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一
それから数時間帯。
安静にしていろとユリウスに言われて、ベッドの上で過ごした。
元々熱なんて無い。
少し寝ていれば顔色もすぐ良くなり、念のためと休ませてもらった数時間帯を過ぎてから、ジェリコの許しを経てスタッフの仕事に復帰した。
「・・・あら、アリスさん。体はもう大丈夫なんですか?」
廊下ですれ違った顔なじみのスタッフ仲間に声をかけられる。
「ええ、もうすっかり元気よ。シフトに穴を開けてしまってごめんなさい」
「そんなことは気にしなくて大丈夫ですよ。代わりのスタッフはいくらでもいますから」
何でもないことのように笑っていう彼女に、ばれないように苦笑する。
ここの人たちは変わらず、自分たちを代わりのある意味も価値も無いものだと思っている。
「・・休んだ分、またばりばり働くわよ。よろしくね」
「無理はしないでくださいね」
にっこりと笑ってこれから休憩だと言う彼女とは別れる。
反対方向に向かって扉を開けばそこは職場、人が溢れる美術館だ。
「あー、わんちゃんだ、わんちゃん」
「にゃんこもいるよ!」
小さい子どもが動物を追いかけて走っているのを、転ばないようにねと微笑んで、自分が任せられている立ち位置に向かう。
目が合ったスタッフに、お疲れ様と告げて交代でそこに立った。
そう言えば、前にエースがめちゃくちゃにしてしまったあの部屋はどうなったのだろう。
ちゃんと直ったのだろうか。
来る前に、先に確認するべきだった。
案内用にと渡されているパンフレットにちらと目を走らせる。
「・・・・水族館の部屋」
潜水艦の部屋、だったはずなのだが、やはりあの絵はまだ直っていないのかもしれない。
「すいませーん」
「あ、はい。どういたしましたか?」
考え込んでいた耳に、明るい声がかかる。
慌てて営業スマイルを浮かべる。
声をかけてきたのは、カップルらしい男女の男の方だった。
「えっと、ここに行きたいんだけど・・・」
手に持っていたパンフレットを指差して、きょろきょろと辺りを見渡している。
どうやら、行きたい場所がどこか分からないらしい。
指がさしている場所を見て、頷いた。
「分かりました。ご案内いたしますね」
本来だったら、あまり案内スタッフは持ち場を動かないほうがいい。
道順を教えて大丈夫そうだったら、そのまま見送る。
たたでさえ広くて人が多いこの美術館内では、案内スタッフは引っ切り無しに声がかかるからだ。
だが、男が指をさしたのは、ちょうど自分が気になっていた部屋、水族館の部屋だった。
案内スタッフが離れていることを示す札をかけて歩き出す。
場所は分かっているので、さほどかからずに案内を終えた。
二人は礼を言って嬉しそうに中に入っていく。
その後姿を微笑ましく見守ってから、ついでにとぐるりと部屋の中を見渡した。
「・・・・・」
潜水艦の丸い窓から海中を泳ぐ魚たちを見る絵はそのまま、壁に飾られている。
だが一番大きな、中に入ることの出来た絵は変わっていた。
潜水艦の内部のようではなく、イルカとアシカがショーを繰り広げている絵。
「すごい、すごい!イルカって、あんなにすっごいジャンプが出来るんだね!」
「そうね。すごかったわね」
どうやらこの絵にも入ることが出来るようだ。
丁度出てきた女の子が、興奮しきりに手を繋いでいる母親に話しかけている。
自分が休んでいる間に、しっかり絵の入れ替えはされていたらしい。
この部屋の案内も、間違いなく出来そうだとアリスは安心して踵を返した。
「お疲れ様、交代よ」
「もうそんなに?」
仕事に復帰して問題なく働いていれば、いつの間にか時間帯も過ぎる。
「もうすっかり慣れたましたね。でも休憩はしっかり取ってくださいね」
引継ぎも済ませれば、笑顔でそう追い出された。
ありがとう、と一言添えて部屋に戻って、スタッフの服を脱ぐ。
普段のエプロンドレスに着替えて、さてどこに出かけようかと迷う。
「もっと、ちゃんと絵を見ておこうかしら」
そうだ、そうしようと思い立つ。
案内スタッフであるからには、絵の中がどういう構造になっているか、もっとよく知っておきたいし、むしろ知っておくべきだ。
一応、軽く全体は見ているし、何がどこにあるかは把握しているが、それぞれの絵の中がどうなっているかはまだ全部見きれていない。
折角だから、この休憩の間に絵の中にももっと入って見ようと、アリスは美術館の中に足を踏み入れた。
「パパー、あっちに森があってたくさん虫が取れるんだって!」
「おっ、それはすごいな。よし、行ってみるか」
「うんっ!!」
虫がたくさんいる森・・は後回しにしよう。
アシカとイルカのショーも気になるが、さてどこから見よう。
そういえば、パレードが通るという絵もあるそうだ。
賑やかな絵を見たいというお客さんに良く紹介しているが、自分でじっくりと見たことはまだ無い。
そこにしようと、足を向ける。
通路を曲がろうとしたアリスの視線の脇を、何かが通り過ぎた。
赤い、コート。
「・・・え?」
思わず、振り向く。
今通り過ぎた赤いものを探して人ごみの中を見渡すが、求めた赤い色は見つからない。
見覚えのある赤いコートが見えた気がしたのだ。
赤い、ハートの騎士のコート。
いるはずのない、エースの姿。
「いるわけ、ないわよね」
誰にともなく、呟く。
だってここには、まだ若いが別のエースがいる。
同じ国の中に、二人もエースがいるのはおかしいし、ここはもう彼と会ったことのある時間軸ではない。
諦めようとした視界の端で、また赤い色がふわりとなびいた。
「エースっ?!」
驚いて駆け出す。
びっくりしたように避ける人波を掻き分けて、赤い色が消えていった部屋へ飛び込む。
「あ・・・・」
秋の落ち葉が舞い上がった。
紅葉で彩られた絵画が高い壁のあちらこちらに掛けられている。
落ち葉をくるりと舞い上がらせ、小さな生き物が絵から絵と飛び回っていた。
かと思えば、大きな角をもって悠々と鹿が部屋を横断する。
りすを追い掛け回していた子どもがそれに気が付いて走り出せば、耳をひくりと動かした鹿は素早く駆けて反対側の絵の中に潜っていってしまった。
残念そうな子どもの声。
「・・・なんだ」
その子どものように、小さく落胆した声を出してしまう。
赤いもみじを拾い上げる。
どこかでこの葉を見た気がすると思いながら、指先で摘んでくるくると回してみる。
誰かも良く分からないが、自分ではない誰かがこんな風にしていたような気がする。
そうやって何とはなしに紅葉を手の中でいじりながらぼおっとしていれば、急に周囲の喧騒が遠ざかった。
「・・・・・え?」
いつの間にか、木々に囲まれている。
先ほど見ていた赤く色づいた秋の絵画の中ではない。
暗く静かな森の入り口のような場所だ。
周りにあったのは木々だけではなかった。
どうなっているのかよくは分からないが、やけに背の高い水晶も聳え立っている。
その表面が光を反射してキラリと輝く。
光・・?
月が照る夜空の下。
訝しく振り向けば、少し離れたところにきらきらと水面を波打たせる湖が広がっていた。
「どこよ、ここ」
「いらっしゃい、待ってたよ」
独り言を呟いたはずが、返ってきた言葉に慌てて振り返る。
水晶と水晶の間から、おかしな衣装の男が現れた。
ひらひらとした裾と、おなじくひらひらとした変な形の帽子をかぶっていて、おまけに腰元に薔薇をあしらわれた仮面をぶらさげている。
無意識に一歩、後ずさった。
「そんなに警戒しないでよ」
思わず体の前で構えた両手を見ても尚、男は微笑んでいる。
実に愉快げだ。
こちらは全く意味が分からないというのに。
「あなた、誰?ここはどこなの?」
むっとしながらも、ここにいるのは自分とこの変な男だけだ。
この事態を説明出来るならして頂戴と睨みつける。
「ふふ・・・毛を逆立てた子猫みたいだ」
「子猫だぁ?こいつがそんな可愛らしいもんかよ」
「??!」
目の前の温和そうに見える男とは、また別の甲高い声が聞こえて、まだ他に人がいたのかときょろきょろと見回すアリスに、馬鹿にしたような声が続ける。
「何きょろきょろしてんだよ。目の前にいるだろうが、その目ん玉見えてんのか?」
「なっっ」
ひどく口が悪い。
目の前に立っているのは、どう見ても変な衣装の男だけだ。
まるで、道化師のような衣装。
「・・・あなた、なの?」
「ええっ?俺が喋ったのかって聞いてるの?違うよ、俺じゃない」
相手は大げさに驚いて、両手を振っている。
そうじゃないなら、どこにいるのか。
「そうだぜ、俺をこんな奴と一緒にするなんて、お前・・頭がいかれてるんじゃねえのか?」
またきょろと顔を左右に振れば、どこかで見ているようにまた声が聞こえる。
「けけけっ、馬ーっ鹿」
「は?どこよ!出てきなさいよ!」
「まあまあ、落ち着いて。これじゃ話も出来ないじゃないか」
ハッとして、落ち着きを取り戻す。
そうだ、変な声が聞こえたからと言ってそれにかかずらっている暇は無い。
ここがどこだか教えてもらって、早く戻らなければいけない。
「・・どこに、戻るってんだよ?」
心の声が聞こえたかのようなタイミングで、また声がかかる。
「・・・美術館によ」
当たり前でしょう、と見えない相手に力強く答える。
「へえ。・・・でもそこは、本当に君が帰る場所なの?」
静かに微笑んで目の前の男が問う。
アリスは眉根を寄せた。
何が言いたいのだろう。
良く分からないが、ずっとこうしているわけにもいかない。
ここがどこだか分からないのなら、もしかしたら美術館に戻るにもかかるかもしれない。
いくら休憩中だからといっても、ずっとではないのだ。
次の仕事の時間帯までには戻らなくてはならない。
「でも、代わりなんていくらでもいるじゃないか」
「?!・・代わりがいるからって、いなくなって良いわけがないでしょ!」
無断で仕事をボイコットされたと思われるなんて心外だし、そんなこと自分が許さない。
相手は何が楽しいのか、くすくすと笑っている。
「何がおかしいのよ。・・もう、何でもいいから、ここがどこなのか教えて頂戴」
アリスは不快感と、そして焦りが募っているというのに、男は答えてくれない。
ひとしきり、くすくすと笑って口元に手を当てた道化師は、こちらを向いてにやりと笑んだ。
「そう・・良いわけが無いよね。・・・君はとても責任感が強いんだから」
マスクに覆われているのと反対の、見えている片目がこちらを真っ直ぐに見ていて、アリスは急にぞっと寒気を感じた。
濁ったような暗褐色の瞳がこちらをじっと見ている。
口元は笑顔をかたどっているのに、目は笑っていない。
まるでサーカスのピエロ、道化だ。
「・・・っ」
何かを言おうとした瞬間、ぐっと後ろから両肩を掴まれた。
「駄目じゃないか。君がこんなところに迷い込んだら、あいつが心配する」
その声。
振り向こうとする前に名前を呼ばれる。
「アリスっ!」
パチパチと、瞬きを繰り返す。
「え・・え?・・」
目の前には険しい顔をしたユリウス。
急に耳元にざわめく喧騒が聞こえる。
見渡せばそこは美術館の、自分が見ていたはずの絵の前だった。
ゆっくりと見渡してから、ユリウスに視線を戻す。
「大丈夫か?何があった」
「・・・・・」
ぽかんと見上げていれば、ユリウスの顔から険しさが無くなって、代わりに困惑したように瞳が揺れる。
「周りの奴らは、突然倒れたとしか言わないし・・全くどいつもこいつも」
「えっと・・・・」
徐々に周囲に向けて非難めいた愚痴をこぼし出すユリウスの声を遮って、声を出すも何を話す言葉もまるで出てこない。
「アリスさん、急に走り出したと思ったら部屋の中で倒れたってお客様が・・・大丈夫ですか?やっぱりまだ無理をしていたのでは」
ユリウスの少し離れた後ろに、アリスと同じく案内スタッフをしている男性スタッフが立っている。
心配そうに顰められた眉に、そんな無理をしていたなんてことは無いと慌てて首を振る。
と、ぐらりと視界が揺れて体が前に傾ぎそうになる。
肩を支えられていたためそれ以上は倒れこまずに済んだが、ユリウスの両手に力がこもるのを感じる。
「・・・・また」
じっと顔を覗き込んできて、何かを言いかける。
よく聞こえなくて聞き返そうとする前に、ぐらんと体が大きく揺れた。
驚いて目の前の黒いコートの襟元を掴む。
「こいつは休ませる。こいつの分のシフトの空いたところは別の奴が代われ」
「は、はい。お願いします、ユリウスさん」
「・・ちゃんと掴まっていろ」
上からかけられた言葉に、ユリウスに抱え上げられたのだと気が付いて顔が真っ赤になった。
「い、いいわよ、大丈夫だから下ろして!自分で歩けるわ」
急いで訴えても、ユリウスはちらとこちらを見てさっさと歩き出してしまった。
黙っていろ、と言う事だろうか。
たくさんの人がいる間を、ユリウスに抱えられたまま歩くなんて卒倒しそうだ。
ユリウスが進むごとに自然と人垣が割れる。
壁際に寄った大勢の客の、好奇の視線が突き刺さってくるのを感じて思わずぎゅっと目を瞑った。
これ以上は無いというくらいに真っ赤になった顔を、コートの胸元に押し付ける。
その体勢も恥ずかしいが、もうこうなっては何をしても変わらない。
部屋に着くまでユリウスは何も言わず、アリスもまた何も言うことができなかった。