木々の葉擦れ、虫や鳥の鳴き声。風や雨の音は好ましい。車の騒音、電車、人の騒めき。都会の交差点などは恐ろしくうるさい。
人間はそんな騒音の渦の中にいても、どの音がどの音かを無意識に判別してより分け、自分には今どの情報が必要なのかを選別しているのだろう。だとしても、やはりうるさいものは、うるさい。
人混みは嫌い。うるさいから。夜の静けさがいい。でも、都会は夜でもうるさいのだと知った。音も光もうるさい。うるさいのゲシュタルト崩壊も近い。
とにもかくにもうるさいそれらを、視界に映るものは目を伏せてやり過ごし、耳にうるさいものはイヤホンをしてやり過ごす。
そんな日々だ。
「ぁ」
しまった。昨日帰るとき、すでにイヤホンが壊れていたのを忘れていた。いや、もうずっと片方が聞きづらくて、でも接触不良なのかと配線をグリグリしながらだましだまし使っていたのだった。それが、とうとう両耳ともお陀仏となってしまったらしい。もうどんなにグリグリいろんな方角から差し込んでみたり、少し浅めに刺したりしてもうんともすんとも何も聞こえてこない。 困った。とはいえ、今はどこかに買いに行っている時間は無い。仕方がない、と腹をくくり地元の駅から電車に乗った。
「・・・・・」
乗り換えの駅はいつも混んでいる。いくつかの路線が交わる駅構内は、朝の通勤の人混みも多い。皆が皆、自分の生きたい方向へ弾丸のように突き進んでいく間を、極力何も意識しないように無表情に無感情にただひたすら誰にもぶつからないようにとだけ気を付けて、いつも通りに人の波をすいすいと抜けていく。早く、早くホームまでとりあえず辿り着けたら、
「っ・・・?」
ふと耳が音を拾い上げた。歩む足がびくりと鈍くなる。これは泣き声だ、・・赤子の。顔はあまり動かさないように、伏せた視界を周囲に素早く走らせる。ベビーカーか、もしくは我が子を抱いた母親が近くにいるに違いない。そうであってほしい。
なのに周囲にそれらしき人影は見当たらない。・・この声はそう遠くからではないと耳が、脳が、無意識に距離を伝えているというのに、その範囲に見当たらない。顔が強張る。
音を何も伝えてこないイヤホンを、先ほどよりきつく耳に押し込む。何もないよりはましだと壊れたそれをずっと付けてはいたが、それでも一度耳についたその泣き声は遠ざかることが無い。まるで自分の傍にいるように追ってくるように付きまとう、声。
おかしい、おかしいうるさい。
「・・っ」
思わず速足になってその声が聞こえる方向とは逆へ逆へと無意識に足を進める。細長い地下の駅構内の端も端、気が付けば人混みから随分遠ざかり周囲に見える人影はまばらになっていた。目の前の通路の先は人も、もう誰もいない行き止まりの壁。その薄暗がりの中、何かに背を押されたかのようによろめく足に導かれた視界に、綺麗に並んでいる四角い箱が映る。
「コイン、ロッカー・・」
声にした瞬間、ひゅっ、と息を飲む。気が付けば聞こえなくなっていた声が、不意に近くから聞こえたのだ。ざっと視界を巡らせた先。手提げの鞄が入るより少し縦長の、大きさでいえば中くらいのサイズの扉がちょうど体の脇に、ある。そして絶望した。
「鍵、が」
鍵がかかっていない。手をかけて引けば、容易に開いてしまうであろうその四角い扉が恐ろしい。こわい、こわい、うるさいこわい。泣き声が、くぐもったように聞こえる。なのに、手が。無意識のように手が、自分の手が視界に入ってくる。嘘だ、やめて。開けてはいけない、いやだ。
「だれ、かっ・・・っ?!!」
とめて、と目を瞑ることもかなわないまま、反らすなとばかりにじっと凝視していた扉が不意に遮られた。バサッと音がして、視界が真っ暗になった。パニックになって声を上げる前に、さらに上から衝撃が加わる。しっかりとした重さが、頭上から耳を挟むように乗せられる。
瞬間、思い出したかのように耳が音を、音楽を拾い出す。おそらくはつけられたヘッドホンから聞こえてくる洋楽の、低めの女性の声とゆったりとしたテンポの音楽は聞いたことないけど雨音のように耳から脳から、全身を覆っていくようで。
ようやく瞬きを繰り返せば、目の前の白い布がほとんどの視界を覆っていて見下ろした自分の爪先くらいしか見えない。音楽に紛れて、はっはっと繰り返されるのはどうやら自分の呼吸のようだった。無意識に息を止めていたのかもしれない。徐々に収まっていくうるさい呼吸音の合間に、横に立っている誰かにそっと腕を掴まれた。びくっと跳ねた肩に一瞬弱まる力が、またぐっと籠められる。
「・・きみ、移動するぞ」
何も返さないこちらに何を言うこともなく、ぐんっと腕を引かれてそのまま歩き出す。と、それが一瞬止まって、こちらを掴んでいるのとは逆の手が伸びて頭に被せられた布をそっとずらされた。
「悪いが、俺も不審者扱いはされたくないんでな」
低く落ち着いた声が頭の布を何やらいじったかと思えば、ふさりと被せられたのはその布地のフードのようだった。パーカーかもしれない。肩から余った布を垂らすようにされて、また腕をくんっと引っ張られた。
何を言えばいいか迷っているうちに無言のまま歩き続け、しばらくのちその歩みが止まる。気が付けば、ざわざわと人の行き交う音に囲まれていた。戸惑う頭からすぽっとヘッドホンがとられて、頭上が軽くなる。先ほどよりぐんと周囲の音が近づいた。
「きみ、聞こえているか?」
「あ、えっと、はい」
私の腕をずっと握って歩いていた彼にようやく視線を向ける。向けてから、びっくりして目が丸くなった。なんてこった、イケメンだ。
「わ、あっすいません」
何か急に申し訳なくなって突然にあやまれば、びっくりするほど綺麗な顔の中でこれまた綺麗な瞳がパチクリと丸くなった。そしてそれはふっと細められて、かと思えばくっくと笑いだす。
「え・・あの、」
「やあ、すまんすまん」
全体的に白く、ともすれば病弱で陽の光に当てちゃいけないとまで思わせる男性は、さっきまでの儚い印象を覆すように何やらおかし気に笑っている。何だろう。口元を手で覆い顔を背けて笑いながら、器用にこちらの頭上を遠慮なく叩いてくる。ぽすぽすぼすぼす。
「いや、ああ急に悪かったな。・・何ともないか?」
「・・・・」
「・・大丈夫かい」
黙ってみていれば、すっと笑いを収めた顔が不意に真剣な顔つきになって覗き込むように顔を近づけられる。これにはさすがに、びっくりしてのけ反った。ゴチンと鈍い音が響いて、背後の壁に打ち付けた後頭部がじわりと痛くなった。
「ぷっ・・」
それを見て、また笑いだそうとする元儚い系美人を胡乱気な目で見てしまった。きっとこの人は、私を助けてくれたのだろうと思うのだけど何だか素直に礼を言いづらいリアクションをしてくれる。
「迷惑をかけてすいませんでした」
取り合えず言って、いそいそとまだ被ったままだった白いフード付きのパーカーを脱いで返す。今度こそ笑いを収めた相手はパーカーを受け取って、こちらの乱れた髪を梳くように指を通してくる。なんだろう、この美人色々と距離が近い。遠慮が無い。
「いいや。無事ならそれでいいんだ。きみはあまり人気のない場所に行かないほうがいい。分かったな?」
言い含めるような声に口を噤む。行こうとして行ったわけではない。今回はイヤホンが壊れていたこともあって不覚を取ったのもあるが、誘導されたのだあの声に。黙りこくった私に何を思ったのか、彼は外したはずのヘッドホンをまた頭にはめてくる。その前に耳に引っかかったままのイヤホンを外すのも忘れない。
「ほれ」
すっと、差し出されたものを訝し気に見る。音楽再生機器だ。小さくて薄いそれを受け取るのが当然のように差し出してくるから、真意を図ってその手のひらと相手の顔を交互に見てしまう。
「きみは・・、無防備かと思えば途端に警戒心を出すなぁ。ほら、とにかく持っていろ」
「いや、でも」
「どうせ、これが役に立たなかったんだろう?」
言われて壊れたイヤホンを揺らされれば返す言葉もない。
「そうだな、”預かっていてくれ”。返すのはまた今度で構わない」
「でも返すも何も、私あなたのことを知りません」
受け取れないまま間髪入れずに返せば、その瞳がまたキョトリと丸くなった。
「あー、そうだったな。あまりにも平然としてるもんだから、俺もうっかりしてたぜ」
出した手を一旦引っ込めて、懐をがさごそと探って取り出したのは携帯だ。片手で何やら操作したかと思えば、ほれと差し出してくる。つい見てしまった画面に映るのは映るのは赤外線の送信を伝える表示だ。受け取れとばかりに向けてくるので迷っていれば、はぁとため息をつかれた。美人のため息はそれだけで色気が含んでいることを知った。別に知りたくは無かったが。
「別に連絡しろとは言わないさ。言わないが、なあ・・君が知らないというからだなあ」
ぶつぶつと拗ねたように言いながら、ほれとぐいぐい寄こしてくるのに何だかそろそろこのやり取りも疲れてきてしまって無言で受信する。それを見た相手が、よしと笑う。
「何かあったらそれで呼んでくれても構わないぜ」
「いや、やっぱこれ返します」
ヘッドホンを外して渡そうとすれば、満面の笑顔がすっと消えて真顔になる。え、怖い。美人の真顔がこわいって本当だったんだ。差し出した手を反射的に少し引っ込めれば、真顔の美人が口を開く。
「またさっきみたいなことになったらどうする」
「つ、次はなんとか・・」
「どうにかできるのか」
探るように見つめてくる金色の瞳から目を反らす。それにしても奇抜な色彩の人だな、なんて現実逃避しだした思考回路を諫めるように、手の上のヘッドホンをさっととられ、ガッと強制的に付けさせられる。側頭部がごりっとなった。地味に痛い。
「できないのなら、持っていてくれ」
「・・・・ハイ」
「いいこだ」
「・・・・・」
この歳になって、いいこなんて言われるとは思ってもみなかった。
◆アトガキ
2018.7.22
オールラウンダーとホラー。
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