
耳に吹き込まれる言葉は、おとぎ話の赤いフードの女の子のセリフみたいだが、内容もまとう雰囲気も、明らかにオオカミの方だった。
「そっそれは・・・んっ」
「ん。うまいな」
べろりと首筋に舌を這わされて、アリスは慌てる。
このままでは本当に食べられてしまいそうだ。
下手に隠すより、多少段取りが狂ったとしても、ブラッドの分はさっさと渡して、さっさと帰ってもらったほうがいいかもしれない。
そう思って、覆いかぶさってくるブラッドを押しのけようとすれば、頭上のブラッドが小さく舌打ちをしたのが聞こえた。
アリスが何事かと思うよりも早く、ブラッドの機嫌が急降下する。
少なくとも、食べられそうだったのは回避できそうだと安心するアリスは、ブラッドが何か外の様子を探っているのに気が付いた。
「・・・何かいるの?」
「・・・・・」
ブラッドは眉根を寄せて、扉の外を睨みつけて押し黙ったまま、何も言わない。
静かになった薄暗い店の中に、外の音が微かに聞こえてくる。
それは誰かと誰かが、ひそひそと言い合っているような声だった。
「・・・二階も店も真っ暗じゃねーか。本当にいるのか?・・」
「・・二人とも出かけちまったのかな・・でも、ブラッドが行くって言ってたのは確かだぜ・・・」
「・・・それにしても寒いぜ・・そこでコート買って正解だったな・・」
「・・暖かいにんじんポタージュが飲みてぇな・・・」
「・・・酒ならあるぜ?・・」
「・・ああ、もう面倒くせぇ!大声で呼べば、出てくんだろっ」
「・・・おい、ちょっと待てよ。ここにチャイムが・・・」
「おーい、アリスー!」
「!!?・・えっ、エリオット・・?」
いきなり、扉の間近で大きな声が聞こえた。
今まで、ひそめられた声を拾おうと集中していた耳に、その声がぐわんと響く。
「おっ。鍵開いてるじゃねーか」
「おいおい、エリオット。それは、不法侵入ってやつじゃねーのか」
「いなかったら留守番してればいいんじゃねーか?」
ガチャリ
外から開かれた扉の向こうに立っているのは、マフィアである帽子屋ファミリーのNo.2。
オレンジ色の長いお耳がトレードマークのうさぎさん、もといエリオットだった。
その上司に当たるブラッドは、はあとため息をはいて、腕を組み扉の横に寄りかかる。
ブラッドの腕から逃れられたアリスは、これ幸いと慌てて離れて、手でどうぞとエリオットを招き入れる。
その後ろからもう一人ついてきた。
いつものジャケットではないが、白いボアで縁取られたフードがついている、レモンイエローのコートが目にまぶしい、遊園地のオーナー、ゴーランド。
入っていいのかと、こちらを伺う顔の脇で、三つ編みにされた髪が揺れている。
「ゴーランド、こんにちは。ごめんなさい、気が付かなくて。寒かったでしょう、どうぞ入って」
「いいや。ありがとうな、アリス。じゃあ、遠慮なくお邪魔させてもらうぜ」
ニカッと笑って、ゴーランドはエリオットに続く。
二人を招きいれたアリスは、店の扉を閉じて鍵を閉めた。
「どうしたの、二人とも。何だか珍しい組み合わせね」
「ああ、仕事がちょうど終わってな。エリオットは、あんたの店を訪ねるって言うし。俺もまだ見に来たことなかったから、便乗させてもらったぜ」
「・・・エリオット・・・」
「ブラッド!ずっとここで立ち話してたのか?」
「・・・私はおまえに仕事を頼んだはずなんだが?」
ここで何をしている、と威圧されて、一瞬しょげそうになったウサギ耳が、ぴょこんと頭の上ではねる。
「仕事はちゃんと終わらせてきたんだぜ」
「ああ、帽子屋。交渉は、無事決裂。そいで、俺の仕事も終了した」
「ゴーランド・・・・いや、メ・・」
「・・ブラッド?」
低い声で、言いかけたブラッドの声に、更に低いアリスの声がかぶる。
アリスの顔には、「何を言おうとしてるのかしら?」と如実に描いてある。
ゴーランドのほうから発せられた、一瞬にして膨れ上がった殺気は、何とか弾けずに済んだらしい。
とりあえず、アリスは被害が未然に防げてほっとする。
「今来た二人にも言っておくけど。この家の中は発砲禁止だし、物を壊すのも禁止よ」
「分かったぜ、アリス」
耳をひょこりと動かして笑顔で応じるエリオットは、そこでふと気付いたように扉の傷を眺める。
その視線の先を見ながら、にっこりと優しげに笑うアリスの米神には、青筋が浮かんでいる。
「もし守らなかったら・・・」
「お嬢さんの鉄拳が飛ぶそうだ」
「ブラッド!そんなことしないわよっ」
「ほお」
「あんたの鉄拳か。そりゃ痛そうだ」
はははっと笑うゴーランドは、ふと普段からその鉄拳を受けては喜んでいる、ハートの城の某宰相を思い出す。
「でも一度なら受けてみたいかもしれん・・・」
「おいおい、あんた大丈夫か?」
ゴーランドの謎の発言に、はあ?とエリオットが首を傾げながら呆れた顔をする。
「そんなの受けて喜ぶ奴は、あの狂った女王のとこの白兎だけで十分だ」
壁に寄りかかって、ブラッドは馬鹿馬鹿しいと一蹴する。
「まあ、こんなところで立ち話もなんだから、上がって頂戴」
家の中で風が入ってこないとはいえ、店の床はむき出しの土間で、ひんやりとした冷気が上がってくる。
それにずっと立ちっぱなしも、申し訳ない。
アリスは、とりあえず暖かいものでも入れようと、3人を階上に上げることにした。