宙に伸ばしていた指先をポカンと数秒見つめて、そっと下ろす。
何をしていたんだっけと考えるより先にもう片方の手が歯ブラシを持ってシャコシャコと
無意識に動かし続けているのにやっと意識が向いて、ああ歯磨きをしていたんだったと思い出した。
思い出した?いやなんか今一瞬変な白いものが鏡に映った気もしたけれど、眠すぎて歯磨きをしながら寝ていたのだろうか。
ピッ、ッッポーン
「・・・・・」
こんな朝っぱらから鳴るチャイムなんて碌なものじゃない。
眠い意識と戦いながらシャコシャコと歯磨きを終えて身を起こし再度鏡に映した自身の目は開ききってもいないし、学生でもあるまいに朝一緒に仕事先に連れ立っていく連れもいなければ、どう考えても人の家を訪れる時間帯でも無い。
ピッ、ッッポーン
それでも鳴りやまないチャイム音にひとつ溜息を吐き、諦めて玄関へと向かった。
「・・・何の御用ですか」
「なんだ、起きているんじゃないか。おはよう」
ジャラリと鳴ったのは扉のチェーンだが外からはそれよりも明るく澄んだ金属の擦れ合う音がして、それはこの扉の隙間から悪びれもせずに朝の挨拶と笑顔を寄こしてくる全体的に白い相手の装束から鳴っているものだ。
そのままじっと相手を見ていればシャランシャランと金鎖を鳴らしてひらひらとその特徴的な手袋に包まれた片手を振ってくる。
「ん?目を開けたまま寝」
「おはようございます。それで、一体何の御用なんですか」
隠さずにあくびも付け加えてやれば、申し訳なさそうな顔のひとつでもしても良いだろうにそうかそうか、それなら良かったと笑っている。何もよくはないし、だから何の用なのだろうとそろそろ眉がくっつきそうだ。
「ははっ、きみは本当に朝が弱いな。そんなに眉を寄せるとしわが出来るぞ。あとここを開けてくれ」
「知っているなら来ないでくれませんか。というかいつもどうやってここまで入って来てるんですかここ刀剣様は入れないようになっているはずなんですけど、いやいいです。効かないんですよねもっとセキュリティどうにかしてくれって言っておきます。あと私の顔のことは放っておいてください。御用が何なのか言うまで開けません」
「眠いだろうによく口が回るなぁ、あ、こらこら待て待て」
無言で扉を閉めようとすれば、悪徳業者のように片手と片足を突っ込まれてあえなく締め出す作戦は失敗してしまった。
「それで、今日は何なんです”ヨーグルト”の鶴丸様」
「きみ、本当に思い当たらないのか?」
「・・・?」
閉めるのは諦めてチェーンも開けて取りあえず玄関で対峙すれば、”ヨーグルト”の鶴丸様は少し驚いたような顔で何か約束でもしたかのように言ってくるが、こちらは何も思い当たるものはないし今日訪れる旨も聞いてない。結局思い浮かばずに訝し気な顔をすればその顔はやれやれといった風になる。
何でそんなダメな子とでも言いたげなのか。
「今日は暦では、はろうぃん、だろ?」
「・・・ぁー、そういえばそんな日もありましたね」
「いやいやまだ始まったばかりだ終わらせないでくれ。そら、とりっくおあとりぃと、だ!」
「その言葉もすでにどこかで聞いたような・・」
「そんなことだろうと思ったぜ。そうぼんやりしてると悪戯され放題だっていうのに、きみときたら何も用意していないな全く」
仕方がないなと零すその言葉を確かに真摯に受け止めるしかない。少し前の日までは街の飾りとか見てもうそろそろだと思っていたのだが、ちょっと立て込んでいてうっかりしていた。
ただでさえ悪戯好きの多い鶴丸国永様が集まりに集まった白虎隊において、今日ほど事前準備を怠ってはいけない日はない。
「いや、ここ最近忙しくてですね。それに何かいつもみたいに鶴丸様方そんなにそわそわしていないように見えたんですけど」
「・・・まあ何にせよだ。とりっくおあとりいと」
再度言い直してその何も乗っていない手のひらを広げてすっと目の前に寄こされる、その手と顔に交互に視線をやれど差し出された手は引っ込められる気配がない。
「え、・・知らせに来てくれただけなんですよね」
「それじゃ驚きも何も無いだろう」
「え、ぇーっと、何か・・・」
「部屋に戻るのは無しだぜ。今は何も無いな?無いんだな?」
「いやだってそんな急に」
「本当にきみは学ばないなぁ・・」
「そもそもこんな頭も起きていない朝っぱらなんて卑怯の極みです」
「言い訳は聞いてやってもいいが、ほら手を出してくれ」
「何で、手」
「いいから」
何をされるのだと自身の手をもう片方の手で覆うが、その手を寄こせと広げた手のひらをちょいちょいと動かされて渋々片手をそろりと伸ばせばすかさずその手を掴まれた。”ヨーグルト”の鶴丸様は逃がさないようにだろう片手でこちらの片手をがっちり握ったままもう片方の手で何やら袂を探っていて、どんな悪戯をされるのかと怯んでも逃げられない状況ではもう戦々恐々としながら待つほかない。
そのまま無言で見ていれば、袂から取り出した薄い紙をごそごそと指先でいじって爪の先でつまんだ何かをこちらの手のひらをくるりとひっくり返して。
「んん、なかなか難しいな・・・よし。これでどうだ!」
「・・えっと、これは」
やり切った感半端ない笑顔で煌めかせた金の瞳の前にかざされた私の指、というか正確には爪の上には何やら黒いものがぽつぽつと付けられている。ネイルアートと言ってもいいのだろうか、いや間違ってもアートじゃない。
「・・ヨーグルト」
「ああ。ちょうど五文字だからな」
「いや、ちょうどいいとか無いですから」
なんだこれと返された自身の爪を再度見る。そこには見間違えたわけでもなく”よーぐると”と文字がくっついている。そこは”よおぐると”じゃないんだなと思いながら触ればちょっとぷっくらとしている。こんなシール昔あった気がするなと思いつつ、速攻もう片方の手の爪の先で剥がそうと試みる。
「剥がれない」
「そんな直ぐに剥がれたら意味が無いだろう」
「え、私こんな恥ずかしい爪で過ごすんですか。ちなみにいつまで」
「残念ながら1日ぐらいしかもたないんだ」
「いやいや残念じゃないですよむしろ今日一日ずっとこのまま過ごせと・・?」
「今日1日くらい、いいじゃないか」
1日しかもたないというところで実に残念そうな顔をしたが、再度爪の先を見るその瞳は何やら満足げで全く意味が分からない。これの、何がそんなに嬉しいのだろう。
「・・まあ、お菓子持っていなかった自分が悪いんですよね。分かりましたいい教訓になりました」
「ああ。・・きみ、気を付けてくれよ」
何が楽しくて爪に文字貼って一日過ごさねばいけないのかと少し落ちた肩にポンとその片手が乗って滑り降り、再度こちらの手を取ったかと思えば己のあだ名であるところの言葉が乗った爪を指先でするりと撫でていく。
朝からすでに疲れていたが今日のこれからを思えば、溜息しか出て来なかった。
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