The glow of a Firefly






?」

控えめに叩かれた扉がそっと開かれて、そこから大きな影がぬっと覗いた。

「ああ、アル・・・どうしたよ?」

「どうしたよじゃないよ、もうそろそろ出発しないと汽車が出ちゃうってば」

「あ、もうそんな時間?ごめんごめん、つい」

調べ物をするはずだったのが、気が付いたらつい脱線して読書に夢中になってしまっていた。
もう二度と読めないと思っていた、あの物語の続きやら、同作家の新作やらが辺りに平積みにされている。
それらを見渡して、アルフォンスが鎧の音を立てながら溜息混じりに部屋に入ってきた。

「もう、仕方が無いな。僕も片付けるの手伝うよ」

「ごめん。・・あれ、エドは?」

大きな手の上にこれでもかと本を重ねて、よっこいしょとアルフォンスは立ち上がった。
その目が辺りを見渡しているのに気付いて、はいらなくなった紙をそこら辺からかき集めた。
主に書き損じと、もう頭の中で整理し終えたり、研究手帳に清書してしまった分の調べ物に使ったメモ紙やレポート用紙だ。
インク壷に指を突っ込んで、その紙の束にぐるりと円を描く。
幾何学模様と文言を付け加えれば完成だ。
慣れた動作でそこに手を付けて、一拍遅れてはっとして手を離した。

「ごめん、アル・・よろしく」

はは、と乾いたような笑みで頼めば、何も言わずにアルフォンスが代わりにそこに両手をついた。
錬成陣に光が走り、紙でできた箱が組み上がる。

「・・・相変わらず、豪快だね」

出来上がった段ボール箱に重ねた本を仕舞いこみつつ、呆れたようにアルフォンスがこちらの指先を見て、それだけ言う。
その優しさと、インクに塗れて真っ黒に染まった指先を同じく見てから苦笑を返せば、部屋の外から何やら騒がしい音が聞こえてきた。

「何だろう」

言いながらフードを深く被り直すのと同時に、人よりよく聞こえる耳に聞きなれた声が届く。
段ボール箱を持ち上げようとしたアルフォンスの腕を止めて、その顔を見上げた。
そう言えばと、先ほど答えを得られなかった問いを、再度繰り返した。

「エドは?」

「え、兄さんなら先に駅に行ってるって・・・」

『だーから、それは俺じゃねえって!!!』

「「・・・・・」」

通り一杯に響き渡った怒声に、二人顔を見合わせて・・溜息をついた。



「エド」

っ」

勢い良く振り向いた反動でその三つ編みがブンと旋回し、相対していたらしい相手の顔にベチッとヒットしたのが見えた。
真っ赤な顔で鼻を押さえる相手の服装は、こちらでは見慣れた濃い青い制服、軍人のものだ。

「兄さん、上まで聞こえたよ・・」

宿屋を出る準備を整えて、アルフォンスが呆れたようにダンボールを持って後ろから降りてきた。
どうしたのかと首を傾げれば、白い手袋をしたその指先をびしっとその軍人に突きつけてエドワードが吠える。

「こいつが、俺たちのこと泥棒だから連行するって言いやがって」

「泥棒!?兄さん、何か盗んだの?!」

「何もやってねえって!!俺たちじゃないって何度も言ってんのに、見た奴がいるんだと」

「それで、その泥棒の特徴が似てるって・・?」

ぶすっと口を尖らせたエドワードの向こうで、軍人であろうその男が急に胸を張って見下すように睨み付けてくる。

「そうだ!まさにそいつのような大きな鎧と・・」

言いながら、ビシッと横に立つアルフォンスを指差してくる。
中途半端なちょび髭が小物感を演出していて、鬱陶しくなってきた。
ついでにこの流れだとおそらくは・・とそっと頭上の耳を手で覆う。

「それと、金髪に赤いコートのチ・・」

「だぁれぇがぁコートに埋もれて顔が見えないほどのドチビかあっ!!!!」

分かってたよ、この流れ。
アルフォンスの鎧の中でも反響しているエドワードの声に、うんうんと小さく頷く。
懐かしいな、このやり取りも。
しみじみとしていれば、怒声に吹き飛ばされそうだった軍人の男が、よろめいたその体勢を何とか整え直し、ついでに髭を指先で摘んで整えている。
ここまで小物感を演出しきれる相手もすごいなと無表情の裏で感嘆していれば、その小さな目がぎょろりとこちらを向いた。

「身分を証明できないのであれば、ここで拘束させてもらう」

「そんな、無茶苦茶な・・」

泥棒をしたっていう証拠も無いのに、言いがかりもはなはだしいと呆れれば、アルフォンスが小さな声でエドワードのことを呼んだ。
ようは、国家錬金術師の証である銀時計を見せれば、これ以上あらぬ疑いをかけられることも無く、身分の証明が出来るということだったのだが・・・。

「・・・・」

どことなく決まり悪げに視線を外したエドワードに、嫌な予感がした。

「まさか兄さん・・」

「エド・・・」

「・・・悪ぃ・・どっかで落とした」

ぽりぽりと後ろ頭をかくその横顔を見て、は顔に手を当てて盛大に脱力した。
横ではアルフォンスが両手をぎゅっと握って、エドワードに詰め寄って抗議している。
そこに勝ち誇ったような笑いが割り込んだ。
顔に当てた手の指の隙間から窺えば、笑い声の発信地点は言わずもがなな小物軍人からで、3人の無言の視線を受けて笑いを収めた相手はウォッホンと咳払いをする。

「連行しろ」

小物軍人の傍に控えていた名も無いような下っ端軍人に周りを囲まれる。
こうなったら大人しく連れて行かれる方が、面倒を避けられるかもしれないと背に手を添えられて、無抵抗のまま車のある方に押し出されようとした腕が、横から伸ばされた腕にぐいっと引っ張られて体勢が崩れた。

「っ・・って、エド・・?」

びっくりしてこちらの腕を掴む赤いコートから伸びた白手袋の手の持ち主、エドワードの方を見遣れば、憮然とした表情がこちらを見上げている。

は関係無いだろ」

その言葉が向けられた先、車の傍に立つ小物軍人は相変わらずちょび髭を撫で付けながら、こちらをにやにやと見ている。
どんな返事が返ってくるか、それだけで分かりそうな厭らしい表情に嘆息して、腕を掴むエドワードの手を外す。

「一緒にいるということは、事件の関係の有る無しに関わらず仲間であると判断させてもらう。・・・連れて行け」

まあ、そうなるだろうなと見るともなしに、空を見上げてしまった。
雲ひとつ無い、ぼんやりとしながらも穏やかな晴天だ。
もっと鮮やかな青ならば、と、兄弟よりも淡い金髪の穏やかに笑う生真面目な青年の顔が浮かぶ。
そして、その横に立つほんの少し仏頂面の黒い人影。
あの世界はあれからどうなっただろうか。
星喰みを倒して無事に・・みんな元気にしているのだろうか。

「青いな・・」

青空に浮かぶ、綺麗な光の輪の幻影を追う。
いつの間にか眼裏に浮かぶくらいに見慣れていた、光の輪と輝く星。
懐かしいと思う、そんな自分の無意識の感情をそっと瞳の裏に忍ばせた。






「でね、ユーリ・・」

最近の下町のことを忙しなく報告してくるテッドの話を頷きながら聞いていれば、不意に窓の外が騒がしくなった。

「何だろう?」

ベッドに座っていたのを立ち上がって、自分の座る窓際まで寄ってきたテッドが、騒ぎの元を確かめようと身を乗り出した。
窓辺から見える下町はいつもどおりに見えたが、見えない裏路地の方から徐々に声が大きくなってくるような気がした。

「・・・・・」

耳を澄ませて目をこらしてみれば、裏通りから何かが駆け出して来たのが分かった。
少し大きな犬に見えるそれは・・。

「え、魔物?!!」

テッドが叫ぶのと同時に窓脇に立てかけてあったニバンボシを引っつかむ。

「っ、ユーリっ!!」

呼ぶ声が背中に降ってくるのも構わずに、窓枠を蹴って飛び降りた体を魔物が走ってくる方向へと向ける。
荒い息、鋭い牙が覗く口腔からはみ出る赤黒い舌。
暗色の体は犬にも似ているがそれよりも大きく荒削りで、石畳を削って駆ける足にはひと薙ぎで肉を抉って重症を負わせられる太い爪が生えている。
旅の最中でも何度か見たことがある魔物の姿を目で捉えて、鞘を投げ捨てて駆け出す。
悲鳴を上げて逃げ惑う下町の連中の間を、興奮したように吼えて走り回るその姿を目で追った。

「っち・・」

建物の中に逃げ込めればいい。
だが視界の中に、腰が抜けて放心したように壁にもたれて座り込む複数の影が見えた。
小さな赤子を抱きかかえた母親と、その足元に震えながら寄り添う少女は親子だろうか。
今はまだ、興奮した魔物の目にその親子は映っていない。
逃げ惑う人の動きを本能で追いかけては仕留められずにいらついている、そんな様子が窺えた。
今のうちにそこまで走りこめれば。
魔導器が無くとも、逃がす隙を与えるぐらいには戦える。
そう思った視界に、新たな人物が現れた。





「・・・・・」

「・・・・・」

「・・・・・」

一台には収まらなかったので、二台に分けられて車に乗せられた。
両脇に座る軍人から伝わる緊張感を受け流しながら、外を流れる景色にぼんやりと目を向けていた。
運転する者と、両脇に二名。
後続の車両には、いっそ司令部でも何でもさっさと行って身分を確認してもらった方が早いと諭し、渋々ながら乗った兄とそれを宥める弟の二人、運転手と監視の軍人が同乗している。

「・・・・?」

変な違和感を感じた。
さっきから何度も道を曲がっては、わざわざ薄暗い裏道を通っている気がするのは何故だろう。
ここから近いオエライさんのいるところは何処だったろうかと町の地図を脳裏に思い浮かべていれば、車は左折してまたも細い裏道を走る。

「・・あの」

車に乗せられておそらくは初めて発する声だっただろう。
びくっとした両脇の軍人に、そんなに緊張することなのだろうかと首を傾げれば、運転席の男がバックミラー越しにこちらをちらと見た。
それを視界の端にいれながら、耳に届く違和感を今度はハッキリ意識した。
さっきまで後ろに続いていた後続の車の音が、急に遠ざかる。
左折したこちらの車に着いてくるどころか、後ろを走っていた車は真逆の方向 に右折したところだった。
どういうことだと、振り向こうとした視界がガクンと揺れる。

「おい、どうした」

横に座っていた男が運転席にいる男へ声をかける。
裏通りの人気のない道に、どこから現れたのか複数の人影がある。

「どういうことだ」

「っち・・話が違う!」

「・・・・・」

話が違うとはどういうことだろう。
あの兄弟と離されたことに、まさかなと思っていれば、苛立ったように車を止めて降りた運転席に座っていた男が、人影の中心にいた男に何やら話しかけたのが見えた。

「っ!!?」

瞬間、その身体が吹き飛んで衝撃で車が揺れる。
フロントガラスにぶつかった男はピクリとも動かなかった。

「何だよ・・ちゃんと連れてきたってのに・・なんで」

呆然と呟く横の男を無視して扉を開けようとすれば、ぐっと肩を掴まれた。
振り返った先の相手の顔は恐怖に引きつった必死の形相をしていて、肩を掴む指が離すまいと食い込む。

「お前を人質にすればっ・・・」

「・・・・・」

どういったやり取りをしたのかは知らないが、自分の身柄を引き渡せば報酬でもやると言われた、といったところだろうか。
ただし、その交渉は一方的に破棄されたようだが。
自分を盾にでもすれば、生き残れると思っている相手を無言で見遣れば、焦りと苛立ちに染まった顔で肩を強く押された。
抵抗しないまま、背中を押されて車外に出る。
狭い路地に散らばる人影は、暗い服装のいかにもガラが悪そうな連中ばかりだ。

「おい、お前らが欲しいのはこいつだろ・・っ」

ぐいっとまた肩を押されて、よろめきながら前に立たされる。
真っ黒な革ジャンにサングラスをかけた男がふらりと近寄ってきて、両手を腰に当てておもむろに身をかがめてこちらを覗き込んできた。
近いのと不快感で思わず顔をしかめれば、その口元がニイと吊り上る。
一瞬後には、暗い路地裏に正気か疑いたくなる哄笑が響き渡った。

「これはこれは、マジもんじゃねーか!結構、結構」

いきなり笑い出しては、ピタリと笑いを止める。

「・・ご苦労さん」

「・・、・・・!?」

視界の端を何かが抜けていく。
肩を掴んでいた手が離れて、背後の気配が一瞬にして消えた。
くぐもった悲鳴が一瞬聞こえた気がしたが、重いものが落ちる音と共に辺りが静かになった。
振り返らずとも自分をここに連れてきた男が死んだことが分かって、静かに身構える。

「怖いお嬢ちゃんだなあ、おい・・・歓迎するぜ?」

そんなを見て目の前で、大げさに両手を広げて見せた相手は満足げに笑った。
てっきり自分を研究所に連れ戻すために政府の後ろ暗い奴らが手を引いたのかと思えば、思っていた相手とは違うらしい。
それでも、あっさり軍人を殺した相手に気を許すわけにもいかない。
錬金術が使えなくなったために持っていた武器は取り上げられてしまっていたが、その代り少し集中して自分の身体の一部を変化させる。
山猫とのキメラであることを喜んで受け入れるのは癪だが、武器の代わりになる爪を鋭く尖らせる。
こっそりと変化させたつもりが、バッチリばれていたらしい相手にヒュウッと口笛を吹かれる。

「そんな物騒なもん出すなって。こっちにゃ血気盛んな奴らが多いんだ・・・もっと穏便に行こうぜ?」

あっさり人を殺しておいて穏便とは、どの口がいうのだろうか。
終始ふざけた様子の相手を睨みつけていれば、不意に頭上が陰った。

「みぃつけたぁああああ」

「ちっ・・まじかよ」

見たことも無い巨体が降ってくる。
目の前の相手が不快気に舌打ちをした。
慌ててバックステップした空間に、地面を軽く陥没させて真ん丸く太った人影が降り立つ。
目の前の相手の様子からして仲間では無いようだと、今のうちにと身を翻した眼前で思いもよらない大きな爆発が起きた。
押し寄せる爆風に踏ん張りきれずに壁に叩きつけられる。
火炎と噴煙に巻かれたのを感じたのもつかの間、の意識はあえなくブラックアウトした。





「何だ、何事だ」

くそやろう、と言ってやりたかった。
親子が座り込む壁の影から、光を弾く鎧を身に纏った騎士団の男が1人現れた。
まるで何が起きているのか理解をしていない、ただ喧騒に悪態をつきに来たとしか思えない程の、無駄に落ち着き払ったのんびりとした動作。
まだ、あと少し。
騎士団の鎧の音に、魔物が振り返ったのが分かった。
距離が、足りない。

「ひぃっ魔物・・?!」

「なっ・・おいっ!!」

自分に向かってきた魔物に、驚愕と悲鳴をもらした騎士団の制服を着た男が来た道を脱兎のごとく逃げていく。
その目に、置き去りにした壁際の親子は映っていない。
鋭く研がれた爪先が、逃げた獲物ではなく取り残された獲物に向けられる。

「・・んの馬鹿やろう!!!」

振り下ろされる、銀影。
手にした獲物を力の限り振りかぶって、投げた。
爪を振り上げたその肩の辺りに突き刺さる刃に、魔物が不快気にこちらを振り向く。

「っへ、来いよ・・俺が相手してやらぁっ」

魔導器は最早存在せず、刀は投げてしまった。
素手で対峙出来るかと聞かれたら、正直ちょっとヤバい。
それでも視界の端に、恐怖に竦み上がって逃げることも出来ずに蹲る親子の姿を捉えれば、不敵に笑って見せるしかない。
拳をぎゅっと握って、こちらに飛び掛かってくる魔物に向かって両足を踏ん張った。




パチリと見開いた眼前に飛び込んでくる異形の姿。
それが魔物だと頭の片隅に答えを見つけ、その答えに混乱する間もなく突っ込んでくる巨体から間一髪で身をかわす。
自分の身体に大きな違和感を感じた。
手足が、やけに長くなった気がする。
不意に聞こえた悲鳴に頭上に迫る鋭い爪に気付き、伸ばした爪で弾き飛ばそうとして自分の爪先が、指先が人間のそれだと遅れて気が付いた。
・・・まずい。
判断が一瞬遅れて、その代り無意識に体が動いた。

パチン

打ち鳴らした両手を身をかがめて地面に叩きつけるように押し付ける。
と同時に、そういえば自分はもう錬金術が使えないんだったと、判断を誤った 脳内が絶望に染まりかけた。

「っ!?!」

眼前に走る静電気の様な光。
火花を散らすように弾けて、地面が裂けて鋭い石の切っ先が聳え立った。
顎を打ち据えられた魔物が、ギャウンと啼いてたたらを踏む。
錬金術が、発動した。
その事実と共に、自分の視界を遮るように揺れ動く髪に気が付く。
怒りに満ちた瞳をこちらに向ける魔物に警戒しつつ、揺れる髪に片手を伸ばす。

「・・・これって・・」

自分の喉から出た声が、自分のものより低いなんて。
摘まんだ髪はさらりと風にのって指先をすり抜けていく。
黒くて長い髪。
まさか、まさかまさかと思う気持ちが胸の中を黒く濁らせていく。
脱力した腕に、いつか見慣れていたはずの黒い布地に紫の袖が見える。

「・・・・っ」

魔物が吠える声に、奥歯を噛みしめて両手をまた地面に押し付けた。
今度こそ鋭い石の刃が魔物を串刺しにして、断末魔の叫びを残してその巨体は力なく地面に横たわった。
その向こうに身を寄せ合う親子の姿が見えた。
足元にカランと転がる細い刀。

「・・・ニバンボシ・・」

ユーリの獲物であるはずのそれを、震えそうな右手で拾い上げる。
ぎゅっと掴んで踵を返す。
背中にかかるか細い女性の声は恐怖に震えながらも小さくお礼を伝えている様だったが、その声に応える余裕は今の自分には到底なかった。





あ、・・・?
不意に視界が揺らいだ気がして、軽く頭を振って瞬きをした。
次の瞬間には目の前で光が迸って、地面が生き物のように波打った。
地面が盛り上がって魔物の顎を打ち据える。
自分の視界で起こっている出来事なのに、体の一切の自由が利かなかった。
だというのに、勝手に手足は動いている。

「・・・これって・・」

自分の声が自分の意思とは無関係に発せられるという事態に、脳が混乱を極めている。
摘まんだ髪の毛の感触も分かる。
なのに自分を取り巻く周囲も何もかもが、他人事のように感じる。
何が起きているのか、分からなかった。
自分の右手がニバンボシを拾い上げて、そしてどこかへ歩き出す。
それからは一切誰とも目を合わせずに真っ直ぐに歩いていく、その先にあるのが、箒星の自分の部屋だということだけは何故だかハッキリと分かった。
声をかけてくる女将さんに軽く頭を下げる。
そんな仕草を返した俺に、相手の目が真ん丸くなったのが視界の端に映った。
そんなことにも気が付いた様子も無く、階段を上り終え部屋の扉を開ける。
取っ手を握る自分の手であるはずのそれが、微かに震えているのに気が付いた。
力なく、ベッドに座り込む。

「・・・ユーリ」

呟いたのは自分の声。
呟かれたのは自分の名前。
そのことにハッとする間もなく、ぎゅっと閉じられた瞳に目の前が真っ暗になった。





戻れ。
もどれもどれもどれ。
ベッドの端に深く座り込んで、膝に両肘を置いて組んだ拳に額を押し付ける。
強く強く念じる。
それでどうなる訳も無いし、どうにかする方法も分からない。
ただ、それでもひたすらに自分の意識を切り離したくて、ぎゅっと瞑った眼裏に発光する光さえも闇の中に塗りつぶすかのように、一心不乱に願った。

「・・・

噤んだ口が、勝手に開いて声を零した。
思わず上げかけた頭はもう自分の意志では動かない。
パチリパチリと瞬きを繰り返す視界。
組んだ手を解いて、凝りを解すかのように開いたり閉じたりを繰り返す。

?」

今度こそ、ハッキリと自分の名前が呼ばれたのを理解した。
答えようとしたが動かない口に、一瞬の後にほっとした。
意志はまだここにある。
でも、もう自分はこれ以上この体を動かしてはいけない。
これは彼の、ユーリの身体だ。

「おい、いるんだろ・・・返事しろよ」

したくても出来ないし、出来てもしてはいけない。
意志はまだここにある。
動いて、生きているユーリの、姿は見えずとも無事な様子にほっとした。
良かった。

「おい!っ」

立ち上がって焦った様子で辺りを見回し、押し殺した声音で自分の名前を呼ぶ相手に、不謹慎ながらも笑みが浮かぶ。
こちらの様子が見える訳も無いし、口元が緩んだりもしていない。

・・本当に・・いねえのか」

自分の名前を呟いて、深い溜息を一つ吐いてユーリは落胆したようにまたベッドに力なく座った。
迷子のように項垂れた頭を、もし自分の手があったらそっと撫でていたかもしれない。

「・・星喰みは倒したし、魔導器はまぁ手放すことになっちまったが、この通りみんな何とかやってる」

聞こえているかも、いるのかすら分からない相手に、俯いて目を閉じたままユーリは話し出す。
ユーリが目を閉じたので必然的に自分の視界も閉ざされて、も意識的に感覚は無いが瞳を閉じた。
真っ暗な中に、静かに話すユーリの心地よい低音がほとりほとりと落ちてくる。

「世界は、・・テルカ・リュミレースは救われたよ。みんな、生きてる」

次の瞬間、ぐっと拳が握り込まれるのが分かった。

「・・だってのに、何やってんだよ」

押し殺した声が、怒りを帯びた。

「お前はいつの間にかデュークの野郎と仲良しになって、勝手に人の命なんて大層なもんになって消えちまって・・・」

そこまで言ってから、言葉が不意に途切れる。
拳から不意に力が抜ける。
目を瞑ったまま、ユーリが微かに笑う。

「・・礼の一つも言わせねーなんて、な・・・・許さねえ」

言って静かに目を開く。
ユーリの何かを決意した様子に、不意に胸騒ぎがした。

、お前もしかしてずっと俺ん中にいたんじゃねーだろうな」

違う、と見えるはずがないのに首を振った。
あの時、ユーリの命となってその中に溶けて消えたと思っていたが、気が付いたらアメストリスに戻っていたのだ。
錬金術は使えなくなってしまったが、私は私として生きていた。
だから、ユーリはそのことに怒りや、ましてや胸を痛める必要も無いのだが、それを伝える術がない。

「・・・悪かったな」

謝る必要も無いというのに。
徐々にの中に焦りが生まれる。
何だか、嫌な予感がする。

「・・・汚れちまってるし、俺のなんかじゃ嫌かもしんねーけど」

自身の両手を見下ろして話すユーリの言葉の先を聞きたくないのに、耳を塞ぐことは出来ない。

「こんな体でも良ければ・・くれてやるよ」

ぎゅっと心臓を鷲掴みにされたような気がした。
ユーリが目を瞑る。
駄目、駄目だ、それは駄目。
そんなことは、望んではいない。
吸い寄せられるような感覚がする。

「駄目・・いやだっ!」





自分の声が、自分では無いものによって発せられる。
その自分らしからぬ言葉が、自分の声でなされていることに若干気持ち悪いなと思いつつ、ユーリは心底ほっとしていた。
ただ、念じただけだ。
に、この体を受け渡せるようにと、そう強く祈った。
結果はどうだ、上手くいったじゃないかと感覚の無い口元で笑う。

「ユーリ?!ま、まさか消えちゃったなんてそんなこと・・」

混乱したように部屋の中を歩き回り、それから立ち止まって目を瞑ってじっとする。
何をしているんだと思えど、何も伝わってくるはずも無く。
途方に暮れてふらりとベッドに座り込む。
さっきまでの自分と、結局同じようなことをしている相手にまた笑う。
さすがに自分は消えちまうかもしれないと思ったが、まあこれも悪くないかと思って様子を窺っていれば、自分の手がそっとシーツを撫でた。

「・・・枕」

枕をじっと見ている。
それから己の手をじっと見て、また枕を見た。
何を考えているのだろうか。
おもむろに打ち鳴らされた手の平が、枕に押し付けられた。
ふわりと浮かんだのは錬成陣だったか。
見る間に形を 変えたそこにあったのは、もう枕では無かった。

「・・・こんなもんか」

見下ろして呟く先にあるのは、白い枕と中の羽だか綿だかを元につくられた、白い猫のぬいぐるみだった。

「ユーリ、ごめん」

何に謝ったのか見当も付けられずにいれば、おもむろにベッドに放り投げられたままだったニバンボシに手を伸ばされる。
2つ、付いていたガラス玉を1つだけ外して出来た猫のぬいぐるみと共にシーツの上に並べる。
再度伸びた手がニバンボシを握り、そしてその刃にすっと指が滑らされた。
痛みは、感じない。
おそらくは痛みを感じているはずのは、眉を顰めることもせずに黙々と作業を続けた。
小さな赤いガラス玉の表面に爪先を使って血で描いていく錬成陣。
何となくその模様を見たことがあると思いつつ、何処で見たのかを思い出そうとすればそれは・・・。

「上手くいってくれ・・・頼む」

ユーリの声で、は低く祈りを込めて両手をかざした。





「待てっ」

聞こえるはずがないし、止められる筈も無い。
それでも発しようとした言葉は、自分の口からハッキリと音を伴って発せられた。
自分の耳に届いたそれと、自分の意志で開閉する瞼にユーリは愕然とした。
指先を伝った滴が、ポタリと白いシーツの上にしみを作る。
チリとそこから小さな痛みが走って、眉根がぐっと寄る。
は、どこだ。
赤い錬成陣の形が、ジュディが描いたものに似ていて思わず肩甲骨の辺りを右手で覆った。

パタリ

細い何かが視界で動く。
パタリ、パタリパタンと動くそれを、ユーリは先ほどとは違う感情と共に愕然と見下ろした。

「こんなものかな」

動いている、布で出来ているはずのぬいぐるみが。
そして喋った。
シーツの上の猫の形のそれが、尻尾をぱたりと動かしてからおもむろに身を起こして、背伸びをするようにぐぐっと体を伸ばした。

「お・・」

こちらを仰ぎ見るようにしたぬいぐるみの猫に、触るのも躊躇われてユーリは固まった。

「・・・お?」

その口から、聞き間違いだと思ったまさかの声が再度聞こえて今度こそ目を見張った。
んー?と唸るような声を発しながら、前足と後ろ脚を交互に動かして動作を確認する、その両掌に収まってしまうくらい小さな布の生き物を凝視する。

「お、おまっ・・・」

「ん、上手くいった、良かった」

うんうんと頷いて、こちらを向いて座る。

「ただいま、ユーリ」

その声は確かに記憶の中のものと寸分たがわず、ザウデで見たのを最後に数年もの間姿を消した彼女のもので。
ただ、何がどうなってこうなったのか。
こんな再会は予想外過ぎて。

「・・・ユーリ?」

「・・・・・勘弁してくれ」

眩暈がしたような気がして、ユーリはふらりとその場にしゃがみ込んでベッドに突っ伏した。
その髪というか、頭を柔らかく小さなものがぽてぽてと叩いてくる。
薄眼を開けてちらと髪の間からそれを見れば、やっぱり見間違えでも何でもなく、白い小さな子猫がこちらの様子を窺っている。
但し、布製である。

「・・・・

「うん」

首をちょこんと傾げて、応えを返す猫に無表情に近いきょとんとした顔の彼女の顔が浮かぶ。
困惑する思考をとりあえず、脳の片隅に放り投げる。



もう一度呼んで、そっと手を伸ばした。

「・・・おかえり」

撫でた手の平にすりと、微かに擦り寄ってくる。
布の感触ではあるが、見た目も動きも猫にしか見えない。
面影があるわけもないが、元は赤かったはずのガラス玉で出来た、蛍のように光る碧い瞳がの色を唯一表していた。










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