始まりは、終わりの予感を伴って


..4





部屋を借りてから、アリスは早速動き出した。
町に下りて本屋という本屋を漁り始める。
美術館で働いていて貯めた貯金があって良かったが、読みたい類の本は大概が高い専門書であることが多い。
これではすぐにお金が尽きてしまいそうだ。
本当なら、ナイトメアの書斎と、そしてブラッドの書斎も借りたいところだが、見返りに痛い腹を探られるのは困る。

「・・・ここでも働かせてもらうしか無いわね」

・・これから自分がやろうとしていること。
美術館では周りの目がありすぎた。
美術館にいたみんなは良くも悪くも良い人過ぎて、何かをするなら手伝うとあれこれ口を出してくるだろう。
それも困る。
帽子屋屋敷は、美術館と敵対関係のマフィアであることと、あの洞察力に長けるボスの目を掻い潜って計画を進められる自信が無かった。
ダイヤの国にいたっては、選択肢にすら入らない。
わざわざ物騒な女王様の相手と、その宰相と関わっている暇も無いのだ。
駅が最適。
ナイトメアは、拒否すれば無理やり踏み込んでは来ないだろうし、ボリスはまだそこまで親しくもなく前の国ほどまとわりついては来ない。
グレイは・・・・。

「ん?何であんたがここにいるんだ」

考えた直後にその相手の声が聞こえて、思わず肩を跳ねさせてしまった。
不思議そうにこちらを見る金色の瞳に、不穏な影がかかる。

「・・・声をかけただけだろうが」

「・・・・」

だいぶ、怪しい態度をとってしまった。
訝しげに、見定めるようにじっくりと見られて背筋に冷や汗が流れる。

「・・・まあ、いい。あんたガキに何か用か?」

「あ、ええその・・仕事をもらえないかと思って・・」

「は?仕事?」

一瞬見開かれた金色の瞳が理由を探ろうと、値踏みするように細められる。
泳ぎそうになる視線を、そらさずに真っ直ぐに見つめ返す。
必要なもののためにお金が欲しい。
そのために働きたい。
今までの滞在先とは随分違う理由で仕事が欲しい状況だったが、真剣なのは変わりない。
しばらく見ていたグレイの目がすっとそれる。

「あいにくだが、さっき薬を飲ませて寝かせたところだ。その話はまた今度にしてくれ。・・・それとなく伝えておいてやるから」

「えっ」

クローバーの国で会ったグレイとは違い、ここでの彼はナイトメアの命を狙っている暗殺者のはずだ。
・・・だいぶ甲斐甲斐しく、世話しているだけのように見えるが。
口調もぶっきらぼうで粗野な感じが抜けない。
それでも、知り合えばやっぱりグレイはグレイのようだ。

「分かったわ、またにする。ありがとう」

礼を告げれば、ああとかおうとか良く分からない言葉を呟いて、グレイはさっさとどこかへと歩き去っていってしまった。
仕事の件はまた今度。
ならば、今出来る他のことをやってしまわなければいけない。
駅には何でも売っている大きなショッピングモールがあるそうだ。
必要なものは、なんてことないただの紙とペンだけだが、古本市も開いたりすることがあるそうだから、行ってみる価値は大いにあるだろう。





「あれ、また会ったな」

「・・エース」

この国にいる青年のエースではない。
ハートの国からの知り合いである、大人のエースだ。
ショッピングモールをうろうろと見て歩いていたら、いつの間にか狭い通路に入り込んでいて、何故かその先に赤いコートのエースがいた。

「そんなにいっぱい、何を持ってるんだ?」

「ノートとペンよ」

「・・ふうん」

答えても大丈夫だろうと判断したが、案の定、それを何に使うかは分かっていない様子でエースは首を傾げた。
それで良い。
何をしようとしているのか、これはエースにも言えない。
むしろ、エースにこそ知られないほうが良いだろう。
またねとは言ったが、こんなに早くまた会うとは思ってもいなかった。

「ねえ、アリス」

「え?何」

考え事をしていて反応が遅れる。
顎に手を当てて、何事か考えていたエースはこちらに視線を合わせて来て、にっこりと笑った。
ぶわっと鳥肌が立つ。
寒いのではなく、得体の知れない薄気味の悪さに肌が一気に総毛だった。

「君、この前も何かを考えていただろう」

「・・・・・」

「何を考えてたんだ?」

薄っすらと開かれた先の赤い瞳が、刃のように鈍く光る。
蛇に睨まれた蛙、猛獣の前に飛び出してしまった哀れな小動物、まさにそんな気分だ。
動けない、目をそらせない。
汗で体が冷たくなるのを感じて、呼吸が少し速くなる。
無表情になったエースの瞳が一度、閉ざされた。
じっと見られていたことから解放されて、気が緩んだ瞬間。

ザ、シュッ

耳の脇を何かが掠めていった。
視線を寄越した顔の脇で、スローモーションのように細い糸が宙を舞っているのが見えた。
否、それは糸ではなく髪の毛だ。
自分の髪の毛と、顔のすぐ脇に突き立てられたのは銀色の輝き。
エースの、ハートの騎士の大剣。
心臓がドクンと鳴って、さっきの比ではない勢いでバクバクと鼓動が暴れだす。

「俺にも、教えてくれよ」

最早脅迫でしかない。
答えられずに、中途半端に開いた口の中がどんどん乾燥してからからになっていく。

「おいっ」

急に、別の場所から声をかけられてハッとして視線をめぐらす。
目の前に長身が舞い降りてきて、気が付けばエースが突き立てた刃は抜かれて無くなっていた。
どこへ消えたのか、その姿も煙のように消えている。
入れ替わるように目の前に現れた相手を、瞬きも忘れて見つめてしまった。

「おい、しっかりしろ!」

「あ・・え、グレイ・・」

金色の瞳に覗き込まれている。
どうしてここにグレイがいるのだろうか。
そして、エースはどうしたのか。

「変な殺気を感じたから来てみれば・・・他に、誰が居た?そいつの顔は見たか?」

焦ったように矢継ぎ早に聞かれて、エースの姿をグレイは見ていないのだと、やっとそこに頭が回る。
そして、きっと他の時間軸から来ているエースのことは、話さない方がいいのだろうと思った。

「ごめんなさい・・私も、誰かいたような気がしたんだけど、よく分からなくって・・」

今になって震えが走る。
エースに刃を向けられた。
返答次第では殺されていたかもしれない。
それもそうだ、私がしようとしているのは・・。

「っち」

舌打ちされてびくっと首を竦めれば、グレイの険しい顔が尚も顰められる。

「ここは、場が悪いな。何かあったときに動きがとりにくい上に、逃げられない」

言われて先が行き止まりになっていることに気が付く。
グレイが来たのなら本当にエースはどこへ消えたのだろう。
分からないが、エースのことを考えるのが今は怖かった。
怖いと思ってしまうことに、小さな悲しみも感じる。
それでもやり始めたことを止めるつもりは無い。

「移動するぞ」

俯いている腕を掴まれて、さっさと歩き出すグレイの早足に引きずられる。
文句を言おうと開きかけた口を閉ざして、小走りにその後を追いかけた。





「・・・さて」

きょろきょろと辺りを見回す。
止まらずにどんどん歩き出して、とうとう領土も出てしまった。
どこに行くのかと思えば、帽子屋領の薄暗い通りの中のアパートの一室に連れ込まれる。
ここで何をするのか、何を聞かれるかとつい身構えてしまえば、グレイは部屋を横切ってベッドに腰を掛けた。

「そこのソファにでも、適当に座れ」

「・・・・」

「・・・?・・・ああ」

無言で立っていれば、カチカチとライターをいじって銜えた煙草に火をつけて一服してから、やっとこちらをしばらく見て得心がいった様にその瞳を細める。
長い指先に煙草を挟んで、足を組んだ膝の上で頬杖をつく。
こちらを見る瞳はにやにやと笑っているようで、思わず睨みつけてしまった。

「そう睨むな、何もしねえよ。・・さすがにあんたは、守備範囲外だ」

「・・・・・」

そうはっきりと言われるとそれはそれで失礼じゃないかと思うが、今はそういう話をしている場合ではないと深呼吸をして苛立ちを静める。

「・・じゃあ、何のためにここに連れてきたの?」

「まあ、取り合えず座れよ」

指で指し示されて、ソファの一番扉に近い端に浅く座る。
何かあったらすぐに立ち上がって逃げられるようにしたつもりだが、グレイ相手では何の備えにもなりそうに無い。
そう思ったことも分かったのか、グレイの瞳は少し興味深げに細められている。

「これでも忙しいんだけど」

何か用があるならさっさと済ませて解放して欲しい。
エースがああいった行動をとることが分かったのなら、尚更急いで計画を進めなければいけない。

「ああ、分かった分かった。・・さっき、誰がいたかを聞いただろ」

「・・ええ。・・よく見てなくて答えられなくて、悪かったわね」

「まあ、それは仕方ねえ。相手が俺が思ってる奴なら、あんたに顔を見られるようなへまはしないだろうからな」

「え・・それって・・」

まさか、この国のグレイはあのエースを知っているのだろうか。
いや、まさかそんなはずはない。
だいたい、この国にはすでにエースがいるのだ。

「あんたはもう知ってんだろ。俺が暗殺者で・・・」

「ナイトメアのことを狙ってるってこと?」

「・・ああ、そうなんだがな」

苦々しげな顔は、殺す相手があまりにも病弱過ぎて手をこまねいてしまっているからか。
そのことはこの国に来て知ったわけではなく、クローバーの国にいた際に命を狙われていた張本人から教えてもらった話だ。
それが、何なのだろう。
グレイが暗殺者なのもその対象がナイトメアなのも、自分どころか駅のみんなが知っていることだ。
そして、ナイトメアの病弱さが改善される見込みは無く、グレイがこの先もおそらくナイトメアに手を出すことは出来ないだろうことも分かっている。
アリスに至っては、最終的に暗殺者を引退したグレイがナイトメアの部下になる時間軸から来たのだから、この国のグレイも最終的にナイトメアの補佐に落ち着くのだろうと漠然と思っていた。
実際、すでにその兆候はかなりある。

「もしかしたら、さっきあんたの近くに別の暗殺者がいたかもしれない」

「・・え?別のって?」

「俺が・・任務の遂行に手間取っていると取られれば、業を煮やした依頼主が別の暗殺者を差し向けてくる可能性があるってことだ」

「!!」

息を呑む。
確かにグレイは依頼を受けてナイトメアを狙っているのだから、依頼主もいて任務遂行の報告を今か今かと待ちわびているはずだ。
そんなこと思いも寄らなかった。
ただ、グレイは任務を果たせずになし崩しにナイトメアの部下に納まるのかしらと、ぼんやりと考えていただけだ。

「あんたが、俺やあのガキの周りをうろうろするようになっちまったから・・・見せしめに手を出されてもおかしくはない」

続けていわれた事実にぞっとする。
さっきのはグレイが言うような暗殺者ではなくエースだった。
・・・本気かどうかは分からないが、エースにも殺されそうにはなっていたのも事実なのだが。
まさか、そんなことに巻き込まれていたとは。

「自分で片を付けられずに無関係な輩を巻き込むようじゃ、本当に引退時ってやつかもな」

煙が流れていくさまを見上げて、自嘲したようにグレイが呟く。

「引退なんて・・出来るものなの?」

クローバーの塔のグレイを思い出す。
暗殺者という肩書きをどうにかして捨てて、あのグレイはナイトメアの補佐になった。
方法はあるのだとは思うが、暗殺者がそんなに簡単にその世界から抜け出せるようなものなのだろうか。

「・・まあ、楽にとはいかねえな」

「そう・・」

もちろん、ナイトメアの暗殺に成功して欲しいだなんて考えたことも無い。
出来るなら、何事も無いようにスムーズに転職が出来れば良いのに、そこはこんなおかしな世界でもそう簡単にはいかないらしい。

「そういうことだから、あんたには悪いが当分俺か、ガキに頼んで護衛でも付けさせてもらう」

「え・・」

「さっき話したろうが。聞いてなかったのか?」

「いえ、聞いていたけれど・・・ずっと?」

今行動が制限されるのは困る。
だが、ふと閃いたこともあった。
この国の誰かの傍にいればエースは近づいては来ないんじゃないだろうか。
剣を向けてきた、ハートの国のエース。
次にどこかで会ってしまって、あの剣から、あの問いから逃れられる自信が無い。
グレイがいてくれるなら、それは思っても見ない強い護衛となるだろう。
クローバーの国でも互角に対峙していた姿を思い出す。

「ずっとじゃねえが・・その内きっちりと蹴りを付けて来る。それまでだ」

少しだけ言いよどんでから、最後はきっぱりと告げる。
ならばその、グレイがつける決着までが自分の計画に与えられた時間となるだろう。

「分かったわ。・・それまで、よろしくね」

「・・ああ」

右手を真っ直ぐ相手に向けて伸ばす。
その手が、暗色の袖口に途中まで包まれた大きな手に握られる。
グレイの転職が上手くいくようにという気持ちも込めて握り返す。
私は、私の戦いのためにその手に力を込める。
少しごつごつと骨ばった手に、一瞬ぐっと包まれて右手は解放された。
言わないままの自分の都合のために、グレイを利用することに少なからず申し訳ない気持ちはあっても、後悔はない。
私は、世界の理に触れ反旗を翻すために、必要な時間を使うだけだ。





「君ってば、往生際が悪いよな」

ひらりとカーテンが舞い踊る。
寝苦しくて、二階だからと油断して窓を開けたまま寝ていたのがあだとなった。
にこにこと笑って人の部屋に勝手に押し入ってくる騎士から目をそむけ、淑女らしからぬ顔で小さく舌打ちをしてしまう。
外出をしている時はグレイと、グレイがいない時はナイトメアに事情を話してつけて貰った護衛がついていて、やはり赤いコートのエースと遭遇することはなかった。
だが、部屋の中まで護衛は入ってこない。
大声を上げようか迷って、結局止める。

「誰か、呼ばないんだ?」

分かっていっているであろう相手を睨みつける。
呼んだらエースはまた煙のようにどこぞかへ消えるだろうが、その前に殺される可能性も否定できない。
まだ、何も成していない。
計画を実行させるまでは、死ぬような賭けに出るつもりは無い。

「うわあ、足の踏み場も無いな」

窓から入ってきたエースは、部屋中に散らばる大量の紙に目を丸くした。
踏まないようにその間を縫って歩いてくる。
気まぐれのように一枚手に取って、しげしげと眺めている。

「うーん・・・俺にはよく分からないや」

「・・でしょうね」

はい、と言って何故か手渡された紙を、拒否するのも面倒で取り合えず受け取る。
何度も書き連ねた文字で、その紙はほとんど真っ黒だった。
受け取ったものの持っていても仕方が無いので、取り合えず手短な本の上に乗せておく。
この本はもう見たから、まあ良いだろう。

「・・・ユリウスと、どうして離れたんだ?」

「あなたには関係ないでしょう」

「宗旨替え?蜥蜴さんが忘れられなかったとか?」

「そう思いたいのなら、勝手に思っていればいいわ」

そんな訳が無い。
はっきりと思ってから、グレイに大して後ろめたい気持ちにもなった。
前の国でお世話になって好意も向けてくれていたグレイにも、この国で面倒をかけて利用してしまっているグレイにも。
それでも。

「それを聞いて、安心したぜ」

棚の上に積み重なった本を崩さないように下の本を抜き取るという全く何の意味も無い行動をしながら、エースが笑って続ける。

「・・・もしそうなら切っちゃおうかって、ちょっと思ってたんだ」

「・・・・止めないの?」

止められても困るのに、自分もまた無意味な言動をしてしまう。
ぐらりと揺れた本のタワーを片腕で押し戻して、もう片方の手で抜き取った本をパラパラとめくっていたエースの瞳がちらとこちらを見た。

「往生際が悪い君が、どんな風に足掻いてくれるのか見て見たいんだ」

「悪趣味」

「はははっ、だよな」

爽やかなエースの笑い声を聞いて、でも少し安心した。
どうやら自分は生き延びたようだ。
エースが見たいといった自分の選択した道の先を見せたかった。
パチと机の電気を点ける。
すっかり眠気は去ってしまった。
ならば、出来る限りのことをやるべきだ。

「つれないなあ」

椅子に座って分厚い辞書と専門書とを睨めっこし、ペンを走らせ始めた肩にずっしりと重みがかかる。
無視して手を動かし続ければ、耳元でふっと笑う気配がした。

「重いんだけど。離れてちょうだい」

「気にしないで続けてくれて良いよ。俺も、気にしない」

夜の時間帯だから寝ていたのだが、部屋にエースがいては着替える場所も無く、気にせずネグリジェのまま作業を続けている。
その首筋や腰元にさわさわと手が回される。

「・・・・・」

無言で分厚い辞書を振りかぶった。
良い音がして背後の気配は沈黙する。

「私の選んだ道の先が見たいんでしょう。なら、邪魔しないで」

痛いなあと全く悪びれる様子も無く、頭を押さえて笑う相手を真剣に見つめ返す。
瞬きした赤い瞳が、静かなものになる。

「うん。みっとも無くあがいてくれよ」

その顔に、殺されたユリウスを見下ろしていたどうしようもなく絶望に満ちた表情が重なる。
拾われたときの、世の中に何の希望も持っていないといった顔も。
ユリウスの部屋で、笑いあっていた小さい少年の顔も。
虚ろのように無表情に見えても、何の感情も無いわけじゃない。
無いわけが無い。
見せてやりたいと思った。
その顔を驚愕に塗り替えて、指をさして笑い飛ばしてやりたい。

捻じ曲がってしまった彼と、捻じ曲げさせられた彼の。
二人のレールの先を、どうにかして平穏へと向けられれば。
もう、後はどうなったっていい。
何ていう自己中心的で、何て押し付けがましい傍迷惑な行動だろう。
それでも万が一にでも可能性があるならば。

PAGE TOP