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一
今日も美術館は盛況だ。
入口前には見慣れた長蛇の列、館内もよそ見をしていると行き交う人にぶつかりそうな混み具合。
「きゃあっ」
フロアの案内スタッフとして働かせてもらってから、日にちとしてどれぐらいかは分からずとももうだいぶ経った。
最初のうちは補助として付いていた先輩スタッフも、いなくても大丈夫だと判断され、今は一人でも何とか対応出来るようにはなれたと思う。
そうして、ある絵画の前でお父さんと合流する約束なのにその絵が見当たらない、と泣き出しそうな子供の手を引いて連れていって持ち場に戻る途中。
驚いたような女性の悲鳴が聞こえて、アリスは振り返った。
その高い声を皮切りにとある絵画が飾られている部屋から悲鳴や泣き声、どよめきが波紋のように広がって、そしてそのざわめきに押し流されるように部屋から客が溢れ出てくる。
「・・!?」
みんな一様に切羽詰まった顔で後ろを振り向きつつ、親は子供の手をしっかり引いて駆け出してくる。
まるで、何かに追い掛けられているかのようだ。
溢れ出した人混みにもみくちゃにされ、そのまま押し流されそうになってアリスは慌てて壁際に寄った。
異常事態だ。
何が起こったのかを確認して、他のスタッフを呼び対処しなくてはならない。
流れに無理矢理逆らって、アリスは問題が起こったらしい部屋に近付いた。
ふっと薫る香り。
一瞬それが何なのか分からなかった。
部屋に入って、やっと分かる。
「な、何よこれ!」
足元は砂と水でびちゃびちゃ。
そこは、壁一面にもなる正面の大きな絵と小さないくつもの丸いものが掛かれた絵が掛かっている、全体的に薄暗く真っ青な部屋。
描かれた丸いものは窓枠とガラス面で、その向こう側では青い水がゆらゆらと揺れて色とりどりの魚や海藻が揺れている。
奥へ長い長方形のこの部屋は、掛けられた絵画によって部屋全体で潜水艦を模している。
水が滴っているのは、入って正面の大きな絵だった。
脇に並ぶ小さな絵と違い、この絵だけ中に入ることが出来る。
絵の中に入れば、座席の設えられた展望室から大きなガラス窓越しに外側に広がる海の中を眺めることが出来る。
色とりどりの魚や水生生物を間近に眺められ、子供にはもちろん、大人にも大人気なのだが。
「・・・・・」
“ここ”からでは異変はよく分からない。
入って見なければと、意を決して絵の表面に手を押し当てる。
描かれた絵画の表面に触れるはずの手は、ぬるい水面を撫でるようにとぷりと沈み込む。
何度やっても慣れない感覚に包まれながら、アリスは絵の中に大きく一歩踏み出した。
途端に塩辛い匂いが嗅覚を刺激する。
海の、潮の香りだ。
この世界にあるはずの無いその匂いの出所を探して辺りを見回せば、足元にジャリと硬質なものを踏んだ感覚が伝わってきた。
足元を見れば割れたガラスが散らばっている。
「っ!!?」
急いで周囲の窓を見渡した。
ここは、潜水艦の内部。
窓ガラスが割れたのなら浸水してしまう。
その場合、この絵画がどういうことになるのかはよく分からなかったが、間違っても良い事態にはならないだろう。
取り合えずここまでの状況を他のスタッフとジェリコにも伝えて、どう対処すべきか判断を仰ぐべきだ。
そう思ってアリスは美術館の内部に戻ろうとした。
びちゃんっっ
「!?」
背後で大きなものが跳ねた音がする。
床を通じて足の裏に伝わる振動が、背後にいるものの大きさを物語っている。
振り向きたくない。
船室内には外で揺らめく水面が反射してゆらゆらと波紋を描いている。
目の端で、その中に鋭い切っ先を持つものが蠢いたのが見えた。
影が躍り上がる。
背後に迫ったものによって、自分の上が大きく陰った。
思わず振り向いて驚愕に目を見開く。
逃げることも叶わず悲鳴を上げる前に、視界の端から銀色の筋が伸びて迫る影を 両断した。
「!!??」
「ぼおっとしてちゃ駄目だろ」
ザシュッと何かを切り裂く音が聞こえる。
影は一瞬の内に姿を失い、びしゃりと床に飛び散った。
「・・・・・・」
「・・エース」
あーあ、剣に絵の具がついちゃったぜとぼやいているのは、ダイヤの城に居候しているはずの青年姿のエースだった。
何でここにエースがいるのだろうか。
いや、いつもユリウスの姿を追っているエースが、美術館にいるのは別段おかしくは無い。
ユリウスに会えずにさ迷っているうちに、この絵に迷い込んだということも大いにあり得る。
それより、今の影だ。
「な、なんで・・」
「?・・って大丈夫かよ、君、顔色悪いぜ?そんなんじゃ、サメに食べられなくったって、死んじゃいそうだな」
訝しげに顔を覗き込んできたと思えば、さらりと不吉なことを言う。
本当に、そのサメに襲われそうになっていた身としては、冗談ではすまされない。
はははっと笑っている顔をじとりと睨みつける。
「何だよ、軽い冗談だろ。そんな睨まないでくれよ」
「冗談でも言っていい事と悪いことがあると思うわ。・・それより、何でサメがこんなところにいるのよ!」
そう、サメだ。
潜水艦を模したから、外側を泳いでいることはあるかもしれない。
いや、泳いでいたとして見たくは無いのだが。
「何で、ガラスが割れてしまっているの?エース、あなたここにいたんだったら何か見たんじゃないの?」
「えー、何だよ。助けてやったのに、俺を疑っているの?」
ひどいぜと不満そうにむくれている。
確かに助けてはもらったが、アリスはエースがサメを切った後に呟いた言葉を聞き逃してはいなかった。
聞き間違いでなければ、やっぱり絵の具に戻っちゃうのか、これじゃ食べられないよなぁとぼやいていた。
「どの生き物も魚ももちろん、絵だから食べられないわよ」
しっかりと言い含めるように言えば、罰が悪そうにしながらそっぽを向く。
やはり、自分の予想は当たっていたようだ。
大方、旅(と書いて迷子と読む)の途中でお腹が減って、ちょうど迷い込んだ絵の中で魚が泳いでいるのを見て食べて見ようと画策。
どれにしようか迷っているうちにサメも出てきて、その大きさに標的を定めたといったところだろうか。
「絵をこんなめちゃくちゃにしちゃって、駄目じゃない。修復が必要かもしれないわ」
はあと溜息を吐いて、辺りを見渡す。
どのガラスを割ってサメを引き入れたかは知らないが、どうやら浸水の危険は今のところなさそうだ。
犯人たるエースの腕をがっしりと掴む。
自分の憶測で話すのではなく、ここはエースにしっかり説明させて説教のひとつでもくらわせた方がいいだろう。
「ええっ、やめてくれよ、離してくれ」
「駄目よ。ジェリコにちゃんと謝りに行かなくちゃ」
「そんなことは分かってるって!・・一人でも行けるよ。だから腕を離してくれよ」
「あなたが一人でジェリコのところに辿りつけるわけ無いじゃない」
きっぱりと言えば、エースの顔がむっとしたものになる。
道案内を人に頼みたくないと思っているのが言わずとも分かる。
分かったからと言って、離すつもりは無い。
それより、さっきから潜水艦の床が揺れている気がする。
割れていない窓の外を見る。
底も見えない水中では、床が地面と平行であるかなど分かるはずもない。
ぐらりぐらりと足元が揺れている感じがして、はやく絵から出ようと更に強くエースの腕を引っ張った。
「袖が伸びるだろ、離せよっ」
ぐんっと掴んだ袖ごと引っ張られる。
違う。
引っ張ったのではなく、振り払われたのだ。
指先から、掴んでいたエースの服の袖が抜ける。
だが体はすでに大きく傾いていた。
思ったより力強く振り払われたことに驚いて、倒れざまにエースの顔を見た。
「・・っ!!」
エースの顔に驚きと、そして少しの焦りが浮かんでいるのが見えた。
ゴツッ・・
それを最後に、アリスの意識は暗転した。
「~~~っ!」
「・・・、・・・っ」
誰かが言い争っているような声が聞こえる。
いや、誰かが怒ったような声を出していて、それを宥めようとしているような静かな声と、その合間にまた別の声が小さく聞こえる。
何を言っているのかはよく分からない。
でも誰か、複数の人が近くにいるのは分かった。
「・・・?・・・私」
ここはどこだろう。
自分は今どうなっているのだろう。
今まで何をしていたのだろうと思い出そうとして、頭がずきりと痛んだ。
呻いて、体を丸める。
「!!・・アリスっ」
出来るだけ胸に引き寄せて縮こまろうとした頭に、そっと手が添えられる。
大きな手だ。
痛んだところをすっぽりと覆って、遠慮がちに撫でる手の動きを感じる。
薄っすらと目を開ければ、ぼんやりとした視界に覗き込む藍色が見えた。
自分が大好きな色。
大切な同居人の・・・。
「・・・・・」
その色が、潜水艦の部屋の中より青く、深みのある海の底のようだと思った瞬間に気が付いた。
ああ、そうだ。
ここはハートの国ではない。
私はダイヤの国で、時計塔ではなく美術館に滞在をしている。
ぼおっと見ているうちに切なくも段々と気持ちは落ち着いてきて、頭の痛みも和らいでくる。
瞬きをさせて視界をクリアにさせれば、目の前には心配そうに顔を顰めたユリウスの顔があった。
美術館で再会したユリウス。
家族のような関係だったハートの国の彼とは違う関係になってしまった。
ダイヤの国の、ユリウスだ。
「ユリウス・・・私、あの」
「落ち着け。・・痛いところは無いか」
ベッドに寝かされた全身を一瞥して、気遣わしげにまた覗き込んでくる。
その後ろに別の人影が立った。
「大丈夫か、アリス。本当にとんだ災難だったな」
「・・・ジェリコ」
眉を下げて心配そうに言う相手に、何があったのかを徐々に思い出してくる。
サメを食べようとエースが起こした騒動に駆けつけてサメに襲われて、そしてエースに・・・。
「・・・・」
思わずぐるりと自分が今いる部屋の中を見回せば、ジェリコより更に後方で所在無さげに立っているエースが見えた。
不満そうに口元を歪ませてはいるが、説教でも受けたのかしおらしくしている。
ちらとこちらを見た視線とぶつかる。
「・・・・・」
ふいと顔をそらされた。
こうなっては、私が何を言うことも無いだろう。
振り払われて倒れたが、ちょっと頭を打った、それだけだ。
だが、私の視線を追って振り向いたユリウスの顔が、すっと険しくなる。
「・・エース」
「・・・・・」
「エース!!・・・こいつに、何か言うことがあるだろう」
低く怒っているユリウスの声に、渋々といった態でこちらを見返すエースの顔も、また険しかった。
眉根をぎゅっと寄せて、口元はへの字。
これは相当怒られたに違いない。
「・・大丈夫よ、ユリウス。少し、頭を打っただけ」
これ以上、エースの機嫌を傾かせるのは良くない。
・・彼らの溝が広がるのは見たくなかった。
そう思って上半身を起こそうとすれば、持ち上げた頭がぐらりと大きく揺れる。
慌ててベッドの淵に手を突いて支えれば、驚いたようにこちらを向いたユリウスが肩を支えてそれ以上傾ぐのを防いでくれた。
添えられた手に、ぐっと力がこもる。
少し上から見下ろしてくる暗がりの中のユリウスの顔が、エース相手ではないのに険しい。
「顔色も悪いな」
眉間にしわを寄せて、絞り出された声が低い。
両肩を支えていた片手が外されて、額の上にあてがわれる。
まるでキスでもするような距離に、内心動揺していた顔に更に熱があつまるのを感じる。
「・・熱い」
「あ、えっと、そのそれは・・」
「・・はあ。動くな、寝ていろ」
ぐっと肩を押されて、ベッドに戻される。
少し怒ったような顔に、そうじゃないのにと言いたい気持ちをぐっとこらえる。
言えば、じゃあなんだと返ってくるだろう。
それに、この状況を説明できる自信がない。
何しろ、今この部屋には自分たちだけではないのだ。
いや、彼らがいなかったとしても、こんな恥ずかしいこと説明できるわけもないのだけれど。
とにかく説明できなければ、説教でもされそうな雰囲気だ。
大人しくかけられる布団に潜って、口を閉ざした。
それを見て、ユリウスは無言で頭にぽんぽんと柔らかく触れてくる。
「・・・エース」
こっちを見つめたままユリウスは振り向かず、背後で突っ立っているエースにまた声をかける。
有無を言わさないユリウスの発する空気に、観念したように大きく息を吸って吐く音が聞こえる。
「・・悪かったよ!・・・怪我をさせるつもりなんてなかった、ごめん」
「・・・私も、強引に引っ張っていこうとして、ごめんなさい」
勢いが、徐々に萎んでいく声。
でも、私も怒っていたとはいえ無理やりすぎたと思っていた。
決まり悪そうなエースの顔は、大人の彼ではあまり見ることは出来ない表情だ。
ああ、若いなと思う。
見た目は自分と同じくらい、きっと同世代だ。
何だか、そう思えばくすぐったい。
「・・・ふふ」
「何だよ、人が真剣に謝ってるのに笑うなんて・・君って失礼だな」
「そうね・・ごめんなさい」
「・・・別に、謝らなくたっていいし」
どんどんむきになっていく、その姿もなんだかいじらしい。
そういった態度が、自分ではなくユリウスのためだということが分かるから。
私にはどう思われようがあまり気にしないだろうが、ユリウスに対しては違う。
ユリウスにこれ以上、怒っていて欲しくないから。
そう考えればこれ以上反抗的な態度も続けてはいられない、エースでも殊勝な態度になるということだ。
自分のことはないがしろにされているようなものだが、そんなことは気にならないくらい、何だか楽しくて嬉しい。
「取り合えず、だな。あんたは暫く仕事は休んで、安静にしてくれ」
「えっ?いえ、大丈夫よ。そんな休むほどじゃ」
「ジェリコのいう通りだ。仕事は休め」
仕事第一の人間にも、休めと諭される。
「でも、本当に大丈夫なのに・・・」
「大丈夫じゃないだろう。倒れて頭も打ったんだ」
ユリウスの、心配から来る怒りのような気配に仕方なく口を噤んだ。
まあまあと宥めるジェリコは苦笑している。
「じゃあ、俺は部屋に戻ってるからな。ほら行くぞ、エース」
「えー、俺はいいって」
「何が、いい、だよ。お前には、あの絵がどんなに素晴らしいものなのか、もっとちゃんと話しておかねえと」
「えええー・・」
言い合う二人の声が遠ざかり、パタンと扉が閉まる音がした。
部屋の中が急に静かになる。
何とはなしに二人の姿を追っていた目線を、ちらと向ければこちらを見ていたらしいユリウスとバッチリ目が合う。
何となく、目をそらしてしまう。
「・・・・・」
ギシとベッドが軋む音がする。
思わず見上げた顔の上に、身をかがめてきたユリウスの長い藍色の髪がさらりと落ちてくる。
さらさらと頬をくすぐるそれを指で退けられて、そのまま指の背で頬を撫でられた。
じんわりと、また顔に熱がこもる。
「・・・・・」
何も言わずにただ触れてくるユリウスの、その静かな様子に居心地が悪くなってくる。
不快、なのでは決して無い。
無いのだが・・・。
やんわりと、だが確実に圧をかけてくるような気配に、じわじわと追い詰められて身の置き場がなくなるような、そんな気持ちになる。
だから、居心地が悪い。
つい、そわそわしてしまう。
「・・・ユリ、ウス」
身じろぎをしようとすれば、指先で触れられていた頬が今度は手で包まれる。
押さえつけられたわけでもないのに、それ以上動けなくなる。
「・・・なんだ」
静かな声。
深い海の底から、目がそらせない。
距離がふっと近づいて闇に包まれて目を瞑れば、唇の上に柔らかく温もりが触れた。
そっと離れたかと思えば、また落とされる口付け。
ひとつ触れ合えば、愛おしさが湧き上がる。
胸の底をそっと撫でられて、凪いでいたそこをゆっくりと掻き混ぜられるように。
満ちるものを感じると共に、遣る瀬無い思いもまた募る。
それは、ハートの国のユリウスのことを思っているから。
彼とは違う関係になってしまった、家族ではない、恋人となったダイヤの国のユリウスを想っているから。
「・・・・ん」
それでも欲しがる気持ちを止めようとは思わない。
受け止めたくて、もっと欲しくて自分から少し角度を変えれば、口付けは更に深くなった。
食むように挟まれて、小さく開いた隙間から忍び込んでくる熱は、見た目の静けさからは想像もつかないほど、熱い。
「・・ん、っふ・・」
上がる吐息にも熱がこもる。
気が付けば、顔の脇と頬に添えられた大きな手に挟まれて、逃げ出す隙も無い。
でも、そうやって閉じ込められてしまうことにも、どうしようもなく幸せを感じてしまう。
押し込められる熱が身の内を覆っていって、体はほわほわと宙に溶けていった。