始まりは、終わりの予感を伴って


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ちら、とこちらを見上げ、またその視線は手元に戻される。
最近時折そうしていたように、勝手に椅子を借りて読書に勤しむ。
カチャカチャと時計の部品をいじる音の合間に、大きな溜息が混じった。

「お前・・・こんなところに来て、何が楽しいんだ」

「楽しみを求めに来たわけじゃないわ」

「なら、何だ。何が目的でこんなところにわざわざ来る?」

「・・・・・」

時計を修理する手を止めず、こちらも見ずに問いかけられてアリスは押し黙った。
ハートの国のユリウスに対するように、何も言われないことを良い事に図々しく居座ってしまっていた。
嫌なら嫌と、きっとはっきり言うだろうと思っていたが、どうやら言おうかどうか迷っていただけだったようだ。
邪魔だと思われてまで居座るつもりは無い。
残念に思う気持ちはただの身勝手だ。
その気持ちは押し隠して、本を閉じて立ち上がった。

「・・・ごめんなさい」

「邪魔だとは言ってない」

扉に手をかけたまま、後ろを振り向く。
パチン、と時計の裏側に蓋をはめる音がして、今持っていた時計の修理が終わったことが分かった。
ユリウスの手元で、また一つの時計に新たな人生が吹き込まれようとしている。
時計を眺める彼の視線は憂い気だが、その姿も含めて綺麗だと思った。
新品のように輝く時計も、それを見つめる眼差しも。
その手から時計が離れる。
ことりと音を立てて時計を机の上に置いてから、ユリウスは緩慢に立ち上がった。
眼鏡を外した手が眉間を揉んで、首元を摩る。

「待っていろ」

その様子をぼんやりと見ていた耳に、低い声がかけられた。
ユリウスが歩き出した先は、狭い簡易用のキッチン。
ハートの国では一緒に並んで立ったこともあるそこで、ユリウスはやかんを火に掛けて、戸棚から出した珈琲豆をごりごりと挽きだした。
香ばしくほろ苦い香りが、広くない部屋に充満していく。
しばらくして、湯気を立てたコーヒーカップが一つ、アリスの前に差し出された。

「まだ熱いから、気を付けろ」

「ありがとう」

くるりとコーヒーカップの縁を持つ大きな手が回り、アリスの方に持ち手を向ける。
礼を告げて受け取って、ふうふうと冷ましてから少し口に含んだ。
程よい苦味、酸味は少な目の深く濃い味。
じんわりと染み渡って、ほうと声が出た。

「・・・おい」

突っ立ったまま冷まし冷まし飲んでいれば、こちらも横に突っ立ったままだったユリウスに声をかけられてそちらを見上げる。
何だろうと、話しかけてきたユリウスのその言葉の先を待つ前に、背後でバタンと大きく扉が開く音がする。

「ユーリウースっ!」

「・・・エース」

明るい声で飛び込んできたのは、やはりというか何と言うか。
今はダイヤの城にいるはずの迷子の騎士、エースだった。
ユリウスの顔が渋いものになる。

「あれっ、アリス。君もいたんだ?」

明るい声の端々に、警戒を感じ取る。
笑顔に見える顔の中で、赤い瞳が油断無くこちらを観察しているのが分かった。
ユリウスに取り入ろうとしているんじゃないか、ユリウスの害になるんじゃないか。
アリスは、無言で飲み終わったコーヒーカップをテーブルの上に置いた。

「美味しかったわ、ユリウス。ご馳走様」

「・・・・・」

にこにこと何も言わずにこちらを見る瞳と、少し困惑したようなユリウスの瞳に背を向けて今度こそ扉を開けようとした。
その腕を掴まれる。

「もう、行っちゃうのか?」

あなたは、私がここにいるのが嫌なんじゃないの?と言ってしまいたいのをぐっと堪えて、腕を掴む相手を訝しげに見つめる。
何を考えているのだろうか。
この国の、自分のことを良く思っていないエースが、引き止めるその意図が分からない。

「ユリウス、俺の分も淹れてくれよ!」

「何で、お前の分なんか用意してやらなければならないんだ」

「彼女にも、もう一杯な」

「・・・・・・」

ユリウスとお互い、訝しげに見合ってしまった。
だが訳を尋ねようとはせず、ユリウスはまた置かれたコーヒーカップを片手にキッチンへと戻っていってしまう。
その背中を追ってから、また目の前の相手へと視線を戻す。

「で・・何がしたいの?」

「見極めたいだけだ」

ユリウスの害になるか、否かだろうか。

「君と、ユリウスの関係を、さ」

だから、一緒にいるところを監視したいとでもいうことだろうか。
どういった関係も無いのだが、居心地が良いわけもない。
出来ることならエースの手を離して、さっさと部屋に戻りたかったのだが。

「・・まだいるなら、適当に座れ。そこで突っ立ったままでいられるのも邪魔だ」

そう言いながら二つのコーヒーカップと、どこから出してきたのかテーブルの上に丸い缶が置かれる。
それを見たエースの目が丸く開かれる。

「お、気が利くなあ、さすがユリウス」

嬉しそうにエースが開けたのは、アソートクッキーの缶だった。
プレーン、チョコレート、ビター、ジャム。
見た目も可愛らしいそれに、置いた本人は手を伸ばそうとしない。

「エース。お前だけで全部食べるんじゃない」

「分かってるって・・・ほら、君も食べなよ」

赤い瞳に促されて、一つ手に取った。
赤いジャムが真ん中に覗いている、ジャムサンドクッキー。
ユリウスの淹れてくれた珈琲と、その甘さが丁度いい。
にこにこと笑ってクッキーをつまむエースは、とても嬉しそうだ。
ユリウスといるからだろう、柔らかい気配を纏い安らいでいるのを感じる。
ハートの国のエースからは終ぞ感じたことの無い感情だ。

大人のエースに、この国のユリウスに会ったら?と聞いたことがあった。
この国のユリウスには、別のエースがいるから会わないと言っていた。
早く、ハートの国に戻って、ユリウスと再会できたら良いと思った。
自分ではなく、エースだけでも。
ハートの国のユリウスは、今どうしているのだろう。
今も一人、あの塔の中で時計の修理をしているのだろうか。
青年のエースとユリウスが何やら言い合っている。
エースの明るい笑い声と、苦々しいユリウスの低い声。
時計塔に戻りたいと、無性にそう願った。





体から力が抜けて、ぺたんと床にしゃがみ込む。
床についた手と足に、汽車がレールの上を走る振動が伝わってきた。
床のそのまた向こう側からかひんやりとした冷気がどこからともなく漂って指先からゆっくりと凍るように冷たくなる。
そのことに抗うことも立ち上がることもせずにアリスはただ呆然としていた。

「そんな・・・」

まさかこんなこと、それこそ「夢」じゃないのだろうか。
そうに違いない、これはただの悪夢だと。
ナイトメアにひどい意地悪をされているのだと。
それでも良い、そう、言って欲しいくらいだ。
だが、ここにはあの大人のナイトメアもこの国の青年のナイトメアもいない。

「・・・・・」

ちらと視線を上げた先では、目の合った赤い騎士がにこと笑う。
ナイトメアだけでなく、どうしてだかハートの国からの知り合いのエースもこちらに来ていて。
仕事だといっていた彼と時折、偶然のように出会っては言葉を交わしていた。
だが、これは何だろう。
何故か汽車に乗っている自分と、汽車の窓に映し出される映像。
ユリウスがいて、エースもいる光景。
・・・エースがいて、ユリウスが・・・ている光景。

「エース・・」

笑みを模るその目の隙間から、怖いくらい静かな赤い瞳がじっとこちらをみている。
騎士だから嘘なんて言わないぜ、と言っているような声さえ聞こえてきそうだ。
もう分かっている、何故だか分かってしまっていた。
これは本当に起きたことで、繰り返しばかりのこの世界の中にも確かにあった、過去の一部であるということ。
そしてハートの国で出会った、この不安定なエースの根幹なのだとも。

「でも・・・・」

「ん?」

聞き返す顔を見ても、今エースが何を考えているか分からない。
こんなことを言ってどうにかなるわけではないのに。
だが促されれば、口に出さずにはいられなかった。

「・・それじゃあ、エース・・あなたは何のためにここまでして生きてるのよ!」

声を搾り出せば、空気を吐き出した肺よりも強く、心が軋んだ。
彼はただユリウスを失いたくなかっただけだ。
ユリウスを役人である時計屋にすることを条件に、躊躇いもなく処刑人になった。

たとえ、彼にとっての本当のユリウスがすでにいないとしても、この世界から彼が失われないようにしたかった。

・・別の時間軸のユリウスを殺して、ユリウスを殺された別の軸の自分自身に恨まれてまで。

「生きてるの?、なんてひっどいなあ」

そう言って笑う、まるで虚ろなエース。
いつもユリウスのこと以外はどうでも良いようで、当たり障り無く、ただ強さにだけは執着していた。
ハートの国のユリウスと離れた時に荒れていたように見えたのも、離れている間にユリウスが死んでしまうかもしれないと不安だったからだと、今なら分かる。

「・・・馬鹿」

「はははっそうだよな、俺は・・・馬鹿だ。馬鹿で弱くて、だからユリウスを守り切れなかった」

自嘲したように伏せられた瞳に、カッと怒りが吹き上がる。
そうじゃない、そんなことを言いたいんじゃない。

「馬鹿っ!!!」

「うん」

「馬鹿よ!」

「・・うん」

分かってる、という風に頷くエースの胸倉を、立ち上がって掴んで引き下ろした。

「ユリウスを一人生きさせて、それであなたは!?別の時間軸の自分に恨まれて殺されても良いなんて、そんな馬鹿なこと考えてるわけないわよね!!?」

しゃがみ込んだまま下からねめつける様に見上げてまくし立てて、無理矢理視線を合わせる。
もしかしたら、自分より強くなって自分を殺してもっと確かにユリウスのことを守ってくれるかもしれない、だなんてそんな。

「良いって言ったら?それを聞いて君はどうするんだ」

「っ・・・・・」

「聞いたところで、ユリウスが死に逝くことを変えられるわけじゃない。そもそも、まだこの世界の住人でも無い君に何が出来るんだ」

エースに詰っている様子は無く、ただ事実だけを淡々と述べているだけのように見える。
それでも、その言葉は心に突き刺さった。
そして刺された痛みが、一つの方法を指し示す。
私は、余所者だ。
少しずつ体調が悪くなったりおかしなことが起こったりして、徐々に自分はこの世界の住人になろうとしているらしい。
だがエースの言うとおりまだこの世界の住人でも無い。
言い換えればそれは、この世界のルールに縛られていないことを意味する。
もう完全な余所者でもなく、また住人にも成り切れていない。

「・・・そうね」

そして、夢の中のようなわけの分からない場所で、望んでなくとも出会ってしまうおかしな格好の男を思い出す。
道化師のような格好をしていたり、看守のような格好をしている姿も見たことがある気がする。
あれは、確かジョーカーだ。
ゲームの中で、何者にもなれる最強の手札。
弱点はあれども、オールマイティに全ての札に干渉してくる道化のカード。
あれは確か、君が俺たちを呼ぶんだ、とか訳の分からないことを言っていた気がする。
まだ固有の数字を持たないこの世界の住人でない自分が、もし道化師と似たような、近しい存在なのだとしたら。

「私、帰るわ」

「・・帰っちゃうのか?」

黙りこくっていたのを見下ろしていたエースは、驚いたように返事を返す。
さっきまでの別人のように静かな顔ではなく、目をパチクリとさせている赤い騎士の姿を見て決意を固める。
馬鹿馬鹿しいことをしようとしているのは分かっている。
でもやらずに後悔するなんてごめんだ。

「ありがとう、エース。じゃあ、またね」

しっかりと立ち上がって、まだ呆けたようにこちらを見ている相手に向かって手を振れば、エースも良く分からないながらもその灰色の手袋をした手をひらひらと振り返してくれた。
振り返らずに、汽車の乗車口を潜り抜けた。





「えっ、出て行くって・・どうしたんだいきなり、誰かに何か嫌なことでもされたか?!」

慌てたように、そして困ったように眉根を下げたジェリコが聞いてくる。
いきなり滞在地を変えると言えば、そういう反応が返ってくることは分かっていた。
お世話になっておいて理由もなしに出て行くなんて、失礼なことをしているとも分かっている。
それでも、決意は変わらない。

「嫌なことなんてされてないわ、ここはすごくいい場所よ」

「だったら、・・」

「ごめんなさい、ジェリコ。でも私、どうしてもやらなきゃいけないことが出来たのよ」

「ここじゃ、出来ないことなのか?たいしたこた出来ないが、何か手伝えることが・・」

「本当に、ごめんなさい」

「・・・・・」

膝にそろえた両手を置いて、頭を下げる。

「・・顔を上げてくれ。言えないことってのが、やばいことじゃないなら俺は止めない。余所者であるあんたを止めることは出来ない」

顔を上げれば、緑を映した湖面のような静かな瞳が困ったように、寂しそうにこちらを見ていた。
本当にこの人は良い人だ。
ブラッドと同じ、マフィアのボスだなんて何かの冗談じゃないだろうか。

「それで・・どこか次の行く宛てはもう決まっているのか」

「・・ええ」

「そうか・・・、気をつけて行けよ」

その言葉を聞いてから、ソファから立ち上がる。
再度深々と頭を下げた。
本当に感謝している。
この国のユリウスと二人きりじゃなくジェリコもいたからこそ、この国に親しみを持てて馴染んでいけたと思う。

「止めてくれよ、頭を上げてくれ。・・また遊びに来るぐらいはしてくれるんだろ?」

「来るわ、必ず」

待ってるぜ、と笑うジェリコと握手を交わしてアリスは美術館を出ていった。




「・・・まあ、駄目とは言わないが」

執務机の大きな椅子にふんぞり返るように座っていた青年のナイトメアは、不可解だという顔を隠しもせずにいる。
その薄灰色の目がこちらを探るように見ているのを感じて、アリスはクローバーの塔での日々で培った技、夢魔である彼から感情を読まれないように思考をシャットダウンする。
暫くこちらを見つめていたナイトメアは、前のめりになって頬杖をついて大きく溜息を吐いた。

「君は・・上手いな」

口を尖らせてそう言うナイトメアに、どうやらシャットダウンは成功したのだと、顔には出さずに内心ほっとする。
ここで読まれてしまってはおしまいだ。
きっと、いや間違いなく止められるだろう。
大人のナイトメアでなくとも、渋い顔をしてそれは止めておけと納得するまで説得されそうだ。

「はあ、分かった。君の滞在を許可しよう」

「ありがとう、ナイトメア。これからお世話になるわね」

頷いて、脇に立っていた駅員の格好をした補佐に声をかける。
どうやら彼が部屋を案内してくれるらしい。
促されて歩き出せば、後ろから声がかかった。

「迷いが無いのは良い事だ。ここに滞在させるのに安心できる」

思いがけない言葉に、振り向く。
やはり考えていたことを読まれてしまっていたのだろうか。
知らず強張るアリスの顔を見て、目を伏せて首を振る。

「君が何を考えて、親しくしていた美術館を出て駅に滞在地を変えたのかは分からないが・・・無茶だけはしないで欲しい」

憂い気に目を細めて、ナイトメアははっきりと言う。
声にも思考にも出さずとも、アリスの顔には固い決意の表情が浮かんでいる。
その顔が追い詰められた末の、後の無い一手で無ければ良いと、ナイトメアは願わずにはいられなかった。

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