「え、本当にここに入るの?」
黒字に銀色でBARと書かれた看板を見て、アリスは少し尻込みをした。
勿論、と力強く頷く同行者の目はきらきらしていてそっと目を逸らす。
だって、こんな店にいまだかつて入ったことが無い。
お酒の飲める歳になったからといっても体質的にそんなに飲めるわけでも無い自分には、とても敷居が高い店だと思う。
しかも、やけに大人っぽい雰囲気を醸し出していて高そうだ。
今日は財布にいくら入っていただろうか。
お昼に使った残りを頭に思い浮かべて、やはり今回は止めておくべきだわと断りの言葉を口に乗せようとした。
「さあ行くわよ!」
後退ろうとしたアリスの背を押して、職場の同僚はさっさと扉を開けてしまう。
「ああー・・私やっぱり・・」
「お帰りなさいませ、お嬢様」
・・・やっぱり止めておけば良かった・・・。
店の中からかかった声に、今更来る予定じゃなかったと踵を返すことも出来ずアリスはがっくりと肩を落とし、同僚はそんなアリスの様子に気が付く様子も無く嬉しそうな声を上げた。
「何で、何で今日はそんな恰好なんですかっ!でも、すごい似合ってます恰好いいですーっ」
キャーという叫びに、テンションが一気にMAXになったことが伺える。
入口付近で叫ばれていることにも迷惑そうな顔一つせずに、開けた扉を抑えて迎え入れてくれる体勢の相手はにっこりと微笑んだ。
すらっとした背は高く、艶を帯びた黒髪は綺麗に撫で付けられている。
黒いパンツに白いシャツと黒いベストを重ね胸元に小さくタイを飾ったその姿は、まさしく執事といった格好で、アリスは思わずお店の看板を見上げてしまった。
BAR CLOVER。
間違って執事喫茶とやらに来てしまったのかと思ったが、そういった記載も一切無し。
「ハロウィン仕様でして、今年は全員で執事をやることになったんですよ」
二人の疑問にあっさり答えてその瞳を細める。
見たこともない金色の瞳は笑みを象っているはずなのに、アリスは何故か捕食される草食動物のような気になった。
にっこりと笑いかけられて、アリスは引きつった笑みを返す。
そうして出迎えてくれたその店員さんに促されて、アリスは観念して薄暗い店内に足を踏み入れることとなった。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「やだ、あなたは執事っていうより主って感じじゃないっ」
「そんなことはありませんよ。貴方をおいて主だなんて、恐れ多い」
照明が落とされた店内には静かなクラシックの音色が流れている。
通されたのは深緑色のソファ。
居心地が悪そうにしているアリスを余所に、アリスを連れて来た会社の同僚は慣れた様子で、グラスとメニューを運んできた店員に話しかけて盛り上がっている。
赤みを帯びた光を灯すアンティーク風のシャンデリアの下でも分かるほどに、その店員は肌が白く華奢だった。
白いというより、もはや青白い。
よく見れば唇が紫色に見えて、こんなところにいないで休んだほうがいいんじゃないかと心配になった。
「お嬢様、心配は無用ですよ」
「え・・?」
同僚と話していたはずの相手が不意にこちらを向いて言う。
毛先だけ薄っすら紫色に染まっている銀色の髪がさらりと揺れる。
身を屈めたことで前に垂れてくるその髪の間で、色素の薄い灰色の瞳が意味深に細められる。
「私は、いつでもこのような体調なので、心配はいらないと申し上げたのです」
「・・・・いや、それにしたって青白すぎるわよ」
先ほどの男性よりは、フリルが多めの白いシャツがやけに似合う。
この人が隣に座る同僚のいうところの、「守ってあげたくなるような薄幸の美青年」とやらなんだろうか。
確か、そんなことを熱く語っていたような気がする。
「・・・・・」
確かに、少しなよなよとしているような気がする。
幸かどうかは・・・。
「・・・君は、さりげなく失礼だな」
「え?」
「いいや、何でもありません」
いいや、って。
急にムスっとした顔をする相手を訝しげに見る。
「アリス!折角来たんだから、何か飲もうよ」
「あっ、ええそうね」
同僚に肘でツンツンと催促されて、薄幸の美青年らしい店員が開いて渡してくる細長いメニューに目を通す。
意外と値段は普通だ。
ほっとしながらも、メニューをめくるペースは速い。
ワインにビールにブランデー、日本酒や焼酎などなど。
国も越えて各種様々なお酒が揃っているようで、見たことも聞いたことも無いおしゃれな名前が並んでいる。
だが、初めて来た店で飲んだことも無いものに手を伸ばすのはやはり怖い。
そうしてたどり着いたページは甘いものが揃ったカクテルのページで。
「・・・・・」
普段酒を飲まない自分が頼むものは、ここでは少し子どもっぽいかもしれないと悩む。
少し背伸びをしてみようか。
「じゃ、私はいつものジントニックで。アリス、取り合えずいつものカシオレにしておいたら?」
「あ・・そうね。じゃあ、それで」
何かを言う前に、行動力のある同僚にさらっと決められてしまった。
何となく残念な気持ちと、子どもっぽくても無理はしないに限ると安堵する気持ちが
心の中でマーブル模様を描く。
「・・・かしこまりました、お嬢様」
少しの間を置いて、線の細い店員はオーダーを伝えにカウンターの方に行ってしまった。
「アリス、一緒に来てくれてありがとうね」
こそりと言った様子で、同僚に声をかけられる。
びっくりしてその顔を見返した。
礼を言われるようなことはしていない。
むしろ、自分ひとりだったら絶対に入らないであろう店に連れて来てくれたこと、新しい経験が出来たことが素直に嬉しかったので、アリスはそう返す。
「そう言ってくれてほっとしたよ。・・もしかしてちょっと強引過ぎたかなと思ったんだけど」
「そうね」
にっと笑って即答すれば、ええーと眉を下げて大げさに肩を落とす。
「冗談よ、冗談」
同期で入って同じ部署に配属された彼女とは、今では何かとつるんでよく出かけたりする仲となった。
少し抜けてはいるけれど、社交的で明るく行動的なところはアリスにとって憧れだ。
「もう。いつもクールなアリスにはこういう場所が似合うと思ったのよ」
クール?
間違っても自分はそんな枠には入らないと思う。
首を傾げながらも、ちょっと拗ねたような顔をする彼女の頭を軽く撫でる。
「それにアリス、今日・・」
「お待たせしましたお嬢様」
頼んだ相手ではなく、最初に扉を開けてくれた長身の男性が丸いトレーに二つのグラスを乗せてやってきた。
身を屈めて音を立てないように、そっとグラスを置く所作は確かに格好いい。
「あ、これ私好き」
グラスと共に置かれたのは、白い円柱形の一口サイズのお菓子が綺麗に並んであるお皿。
底の方にクッキー生地の層があり、上辺にはオレンジ色や赤いソースがそれぞれかかっている。
「カマンベールのレアチーズケーキです」
「美味しそう・・」
仕事終わりでちょっとどころではなくお腹が空いている。
空きっ腹にお酒を入れるのは良くないから、何かおつまみを頼もうと思っていたところだった。
クランベリーソースのハートにオレンジソースのダイヤ、ブルーベリーソースのスペード。
「この、クローバーは?」
「・・・キウイです」
合うのだろうか。
「・・・・・」
まあ、確かに色分けをするならクローバーは緑にしたかったのかもしれないが。
じっとお皿の上に並ぶチーズケーキを眺める。
「砂糖を入れて少し甘めに煮てあるようなので、そんなに酸っぱくは無いと思いますよ」
それならば、ちょっと食べてみたいかもしれない。
よしと思う前に、その一口サイズのチーズケーキに長い指が伸びた。
「どうぞ」
「・・え?」
「あ、良いなアリス!」
良いなって・・・良くないような。
口元に差し出された一口大のチーズケーキ。
差し出しているのは、金色の瞳を愉しげに細めた黒髪の店員さんだ。
これは、所謂「あーん」とか言う状況なんだろうか。
・・・彼氏でも何でもない、初対面の店員さんに?
「無いわ」
「大有りよアリス、こんなチャンス滅多に無いわ。執事バージョンの醍醐味よ!」
「・・・普通、執事はこんなことしないんじゃ・・」
「そんな細かいこと気にしちゃ駄目よ。尽くしてくれるなんて素敵じゃない」
「・・・・・・」
何やら色々とおかしい気がする。
横でいいないいなと騒ぐ同僚は置いておいて、目の前の相手はというと黙ったまま微笑んで同じ姿勢を崩さない。
空のトレーを左手で抱えて片膝を立ててしゃがみ込み、なおソファに座る自分と目線の高さが変わらない。
「・・気になるんでしたら、是非召し上がっていただきたい」
そう言って、さらに少し口元に近づけられる。
横の同僚と前の店員、そしてテーブル。
どうしよう、逃げ場が無いわ。
酒も飲まないうちから顔が熱い。
その手から奪って食べるか、大人しく口を開くか。
「もうアリス、女は度胸よ!」
ぐるぐる回るアリスの背を、横に座る同僚が思いっきり叩いた。
「ちょっ・・!!?」
何するのと開きかけた口元に、ひんやりとした感触。
驚いて開いた口の中に、もふっと押し込まれたのは間違いなく差し出されていたチーズケーキ。
押し込んだ指先がそっと上唇を撫でていくのを感じて、目を見開いた。
慌てて振り向いた先では、指先についたクッキー生地をぺろりと舐め取る男がいる。
放り込まれてしまったからには、吐き出すわけにもいかずもぐもぐと咀嚼して飲み込むも、味が良く分からない。
目を見開いて固まったアリスの肩がトントンと叩かれて、アリスはハッとした。
ぐるんと首を動かして同僚の方を向く。
「ね、どうだった?」
「ど、ど・・どうだったって・・」
「美味しかった?」
「あ、ええと味よね・・えっと・・」
思い出そうとしてもやっぱりよく分からなかった。
長い指先を赤い舌が舐める光景が脳裏に焼きついてしまった。
先ほどの比では無いほど顔が熱い。
視界の端に映ったカシスオレンジに手を伸ばして、暫くその冷たさを感じる。
ちらと視線を向けた店員はさっきのことなど無かったかのように、眉を下げて残念そうな表情を見せる。
「お口に合わなかったでしょうか。・・・どうしても緑が良いと言うので、そうしてみたのですが」
「あ、それ言ったのメアさんでしょ!」
どうやら、さっきの薄幸の青年の名前はメアと言うらしい、別のお客さんを相手にしているらしいその姿をちらと見て同僚がピンと指をたてれば、目の前の黒髪の店員は困ったように笑った。
どうやら、当たりらしい。
「・・さすが常連ね」
「というか、メアさんが店長なんだよ」
「え?」
自分と同い年くらいに見えた彼が、目の前の店員さんより上の立場だとは。
「ここの店員さんは、みんなメアさんに振り回されているんだよ。ね、グレイさん」
「ええ。体調も良くないのに・・困ったものです」
先ほどのことを忘却の彼方に投げ捨てるならば、初対面の印象からしてグレイさんと呼ばれた彼のほうがよっぽどしっかりしているように見える。
メアさんは店長として色々口を出すけど、実際企画を詰めたり実行に移したりするのは、グレイさん含め周囲の人間なのだろうなと結論付ける。
苦労しているのかもしれないと思えど、先ほどの衝撃が抜けきらずどうしても向ける視線は胡乱気なものになってしまう。
それをどう捉えたのか。
「あれで、やれば出来る方なんですよ」
「それは・・微妙にフォローになってないというか・・」
「グレーイ、お前はもう下がって良し!店長命令だっ」
グレイさんの背後に、いつの間にやらメアさんが仁王立ちしていた。
腕を組んでバックヤードを指し示しているらしい、その顔は盛大に拗ねている。
「いきなり何をおっしゃっているんですか。店を開けたばかりですよ」
「なら、あちらのお嬢様のお相手を任せる」
「・・・分かりました」
はあと小さく溜息を吐いて、黒髪の店員は別のテーブルへと移動していった。
・・・あれ?
「ここは、バー、なんですよね」
「ここはお嬢様方の帰る場所です」
「いや、その設定は取り合えず置いておいて」
急にきりっとした顔で、自らが設定したであろう執事とやらに成りきろうとしている相手に、手で置いておいて、とジェスチャーする。
「ここって、ホストクラブじゃないわよね」
いつの間にか増えた客の間を、他の執事服を着た店員さんが訪ね歩いている様子は、入ったことは無いがホストクラブのイメージそのものだ。
そもそもバーなのに、テーブル席がやけに多い気がする。
そう目線で問えば、同僚はにこっと笑った。
「イケメン揃いで良いでしょ?それでいて、ホストクラブほどの危険は無いんだよ、安心安心」
「ああ、そう・・」
まあ確かに、ホストクラブと知らずに入ってしまって、気が付いたら貢がされていたなんてことにはなりたくない。
その点では、お酒の料金的にもずいぶん良心的だと思う。
「!もしかして席代とか、チャージ代とかが高いの?」
「そこらの居酒屋と変わらないくらいだよ」
店長だという相手がいる手前、小さい声でこそこそと喋っていると急にコホンと咳払いが聞こえた。
「そんな心配するようなことはしないよ。それに、そうだな。折角初めて来てくれたんだ。君の分はお酒代以外は今回はタダにしておこう」
「え!」
だいぶ失礼な話をしてしまったと、聞こえてしまっていたことにアリスは青ざめる。
「いいや、そうさせてくれ。そしてもし良かったらまた来てくれれば、私も嬉しいよ」
「さすが、メアさん太っ腹!」
「そうだろうそうだろう!・・ん、コホン。そうでしょうとも、お嬢様」
すっかり設定を忘れていたらしい。
恥ずかし気にそっぽを向いてわざとらしい咳払いをするメアさんとやらに、怒っている様子は無い。
そのことにアリスは至極ほっとした。
同僚の横に座った店長、もといメアさんは楽しげに雑談をする。
次はこんなイベントを考えているんだ、とかクリスマスはどんなのが良いだろうかとか、どうやらお祭りやイベントが好きなようだ。
身振り手振りを加えて話す様子は青年というよりは少年みたいで、またすっかり執事設定を忘れているのにも、アリスはくすりと笑う。
是非、また来てみたい。
ハロウィン仕様じゃない、普段の店も見てみたいと思う。
「あ、ちょっとお手洗いに」
気が付けばお酒も空になっていて、ほろ酔い気分のままアリスは席を立った。
楽しいとお酒の回りも良いのかもしれない。
少し火照った頬を手団扇で扇ぎつつ席に戻ろうとしてそちらを見れば、また知らない店員さんと楽しげに話す同僚がいた。
茶色の髪を軽くはねさせて、黒いシャツに灰色のベストを重ねた彼は、遠めに見ても笑顔が似合う青年だ。
あれが彼女のいうところの、爽やか毒舌好青年、なのだろうか。
毒舌と好青年は一緒にならぶ単語としてはいかがなものか。
初めにそれを聞いたときに、それってどうなの?と聞き返してみたけれど「そこが良いの」と頬を染められてしまった。
どうやら彼が同僚のお気に入りらしい。
・・・いやええと、ここはホストクラブでは無いのよね。
一瞬、心配になるも、楽しげに話している様子を見れば邪魔をするのも忍びない。
確か彼が店に現れるのはごく稀で、レアキャラ扱いなのだそうだから。
「・・・何だ、席が分からなくなったのか」
テーブルに戻らないならさてどうしようと思っていると、低い声が耳に届いた。
声が聞こえたほうに目を向けるも、カウンターの中には黙々とグラスを磨く店員しかいない。
声をかけてくれたのだろうかと思うが、顔も上げないので目が合わない。
別の人のおしゃべりを聞き間違えたのだろうか。
「・・こんな狭い店内で迷子になるとは、あいつ並だな」
視線をホールに向けたと同時に、またそちらから声が聞こえて振り向く。
「あいつって?」
「・・・いるだろう、あそこに」
グラスを磨く右手の人差し指が、すっとホールの方に伸ばされる。
「茶色の・・ああ、お前がさっき座っていたテーブルにいる奴だ」
さらっと言われて、指につられてホールを見渡していた視線をまたカウンターに戻した。
やっと視線が合う。
「見ていたの?」
自分があの席に座っていたのを見ていたのか。
思わずびっくりして聞けば、眉がぴくりと動く。
「見ていたわけじゃない。いつも来る常連だと思っただけだ」
「ああ、なるほど」
同僚はよくここに来るから、この店員とも顔見知りなのだろう。
納得すれば、どこか不機嫌そうな様子でまた視線をそらされた。
何だろう、何かしただろうか。
「席が無いなら、突っ立ってないでそこにでも座れ」
「・・・・・」
かと思えば、カウンターの席を勧められる。
でもテーブルに戻りにくいと思っていたので、これは有難い申し出だった。
「ありがとう」
「・・・ふん」
ますます顔をしかめて、まさに仏頂面といった感じだ。
紫地に黒い柄入りのベストの下に着ている灰色のシャツの袖を少しまくっている。
目を細めてグラスを光に当て曇りが無いか確かめている様子は、神経質そうだ。
「なんだ、お前は随分静かだな」
「・・・・・?」
そう思えば、また突然声をかけられる。
カウンターに座ってぼんやりとその動作を見ていたアリスの方に、ちらと呆れたような目線を向けられる。
「・・まさか、寝てるんじゃないだろうな」
「起きているわよ」
同僚と比べてと言いたいんだろう。
明るく社交的な彼女と比べれば、自分は暗く地味にも見えるだろう。
急に嫌なことを思い出して、アリスは顔を顰めた。
「やっぱり、私、営業に向いていないのかしら・・」
「・・・・・」
熱心にグラスや銀色の食器を磨く相手からは、何の返事も返ってこない。
さっきまで楽しかった気分が急降下して、行儀悪くもカウンターの上に頬杖を吐いてアリスは溜息を漏らした。
「うるさけりゃ良いというものでもないだろう」
「・・うるさかったら、駄目でしょう」
グラスを磨く静かな音と、店内に流れる音。
だいぶ経ってから返された返事に、呆れた声で返してしまう。
何だかんだで聞いてくれていたらしい。
そのことでちょっと気が緩んだのか、アリスはつい今日起きた出来事をぽつぽつと話していた。
「・・それで、相手先の応接室の空調が壊れているとかって」
「・・・・・」
「そんなかしこまらなくても暑かったら1つくらいボタンを外してもいいよ、楽にしてくれって言うのよ」
「・・・・・」
「開ける訳ないじゃない?一応、お心遣いありがとうございますって返したの」
「・・・・まあ、賢明な判断だな」
「でしょう?なのにそうしたら急に機嫌が悪くなったのよ。こっちは、このままで結構ですって言ってやりたいくらいだったのを必死で押さえてたって言うのに」
「・・・・・」
「それで、後はもう何を言っても知らん顔よ。帰社したらしたで、上司に営業のしつけがなって無いとかいう電話がかかってきて・・・もう何なのよあのはげ!」
「・・・・・」
そこまで言い切ってから、アリスはハッと我に帰った。
初対面の人にいきなり何を愚痴っているのよ!と、頭が瞬間沸騰する。
しかもはげ、とか言っちゃったし。
ほとんどは無言で聞いているのかもよく分からないと思えば、時折絶妙なタイミングで合いの手を入れてくれるものだからついつい話し続けてしまったのだ。
こんなに無愛想で仏頂面のバーテンダーで良いのかと思っていたのに、意外にも聞き上手というか。
ああ、もう穴があったら入りたい、頭を抱えて埋まりたい。
恥ずかしくて俯くアリスの視線に、すっと何かが入り込んだ。
「・・・・え」
下に薄っすら茶色い層が見える、全体的に白い液体で満たされたグラス。
「カルーア・ラテだ。・・・あんまり酒には強く無いんだろう」
「え、えっとそうね。あまり飲まないけれど」
カシスオレンジを頼んだのを覚えていたのだろうか。
というよりいつの間に作っていたのだろう。
ずっとグラスを磨いていたと思っていたのだが、思い出せば途中で何かを棚から出してシェーカーに入れて振っていたような気がする。
あまりにもさらっと動いているので、見逃していたというか。
・・・まさか自分の分だとは思っていなかったというか。
「それに、頭を動かして疲れた時には甘いものがいいからな」
その視線に、飲むのか飲まないのかと問われているような気がして、アリスはそっと手を伸ばした。
そっと口を付けてみる。
おそるおそる飲んでみれば、たっぷりとした牛乳の中にちょっとアルコールを漂わせたコーヒーの混じる優しい味。
「美味しい・・」
自然と口をついた感想に、相手の視線がふっと和んだ、ように見えた。
思わずガン見をすれば、その視線は逸らされてしまった。
その動きに合わせて揺れるのは、男性にしては珍しいほどに長い青い髪だ。
黒いリボンで止めてあるそれは、カウンターの照明の下でもさらさらと手触りが良さそうで羨ましい。
と、いうか、どこかで見たことがあるような・・・?
「ええと、もしかして」
言いかけて、アリスの口が止まる。
もしかしてどこかで会ったことありませんか、とかナンパの手口にしても古臭すぎる。
もし間違えていたとしたら、目も当てられない。
酔った女性にこんな古い常套句で迫られたと思ったら、相手もドン引きだろう。
でも、確かにどこかで見たことがあるような気がする。
「何だ」
「あっれー、ユリウス。いつの間にちゃっかり彼女と仲良くなってるんだ?」
「?!」
不意に後ろから声をかけられて、驚いて振り向く間もなく体の両脇から誰かの腕が伸びてきた。
黒い長シャツを着た両腕がアリスの座る席を囲うようにカウンターに手をついていて、振り向くことが出来ずにびしっと固まる。
「・・・エース。悪ふざけは止せ」
「ええ、悪ふざけなんてしてないぜ?まだ、何も」
背後でくすくすと笑う気配がして、背筋が粟立つ。
さっきちらっと見たときに聞こえた声、このシャツの色。
エースと呼ばれた、背中にぴっとりとくっついている相手は、おそらく爽やか毒舌好青年だろう。
どこが、好青年なのよ!とアリスは何故かこの場にいない同僚に向かって心の中で叫んだ。
何か黒いオーラを感じる気がするのだ。
その喋り方や笑い声、この仕草から。
何はともあれ。
「・・・離れて頂戴」
「えー、君までそんな冷たいこと言わなくてもいいじゃないか」
「知らないわよ。だいたい、今は店を上げて執事設定なんじゃないの?」
「そんなのは、雰囲気が楽しめれば良いんだよ。ユリウスだって、そんなことしてないだろう」
「そもそも私は、最初からやらないと言っているだろう」
背後から伸びている右手がほらと指し示したカウンターの中の相手は、憮然とした顔でアリスの背後を睨んでいる。
爽やか毒舌黒青年の名前がエースで、無愛想で仏頂面のバーテンダーの名前がユリウスというらしい。
そもそも店長はメアというし、セクハラ紛いの黒髪の店員もグレイと呼ばれていたし、源氏名的な呼び名だろうか。
・・・いや、だからここはホストでは無いのよね。
「それは良いから、さっさと退いてちょうだい」
不愉快だと全身でアピールすれば、両脇に伸びていた腕はすっと背後に消えていった。
知らず緊張していた体が少し緩んで、思わず溜息を吐いた。
「君の同僚は、電話がかかってきたとかで店の外にいるよ」
「ああ、そう」
聞いてもいないのに、気になっていたことを伝えられる。
話しながらちゃっかり隣の席に座る相手は、カウンターに頬杖をついてにやにやとこちらを見てくる。
「・・・・何よ」
「いやぁ、あのユリウスがマンツーマンでおしゃべりする相手が出来たんだなと思って」
「・・・・・・」
視線を向けたカウンターの中の相手は、さっと視線を逸らす。
逃げたわね!とその背中をつい睨みつけてしまう。
ちらりとまた横を向けば、こちらを温い視線で見る赤い瞳と目が合った。
同僚には、この男は止めておけと言うべきだと心に決める。
どこからどうみても性質が悪い。
そうとしか見えない。
爽やか?胡散臭いの間違いじゃないのと思う。
「何だか、失礼なこと考えてないか?」
「自分の胸に手を当てて考えてみれば?おのずと答えが見つかるわよ」
図々しく親しげに声をかけてくるので、ついこちらも口が悪くなってしまう。
初対面の相手にちょっと言いすぎたかしら、でも・・と考えていると、エースとは逆の方向からくすりと笑う気配がした。
「そんなことはないよ。何より攻撃は、最大の防御だと言うしな」
声が聞こえた方に目を向ければ、カウンターに寄りかかった店長こと、メアさんがいた。
「君もまた、面倒な輩に絡まれたな」
「店長さん、それは失礼なんじゃないか?」
「間違ってないだろう・・ああ、これで彼女がもう店に来てくれなくなったら、エース、お前の給料はカットだからな」
「横暴だなぁ」
給料減を言い渡されているのに、エースは相変わらず笑っている。
「お前のせいで彼女が来なくなるのは困る」
「?!」
背後から低い声が降ってくる。
カウンターと反対側に、いつの間に近づいてきたのかグレイと呼ばれている店員が立っていた。
右手に胡散臭い毒舌黒青年、背後にセクハラで肉食獣っぽい男。
店長はちょっと頼りない薄幸の病人だし、唯一まともに話を聞いてくれそうな相手はカウンターの向こうだ。
「・・・そろそろ帰ろうかしら」
その前にどうやってこの場から逃げようかとアリスは悩んだ。
◆アトガキ
2013.10.21
あれ、執事設定どこいった・・・
というか、エースに至っては平常通りだったというか。
そもそもエースは所属じゃないので、あれ何かそれっぽい人がいる、くらいにする予定だったのに気が付いたらしっかりでばっていました。
店長とバーテンもこれまた通常通りというか、バーテンも執事してくれなかっていうか。
それよりももっと謝らなきゃいけない、黒髪の店員さんファンの方本当にすいませんでした!
ひどい扱いになってしまった・・!!
そもそもエースをこんなに出す予定は無く、折角のアダルト組でこの三人の誰かがアリスにちょっと色っぽいいたずらをするならグレイだろう、グレイしかいない!と思って決行してみれば。
・・・変態になったー!?
ちょっと危ない大人ぐらいにするつもりが、完全にやばい人になってしまった。
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