*5
一
さらりさらりと遊ぶように髪を梳く指先を感じる。宥めすかすように、安寧に委ねるように優しく柔らかく繰り返されるそれは、呼び起こされた時の”お母さん”を・・主を想う気持ちを揺り起こす。
不安な気持ちを落ち着かせるようなそれに安心して、身を任せて擦り寄った先が跳ねるように小さく揺れて薄っすらと目を開いた。
「お、やっと目覚めたか」
暗闇に浮かび上がるぼんやりとした明かりをまとった輪郭とその中の1対の光彩を認識した途端、跳ね起きようとした。それが腰に回された何かに阻まれて上半身を僅かに前かがみにしたところで止まる。反動で揺れた頭はぐらりと重く、眩暈と吐き気のようなものを感じて小さく呻いた。
「こらこら急に起きようとするんじゃない」
「・・・誰、ですか」
耳に届く少し掠れたような声はそれでも若さを感じたが、先ほど映し取った一対の光彩は間違いでなければ転んだ先にあった絞殺死体のものではなかったか。いや、喋っているなら死体じゃなかったわけだが、これは。
周囲を見渡してみればそこは畳2畳程の狭い空間だった。あの狭い廊下からどうやってここに入ってきたのか分からない。どこか一方の壁があの時開いていてそこから入ったとしか思えないのに、ここは”閉じられた空間”だった。
まただ。狭い廊下もそうだが、ここも外の気配が何一つ分からない。
「俺のことを知らないのか?ここにいるのにそりゃおかしな話だが」
この場にいるのなら知っていておかしくはないといった口ぶりだが、そもそも「ここ」がどこだか分っていない。仮に「本丸」を指すのなら、これは刀剣男士なのかもしれないが、この本丸の刀帳に載っているものとは全て顔合わせが済んでいるはずだ。
「きみは審神者であってるかい?」
「・・はい。水面(みなも)と、申します」
「水面なぁ・・・それより気になっていることがあるんだが、」
言葉を途切れさせた相手からの視線を強く感じる。まじまじと何かを探るように観察する気配にもぞりと居心地悪くなる。とてもよろしくない状況だ。一言でいうなら、まずい。
「審神者と言うが、きみ・・形(なり)は人だが、人では無いな?」
「っ!?」
恐れていたことをズバリと言い当てられてすっかり固まった身体を背後から包むように抱き込まれる。腕をさわさわと細い指先が辿るのを感じて肌が泡立ち、後頭部にもたれるような重みが軽くなったと思えば何を思ったのか項の辺りですんと鼻を鳴らしている。
ひっ、と今度こそ小さい悲鳴が上がった。この人、いや人間かどうか知らないが人の首筋で何をしているんだ。いまだ腰元に回る腕をつかんで離そうと試みているが、力では到底かなわない。
「何のあやかしか化生の類かと思っていたが、どうも似たようなものを感じる。だが、刀剣男士じゃあない」
「そういうあなた様は刀剣男士様ですよね!!」
「んー、そうだなー・・」
「どちら様で!いらっしゃいますかね!?」
「それよりなぁ、きみの正体が何か当てたいんだ」
「いや、そういうの良いですから!とにかく、離して、くださいよ!」
「なあ、俺が”参った”と言うまで答えは言わんでくれよ」
「人の話聞いてないですよね」
「そもそも人では無いだろう?んん、もう少しで何か分かりそうなんだが」
さらっと言われたことに、ぐ、と詰まる。間違ってはいないが、そういうことが言いたかったのではない。こちらの体をやわやわと探って揉んで、べたべたと擦り寄ってくる背後の相手の気配は読めないが、声音は実に楽しそうだ。
「セクハラでっ訴えますよ!」
「どこに訴えるんだ?」
「・・は、」
「は・・?」
「長谷部、さんに!!!」
「っ!・・っぷっはあっはっは!!なるほど、そうか、長谷部になあ」
そうかそうか、と笑う振動が伝わってきてがくがくと揺れる。何がそんなに面白かったのか知らないが、これで相手がへし切長谷部を知っているのだということは分かった。
「きみのいうところの長谷部が俺の知っている長谷部なら、・・つまり、きみは”主”ってわけだな」
相手の情報を得るつもりが、自分の情報を盛大にさらけ出していたことに気が付く。更には沈黙が答えになってしまっていた。
「人では無い、俺たちと似たような何かが審神者で”主”とはな。何やらおかしなことになっているようだし、お偉い政府の連中らが何を考えているかは知らんが」
「それは、あの」
「おっと、まだ答えは言わんでくれよ。そうら、これはなんだ?」
「!!?まっ」
するりと襟ぐりに忍び込んだ指が、首から掛けていた紐を手繰り寄せる。
待って、と阻止しようとした手は腕ごと背後から伸びた片腕で抱き込まれ、抵抗する間もなく紐の先を取り上げられる。
「止めて!返して!!」
「、・・・なあ、まさかとは思うが」
首から下げていた布製のお守り袋を外から指先で触った相手の声が、不意に低く険しくなった。返してくれと訴える声を無視した片手は、器用にお守り袋の口をこじ開けて中身をその手のひらに取り出した。
不思議な手袋に包み込まれた手のひらにころりと転がり出たのは、滑らかな表面に僅かな光を反射させる、鏡の破片だった。
「これは・・”きみ”だな?」
「返して!くださいっお願いします、返して!!!」
「だが欠けている。これは一部だ。・・他の部分はどうした」
「あなたには関係ないじゃないですか」
「いいや、きみが審神者に顕現されてこんな風にされたのなら俺だって今後のことを考え直さなきゃならん」
「これには!ちゃんと理由があって!」
腕から力が抜けたのを感じて背後を振り仰ぎ、その手に掴まれたものを取り返せんと掴みかかるそのまま立ち上がられれば、身長差から上げた手にすら届かない。
焦ってジャンプして、その前身ごろに掴みかかり振り上げた手が相手の顔を打つ前に片手で軽くあしらわれた。
「分かった分かった、勝手に盗ったのは悪かった。だが、教えてくれ。きみが”こうなっている”のは何故か、どうしてこの状態でいられる?どうして鏡の付喪神が審神者になって、”主”なんぞやっているんだ」
「教えたら返してくれますか」
「ああ、いいだろう。神との約束は絶対だ。だろう?」
「・・分かりました」
自分の正体も、何故主をやっているのかもその方法も本当は内緒だ。だがそれは任務先の本丸の刀剣にはという約束で、彼は本丸の刀帳には載っていなかった。
自分と似たものを感じたと言い、お守り袋に入っていた鏡の破片が”私”だと言い当てた。刀剣男士だといった相手は、おそらくその中でも長く生きた古刀の付喪神だ。
私を鏡の付喪神だと分かった上で神との約束を取り付けてきたが神格はきっと向こうが上。我が主の命を上回る、神同士の力量差に私は大人しくその手に従い今一度床の敷物の上に腰を下ろした。
「お母さんは、悪くありません」
「きみを顕現した審神者に強制されているのか」という問いにかぶりを振ってハッキリと応える。その呼び方も、この依頼も命令はされていない。”頼まれた”のだ 。
「だが、そうは言っても俺たちは顕現した相手を慕うものだ。命令じゃないから強制では無いと言ってもな、これがどんなに危険なことかきみ、分かっているのか」
「・・・分かっています」
だってこれは実験なのだ。実験に失敗はつきもの。今は術が安定していて、割れた破片を通じて注がれる力がこの身を繋ぎ顕現を保たせていても、いつそれが破綻してもおかしくはないのだということも分かっている。
そう正直に答えても、目の前の相手の険しい空気は和らがない。納得していないようだ。
「本当ならばこんな状態はあり得ない。俺たちは本体が壊れればそれまで。破損の程度で審神者による修復は効くが、これはもはや破損程度じゃない。欠損だ」
「大きな欠損とはいえ、この部分以外はちゃんとお母さんの手元で特殊な術によって保護されているんです。それに私は鏡です。あなたは刃を失えばその本質を失いますが、私はその一部でも鏡という状態を保てる」
「そうだな、だがもうこれは”きみ”と言えるのかい?」
「っ・・」
言われた言葉を耳にした瞬間、足元が揺らいで思わず座った足の傍に片手をついて身体を支える。目覚めた時に感じた眩暈に加え、背中を氷で撫でられたようだった。
「ほら言わんこっちゃない。きみの存在はひどく危うく、俺に指摘された程度でこんなにも存在を不安定にする」
唇を噛む。その眼の裏でもそこだけははっきりと見える鏡の破片が、視界の端で指先で遊ぶようにくるりくるりと回される。
「それにきみは言ったな。きみを通じてきみの主の力をみなに供給していると」
「はい・・」
「きみが不安定になれば、それは力を供給された刀剣男士も同じ。それが敵と相対している最中であったなら?今のきみと同じような状態になれば最悪、破壊は免れないだろうな」
”お母さん”も私も、彼の指摘を懸念しなかったわけでは無い。でもこれが上手くいくのなら今膠着している戦もきっと優勢になる。犠牲になる審神者も減って・・・
「そうだな。人間の審神者はこんな前線ではなく、もっと遠く安全で守られた場所からきみたちを顕現して力を渡すだけになり、代わりにきみと俺たちは破壊されていく」
「それは、でも」
「ああ、俺たちは人によって生み出されたものだ。善人ばかりじゃあないということも知っていて、それでも応えてしまったからなぁ」
「・・このような不安定で試験的な試みで刀剣男士様方を危険に巻き込み、また騙しているような形になってしまっているのは大変申し訳ありません」
俯いたままの頭をさらに下げれば、はあ、と息を吐く音が降ってくる。
「まあ、それに関しちゃ先に告げたところでどうなるかは俺にも分からん。俺たちの本質は刀だからな。血気盛んなのもいるし、長く生きた古狸みたいな扱いづらい奴もいる。これで協力を拒まれ挙句に戦から手を引かれちゃ、元もこうも無いしな」
そこまで話して口を閉ざした相手をちらと見る。私より神格が高い刀で人では無いと見破る一枚も二枚も上手な付喪神。目の前の相手を映し取るのが鏡ではあるが、さりとて彼がひとたびその心を映させぬとしたならばさすがに読み取ることは出来なかった。
この試みに命令でもなく従い、彼の仲間でもあるだろう刀剣男士を危険に巻き込む格下の、到底”主”と仰ぐべき存在ではない私を前に、どう考えているのかが分からない。自分の言葉で聞けと、ということなのだろう。
ここまで教えたのだ。彼が協力をするなら良し、そうでないならここでこの試みは一旦中止となるだろう。
「話を聞いてあなたはどう思いますか」
「刀剣男士として答えるならば、到底許容できない」
即答だった。そうだろうなとも思う。
「だが俺個刃としてならな、」
思わずそらした視線だったが、ぽんと頭に手が置かれて驚いてその顔を見上げる。
「上手くいくよう手を貸してやりたいと思わんでもない。これも巡り合いというものさ」
視線があったようなタイミングで、笑ったような気配。その手の大きさと重み、そしてさらりと撫で梳く手のひらの温かさを感じた。
「それに何より面白そうだ。今まで退屈で仕方がなかったからな」
予想外に柔らかく受け入れられたことに目を見張れば不意に眼裏でそっと追っていた鏡の破片が軽く持ち上げられる。返してくれるのかと伸ばした手が無視され破片はそのまま宙を滑り、止まる。ついでに身体も固まった。
鏡面にふにりと柔らかな何かが触れている。押し付けられたそれが表面を薄くなぞるように動かされぞわりと全身に鳥肌が立った。
「っ?!ちょ、何してるんですか!!?」
「ちょっと返す前に試してみたいことがあってな。ん、」
「ひっ、」
ちゅ、と小さく漏れたリップ音に喉の奥が引きつる。この刀何しているんだとは最早言わない。一刻も早くそれ以上の何かをされる前に取り戻さなくてはならない、と思わず浮かした腰にしびれるような感覚が走る。
足の力が抜けてペタンとまた座り込んでしまった。
「お、きみ、顔が真っ赤だぜ」
「誰の!せいだと!思ってるんですっ」
「俺だな」
っは、とやけに色っぽい吐息を吐いたそれが鏡面を波立たせ、背筋に悪寒が走る。
「も、やめてください・・って!!」
「んん、なかなか上手くいかないもんだな。あと一歩ってところなんだが。これなら、どうだ?」
何をしようとしているかは分からないが、間違いなく碌なことではない。訳の分からない感覚に焦りと恐怖を感じていた身体が、急に熱い膜に覆われたようにぶわりと熱を帯びて、視界がぶれるような、肌の感覚が消えて周囲と溶けてしまいそうな眩暈に襲われる。
なんだ、何をしたんだ。ぎゅっと瞑った眼の裏がちかちかと明滅し、そしてそっと瞬きをした。
「ああ、・・いいな」
目の前の瞳と目が合った。純度の高い琥珀の宝石の奥にまどろむような熱があって、その瞬く度に濃い影を落とす白いまつげは羽毛のように美しかった。
「・・え、・・・あれ?」
瞳の色からまつげ、その肌の白さと造形の美しさ、白銀の髪と視線を徐々に動かしてからやっと気が付いた。目の前の物がはっきりと見えている。慌てて周囲を見てみるが、そこはまだ暗く何があるか目には映らない。
何故だ、どういうことだと思う前に目の前に特徴的な手袋に包まれた指先が伸びてきて、避ける間もなく頬に当てられる。すりと擦るような手のひらの動きと目じりを、瞼をなぞる様に動かされる指先に反射的にきゅっと目を瞑ってしまえば。
「目を開けてくれ」
「な、何をしたんですか」
「なあ水面、俺を見てくれ」
そろりとまた開いた視界で、琥珀の瞳がとろりと蜂蜜のように溶けた。
「これもきっときみの性質なんだろうが。ほら、見た方が早い」
言ってこちらに触れる手とは逆の手が差し出すのは私の破片で、わっと思わず両手でそれを受け取ればくつくつと笑われる。またもひょいと取り上げられたらたまらないと必死だったのだ。思わず睨みつけても、相手には全く効いていない。
取り戻した鏡の破片に視線を映して、ぽかんと口が開く。
「こんなに明らかに色付くとは思わなかったが、これはなかなかに良いな」
顕現したてで鏡の一部を破片に分かつまでは見えていた視界の中で、私の瞳も髪も黒かったのを覚えている。
おそらくそれは顕現した審神者であるお母さんの色彩を模したのだろうと思っていたが、今やその色彩は見る影もない。鏡面にはまぬけな顔の私が映っているがその瞳は金色に、髪は白銀に染まっていた。
ばっと見上げた先、さらりとした白い着物に金の鎖を垂らす刀剣男士と同じ色彩であることに気が付き、愕然とする。視線があえばその口元が愉悦に弧を描く。私の口元は盛大に引きつった。
「もう少し吹き込めば、きっと俺以外も見えるようになるだろうが・・その目に映すのが自分だけというのも存外たまらんものだな」
「吹き込っ・・何勝手に人に自分の神気吹き込んでるんですか!!」
怒っても睨んでもその白皙に紅が差すばかりで、ぎょっと身を引くほかない。
こんな事態は想定外だった。古い刀は恐ろしい身バレコワイてっきりバレてバッサリいかれると思っていた。
それがまさかこんな変態だったとは。普通しない。こんな失礼なことしない。古い刀怖いヤバい。
「私、還ります」
「まあまあ、いいじゃないか」
「嫌です!お母さんに顕現し直してもらいます!」
実家に帰ります!と宣言するも、この空間からの出方が分からない。
積んだ。
2019.5.12
Background by ヒバナ
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