閉館のチャイムが鳴る。
差し込む夕日が、本の並ぶ棚の間をオレンジ色に染め抜いていた。
本と一緒にオレンジ色に染まる人影は、逆光で暗い影となってよく見えない。
・・・よく見えない、はずだった。
「・・・・・」
う、そ。
うそだ、と思った。
背中を流れる長い髪の束が、動きに合わせて緩やかに揺れる。
高い本棚の上の方にも、腕を伸ばして難なく本を返していく。
こんな、こんなことがあるのだろうか。
さらりと揺れるその長い髪の色が、藍色だなんて。
夕日に照らされた中で、色なんてよく見えるわけがないのに、と頭の中の冷静な部分が考えている。
でも、やっぱりその髪の色は藍色だった。
背の高い、人影。
「先輩、こんなところにいたんですか?あ、まだ残ってるんですね、手伝います」
高い声がして、本棚の間を一人の女性が駆けてきた。
先輩、と呼ばれている彼と同じ、エプロンの結び目からのびたリボンの端が、その動きに合わせてゆらりと揺らめいた。
はっとする。
急に、時間が動き始めたのを感じた。
手に持っていた本に、目を落とす。
「・・ああ」
彼女に答える、低い声。
耳に心地よい、落ち着いた低音。
意識の外で交わされる会話と、手に持った本を棚に戻して帰らなければと考える現実的な思考。
「あの、もう閉館時間ですので・・」
ふと、手元に落ちた影に目線を上げれば、本を何冊か小脇に抱えた女性と目が合った。
先ほどより少し落ち着いた、女性の声音。
図書館の利用者への対応として、何もおかしなところはない。
ないのだが、彼に話しかけた声を聞いた今では、違和感を感じた。
「あ、すいません」
「それ、借りられますか?」
「あ、いえ。棚に戻そうと思って・・・」
「でしたら、こちらで戻しますので」
にっこりと微笑まれて、差し出された片手。
断る理由もないので、小さく礼を言ってからその手に持っていた本を渡した。
手渡しながら、その背後に立っている彼の姿をちらと見る。
会話を聞いていたのか、こちらをちらと見たその瞳と目が合う。
暗い影の中に一瞬、光が瞬いた気がして慌てて目をそらした。
目の前で本を受け取った彼女は、その場から動かない。
「あ、すいません」
笑顔が少し訝しげに陰る前に、急いで踵を返す。
閉館のチャイムはもうとっくに鳴り終えて、この後は彼らが棚を整理整頓でもするのだろう。
利用者である自分は、もう出なければならない。
席に戻って荷物をまとめて、カウンターに頭を下げて図書館を出た。
【2日目】
次の日、また図書館へ向かった。
レポートを終わらせないと、と思う気持ちより、遥かに大きな気持ち。
彼は今日、図書館にいるだろうか。
入ってすぐのカウンターに目を向けて、カウンターに立つ人に挨拶をされる。
小さく頭を下げてから、カウンターにその姿がないことをさりげなく目で確認した。
棚の間を巡って必要な本を抜き出しながら、目は別のものを探している。
「・・・いた」
通路を挟んで反対側の書架の間。
長身の影は、気難しそうな顔で棚と手に持つ何かのリストとを見比べていた。
眉間にしわを寄せたその顔。
そんな表情でも、見れたことが嬉しい。
とはいえ、自分もずっと棚の間で彼の姿を目で追っているわけには行かない。
本を小脇に抱えて、空いてる席を選ぶ。
なるべく広範囲と、そしてカウンターも見える位置の席。
今日はついている。
うきうきした気分で、荷物を置いて中からレポート用紙と筆記具を取り出す。
抜き出した本とにらめっこをしながら、レポート用紙を文字で埋める作業を始める。
本を読んで、付箋を挟んで。
考えついた考察を述べながら、そっと視線をあげる。
何時間かに一度、彼はカウンターに立つ。
カウンターでも仏頂面だ。
そんな表情もまた、気分を向上させた。
【3日目】
周りには、実に熱心にレポートに取り組んでいるように見えるだろう。
友人たちはみな、適当に本を選んでさっさと終わらせている。
自分も、いつもならその仲間だ。
でも、今は違う。
我ながら不毛な目的だと思うが、一石二鳥じゃない?と前向きに言い聞かせる。
眼福。
目に癒しを与えながら、勉強勉強。
・・・・・・・。
・・・・・。
・・・。
「・・・大丈夫ですか」
不意に、椅子の背もたれを叩かれる振動が伝わって、はっと目を覚ます。
聞こえてきた声に、慌てて顔を向ける。
そこにいたのは、彼だった。
神経質そうな、チタンフレームの眼鏡の向こうで、藍色の瞳がこちらを見ている。
大丈夫か、とそう聞かれたように感じたのは、気のせいだったのだろうか。
・・・気のせいだろう。
寝てしまっていたのを思い出して、顔に血が上るのがわかる。
「だ・・だいじょうぶ、です」
蚊の鳴くようなというのは、こういう声のことを言うんだろう。
そんなか細くて小さい声が、喉の奥から搾り出すように漏れ出た。
でも、ちゃんと聞き取ってくれたらしい。
小さく頷いて、そのまま立ち去って行った。
その後姿を、つい目で追ってしまう。
ゆらりと揺れる、長い髪。
じっと、その背が棚の間に消えるまでずっと見送ってから。
頬杖をついていた腕を下ろした。
いつまで、呆けているつもりだろうか。
寝てしまった分を取り戻して、レポートをやってしまわなければならない。
ペンを持ってレポート用紙に向かう。
だが、白い紙はなかなか黒くならなかった。
ずっと、かけられた言葉とその声音ばかりが、頭の中を巡っていた。
【4日目】
カウンターの前を通り抜ける。
カウンターの中にいる人に挨拶をされるより前に、会釈をしてしまう。
そして、中の人を確認する。
自分が来るときに、彼がカウンターにいることはほとんど無い。
だが今日は、もうくせのように会釈をして、あげた目線に彼が立っているのを見て、自分でも笑ってしまうような動揺を見せてしまった。
びっくりして、目を見開いて。
口をぽかんと開けて。
相手が怪訝そうな顔をして、やっと自分の失態に気がついた。
何事も無かったかのように、カウンターを後にする。
席を探して、荷物を下ろして。
何だか、自分がこの図書館内の全ての人に見られているかのような気がして、しばらく顔をあげられなかった。
落ち着いてから、レポートに必要な本を探して棚の間を歩き回る。
周囲の人間に注目されているなんて、そんなわけない。
みんな、本を片手に自分の世界に没頭しているのだ。
大きな音や話し声でもあげない限りは、すぐ傍を通り抜けても何も意識されない。
おかしな連帯感。
みんな、それぞれの小さな宇宙の中にいて、でもそれが連綿とつながって出来た1つの銀河みたいだ。
いくつか本を抱えて、席に戻る。
そして、いつしか自分も小さな宇宙の中に埋もれて行った。
閉館のチャイムが鳴る。
いつの間に、そんなに時間が経っていたのだろうか。
慌てて荷物をまとめる。
もう少し読んでいたい、何冊か本を借りていこうか。
荷物を肩にかけて、本を手に持って立ち上がってカウンターのほうを何気なく見る。
その視界の先に立っている、長身の人影を見て動きが止まった。
手に持った本と、カウンターを交互に見てそして目線をずらす。
確か、自動で本を貸し出してくれる機械があったはずだ。
いつもは面倒でついカウンターに頼んでしまうけれど、今日はまっすぐにその機械へと向かった。
丁寧に書かれた使い方は、とっても簡単だった。
今まで避けて、無駄に並んできたあの時間が勿体無いくらいだ。
小さくとも1つの達成感を胸に、本をショルダーバッグの中に仕舞い込む。
そして、最後にもう一度、ちらりとカウンターの方を見た。
他の人の対応をしている、人影。
眼裏に焼き付けて、そして自然と口元に笑みが浮かぶ。
今日も、幸せだ。
そんな自分を、見ている人影があるなんて知らなかった。
全く、眼中になかったのだから、仕方が無いといえば仕方が無いだろう。
【5日目】
図書館に通う習慣なんて、何だか少し自分が出来た人間になったみたいだ。
好きな小説を借りて帰るのも悪くないが、足繁く勉強をしに通っているということが、周りの人間に好印象を与えるかどうかはともかく、マイナスに働くはずも無い。
だから、今日も何となく胸を張って図書館に来ていた。
ここ最近ずっとそうしていたように、入ってすぐのカウンターの前を通るときに小さく会釈する。
昨日いたのだから、何となく今日はカウンターにはいないだろうと思って顔を上げつつ見れば、案の定カウンター内には彼の姿は無かった。
代わりに立っている女性と、ばっちり目が合う。
目が合えば少し気まずい思いもあるが、それでもここを使わせてもらっている者として、にこりと笑みを返した・・はずだ。
カウンター内にいた女性は、こちらを見て表情を少し歪めたように見えた。
驚いて、もう一度その表情を良く見ようとする前にその顔はそらされて、ちょうどカウンターにきた男性に向かって笑顔で応対をはじめる。
こちらを見て、嫌な顔をしたような気がした。
分からないながらも、足早にその場を離れて席を探す。
今日は、カウンターから見えない席にした。
何故だろうか、自分は何かしてしまったのだろうか。
常連ともなれば、顔と名前を覚えられてしまっているかもしれない。
本の返却をそんなに遅れてしまったこともない、はずだ。
でも、カウンターの彼女があんな顔をするということは、図書館の人全てから同じように見られているのかもしれない。
そう思えば、いつも目で追っているあの姿を追う事は、出来なかった。
目が合って、彼女と同じように見られたらと思うと怖かった。
だが、幸か不幸か。
今日は、その姿を一度も見ることは出来なかった。
【6日目】
昨日の事があって、何だか図書館に行きづらくなる。
うろうろと図書館付近の道を歩いて、このまま帰ってしまおうかと踵を返そうとした視界に、長身の姿が見えた。
外にでていたのか、これから行くとこだったのだろうか。
分からないが、彼の姿が図書館の中に消えた時にはもう、足を向けていた。
そうだ。
何かあったなら、きっと言ってくれるだろう。
意を決して入り口をくぐって、カウンターをちらと見る。
カウンターの中にいた昨日とは違う女性は、こちらを見て会釈をしてくれる。
その顔に、嫌悪感も訝しげな様子も無く、安心して会釈を返す。
あのまま帰らなくて良かった。
少し浮上した気分と、では昨日女性のあの表情は何だったのかという疑問を抱えながら、空いている座席を探す。
「・・・・・」
それでも今日はあまり運が良く無さそうだ。
机につっぷしてだらしなく寝ているおじさんと、貧乏ゆすりを繰り返してながら新聞を大きく広げているおじいさんの間しか空いていない。
それでも、レポートをするには机がいる。
諦めて、今日は本だけ探してさっさと借りて帰ろうか。
本棚の間に立って、席の様子を眺めながら逡巡していると、すっと脇を誰かが通り過ぎた。
「・・・すいませんが・・・」
すいません、というその言葉がひどく低く、ぶっきらぼうだ。
言えるものなら、おいとか、きっとそんな風に言いたいに違いない。
とにもかくにも寝こけていたおじさんに声をかけて起こし、ここは寝る場所じゃないと説明をしている背中をぼけっと見てしまう。
おじさんは小さく悪態を付きつつ、立ち上がってどこかへとふらふらと移動していってしまった。
それをため息混じりに見送って、ふと気がついたようにこちらを見る。
思わず合ってしまった目が、逸らせない。
深い藍色の瞳。
じっとこちらを見ていたかと思えば、少し考え込むような顔になり、そしてまたこちらを見た。
「・・・使うなら」
指で示された、空いた席。
3人がけの端のおじさんがいなくなったことによって、おじいさんの広げる新聞を気にすることもない。
さっきまで、突っ伏して寝ていた人がいた机に・・と思わなくも無いが、折角声を掛けてくれたのだ。
その好意を無駄にする気は無い。
「あ・・ありがとうございます」
ぺこりと小さく頭を下げて、持っていた本と鞄を置く。
その様子を見て、小さく頷いてからさっさと歩き出していってしまった。
彼にもやるべき仕事があるのだろう。
自分もやるべきレポートがある。
思いがけずまた話せたことが嬉しくて、昨日から感じていた疑問はすっかり頭から消えてしまっていた。
【7日目】
レポートは順調だ。
この分なら、締め切り前に出せるどころか、いつになく満足のいける出来になるかもしれない。
出された課題に沿う資料も見つけて、さらにその中から自分で論点を見つけ、それについて問題点と解決策に繋げる筋道を作り上げることが出来た。
後は、自分の考えを上手くまとめられるかだ。
スラスラと浮かぶ文字で用紙を埋めていくことは、とても気持ちよい。
好きな音楽を聞いているような、そんな気分。
ついでにと顔を上げた先、さっき前の人と交代でカウンターに入った彼の姿を見て、更に気分が急上昇した。
そこに、裏の事務室と思われる場所から人影が現れる。
その女性は、カウンターから辺りをぐるっと見渡して、そしてこちらを見た、気がした。
目が合ったと、そう思った。
かと思えば、カウンター内に出てきて彼と、二言三言何か話している。
声が聞こえるわけが無いのだが、彼女がちらちらとこちらを見ているような気がして、顔に熱が集まった。
何を話しているのだろうか。
訝しげに席を立たずにいる彼に、なおも何か言い募り、とうとう彼はしぶしぶといった様子で席を立って事務室の方へと姿を消してしまった。
彼が事務室に入ったのを確認してから、彼女がちらとこちらを見た。
「・・・・・!」
今度こそ、はっきりと分かった。
彼女は確かにこちらを見たのだ。
眉を潜めて、そしてそれからにっこりと笑った。
それを見て、確信した。
ばれてしまっていた。
私が彼を見ていることに気がついて、なんと言って説明したのか分からないが、彼を事務室に追いやったのだ。
私から、見られないように。
さっきとは比べ物にならないくらい、顔が真っ赤になったのが分かった。
恥ずかしい。
目を合わせられない。
彼女が最後に浮かべた笑顔がどういう意味か、それを知るのも怖い。
さっきまで軽快に滑っていたペンが、もう一文字も書けずにいる。
ペンを握る手の平に、嫌な汗をかいているのが分かる。
ここで立ち上がって帰ったりしたら、彼を見ていたということを自分の行動で証明してしまうようなものだ。
そんなつもりじゃない。
ちゃんとレポートをしに図書館に来ていて・・・そんなつもりで来ているのではない。
だが、見ていたことは確かだ。
カウンターの中から彼女がこちらを見ているような気がして、立ち上がることも本を探しにいくことも出来ず。
手元の資料をめくって、文字を書いている振りをしているしかなかった。
【8日目】
良い頃合かもしれない。
レポートも、もうまとめだけだ。
わざわざ図書館でやらなくても、いい。
「・・・・・」
今頃、図書館の人の間では、私は彼のストーカーとかそんな扱いにでもなっているのだろうか。
思えば、カウンターで目が合って、嫌そうな顔をしたのがあの女性だったような気がする。
彼女は、もう少し前から気が付いていたのだ。
彼は気が付かなかったようなのに。
いや、気が付かれなくて良かったかもしれない。
だから、普通に声をかけてくれたのだろう。
今はもう、それだけで良い思い出として胸にしまってしまおう。
・・・どうして彼女は私の視線の先に気がついたのか。
レポートを書いている時のように、ふと浮かんだ問題提起。
だがその問いの答えは、どんな問題よりも遥かに簡単だ。
それはきっと、私と同じように彼女もまた、彼のことを見ていたから。
けれども、私と彼女の立場には大きな違いがある。
彼女と彼は同じ職場の人間で、普通に話したり、もしかしたら共に食事もするかもしれない。
傍で、見ることが許されている距離。
それに対して自分は・・、自分のしていたことは・・・。
「・・・気持ち悪い」
自分のことながら、ストーカー過ぎて気持ち悪いわねと自嘲する。
それでもつい無意識に図書館に行きかけていた足を、駅前の喫茶店に方向転換させようとした体に衝撃が走った。
いきなり方向転換した自分が、後ろにいた相手にぶつかってしまったのだと気が付く。
「あっ・・ごめんなさ・・」
上着の布地に顔を強かにぶつけて顔を抑え、慌てて謝りながら見上げて。
声を失った。
「・・・いや・・」
彼が、いた。
この道を通って、図書館に行くところだったのだろうか。
ぽかんと見上げてしまってから、昨日のことを思い出す。
顔がぐあっと熱くなり、そしてその血の気がざあっと引いていった。
恥ずかしさと、相手にどう見られてしまったのかという、穴があったら入りたい気持ち。
なのに、こんなところで会ってしまうなんて。
こんなことになるなら、さっさと図書館に行くのはやめて、別の道を通ればよかった・・!!
「・・おい」
何か言ったり、立ち去ることも出来ずにぎゅっと眉を寄せて目を瞑ってしまう。
「・・おい・・具合が悪いのか」
聞こえてきた声に、そろりと目線を上げる。
目の前に立つ相手は眉を顰めていたが、それは嫌悪しているという表情ではなく。
それどころか、どことなく所在無さげにしている。
「あ・・・え・・」
「だから・・・どこか、具合でも悪いのかと聞いている」
びっくりした。
これは、自惚れた思考で考えるなら、もしかして心配をしてくれているのだろうか。
「顔色が悪い・・・・ちょっと待っていろ」
「え・・?」
動くなよ、と何故か釘をさしてどこかへと歩いてくその後姿を、呆然としながら見送る。
早足なのか、常からあの速さなのか。
足の長さが違ければ、あの距離もこんなに早く往復するものかと見ている合間にも、少し遠くの自販機に寄った姿は瞬く間に戻ってくる。
「・・・・・」
無言で差し出されるお茶の入ったペットボトルを、こちらも無言で眺めてしまう。
相手の顔とペットボトルを交互に見ていれば、差し出していた手を少し引っ込めて、首を少し傾げるようにする。
「・・いらないか」
「・・!いるっ・いります!」
思わず、反射的に答えてしまった。
答えてから、ばっと顔が赤くなるのが分かる。
何を答えているのだ、自分は。
だが、欲しくないわけが無い。
「・・ほら」
何故か、少し笑っている。
「え・・」
彼が、笑っている。
驚きながらも差し出されたペットボトルを受け取る。
両手で包み込むようにすれば、じんわりとその暖かさが伝わってきた。
嬉しい。
彼から、ものをもらえたことも。
そして彼の笑みを見れたことも、とても、嬉しい。
「ありがとう、ございます」
ぎゅっと暖かさを握り締めて、ぺこりと頭を下げてそして満面の笑みを浮かべる。
顔を上げてみた彼には、もう先ほどの笑みは見られない。
「いや・・」
見られないが、今度は何故かうろたえている。
良く見れば、ほんのりと赤い。
興味深くその顔を眺めてしまってから、はっとする。
お茶を片手に持って、もう片方の手で慌てて鞄をさぐる。
「あ、あのお金・・」
「いい」
財布を出したところで、すっと手が伸びてきて動きを制された。
「でも・・」
手は動かない。
うろたえていた様子は、何事も無かったかのように静かな表情に戻っている。
「気持ち悪いと言っていたな・・・今日は図書館に来ずに、さっさと帰れ」
「・・・え」
今日二度目の衝撃だ。
いや、彼にぶつかって、彼の笑顔を見られたことを考えれば、三度目だろうか。
・・・それどころではない。
自分のことを、何人もいる図書館の利用者の内のたった一人である自分のことを、覚えてくれていたのだ。
湧き上がる感動と共に、彼の言葉を頭の中で繰り返す。
気持ち悪いどころか、気を使ってくれた相手に申し訳ないくらいに、最高の気分。
そもそも気持ち悪いなんて、自分は言っただろうか。
彼とぶつかる前のことをどうにかこうにか思い出して、自分が彼のストーカーみたいで気持ち悪いと思ったことだと気が付く。
口に出してしまっていたのだ。
そして、それを聞かれてしまっていたのだ。
「・・・・・」
「・・・・どうした」
口を引き結んで、黙り込む。
向上していた気分が、一瞬にして萎む。
彼は、きっとあの彼女に何か言われたんじゃないだろうか。
だとしたら、今のこれは飲み物を奢るから、もうこれっきりにしろと、そういうことなのだろうか。
もう、図書館に来るなと、そう言っているんじゃないだろうか。
「・・・・・」
「おい・・・どうし・・!」
俯いて見つめている足元が、徐々に歪んでいく。
馬鹿だ。
もう来るなと、そう、はっきりと言われてもおかしくない。
でも、そう言わないでくれている彼が優しい内に、ここから離れるべきだ。
でも。
こらえ切れない雫が、ぱたぱたと落ちていく。
恥ずかしい。
早く立ち去れと思うのに、動かない足も。
彼の前でこんなに無様に泣いてしまうことも。
「なっ・・・なんだ、おい」
「・・・っ・・」
こらえようとしても、嗚咽がもれる。
うろたえたような彼の手が、自分の肩に掛けられたのがわかった。
「おい、そんなに気持ち悪いのかっ」
ぐいと、答えを促す力で肩をゆすぶられて反射的に見上げてしまった。
ぼやけた視界の中で、見開かれた藍色の瞳が、滲む。
その顔を見てしまって、くしゃりと顔が歪んだ。
「う・・うっ・・」
「なっ・・何故泣いているんだ、泣くほど気持ち悪いのか?!」
一度崩壊した涙腺はなかなか止まってくれない。
今まで見たことのない表情をたくさん見せてくれた相手は、とてもうろたえた様子でこちらと、そして周囲を見て、そしてまたこちらを見た。
その眉根がぎゅっと寄って、迷惑をかけてとうとう怒らせてしまったのだと思った。
「ごっごめんなさ、い・・なんでも・・・もう来ない、から」
「・・は?・・お、おい一体何を・・」
周囲を忙しなく見渡す様子に、気がつく。
それはそうだ。
こんな様子の自分と、一緒にいたいわけが無いだろう。
他に図書館を利用する人も通るだろうに。
職場の近くで、赤の他人の少女に絡まれて、その上泣かれて。
自分が彼を図書館の人だと知っているように、よく図書館に来るのなら彼のことを知っている人ももちろんいるはずだ。
彼が何か悪いことをしたわけでは無いのに、傍から見れば彼が泣かせたと受け取られてしまうかもしれない。
・・・彼が原因なのは確かだが、だからといって彼を悪く見られたいわけがない。
それに、またあの彼女に見られてしまうかもしれない。
ここはもう図書館の近くだ。
彼と会ったように、彼女にも会ってしまうかもしれない。
早く、ここから・・・、彼から、離れなければいけない。
うろたえた様子だったのが、困惑した顔になっている。
そんな顔も初めて見たと思いながら、何とか最後くらいは笑顔にならなければと努めて、引きつる口元を笑みの形にかたどる。
「ありがとう、ございました・・もう、ここには来ません」
「・・どうして」
「さようなら・・・お元気で」
息が切れそうになりながらも言い切って、勢いよく頭を下げる。
もう、それ以上笑顔を作るのは無理だった。
だから、顔を上げられない。
相手の顔も、どんな反応をしているのかも、もう関係ない。
知りたくないというのが、本音だとしても。
もう、関係ない。
地面を見たまま、顔を背けて足を反対方向へと向ける。
彼と、そして彼と会った図書館とは反対の方向へ一歩踏み出した。
ぐいっ
持っていた鞄の紐が何かに引っかかったかのように突っ張って、思わず仰向けに仰け反りそうになって慌てて立ち止まる。
何に引っかかったのかなんて考えたくない。
それでも、そっと振り返って見て・・振り返ったことを後悔した。
「え・・、えっと・・」
紐を離してもらいたい。
放たれている威圧感がちょっと怖くて、後退りして逃げたくなる。
というか、逃げたい。
「まだ、話は、終わってない」
「・・・・・・」
不必要なくらいに力強く、一言一言、区切られる。
顰められた眉と、固く引き結ばれた口元。
真っ直ぐにこちらを見ている、藍色の瞳。
怒られているようなのに、その瞳に真っ直ぐ見られているということに、不謹慎にも鼓動が高鳴る。
目が逸らせないが、声も出せない。
「どうして、もうここには来ないと言ったんだ?」
「・・・・・」
「私が、何か気に障ることをしたのか」
「!!・・っ」
「・・・だからわざわざ私に、もう来ないと言ったのか?」
「・・違うっ!・・・違います」
「では、どうして」
腕を組んで答えを待っている相手の顔を見て、目を逸らして。
どう言ったら良いか。
何を、どう言えば良いのか。
どこから、何から、どうすれば。
視線があちこちをさ迷って、そして観念して相手の瞳をまた、ちらと見た。
「あの・・不快な思いをさせるかもしれなくて、だからその、初めに謝っておきます。・・ごめんなさい」
「内容による。だから、その謝罪は今は受け取らない」
何を話しても、きっとただのストーカーのたわ言にしかならない。
そう思ったから、意を決して話し出せばきっぱりと撥ね付けられてしまった。
それでも話を聞く体勢は崩さない相手に、心の中で声にならない叫び声をあげる。
それでも、足は根が生えてしまったかのように動かないし、相手の視線はいまや突き刺さるようなものになってきたし。
ここまで来てしまったからにはもう、体当たりして当たって砕けてしまえと、やけくそな気分になった。
「あのっ・・見てしまっていて・・ごめんなさい!」
「・・・・・・・・・は?」
そうですよね、自分でも言ってて「は?」って感じでした。
でも、そうとしか言いようが無い。
ストーカーしててごめんなさい、と言うには勇気が足りないし、付回すまではしてなかったんだから、その呼称はちょっと回避したいところで。
「・・図書館で、あの」
「・・・・・」
口ごもる。
その先は恥ずかしすぎて言えない。
貴方だけをずっと見ていたんです、なんて今時少女マンガでも恥ずかしいセリフだ。
手の中のお茶がどんどん冷めて、手の中でぬるくなっていくのを今更ながらに感じる。
もったいない、暖かいうちに飲んでしまいたい。
でも、今はそういう状況じゃない。
「図書館で・・なんだ。お前はずっと、熱心に何か勉強していたんじゃないのか?」
「・・っ!!!」
思わずばっと顔を上げて、相手の顔を凝視してしまう。
「なんだ、違ったのか?」
こちらの勢いにやや怯んだように、顔が引かれる。
急いで、ぶんぶんと顔を振った。
振って・・そして振るのを止めた。
そう、彼に見られていたのはとても嬉しい。
自分は彼の目に、真面目そうに映っただろうか。
そうなら本当に、とても嬉しかった。
でも、言わなければならない。
勉強をしていたのは事実だけど、それだけじゃ無いということを。
息を吸って、吐いて、そして改めてその藍色の瞳を見る。
この瞳が一瞬後に嫌悪に染まったとしても、それでも忘れないようにしっかりと目に焼き付けた。
「勉強もしていたけれど・・・あなたのことも、見ていて」
「・・・?・・・それは」
「あなたのことが気になって、ずっと見ていたんです」
言った、言い切った!
もう後は野となれ、山となれ・・塵となれ、だ。
相手の表情の変化を見たくなくて、でも見ていたくて。
「・・・・・・」
でも思ったような反応は無かった。
反応が、何も無かった。
よく、聞こえなかったのだろうか。
「えと、あなたのことをずっ」
「ああ、聞こえていた、良くわかった!・・・い、いや、何も良くわからないが、とにかく聞こえていたから繰り返さなくてもいい」
こちらが思わず唖然とするほどの早口で、遮られた。
口元を手で覆って、視線がそらされる。
・・・吐きそう、とかそんなところだろうか。
だったら悲しすぎるが。
「不快な思いをさせてごめんなさい。だから、もう図書館には」
「・・来ればいい」
「え」
一体この人は、私の話を聞いていたのだろうか。
聞く体勢だっただけで、寝ていたんではないだろうか。
そう疑ってしまう。
だが、聞き返せば何故か怒ったように、その眉間に皺がよった。
「来ればいいだろう。何故そこで、もう来ないという発想になるんだ」
「いや、だって普通気持ち悪いでしょう。知らない人から、じっと見られていたとか」
自分で、自分の気持ち悪さを説明するという事態に陥っているのは、何故だろう。
思わず口調も素のものになってしまう。
もういっそきっぱりと、気持ち悪いと言われてここで分かれてしまいたい。
早く、この事態を収めたい。
「それを言うなら・・・私も、気持ち悪い」
「そう、そうよね。だから」
「何故か気になってしまって、つい目で追ってしまった」
「・・?」
「私も、お前にとっては十分気持ち悪いだろう」
へ?とか、え?とか、頭の中は疑問符だらけだ。
でも見上げた相手は自嘲気味に笑っていて、そして不意に視界が翳った。
頭の上に少しの重み。
彼の手が頭の上に置かれていて、そして軽く撫でられる。
「・・・気持ちが、悪いか?」
まさか、そんなはずが無かった。
否という意味で首を振る。
首を振れば、頭とそして視界がぐらぐらと揺れた。
自分が今どうなっているのか、ちゃんとこの場に立っているのかすら怪しい気持ちだ。
夢?
「え?私、夢でも見ている?」
思わず自問すれば、頭の上にあった手がするりと下りてきて、頬を撫でた。
そして、抓られる。
「い」
「夢だったか?」
思わず睨みつければ、笑っている。
しかも、少し意地が悪そうな笑顔だ。
「何でだろうな。何故だか、懐かしい」
しみじみと言う、彼の藍色の瞳はどこか遠くを見つめているように、細められている。
「こんなことを言ったら、ますます変人だな」
苦笑して離そうとする手に、自分の手を重ねた。
押し留めた手が、ぴくりと震える。
「私も、前にもどこかで会った気がして・・・これ、下手なナンパのセリフみたいね」
言いながら、自分も苦笑する。
どこか、別の場所で会った気がする。
こんなやり取りをしたような気もする。
まるで、夢みたいな世界で。
「また、会いに来てもいい?」
「断っても、来るんだろう?」
まさか、そんなに図々しくは無い、と反論したかったけれど。
「そうね。嫌がっても、もう遅いわよ」
出てきたのはこんな言葉だ。
我ながら図々しい上に、可愛くない。
けれど、彼はふっと笑った。
「そういえば、今更だけど名乗ってなかったわよね、私・・」
言おうとしたセリフを指先で封じられる。
「知っている。お前の名前は・・・」
◆アトガキ
2013.6.10 ブログ「飛行記録」にて
2013.6.28
夕日、トカゲではないのです。
夕日+人影で ゆうひとかげなのです。
・・・紛らわしくて本当にすいません。
アリス(学生)とユリウス(図書館員)設定の現代パロディでした。
二人とも、お互いどこかで会ったことがあるような、と思っている、
そんな運命の一週間!と考えながら書いたら、8日間になりました。。
で、出会って・・そしてそれから一週間、ですよ!
なんでもいいですね、はい。
もちろん、アリスを睨んだ彼女はユリウスを狙っています。
でもユリウスの眼中にはありません、ただの同僚です。
現代ですから、アリスは亜梨子ですかね。
ユリウスは・・・友離薄。
友達いなさそうで、幸薄そうです。
冗談です。
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