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一
「・・それで、今日はあんたこんなところで仕事をしていたのか」
大勢が暮らすことを念頭に置いて作られた家屋の中で、更には大勢の食も賄えるように設えられた厨は数振りが食事の支度で動き回っていてもそこそこの広さがある。その隅の、普段は献立を相談し合ったり運ぶ前の椀が並んでいたりする机に、今はたくさんの食材の間で窮屈そうにしながら何やら書き物をしている主を見つけた。
一見すると真剣な表情は、だがよく見てみれば口元に妙に力が込められているのが分かった。不服、不満、まあそんなところだろうか。
「私も好きで転げ落ちたわけではないんですけどね」
「主様、そこ字を間違えております」
傍ではこちらも食材の間に埋もれるようにして、政府から寄こされたサポート役の管狐が主の手元を覗き込んで誤字を指摘している。ペシペシと短い前足が示す先で筆先を何やら動かしている主の額には大きな四角い絆創膏が貼られていた。
「あんまりにもイイ声を出すものだからつい手を出してしまったよね・・・手当のことだよ?」
今日も今日とて誰かを呼び立てするのが苦手な性分な新しい主は、近侍である青江が来る前に執務室を出て歩き回った挙句に縁側から転げ落ちたらしい。その青江は朝餉の支度をいつも手伝っている主を迎えに行く途中で、前方を出歩いている彼女を見つけ声をかけようとしたら目の前で見事に足を滑らせて視界から消えていったから思わず笑ってしまったそうだ。
簡単な手当をしていれば、重いものが落ちる音と笑い声を聞いた燭台切光忠に軽く説教をされて一緒に厨へと連行されて今に至る。
「もう、女の子が顔に傷なんて作っちゃダメだよって、何度も言ってるのに」
叱り気味に言いつつもショリショリとリズミカルにリンゴの皮をむく手は止まらない。燭台切光忠の手元からは均一な太さで薄いリンゴの皮だけが綺麗に螺旋を描いて垂れていく。
なんとなく早くに目を覚ました山姥切が朝餉の様子を見に行けば丁度良かったと手伝いを頼まれ、そんな主は朝餉の支度を手伝うつもりが政府の管狐から渡された急ぎの書類を片すことになっている。
とはいっても朝食はほぼ出来ていて後は各自の皿に盛るだけだ。
「でも主、最初は真っすぐに歩いていたのに何で急に縁側に向かって方向転換したんだい?」
山姥切が味噌汁をそれぞれのお椀に盛る隣で、一口サイズに切られた卵焼きを小皿に持っていた青江が長い髪をふらりと揺らして厨の隅の主を振り返る。
「ちょっと、その考え事をしていまして」
「兄弟にまた怒られるぞ」
「や、山姥切さん。その内緒にしていただくということは」
「額の絆創膏を見て堀川くんが何も言わないとは思えないけどね。ほら、主、あーん」
「え、ぁんむ」
新しい主になってから兄弟は今までにもまして生き生きとしているように思える。和泉守が顕現当初より手がかからなくなってきたのを内心残念に思っていたようだったから、新しい主の世話を楽し気に焼いているのは良いことだと思っていたが書類から顔を上げた主は筆を片手に少し青ざめている。
まあ、連日いい笑顔の兄弟に手を引かれて居間で正座で説教をされているのを見ているから俺からは言わないでおいてやってもいいが、燭台切の言う通りその目立つ傷が目に入らないわけは無いだろう。
ところで燭台切、あんたいつもそんなことしていたのかと突然切っていた果物を手ずから主の口元に寄こしているのを見て少々驚く。有無を言わさずリンゴを咥えさせられた主はもごもごと苦し気な顔で何とかリンゴを咀嚼し終えたようだった。
「燭台切くんも変わったよねぇ」
「・・、そうだな」
そんな様子を長い髪の隙間からのぞく片目で流し見て青江がそっと呟く。視線の先では何とかリンゴを飲み込んだ主の頭を、目元を随分と緩ませた燭台切が黒い手袋越しに撫でている。
あんな顔は確かに前の主の時にはしていなかったな。
俺たちの前の主は人間にして、ずいぶんと歳を取った男だった。審神者になった時点ですでに60代だったというから、審神者たちの中でもかなりの遅咲きというやつだろう。
妻も娶らず独り身で、退職も間近の職場の定期健康診断の結果でまさかの審神者への就任要請。とはいえ突然訪れた人生の転機にさして躊躇せず、それではやってみようとずっと続けていた職もあと少しというところだったがあっさりと辞めてしまったのだから、決断力があるというかこだわりが無いというか。
寄る年波もあったかもしれないが健康意識というよりかは食に拘ることもなく質素倹約と言っていいほどの粗食で見た目には特に金をかけることもなく。ここぞというところではしっかりと決断を下し、気を抜くところではしっかり抜く、まさに質実剛健といった人間であり良い主であった。
・・・ただひとつ、骨董品集めの趣味を除いては。
「山姥切さん、この壺ってここにないとダメですか」
「俺に聞くな。写しの俺がそんなもの分かるわけが無いだろう」
「いや、何かぶっちゃけ邪魔っていうか・・何度も小指ぶつけてるんですよね」
「・・小指どころじゃないだろう」
山姥切さんの声に憐れみというか残念な気配が混ざる。いつも静かな湖面のようなものを感じているそれに揺らぎがあって、まあ心配をしてくれてるんだろうなというその気持ちは素直に嬉しい。
会ったばかりの時はどうにも距離があるしこちらの様子を始終窺っていたから前の主さんと違うことに苦手に思われてるんだろうとこちらも距離を詰めることは無かったけど、堀川くんに日々こんこんと説教を受けている間に気が付けば同じ居間にいたりしてその距離が徐々に近づいていつしか説教が終わるタイミングでお茶とか用意してくれるようになっていた。 叱られている子供を前にして母親よりは強く出られないけれど、俺も心配しているんだからなと後でそっと言う父親とかってこんな感じだろうかと前にテレビで見たドラマを思い出す。あ、堀川くんのこと口うるさい母親とかそんな。
「あんたが主なんだから、あんたが判断すればいいだろう」
「いや、でもなんか拘りの一品とかだったらどうしようかなと」
「そういうことなら前の主の初期刀だった蜂須賀か、骨董や器の価値に詳しい歌仙に聞いた方が良い」
「なるほど」
ふむふむと山姥切さんのアドバイスを聞く。確かにそうか、初期刀だった蜂須賀さんならここに置いた経緯を知っているかもしれないし、特に意味が無いのなら歌仙さんに売って良いものかどうか相談をしに行こうと決めて、大きな壺が置かれていた玄関を離れようとして、
「っおい!」
「ぉ、わっ」
襟首を掴まれて体ががくんと仰け反った。一瞬首元が締まってグエっと変な声が漏れてしまったが、すぐに掴んでいた手が離されてその場にしゃがみ込む。
何だなんだと前方を注意深く窺えばどうやらそこには何かがあった。柱かな。気が付かず突っ込みそうになっていたようだ。斜め後ろにいた山姥切さんを見上げれば驚いたような空気にどこか焦ったような気配もする。
「えっと、ありがとうございます」
「・・あんた」
きっと前方不注意のことを注意されるのだろう。とはいえ今回は山姥切さんが傷が出来る前に止めてくれたから他の人にバレることもないだろうし、助けてくれた山姥切さんはそう口うるさくないからラッキーだと思っていたが、不意に低い声で呼びかけられる。と、同時に目の前の気配が近くなった。
「前から思ってたんだが、あんた」
「えっと、何ですか・・近い、です」
ぐっと顔を近づけられる。慌てて距離を取ろうとした肩を抑え込まれる。なんだなんだ、何かバレたか。疚しいことというか秘密が多いのも考え物だ。とはいえ、いつも通りのおっちょこちょいを見せただけじゃないのか。・・おっちょこちょいのつもりは無いが、それでごまかされてくれるのならと説教も甘んじて受け入れていたが。
「もしかして見えてないのか?」
「っ」
「図星か」
短く息を飲めば、やはりそうかと零された声に掴まれた肩をびくりと揺らしてしまう。
「ご、ごめんなさい」
「別に、言わなかったことを責めてるわけじゃない。写しの俺に言ったって仕方がないことも分かっている」
「いや、でも」
「そもそも、言うか言わないかはあんたの自由だ」
それでも隠していたのは変わらない。もう一度あやまれば、溜息と共に掴まれていた肩から手が離れその気配が僅かに遠ざかる。立ち上がった相手を見上げればその視線はこちらを向いているのが分かる。視線が合ったと感じれば、それはフイと逸らされた。
「ただ・・、もしかしたら兄弟はもっと前から気が付いていたのかもしれない」
「え」
言われて思い起こせばいつからか場所によってそっと手を引かれることがあったのを思い出す。庭では特にその頻度が高い。単に自分が小石や何だとすぐに足元がおろそかになってしまうからだと思っていたし、実際にだいぶ細かく足元や前方の指示を出された時はそこまでの介護は必要ないと伝えたにも関わらず、笑ってそのまま畑の畝の中まで連れまわされた。そして畝に足を取られて顔面から畑に突っ込んだのもいい思い出だ。ただしこけた先が肥料代わりの馬糞が混ぜられたゾーンだったのには鯰尾くん、お前は許さない。
そういえば、庭に下りる時いつも靴を揃えてくれる度小さく音を立てて置き直すのは、もしかして。
「でも、俺だって今近くで覗き込むまでは気付かなかったくらいだ。知らない奴の方が多いだろう」
「堀川くんは」
「あんたが自分から言わないのなら誰にも言わないだろうな。ああ、薬研辺りには言ってるかもしれないが」
「・・そっか」
いつも怖いくらい優しい声で呼びかけられるたびに何のお説教かとビクビクしてしまっていたが、何かしようとするたびにどこからか姿を見せて、何かと手を差し伸べてくれていたのは。
「よし。夕餉の時に、みんなに言う!」
「っ、いいのか?」
「気を遣わせちゃうのが嫌だったし見えないことにも慣れているつもりだったけど、言わないことで余計な気をもませるのは望んでないよ」
「見えないことに、慣れてる、だと?」
「あ、ごめんなさい失言でした忘れてください」
愕然とした声で問われて速攻あやまった。
でも本来なら、見えないこと自体は私にとっては大したことでは無く、ましてやこんな傷だらけの毎日を送るつもりも無かった。身バレに繋がるので詳しく伝えることが出来ないのは歯がゆいが、前方に対しては本当に気配を探って見ているのと同じくらいの視界を確保できているのだ。正確な色や模様等は分からなくとも形は分かるし、なんなら目の前の相手の感情も読み取れる。
顕現をして最初から目が見えなかったわけでは無い。審神者チャレンジをするにあたり術を使って本体と一部を分けてしまったことに原因があるそうだ。お母さんは他の方法を模索してくれたけど、鏡であるからか肉体の視力は失っても瞳に映るものの気配を辿ることが出来るから大丈夫だと私が言った。
「まあ、あんたが見えてないのが分かれば、こういうものも危険だと思って退かされるんじゃないのか」
山姥切がコンと軽く指でたたく大きな壺にこちらも手を伸ばして触る。冷たい陶器の感触とざらりと指先に触れるものをそっと辿る。
「これは・・籠目?」
「模様のことか、あいにく俺はそういうのには詳しくない」
指先に触れるのはきっと焼いた後に絵筆で描いた絵の具で、目を閉じて視界から入る情報を減らし指先の感覚で読み取れば、等間隔で六角形が並んでいるのがかろうじて分かった。
「もし籠目の文様なら、それは鬼除けの意味を持つんですよ」
「そうなのか?」
「置いておきましょうか」
「・・そうか」
もし知っていて前の主が彼らを守るために置いたのなら、わざわざ退かすことも無い。笑って伝えれば山姥切も普段より少し柔らかい声と気配で小さく頷いた。
2019.2.27
Background by ヒバナ
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