始まりは、終わりの予感を伴って


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「あなたが一番安全そうだと思ったのよ」

そう言った瞬間の、絶句したあなたの顔を私はずっと覚えている。

「ばっ、馬鹿なことを言うな!」

「馬鹿じゃないわ。ちゃんと見て回ってよく考えた結果よ」

しばし静止していた後に、真っ赤になって抗議する姿も忘れない。
とことん可愛げの無い私は、女の子らしくおねだりをするなんていう器用な真似が出来るわけも無く。
無理だ、考え直せ、他にどこでもお前を受け入れてくれるところはあるだろう、と焦ったように言うあなたの言うことなんて聞かず強引に住み着いた。
他に行く当てが無かった訳ではないが、冒頭の通りだ。
そこが、一番安全だと結論を出したから。
それに話しているうちに気付いたことがある。
無愛想で根暗そうで、あまり人と関わりたく無いというその態度。
・・・自分に似ていると思ったのだ。

「・・・・・はあ。もういい、勝手にしろ」

「ええ、そうさせてもらうわ」

押し負けて、敗北宣言をする相手に心の中で小さく謝罪する。
人と関わるのが苦手だから、こうやって押し問答をいつまでも続けることも無いだろうと、何となく分かっていた。
自分もそうだから。
引かぬ相手を説得し続けるよりは、余程の損害が無さそうだと判断できるなら自分が折れたほうが早い。

「迷惑はかけないから・・・よろしくね」

怒ったように無言で作業机の椅子に座り、時計の修理を始める相手の横顔を見る。
それが私と、偏屈で不器用で、分かりにくい優しさを持つ彼の二人の生活の始まりだった。





「君は・・そのなんだ・・」

「何度も言わなくても分かってるわよ。無愛想だってことでしょう」

夢の中で何度も会ったくせに今更、夢の外で会ったからと言って、態度を変える必要も無い。
従者のような男を後ろに従えて、椅子に座ってふんぞり返っている夢魔の顔を見返す。

「・・・グレイ=リングマークだ。よろしく」

「アリス=リデルよ」

淑女らしくスカートを摘んでお辞儀をして見せたが、よろしく、とは言わなかった。
そのことに無表情の相手が何を考えたのかは分からないが、分かろうとも思わなかった。
気遣わしげにこちらを見るナイトメアの視線がうっとうしくてたまらない。
足元に視線を落として、無意味に部屋の床の模様を目で追う。
部屋の中の木の床、その他のほとんどは石段だった時計塔とは違う。
目に優しい緑色で整えられた、クローバーの塔。
催し物として会合も行われるこの塔は大きく広く、中で働く職員も大勢いる。
人の出入りも多く・・・違いばかりが目に付いた。
押し黙る私の思考を読み取ってか、ナイトメアは小さく溜息を吐く。

「とりあえず、君の部屋に案内しよう」

「・・・・・・」

「君には、落ち着くための場所が必要だ」

必要ないわと言えるほど、私は冷静にはなれなかった。
引き離された相手、ユリウスのことしか頭に浮かばなかった。
徐々に彼との生活に慣れ、お互いを信頼し合える相手として認めていた。
近づきすぎず、離れすぎない。
同じ部屋で過ごしていた男女なのに、そこに恋愛は一切絡むことは無く、ただとても居心地の良い家族のような空気に包まれていたように感じる。
それも引き離された今となっては身勝手な、独りよがりの妄想だとしても。

「グレイ」

呼ばれて、背の高い彼が動き出す。
部屋を案内してくれると言うのだろう。
背の高い、・・・ユリウスくらいの身長だ。
そのことにさえ気持ちがささくれだつ。
睨みつけるように床に目を落としたままその背中を追っていれば、背中越しに低い声がかけられた。

「引越しは、初めてだと聞いた」

「・・・・・」

だから何だろう。
この世界に残ると決めた、その場所を失ってしまった。
引越しなんてふざけている。

「だが、この世界では珍しいことではない」

「・・・何が言いたいの」

自分でも失礼だと分かるほど、冷たくそっけない声が出る。
肩越しにちらと振り向いた相手の、金色の瞳と目が合う。
苛立つ気持ちを押し隠さずに相手のことを下から見上げる。

「これは、ナイトメア様のせいではない」

分かっている。
これはあのいつも青白い顔の病弱な、吐血ばかりしている男がしでかしたことでは無いということくらい。

「・・分かっているわ」

ただ、力を入れていないと心が折れてしまいそうだったのだ。
時計塔があったはずの場所にいきなり現れたこのクローバーの塔に、八つ当たりをしていただけだ。
この塔なんかがあるから、ユリウスのいた時計塔は無くなってしまったのだ、とそう無理やり結論付けて。
何かのせいにして、怒っていないとやっていられなかった。

「そうか」

その返事をどう受け取ったかは分からないが、それだけ言ってまた相手は前を向いて歩き出した。





「君は、優秀だな」

「それほどでは無いわ・・まだまだよ」

本当に感心したように言う相手に、気恥ずかしさを押し隠してそっけなく返す。
何か仕事が欲しいとナイトメアに頼んだら、グレイの部下として働かせてもらえることになった。
一人でいると鬱々としてしまうから、何か集中して取り組めるものが良いと言えば、まずはと簡単な事務仕事を任される。
仕事内容を覚えて慣れてくると、必要な書類を集めるのに少し手間がかかっていることに気が付く。
書庫の整理が追いついていないのだ。
あちこちに散らばった各種書類を探し出すのにタイムロスを感じて、もし迷惑でないなら書類の整理をさせてくれないかと申し出た。

「だが、君が書庫の整理を始めてから、仕事の進み具合が格段に早まった。礼を言う」

きりっとした顔を少しだけ笑みに崩して感謝を伝えてくる。
さらりと揺れる黒髪に、目が奪われた。
なるほどこの人は格好良い、とそこで初めて気が付いた。
塔の周囲で、時々女性たちが彼のことを話しているのを聞く。

「・・・?どうかしただろうか?」

「いいえ、なんでもないわ」

慌てて目をそらす。
ずっと余計なことは何も考えないようにしていた。
仕事の時は仕事に集中して、そうでない時はひたすら本を読んだりして過ごす。
職員の顔もだいぶ見えるようになってきたが特に注視することは無く、それは目の前の相手も同じだった。
仕事上の上司、ただそれだけだ。

「・・・この後、君は休憩だろう?」

声をかけられて、振り向く。

「俺も休憩なんだが、良ければ珈琲でも飲まないか」

金色の瞳に真っ直ぐに見られて、部屋に戻って読書の続きをする予定だとは言えなかった。





「何だなんだ、君たちは。いつの間にそんなに仲が良くなったんだ」

「??誰と誰ですって?」

「君と、グレイに決まっているだろう!!」

執務室で書類の山に埋もれて、うめき声を出しながらペンを走らせていた塔の最高権力者が、とうとう机に突っ伏して動かなくなった。
やれやれと呆れながらも珈琲の一杯でも用意しようと、部屋の扉へと向かいかけた矢先のことだった。
白い紙で出来た山脈から覗く、いつもどおり青白い顔の上司は、いつもと違って拗ねたように口を尖らせてこちらを見ている。
一体、いきなり何を言い出すのか。

「仲良しになったつもりは無いのだけれど。まあでも同僚として、険悪な仲で仕事に支障をきたすよりは、問題のない状態を保てていると思うわ。何か文句でもあるの?」

「ぐぬぬぬ・・君は本当に可愛げが無いな!」

「そういうのをセクハラって言うのよ」

しれっと返せば、咳き込んで何かを吐き出す音がかぶる。
何かもくそもない、血を吐いたのだろう。
・・・書類をまた作り直さなければならなくなった。

「・・・私は良い傾向だと思っているんだ」

「余計なお世話よ」

近づいて、その被害状況を確認しようとすれば、俯いたナイトメアがぼそりと呟く。
いきなり話が飛躍したとしか思えなかったが、何が言いたいのかは分かった。
その上で、何もしてくれるなと切り捨てる。
ユリウスのことをいつまでも引きずるのではなく、他に目を向けるのも良いんじゃないかと、そう言いたいのだとは分かっても、そうねと同意できるほど自分は大人ではない。
割り切れない気持ちを持ったまま、突き進むしかない。

「いつか、奇跡が重なれば、もしかしたらまた会えることはあるかもしれない」

奇跡は、奇跡だ。
滅多にあることを指す言葉ではない。
ましてや、その奇跡が「幾つも」重なっても、もしかしたらが付くほどのことなのだ。

「それまで、君はずっとそうして生きていくのか」

「余計なお世話だって、言っているでしょう・・!」

口元の血を拭えば、静かな夢魔の顔になる。
まるで聞き分けの無い幼子に言い聞かせるようなその口調に、かっとなった。
真っ赤になった書類を握りつぶす勢いで掴み上げる。
そのまま踵を返して早足に部屋を出た。
カツカツカツといつになく力強く床を踏みしめて肩をいからせて歩けば、職員は慌てて廊下を端に寄って道を譲る。
有難くもそちらを見ることは無く、書類を作り直してもらうために別の部屋の扉を開けた。
開け放つほどうるさくはしなかったが、部屋に入れば中の職員が一斉にこちらを見た。

「・・アリス」

すかさず、グレイが近寄ってくる。

「また吐血したわよ、あの駄目上司」

吐き捨てるように言って、真っ赤に染まった書類を渡す。
ぐしゃぐしゃになったそれを見て、グレイの表情が困惑したように書類とこちらの顔を交互に見る。

「何かあったのか?・・ナイトメア様が、何か・・」

「書類、お願いね、グレイ」

目を伏せたまま、口の端を引き上げてなるべく明るい声を心がける。
時計塔に居た頃と違い、ここでは他の職員とも関わりを持たざるを得ない。
少しでも円滑な人間関係を育むために、口元だけでも笑みを象ることを覚えた。
これが、いわゆる処世術というものだろう。
珈琲でも飲もうと、塔の職員共同の厨房へ歩き出した。
ナイトメアのために淹れるのは止めた。
自分のためだけに淹れる事にする。
このむしゃくしゃな気分のまま仕事に戻ってもミスをするだけだ。
コーヒーブレイクをしよう、・・時計塔でもそうしていたように。
採点してくれる相手はいないけれど。

「・・・・・」

厨房の扉に手をかけたところで、肩をガシリと掴まれた。

「!!!・・グレイ」

びっくりして振り返れば、少し息を乱したグレイがそこに立っていた。

「何か問題でもあったかしら?・・あ、勝手に珈琲を淹れに来てしまっていてごめんなさい」

「・・・・・」

勝手に小休憩を取ろうとしたことに後ろめたくなって、思わず謝ってしまう。
だがそのことには何も言わず、はあと少し大きめに息を吐き出してから、グレイは深々と頭を下げた。
ぎょっとして目を見開く。

「すまない」

「えっ、どうしてあなたが謝るの?顔を上げて頂戴」

真っ直ぐに下げられた顔の前に、黒髪がさらさらと流れ落ちる。
影になって見えない表情にどうして良いか分からず、とにかく顔を上げてもらって話を聞こうと、躊躇いつつその両肩に手を添えて持ち上げるように上に押した。
自分の手の小ささを思い知らされる、広い肩だ。
抵抗は無く上げられた顔は、眉が顰められている。

「ナイトメア様に会ってきた。君に、何か失礼なことを言ったんだろう」

「・・・・・」

「俺が謝るのは筋違いだと分かっている。でもあの方も、悪気は・・」

「分かっているなら、あなたが謝る必要は無いわ」

ああ、またやってしまった。
関係の無い彼がわざわざこうして追いかけてくれたのだ。
大丈夫だと、笑顔の一つでも返すのがマナーだろう。
なのに、こんな突き放すような言葉を返してしまう自分は、本当に駄目な・・・。

「!?・・・グレイっ?!」

「今のは、俺が言い間違えた」

急にぎゅっと抱きしめられて、驚いた声を上げてしまう。
ここは他の職員も通る廊下だ。
いや、人に見られなければ良いと言うわけでは、決して無い。
離して欲しくてもがけば、すまないとまた謝りながらもそっと体を離される。
でも、両肩は掴まれたままだ。
先ほどと反対に、自分の肩は大きなグレイの手にすっぽりと覆われてしまっていて、その感触に怯むばかりだ。
あのとても器用で・・そしてとても不器用な大きな手とは違う。

「ナイトメア様のことは関係無くて、いや関係はあるんだが・・そうじゃなくて、君がその・・泣きそうな顔をしていたから」

「・・・え」

びっくりして、まじまじと見上げる。

「俺が、勝手に君を気に掛けて来ただけなんだ。沈んだ様子の君をそのままでいさせたくなかった・・・これは、俺のエゴだ」

すまなそうに寄せられた眉の下で、最近良く見ている気がする金色の光がこちらを見ている。
そらせない。
そんなことを言われてまだ可愛げの無い失礼なことを言わないようにと、開いたままだった口を慌てて閉じる。

「・・・珈琲を淹れようとしていたの。あなたも、飲むかしら?」

迷った末に、何とか絞り出したのはやっぱりそんな言葉で。
それでも、グレイは嬉しそうに笑った。
細められた瞳が、心の中のどこかを撫でる。
仕事が出来ることを褒められたときとは違う。
違うということに気付いて、でも深く考えないように胸の奥に仕舞い込んだ。





最初に会った時は、ただ初めて見る余所者だとそう思った。
何の力も無い、ひ弱で非力なちっぽけな少女というだけ。
上司が気に掛けているからそれとなく様子を窺ってはいたが、害になるようだったら離したほうが良いとも思っていた。
だが働きたい、仕事が欲しいと申し出てからの彼女は変わった。
全く思いも寄らなかった程に、生き生きとし出した。
頭の回転も速く仕事が出来る。
それだけでもいつも人手が足りない塔にとっては有難いのに、それだけではなく。
対人関係においてはどこか冷めた様子もあるが、相手の気持ちを考えることが出来て、如才なく立ち回れて気も利く。
上司のためではなく、自分の好奇心が勝るのも遠くは無いと心のどこかでそう感じていた。

「これは、美味いな」

感嘆してそう言えば、少しだけはにかむように笑う。
本当に良く見ていないと気が付かないほど一瞬の間だけで、後はまた無表情に戻ってしまうのだが、それでもそういう表情を見せてくれたことに嬉しくなる。
最初の頃には全く見せてくれなかった。
出会った当初は、毛を逆立てた子猫のようだった。
親か、もしくは飼い主だった相手とはぐれて、迷子のように一人で蹲って、周りには敵しかいないと常に気を張っているように見えた。

「あなたの口にもあったのなら良かった・・・そう言ってもらえて嬉しいわ」

その言葉に、引っかかった。
自分の口にも、と言う事は誰か別の者にも飲ませたのだろう。
そして、その相手にも美味しいと言わせたと、そういうことだろう。

「ナイトメア様にも、飲ませたのか?」

「?・・いいえ、淹れようとは思ったのだけれど」

言いよどんで、口を閉ざす。
沈黙が、休憩室の隅に落ちる。
上司が吐血して赤く染めた書類のことを思い出した。
ということは、まだあの方には飲んでもらったことは無いということだろうか。

「・・ナイトメアに珈琲は・・・駄目だったのね、ごめんなさい」

あの人、いつも体調悪いものねと申し訳無さそうに謝る少女に、少しくらいなら大丈夫だと伝える。
それでも申し訳無さそうな顔をする相手に笑顔を向けて、でも頭の中では全く別のことを考えていた。
珈琲を飲ませたことのある相手。
そのことを話した瞬間、思い出すようにして、いつになく和らいだ笑顔をしたアリス。

・・・時計屋、か。

胸の奥から、黒いものがじわりと染み出して来た。
仕方が無いことだ。
この世界に来て、初めて世話になって親しく過ごしていたと言うのだから。
偏屈で根暗で皮肉屋の、あの男。
あんな男のことを思い出しては泣きそうな顔をしてこんなに慕っているなんて、自分の知っている時計屋とその時計屋は違う男なんじゃないかと思うほどだ。
もしくは、アリスがよほど鈍いのか。

「時計屋とは、どうやって過ごしていたんだ」

気になって、つい聞いてしまった。
口にしてから馬鹿なことを聞いたと気付いても、もう遅い。
彼女の顔に、目まぐるしく表情が現れては消える。
懐かしそうに、思い慕うように、そして引き離された悲しみと、まるで万華鏡のようで美しくもあり、そんな顔をさせることが出来る相手に暗い嫉妬を覚える。

「どうやって・・も普通に、よ」

最後に全ての感情を仕舞いこんで、静けさの広がった表情でアリスは答えた。

「あの人は、時計の修理ばっかりしてたから。私はその隣で本を読んで、珈琲を淹れたりして。それでたまに強引に外に連れ出して」

「そうか」

それと分からないように、そうそうに遮る。
自分で聞いておいて最低な態度だとは思うが、その顔と柔らかい声で語られるその話を、それ以上聞いていられそうになかった。
今はもうここには居ないだろうと、その折れてしまいそうな肩を掴んで揺す振って、現実に引き戻してしまいたくなる。
今、目の前にいるのは時計屋では無いのだ、と。
いつの間にか自分を、・・自分だけを見て欲しくなっていた。





「はははっ!トカゲさんってばすっごいなあ」

爽やかな笑みを浮かべて、明るい笑い声をあげる相手を睨みつける。
重たい長剣が振りかざされるのを、両手のナイフを交差させて弾き返し、後ろに跳び退って距離をとった。

「エース!!何やってるのよ、剣を下ろして頂戴っっ」

廊下の端で、青い顔をしたアリスが叫んでいる。
それを聞いているのか居ないのか赤いコートの男、ハートの城の騎士、エースは笑いながらまた剣を繰り出してきた。

「何って、鍛錬だってば!トカゲさんなら怪我もしないし、君も安心して見ていられるだろう?」

「安心なんて、出来るわけないじゃない!!」

えー何でさと、笑う騎士に舌打ちをする。
どこから迷い込んだのか、廊下で運悪くかち合ってからずっとこうしている。
高い金属音が廊下に反響して、何事かと駆けて来た足音は愛しい少女のものだった。
いつも無表情なその顔に、焦りと困惑が濃く浮かんでいる。
なるほど、時計屋の元にいたのならこの騎士との付き合いも浅くは無いということだろう。
そのことにも少しイラついたが、いまはそれどころではない。
彼女にいらぬ心配はさせたくない。

「・・・ふうん」

ちらとアリスに走らせた視線に何を思ったのか、エースは構えていた長剣を僅かに下ろした。
腕の向こうから見える赤い瞳が、ぞくりとするような狂気を放ち始める。

「もう、手を出したんだ?・・さすがだね、トカゲ、さんっ!」

「・・!くっ」

下ろしたと思った切っ先が跳ね上がって、次の瞬間には眼前に突き出される。
紙一重で顔をそらした脇を、重く冷たい切っ先が抜けていった。

「余所見なんて余裕があるよね。でも無視するなんて、ひどいぜ」

「ひどいだと?ふざけてるのはてめえの方だろうっ」

低く押し込めた怒りを放つ。
それを見て、赤い瞳が三日月形に歪む。

「いいや、ふざけてるのはそっちだ。・・・あの子はユリウスのものなんだから、横取り、しないでくれよ」

アリスには聞こえないほど低く静かな声。
その名前を呼ぶときだけ、赤い瞳に光がともる。
他の全ては皆同じ、虚ろに見える。

「・・飼い主とはぐれて焦っているのか?」

その言葉がどういう意味を伴うのか、分かっていて言ってやる。
面白いほどに挑発に乗った男は、顔から全ての感情を引き剥がした。
虚ろになったその体から、ゆらりと立ち上るものが見えるようだ。
だがこちらとて、引く気は無い。

「!!やめてっ」

何かを感じたのかアリスが叫ぶ。
でも止められない。
ここからは殺し合いだ。
相手が死ぬまで続く・・・・。

「そこまでだ」

新たに加わった低く静かな声は、大きくは無くともその空間を制した。
飛び出しそうなアリスの前にふうわりと現れたのは、クローバーの塔の最高権力者でありグレイの上司でもある、ナイトメアだ。
エースは動きを止めただけで、構えた剣を下ろさない。

「騎士。ここで勝手は許さない」

重ねて警告をされて、その口元が弧を描くように吊りあがった。

「・・・ははっ。そういうことだから鍛錬はここまでみたいだ。ごめんな、トカゲさん」

「誰がっ」

「・・・グレイ」

誰がお前と鍛錬なんてしたいと思うかと吐き捨てようとする前に、ナイトメアの声が被さる。
その瞳がちらと背後を気にするように動いて、はっとした。
安堵した様子の彼女は、蒼白な顔を泣き出しそうに歪めていた。
ハートの騎士もそれに気が付いたのか、罰が悪そうにぽりぽりと頭をかいている。

「アリスも、ごめんな。また会いに来るからさ」

「・・・来なくていいわよっ」

ぎゅっと眉をしかめて、怒鳴りつける。
それを聞いても、ハートの騎士は嬉しそうに笑っている。
笑っている・・・いかれたハートを持つ、狂った騎士が。
思わずその横顔を見てしまった。
そこにアリスに対する恋情が無いのを真っ先に確認してから、その笑顔の意味を図る。
あの時計屋以外には虚ろしか見せないと思っていたのだが、意外なことにどうやら彼女にも多少は懐いているようだ。
引き離されたもの同士、といったところだろうか。
だからといって二人が一緒にいることを許すわけがない。
この騎士は危険だ。
アリスにはよく言って聞かせないといけない。
今は心を少しだけ許しているように見えても、最終的には時計屋のためにしか動かない。
あの男のためなら、きっと何だってする。
どうしてそこまで盲目にあんな男だけを追うのかは知らないが、その狂気にアリスが巻き込まれるのを黙って見ているつもりはない。
言って聞かないのなら、部屋に閉じ込めてでも守らなければ。

「・・・グレイ」

いつの間にやら赤い騎士の去った廊下の先で、ナイトメアの瞳がこちらをじっと見ている。
それは上司の顔ではない。

「っ大丈夫??」

駆け寄ってくるアリスに無意識の笑顔を返しながら、無言でその瞳を見つめ返した。





「グレイ・・・」

「・・なんですか、ナイトメア様」

書類をすでに山になりかけている紙の束に加えれば、相変わらず不健康な上司はげんなりとしてうな垂れた。
後ろに控えている部下から、署名をしたもらった分を受け取る。

「休憩ならさっき取ったばかりですよ」

「・・・分かっているんだろう」

ああ、そうだ。
分かっている。
分かっているからこそ、その話題を避けようとした。
だが相手は上司である前に、夢魔だ。
心を読むことに長けた相手を前に、そう読ませないようにすることは出来ても、全部を隠しきれるものではない。

「悲しませるようなことだけはするなよ」

新たな書類をめくりつつ、ちらとその色素の薄い瞳を寄越してくる。
懇願のようでいて、夢魔の顔をちらつかせるそれは脅しだ。
無言でその顔を見返せば、はあと深々と溜息をついて表情を崩した。

「お前は、悪い男だからなあ・・私は心配なんだ」

まるで、孫を心配する祖父のような顔だ。
父親ほどしっかりしておらず、一歩はなれた祖父辺りが似合っている。
可愛がって、おもちゃなどを買い与えてしまうようなポジションだ。

「誰が、おじいちゃんだ!誰が!!!」

すかさず心の声を読み取って叫び返してくる。

「興奮しないでください・・」

言うのと同時に咳き込み始め、抗議し振り上げた拳がよろりと机の上に乗せられる。
溜息を吐きたいのはこっちだ、と早足で近づいて咳き込むたびに大きく揺れるその薄い背中をさすった。

「ゲホッゴホガホッ」

カチャリ。

「・・・ナイトメア」

扉を開けた音がしたと思えば、またやってるのねと言わんばかりのアリスがそこに立っている。
入ってきたその姿をちらと見ながらも背中をさする手を止めないで居れば、咳き込んで身を丸めていた上司の背が急にしゃきりと伸びた。

「君までも何だ!!!!」

「・・まだ、何も言っていないわよ」

「思ったじゃないか!」

むしろ前のめりになって、赤いものを飛ばさんばかりだ。

「だから落ち着いてくださいと、ナイトメア様」

「お前たちは揃いも揃って、私を何だと思ってるんだっっ」

「はいはい、偉い上司だと思ってますよ」

「上司よ。多少・・いえ、だいぶ情けないけれど」

オブラートに包むことは諦めたらしい。
正直なアリスの言葉にうぐぐと唸って、ナイトメアはそのままばたりと机につっぷした。
押しのけられた書類が舞って、床にハラハラと舞い落ちる。
仕方が無いわねといった表情で、足元に滑ってきた紙を拾い上げてアリスは顔をこちらに向けた。
昼間のように明るい空の色をした瞳と目が合って、アリスは目を合わせたまま小さく苦笑めいた溜息をこぼした。

「うぬぬ・・お前たち、上司を仲間はずれにするんじゃない!」

「仲間はずれになんてしてないでしょう」

言って拾い上げた全ての紙をとんとんとまとめ、こちらに手渡してくるのを無言で受け取る。

「いーや!二人して分かり合ったように・・・私はお前たちのおじいちゃんじゃないからなっっ」

「!!!」

思わず、二人して顔を見合わせてしまう。
後半の叫びはスルーする。
見詰め合った一瞬の後、ガタンと立ち上がったのはナイトメアだ。

「私は認めないからなっ!!!」

「・・・・・」

「??いきなり、何を言っているの」

真っ赤な顔でくわっと噛み付かんばかりに言われる。
その横では、ナイトメアの方を訝しげに見てアリスが首を傾げている。
彼女のその顔を見て、自分の顔に知らずある表情が浮かんでくる。
それを見たナイトメアの顔が青白くなった。
自分でも分かる、これはちょっと悪い顔だ。
次にこちらを見たアリスには気が付かれないように、さっと笑みで覆い隠す。

「アリス」

「何、グレイ?」

「次の時間帯は休憩だろう?俺もなんだが・・ちょっと話があるんだ、いいだろうか」

「ええ、良いわよ」

「!!!グレイ!」

「あなたはさっき休んでいたでしょう。・・ちゃんと仕事しなさいよ」

慌てたようなナイトメアの言葉に、先に反応したのはアリスだった。
腰に手を当てて言い含めるようにしてからアリスはこちらを向いた。
行きましょう、とその瞳が告げていて、俺は頷いてわめく上司を後に部屋を出た。

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