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一
「あれ?兄弟、お姉さんは?」
「え、さっきまでそこに座らせて・・・あれ?」
開け放った窓の外、夜の帳が下りた庭から薔薇の香りが漂ってくる。
ひらりと風に舞うカーテンに、双子は顔を見合わせた。
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ふわりふわりふわり。
さくさくさく。
月明かりの下、紅く咲き誇る薔薇の中を、アリスは夢の中にいるようにふわふわと歩いていた。
最近の出来事が、全然思い出せなかった。
エリオットや双子がいたような気がするが、それがいつだったかもどんなことを話していたかも、何をしていたかも分からない。
ただ、あの人はいなかった。
黒い髪の屋敷の主。
彼は一度も姿を見せなかった。
ふわりふわりふわり。
白いネグリジェの裾と、リボンも何も付けていない金茶の髪が、歩くたびに風に舞い上がる。
裸足の足の下に、ひんやりとした地面と、少し見ない間に生えていたのか、ちくちくとした雑草を感じる。
彼が手入れをしない間に、我が物顔ではえてきたその雑草が急に憎らしくなり、アリスは立ち止まってその草を引っこ抜いた。
むしったその勢いで、むき出しの腕が薔薇の棘に引っかかれて、紅い筋が走った。
あっという間に小さな紅い粒がうまれ、それをじっと見ていたアリスは、何となく無性に笑いがこみ上げてきた。
「おや、アリス」
手にしおれた雑草を握り締め、微笑を浮かべていたアリスの、その背後の薔薇の生垣がざわりと揺れる。
間から出てきたのは、ハートの城の女王だった。
「ビ・・バル、ディ」
久しぶりに出した声は、掠れてガラガラと不快な音が混じっていた。
久しぶり・・・?
最近そんなに話してなかったかしら?
・・・誰と・・・?
思考の渦にはまったアリスのその声に、ビバルディは眉をひそめた。
「久しぶりに会うたと思えば、何じゃその死に損ないのような様は」
ふらふらと青白い顔、微笑を浮かべていた様子。
不快気に顔を歪めたビバルディの耳に、もう一つの足音が聞こえてきた。
「・・・何だ、姉貴。い・・」
いたのか、と続けようとしたブラッドの目が見開かれて、その目には危うげなアリスが映っていた。
この薔薇園は、ブラッドの薔薇園だ。
制約もあり、限られたものしか入れない。
そこに、彼女が、アリスがいる。
今ここにいるということは、自分が招き入れて、しかも自分がいないときも立ち入る許可を与えたということだ。
「いたのかとは、挨拶じゃな」
不快な様子を隠そうともせずに、ビバルディは現れた弟を怒鳴りつける。
「それはそうと、何だこれは。アリスは一体どうしたというのじゃ!」
「・・・姉貴まで、知っているのか?」
「何を、知っていると?お前のこと以外にわらわは何も知らぬ。ええいさっさと言わぬか!」
「知らん。姉貴こそ、知っているなら教えてくれ」
続くブラッドの言葉に、アリスはびくりと大きく肩を揺らした。
パァンッ
「・・・っつ」
空気を切り裂くような音が、夜の薔薇園に響き渡る。
「・・その女、じゃと?」
叩いた手のひらも赤く腫れ痛みを発したが、ビバルディはそれにも気付かず、弟の胸倉を掴みあげた。
「お前に何かあったのかは聞いておる」
「・・どの部下を縛り上げてやろうか」
「お前の部下の話などどうでもいいわ」
アリスを壊したのは、お前じゃな、とビバルディはその赤い唇でつむぎだすや否や、ブラッドを薔薇の生垣に向けて突き飛ばした。
さすがに突っ込むほどではなかったが、よろめいたブラッドの視界の中で、ビバルディが蕩けるような笑みを浮かべて、少女を引き寄せるのを見た。
「っふ・・ふふふふ。そう、そうかアリスを壊したか」
こんなにおかしなことは久しぶりじゃ、と上機嫌で狂気の女王は笑んだ。
「・・壊したのなら、もういらぬな」
その口ぶりは、了承を求めているものではなくて。
「はっ・・・何を・・」
「いらぬのなら、わらわがもらおう。アリスはもう、わらわのものじゃな」
何を馬鹿なことを言い出すんだと呆れようとして、ブラッドは失敗した。
人形のように表情もなく、何の反応も示さないただの少女に、ビバルディは慈しむような、愛おしいような表情を向けている。
赤いマニキュアが光る細い指先が、アリスと呼ばれてる少女の髪を梳き、囲い込むような両腕は、まるでお気に入りのぬいぐるみを抱きしめているかのようだった。
少女の今にも折れそうな腕に走った紅い線は、薔薇の棘で引っかいたのか。
その様さえも嬉しそうに指を這わせて、持ち上げてその傷口に紅い唇を寄せた。
その光景を見た瞬間、焼け付くような嫉妬を覚え、ブラッドは衝動に突き動かされるようにアリスの方へと手を伸ばした。
その手がぴしゃりと叩き落とされる。
「わらわのものに触るでない」
少女へむけていた柔らかな眼差しが一変、冷え冷えとした殺気を感じさせるような目で、ビバルディはブラッドを睨み付けた。
叩かれた手をもう片方の手で押さえ、ブラッドはその腕の中の少女に改めて目を向ける。
反応も表情も乏しい彼女の目が、一瞬ブラッドに向けられた気がした。
「それは・・・まだ私のものだ」
割れそうに痛む頭を歯を食いしばってこらえる。
「そうだな・・・お嬢さん」
茫洋とさ迷っていた視線が、ブラッドの視線と交差する。
その一瞬を逃さず捕らえて、目を合わせたまま唇から名前を紡ぎ出す。
「・・アリス」
少女の目に徐々に驚きという感情が生まれるのを、ブラッドはじれったく見ていたが、我慢できずに一歩大きく踏み出した。
ずっと彼女を捕らえている姉の両腕を引き剥がし、引き寄せる。
思いのほかあっけなく、ビバルディの腕は解かれた。
そのまま、吸い込まれるように倒れこんできた体をしっかりと抱え込めば、割れるように痛んでいた頭痛がすっとひいていった。
「なんじゃ、つまらぬ」
ちらりとアリスを見遣って、ふてくされたように口を尖らせたビバルディは、さっさと背を向けて歩き去っていってしまった。
「アリス」
その背中がすっと消えたのを見届けてから、ブラッドは腕の中の少女の顔を覗き込んだ。
アリスは、なんだか泣いているように笑い、そして静かに目を閉じた。
「・・お嬢さん?」
くったりと力の抜けた体は以前に何度も触れたときより、明らかに軽く。
白かった顔色は、月が雲間に隠れた陰影の中では、蝋のように生気がなかった。
「くそっ。おい、お嬢さん!アリス!!」
慌てて抱きかかえた体は、ひんやりとした冷たさしか伝えてこない。
思わず胸に当てた手には、この世界に唯一の心臓が動く振動が感じられるが、それも何だか弱弱しい。
今にも針が止まるように、そのトクリとなる音が止まるような気がして、ブラッドは屋敷に向けて走った。