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一
「いってらっしゃい、ブラッド、みんな」
「ああ、行ってくるよ。お嬢さん」
少しだけ慣れてきた、屋敷のみんなのお見送り。
以前は心配ばかりしていたけれど、そんな不安が顔に出てしまうと、途端ににやにやとし出す男がいる。
にやにやし出すだけならまだしも、くるりと踵を返しさっさと引き返してきて、あまつさえ「不安そうなお嬢さんを一人置いていくことなどできないな。後はお前たちに任せた」なんていって、そのままアリスの肩を抱き寄せてくるのだから、たちが悪い。
だから、今は笑顔で見送ることを心がけている。
彼らの仕事がどんなに後ろ暗いもので、危険と隣あわせなものなのか分かっているだけに、少しでも多い人数で。
そうしてみんなが無事に帰ってこられるなら、その方が良い。
それでも、屋敷から遠ざかる後姿には、いつも心が怯えに小さく震える。
もし、これが最後の姿になってしまったら?
もう、あの宝石のような翠碧の瞳で見つめてもらえられなくなったら?
声も聞けず、触れてももらえなくなったら?
不安を締め出すように、いつも以上に熱心に仕事を始めるアリスの姿を、屋敷の使用人たちはだるだるとした態度で、でも暖かく見守ってくれる。
もちろん、アリスに向けるその微笑みの下には、屋敷に攻め込まれてもアリスだけは守り通せという主の使命を隠しているのだが。
今日も今日とて、殺伐とした仕事とは思えないほど賑やかに出かけていった面子を見送った後、アリスは少々執拗なほど屋敷を磨き上げることで、放っておくと鬱々としだす気持ちに蓋をしていた。
廊下を掃除して、そうだ台所のシンクも綺麗にしよう。
それが終わったら風呂場にお湯を張って、みんなが帰ってきたときにすぐに入って疲れを癒せるようにしよう。
入浴剤も入れようかしら。
そうそう、きっとまたお酒も飲むんだから、軽いつまみも作っておこう。
みんなが帰ってきたときのことを考えれば、自然に心が浮き足立って、仕事をする手もいきいきと動き出す。
いつも屋敷にいるときは、少しうるさかったり、しつこくて相手をするのが面倒なときもあるけれど、それでも姿が見えなければ、こんなにも不安になる。
部屋と廊下の掃除が終わり少々の休憩も挟んで、風呂場のだだっ広い大浴場にいたアリスのもとへ、ばたばたとあわただしい複数の足音と怒声のようなものが聞こえてきたのは、屋敷の面子が出かけていって、4時間帯は経ったころだった。
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「早く、医者を呼べっつってんだろ!」
廊下に響き渡る大声は、エリオットのもののように聞こえる。
・・・医者?誰か怪我をしてしまったのだろうか・・・
手にしていたスポンジを放り出して、アリスは廊下を人が集まるほうへ急ぐ。
通り過ぎた玄関から続く、転々と落ちた赤黒いしみと、そのしみが続く方向にある部屋を思い浮かべて、血の気がどんどん下がっていく。
たどり着いた屋敷の最奥。
いつものだるだるとした雰囲気もなくざわめく使用人の間をすり抜けて、開いていた扉をくぐりぬける。
目に付いたのは、部下に指を突きつけて大声で指示を出す、オレンジ色の髪と同色の長いウサギ耳。
指示を受けて部屋から飛び出していく、血を浴びて黒いしみのできたコートをきた構成員たち。
そしてその間から見える、屋敷の主の寝台。
枕に広がる乱れた黒い髪。
血の気のうせた白い顔。
清潔な白いシーツにも零れ落ちた赤い・・・。
目の前に広がる光景が信じられなくて、アリスは力が抜けて、ぺたんとその場に座り込んでしまった。
「お姉さん!」
「大丈夫?お姉さん?!」
いつの間にそばに近寄っていたのか、双子が肩や背におろおろと触れながら、顔を覗き込んでくることにもアリスは反応しなかった。
見開いた目が、寝台を呆然と見つめている。
一体何が起こったというのだろう。
いつでも余裕綽々で、屋敷の誰が怪我をしても、自分の服には埃ひとつ塵ひとつつけずに、だるそうに帰ってくる人が。
何故、ただいまの一言も、からかい混じりの髪へのキスのひとつもなしに、ただ静かに横たわっているのだろう。
部下に指示を出し終わったエリオットが近づいてくるのが分かったが、アリスはそちらを見ることも声を出すこともできなかった。
その顔を見れば、何か恐ろしいことを知ってしまいそうで。
口を開けば、愚かな問いをしてしまいそうで。
「大丈夫だ、アリス」
なにが、大丈夫だと言うんだろう。
表情をみないことで、その声音に含まれた沈んだ気持ちが否応なく伝わってきてしまった。
立てるか、と心配そうに声をかけられたのにも答えず、アリスは処置が終わったのだろう、人払いがされた静かな部屋の主の下へ、ふらふらと近寄った。
「ブラ・・ッド・・?」
恐る恐る声をかける。
まぶたにかかった髪を除けようと、伸ばした震える右手が額に少し触れた。
そのあまりにもひんやりとした肌に、瞬時に戻した右手を思わず左手で覆う。
これではまるで・・・。
馬鹿なことを思った自分の腕を、折れそうなほどきつく握る。
胸の中にぐるぐると灰色の濁ったものが溢れ出てきて、のどが詰まったかのように息ができなくなった。