始まりは、終わりの予感を伴って


..2





「アリス」

「・・・・・」

怒ったような顔が、ほろりと崩れてその下から泣きそうな顔が現れる。
彼女はもう気が付いている。
引越しが起きたことに。
そしてまた、帰る場所と決めた場所から自分だけ弾かれてしまったということに。
2度目だからだろうか。
クローバーの塔に来たときよりは冷静に見えたが、それはここが「その比では無いこと」にまだ気が付いていないからだ。

「ここは、君が今までいた時間軸とは違う。君を知っている者は、誰も居ない」

「!!!」

続ければ、彼女はその空色の瞳を零しそうなほど見開いた。
残酷なことを告げていると分かるが、それだけだ。
それ以上の感情は無い。
余所者はこの世界を渡っていくしかない、そういうルールなのだ。
そうして徐々に馴染んでいって、この世界の住人となる。

「で、でも、あなたはここにいるじゃない」

迷子が、すがり付くようにした手を掴んでふんわりと浮かび上がる。
悲鳴を上げるアリスに何も言わずに、森の木々を超えて国全体が見渡せる高みへと飛んだ。

「ここはもう、クローバーの国ではない。ダイヤの国だ」

遠くにそびえる、ハートではなくダイヤをあしらった城を指差す。
帽子屋屋敷、駅、美術館と指を指して説明すれば、案の定アリスは帽子屋屋敷と聞いて、ぱっと顔をほころばせた。
その顔をちらと見る。

「彼らは、君を知らないよ」

この時間軸は、君の出会ってきたそれより少し前のもの、もしくは君が連れてこられなかった国の軸とでも、言うところだろうか。
困惑したように眼下を見下ろすアリスに説明を続けて、そうして地上に戻る。
迷ったような顔を向けて、それでもナイトメアがもう付いてこられないと感じたのだろう。
諦めたようにアリスは歩き出して行った。

「幸運を祈るよ。・・・ここで誰と出会い、何が起こったとしても」

私は、君の味方だ。

そう、聞こえないように小さく呟いた。
声は彼女に届かずに、甘い香りの紫煙と共に空へと流れて薄れて消えた。





「ユ・・・ユリウス」

愕然とした表情で目の前に立つ相手を見つめ返してしまう。

「ん?誰だ・・・私を知っているのか」

見覚えのある黒く長いコートに、ゆるやかに揺れる藍色の長い髪。
訝しげにこちらを見る藍色の瞳に、親しげな光は一粒も見つからない。
聞きなれていたはずのその声を、今また初めて聞いたようだ。
初めてハートの国で会った頃のように低く冷たい声音。

「これがその余所者の、アリスだ」

間に立ったジェリコが、代わって紹介してくれる。

「こっちは、時計屋のユリウス=モンレーだ・・・ってあんたはユリウスを知っていそうだな?どっかで会ったのか?」

その質問はこちらではなく、横に立つユリウスに向けられている。
だがその問いをユリウスは一蹴した。
知らん、会ったことは無い、とこちらを見向きもしない。
心臓が軋んで鈍く痛みを発している。
森まで付いてきた顔見知りのほうのナイトメアは、ここにユリウスがいると知っていたのだろうか。
呆然としながらそこまで考えて、かぶりをふった。
・・・知っていて、どうだと言うのか。
目の前のユリウスは、どう見てもユリウスだけれど、あのユリウスでは無い。

「ごめんなさい、変な態度をとって。初めまして、アリス=リデルといいます」

初対面の相手に名前を告げて、お辞儀をする。
鼻をならしただけ、ユリウスは何も返してくれなかった。
鈍かった痛みが、全身を侵食するかのように広がっていく。
ここにはいられない。
そう思った。
また、国の中を回るため、別の滞在地を決めるために美術館を出る。
心配そうなジェリコに背を向けて、歩みを速めて立ち去った。

「・・・・・」

硬く口を引き結び、歯を食いしばる。
口を開けば、おかしなことを言ってしまいそうだ。
本当は自分を知っているんじゃないか、何か訳があってそういう態度を取っているんじゃないか。
ユリウスは優しいから、もしそれ相当の理由があるのならば説明もせずにああいった態度を取ってもおかしくはない。
ああいった態度。
私を忘れて冷たく振る舞い、己から遠ざけさせるような態度。
そうならば、相当の理由というのはもしかして、ユリウスの傍にいれば何かの危険があると、そういった類のことではないだろうか。

「っ!!」

立ち止まって、振り向く。
出てきたばかりの美術館の中に戻って、ユリウスを問い詰めたい。
そうじゃないのか、と。
急に立ち止まったせいで、後ろを歩いていた人とぶつかる。

「あ、ごめんなさい」

顔立ちは良く見えない。
ただ訝しげに見られたような気がして、慌てて謝ってから道の端へ避ける。
今来た道を戻るべきか。
それとも前へ進むべきか。

君を知っている者は、誰も居ない。

夢魔の言葉を思い出す。
はぐらかすことはあっても、嘘はつかない・・はずだ。
クローバーの塔ですっかりその情けない姿が見慣れてしまい、最初の頃に夢で会っていたミステリアスな夢魔の顔をされれば、急に分からなくなる。
でも、ああまではっきり言ったのだ。
他に訪ねた帽子屋屋敷のみんなも誰も自分を覚えていなかったのだし、それが事実なのだろう。
踵を返しかけた足を、また前に戻す。
他の場所を探そう。
とりあえずどこかに落ち着いて、これからのことはそうしてからゆっくり考えればいい。
これから、・・・この国のユリウスとどう接して行くのか、と。





「・・・よろしくお願いします」

「ああ。何も気兼ねすることなんか無い。あんたの好きなように過ごしてくれてかまわないからな」

いかつい見た目と裏腹に、親しみやすくとっつきやすい態度で墓守領の領主こと、ジェリコ=バミューダは笑った。
美術館と墓場を主にして、更にこのどこからどうみてもそうは見えない男はマフィアのボスだという。
だというのにここはマフィアの領土にはとても見えないほど、街も人も穏やかに見えた。
結局、またここに戻ってきてしまった。
他の領土も見て回った結果、ここが一番安全そうだと判断したのだ。
・・・ハートの国では、時計塔を選んだときのように。

「ん、どうした」

「あ、いいえ・・何でもないです」

無表情で黙り込んでしまったのを見て、ジェリコが何事かと顔を覗き込んでくるのに、慌てて何でもないと首を振る。

「・・・そうか?」

上体を起こしながら相手は顎に手をあてて、うーんと唸った。
天井を見上げて、こちらを見て首を傾げて、それから何かに気が付いたように小さく笑って目を細めた。

「敬語だ」

「???」

何か、おかしかっただろうか。
相手は得心がいったように頷いて、そして真っ直ぐにこちらを見た。

「敬語なんて使わなくていい。もっと、楽にしてくれ」

「でも、お世話になる人にそんな・・」

「それなら尚更だ。これからここで滞在するんだ。俺はあんたに少しでも楽しく過ごして欲しい」

「・・・・・」

「そういうくせってんなら、急いで変えろとは言わないさ。少しずつでいい。敬語はなしだ。俺とここの奴らと、もちろんユリウスも・・全員にだ」

「あなたって、本当にマフィアのボス?」

つい思ったままを正直に聞いてしまった。
帽子屋ファミリーしかマフィアを知らないから致し方ないが、彼はどうもそうは見えない。
あまりに気さくで、そういった血なまぐさいことには無縁に見える。
それどころか、どこか悟っているかのように遠い目をすることがある。

「はははっ。あんたにそう言われちゃおしまいだな」

そう笑っている姿からは、穏やかな空気しか伝わってこなかった。





「アリス、君は何をしているんだ」

「何って・・・あなたこそ、別の時間軸にも堂々と来られるのね」

こっちにはこっちのナイトメアがいるというのに、大人姿のハートの国からの知人であるナイトメアは、何てこと無いかのように人の夢に入り込んでくる。
以前の国での家主であり上司であったはずなのに、その時感じたヘタレで駄目駄目な印象はすっかり鳴りを潜めてしまった。
だからだろうか。
親近感が薄れれば、誰も知り合いの居ない国で何とかやっていこうと苦しむ気持ちが、苛立ちの刃を作り出す。

「これでも私なりに努力しているんだけど?・・あなたは、良いわね」

「・・・私は、夢魔だからね」

私が怒っていることには気付いていたのだろう。
やれやれと肩を竦めてみせる、その態度がまた癇に障る。

「わざわざ来てくれなくても良いのよ。あなたには目覚めた場所でやるべき仕事があるでしょう」

暗に、クローバーの塔に帰ってと告げる。
ナイトメアがここ、夢の世界に来てしまったことで、きっとクローバーの国のグレイたちはまた仕事が滞って苦労しているに違いない。

「その心配は要らない。それに、私には君を見守る義務がある」

「義務?」

「ああ。白兎と約束したからな」

「・・・ペーター・・」

ダイヤの国にはいない。
他のどの友人たちと離れても、ペーターと離れることは無いと思っていた。
だが、結局は離れてしまった。
今ここに居るのは、ナイトメアだけだ。

「・・・・・」

ナイトメアが何かを思案してその目を伏せる。
良く分からない道化服の男に心を逆なでされるような曖昧な言葉ばかりを投げつけられて、アリスは疲れていた。
ナイトメアがあの男がいる変な空間から自分を切り離してくれたのは分かっている。
でも、もう静かに眠りたかった。

「・・・アリス」

眉を下げて気遣う素振りを見せるナイトメアから、目をそらせて腕組みをしていれば、小さく溜息を吐くのが聞こえた。

「そうだな。・・疲れているところ悪かった。良く眠って、次は笑顔を見せてくれると嬉しいよ」

苦笑したような声音と、いつ取り出したのか分からない細いパイプが繋がる水煙草から吐き出される煙。
ナイトメアが好きな甘いフレーバーの香りが広がって、視界が徐々に霞がかる。
本当は、会えて嬉しくないわけじゃない。
嫌味を言って、これでこのナイトメアとも会えなくなってしまったら、きっと自分は後悔するだろう。
でも正直に寂しいだなんて言えなかった。
そういう性分なのだ。

「分かっているよ」

深く柔らかなまどろみの中に引きずり込まれる前に、そういって笑うナイトメアの声が聞こえた気がした。

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