貴方から、目が離せないの



ボフン!!

空気砲を打ち上げたような盛大な音がして、街外れの空には灰色の雲がもくもくと流れていく。
街の人はあらあらと微笑んで、煙を吐き出す小さな窓のついた家の方を眺めた。
最近ではいつものことになってしまって、街の人さえ驚かない。
この世界では珍しいことに、まったくもって平和なことこの上なかった。



「また、やってしまったわ・・・」

煤だらけになった顔をしかめて作業台の惨事を見つめる。
この世界ではある程度の時がたてば、汚れも綺麗になり多少の破損も元通りになったりするが、それにしても木っ端微塵になったフラスコや試験管はさすがに元には戻らないだろう。
それに、いつ綺麗になるかは分からないのなら、自分で片付けてまた実験を進める方が早い。
そう考えつつ、箒とちりとりと雑巾を取りに行く。
ところが、通りかかった窓の外が一瞬のうちに、明るい昼間から暗い夜空へと変わってしまった。
狂った世界にいたとしても、睡眠時間はきちんと夜にとりたい。
そう心がけているアリスは、今の実験の続きは諦めるしかないとため息をついた。

コンコンコン

誰だろう。
実験に集中したい日は表の看板ははずしているし、そのことは街の人も知っているはずだ。
それに塔の最高権力者が病弱なため、この街には良い医者がそろった病院がいくつもあって、常にどこかは開いている。
だから閉めてある店に、わざわざ来る物好きはそういない。
せいぜいが、店前で転んだ子に絆創膏をあげる程度だ。
いぶかしげに作業室の扉を抜けて、表玄関ののぞき窓を覗き込んだ。

そこに立っている人物を見て、ぎょっとする。

「ブ、ブラッド?!」

ここはクローバーの塔のお膝元だ。
中立とはいえ、わざわざ他領土である帽子屋屋敷のトップが、こんなところまで何の用だろう。
友人ではあるが、その趣味嗜好を少なからず知っている身としては、あまりこんな時間に、しかもこんな格好のときに会いたくはなかった。
だが、驚いて出した声が聞こえてしまったのだろう。

「お嬢さん。いるなら開けてくれないか」

確信を持っているだろう外からの声に、居留守を使うわけにもいかず、しぶしぶアリスは扉を開けた。
嫌そうにちょびっとだけ開きかけた扉に、がっと白い手袋をした手がかけられて、文句を言うまもなく扉が開かれる。
一瞬ブラッドの目が見開かれた気がしたが、次の瞬間には面白そうににやりと細められる。
そして、押し込まれるように店内に戻されたアリスの目の前で、ブラッドが後ろ手に扉を閉めた。
ついでにガチャリと内鍵を回す音が続く。

「・・・何のつもり?」

煤だらけの格好なのはこの際無視をして、アリスは白衣の腕を組んで、目の前に立つ相変わらず奇天烈な格好の男を睨み付けた。

「なに、このところお嬢さんが熱心に何か作っていると聞いたのでね」

はしたなくも横を向いて小さく舌打ちをしてしまった。
誰から聞いたのだろう。
よりにもよってこの男に知られるとは。

「あなたには関係ないでしょう」

「いやいや、そうとも限らないだろう?」

白々しく放り投げた話題を、丁寧に拾って返してくる。
どこまで知っているんだろうか、横目でちらりと見上げれば、男の口元が弧を描くのが分かった。

「その薬を、一体君は誰に使う気なのかな」

怪しい気配を感じてとっさに後ずさろうとしたアリスの腕を、一瞬早くブラッドが掴んで引き寄せた。
色だけ見れば綺麗な白いジャケットと、肌触りのいい白い手袋に煤がついて汚れるのも構わず、アリスの腰に手を回してぐっと強く抱き寄せる。

「教えてくれないか?」

焦るアリスの抵抗も難なく封じて、もう片方の手で顎をつかんで上向かされる。
まるで、キスをする寸前の恋人同士のような距離。
覆いかぶさるブラッドの吐息が触れて、身震いする。
近すぎる翠碧の瞳から目が離せない。

「私が、使うんじゃないわ」

それに完成もしていないと、やっとのことで絞り出した声で告げる。

「そうか。それは残念」

ちっとも目が残念そうではない。
その瞳がすいと横にずれて、開いていた作業室の扉の向こうを見ているのが分かり、アリスは更に焦った。
それが逆効果だと気が付いた時には、もう遅い。
人質よろしくアリスを片腕で確保したまま、ブラッドは作業室へと足を踏み入れた。
その足元で、ジャリと割れたガラスの破片を踏み潰す音が聞こえる。

「ひどい有様だな」

作業机の上の惨状を興味深げに見遣った後、その視線が反対側の壁にある棚に向かう。
アリスは、自分が分からなくならないように、しっかり成分と効能まで書いたラベルを貼っているのを、今日ほど後悔した日は無い。
せめて、あの薬瓶はもっと奥にしまっておけば。
ブラッドの腕の中でぐっと唇を噛みしめたアリスは、最後の抵抗とばかりに足を思い切り踏みおろした。
しかし残念ながら、今は室内履きだった。
裏がぺったんこな室内履きでは、ブラッドの眉間に微かにしわを寄せる程度の打撃しか与えられない。
もちろん腕の力が抜けるわけも無く、状況は変わらなかった。

「おや、これは・・・」

ひとしきり棚の中を見あさったブラッドが、その中から一つの薬瓶を取り出す。
アリスの片手にも収まるほどに小さい、丸い香水瓶のような半透明な瓶の中には、薄紫の液体が揺れている。
もちろん、走り書きした効能のメモもばっちり貼られている。

「先ほどまだ、完成してはいないと言っていたようだが?」

「何のことかしら。それにそれは失敗作だって書いてあるでしょう」

他にもいくつも並んでいる瓶の中から、それを抜き出すのは想像出来たが、その後の行動はまったく予想できていなかった。
じっと瓶を見つめていたブラッドがついとこちらを向いた瞬間、頭の中に警鐘が鳴り響く。
手袋をはめた手が器用に瓶の蓋を開けて、その蓋が視界の隅で床に吸い込まれるように落ちていくのを、スローモーションのようにアリスは見ていた。
カツンと響いた音にはっと正気を戻して、アリスはわめいた。

「それは失敗作なのよ!お願いだから何もしないで!!」

「どうして失敗だと分かる?誰かに使って試してみたのかな、お嬢さん?」

「そんな危ないことするわけないじゃない!自分でっ」

「ほう。一人で、どうやって?」

これは、惚れ薬なんだろう?とにやにや笑って言ってくる男を、本気でしばき倒したいが両腕はがっちり拘束されているし、薬の入った棚を振り上げた後ろ足で蹴るわけにもいかない。

「むしろ、どうやってあんたがこの薬のことをしっ・・・っっ!??」

声を荒げた瞬間、おもむろにブラッドが薬を口に含み、次の瞬間には翠碧色しか見えなくなった。

「・・・んっんん」

ぬる、り。

開いていた口を閉じる隙も無く、遠慮も無く差し込まれた舌を伝い、液体が仰向いているアリスの喉に直接流し込まれる。
んぐ、と咳き込むアリスの背中を片手でさすりながらも、唇は重なったままブラッドの舌が口内を蹂躙していく。
ざらりと口蓋を這い回り、絡み付いては引きずり出して吸い上げる。

「ん・・ふっんぁ」

薬瓶の中にあった液体はとっくに喉を通り過ぎてしまったのに、離してくれない。
薬を飲んでしまったからには、せめて目を閉じていようと思うのに、視界を閉ざせば触れ合うねっとりとした舌の動きや、その熱さをまざまざと感じさせられて羞恥に顔が火照る。
息がうまく吸えずに頭がぼおっとしてきて、やがてアリスはくったりとブラッドの腕にもたれかかってしまった。
くちゅと水音を発して離れていく唇は、唾液でてらてらと光っている。
その腕の支えなしには立っていられなくなって、腕の持ち主を睨み付けた。
目を開けてしまったアリスの背に、ぞわぞわと寒気がはしる。
キスをしている最中も、ブラッドは片時も目を離さなかったから、目を開いたアリスは簡単にその瞳に捕われる。

「さて・・・どうかな?お嬢さん」

「う・・・ぁ・・」

捕食される獲物のような気分になって縮こまるアリスの唇に、赤い舌が這わされる。
その顔は真っ赤で、もはやキスなのか惚れ薬の効果なのか見当が付かない。
アリスの顔を覗き込んだブラッドは首を傾げる。

「ふむ、残念だな。本当に何も無いようだ」

だが、アリスの目はブラッドから離せない。
とろんとしたアリスの目が、瞬きもせずにブラッドの方に向けられていた。

「どうした、お嬢さん」

「み、見ないで・・」

「そうは言っても、とろけそうな目でこちらを見ているのは、お嬢さんだろう?」

にやにやと見ているブラッドの前で、急にアリスの瞳に涙が盛り上がった。

「お嬢さん・・・?」

限界まで開き続けているアリスの目が、充血して見る見る赤くなっていく。
何も言わずに唇を噛みしめて涙をこぼし、それでもブラッドのほうを見続けるアリスに、ブラッドの嗜虐心が煽られる。

「ふむ。確かに失敗作のようだが」

私にとっては完成品だな、と甘やかに囁いて、実験中だからと無造作にひとつにくくったアリスの首筋をするりと撫で上げる。
ふるりと体は震えるのに、アリスのまなざしは徐々にきつくなっていく。
もはや睨み付けている、で間違いない。

「好きになってほしい相手が瞬きできずに苦しむなんて」

しかもこんなに苦しんでいるというのに、心底楽しそうに笑っているのだ、この目の前に立つ男は。

「この変態×××××××!!」

強制的にまぶたを下ろしたいのに、両腕はまだがっしりと捕らえられている。 まるで拷問だ。

「そんなに可愛らしく泣かないでくれ」

くつくつと笑う顔がまた近づいて、止め処なく溢れてくる涙を吸い上げて、そのまま瞼にキスされる。
いつの間にか手袋をはずした素の手のひらが、そっと両目の上に置かれ、器用にまぶたをおろしていく。
やっと訪れた暗闇に安堵して、ためいきをこぼした。

「だから言ったでしょう、失敗作だって」

言ったって、この退屈を心底嫌い面白いものにはとんと目がない男が、自分の意思を我慢してやめてくれるとは、万にひとつもあり得ないのだけれど。
だからといって、つい先日自分で鏡を見ながら試してみた時のあの苦痛を、まさかまた味わわされるとは、思っても見なかった。
いつ効果が切れるのかも分からないまま、両手でまぶたを押さえ目薬を注しの繰り返しで、幸い1時間帯で効果は切れたのだが、疲労困憊で実験の続きなんて到底やる気にならなかったのだ。
それがやっと、作業の続きに戻れると思ったのに。

「本当にどこからこんな話聞いてきたのよ」

「このところお茶会の誘いを、ことごとく断られっぱなしだったからな。君の代わりに、ちょっとご近所の方たちに世間話のお相手をして頂いたんだよ」

あんたがじゃなくて、部下にやらせたんでしょうが。
毒づくアリスを抱き上げて、廊下に出て階段を上がり、勝手知ったる様子で二階のプライベートルームへと入ってしまう。
狭いキッチンの一脚しかない椅子にアリスを座らせて、水で湿らせた上等のハンカチが目に当てられれば、アリスは言い足りないながらも口をつぐむしかない。
でも、お礼なんて言うつもりは無い。
元々はブラッドが悪いんだから。

「本当は寝室にお邪魔したかったんだが」

口を尖らせたアリスの方を、くつくつと笑って見ているのが気配で分かる。

「ふざけないで。さっさと帰って頂戴」

「いや、飲ませた責任は取ろう」

「結構よ!!」

もう本当に、早く風呂に入って休みたい。
いくら綺麗になるからといっても、一度汚れた感覚はなかなか抜けないので、気持ちが悪い。

「では、今から大人しく私からの謝罪を受けるのと、本当の完成品を一番に届けてくれるのと、どちらを選ぶ?」

どっちもどっちじゃない!
冗談ではない。

「・・・次のお茶会には必ず参加するから」

うめくように言ってテーブルにつっぷせば、あらわになったアリスの項に生暖かいものが触れた。
ちゅと吸い上げられ、仕上げにざらりと舌が這う。

「謝罪のしるしが消えるまでに、必ずお茶会に誘うと誓おう」

慌てて首筋を押さえたが、きっとそこには赤い痕が付いてしまったろう。
ブラッドの体から香るそれから、うつったかのように匂いたつ、赤い薔薇。

「いらないって、いったでしょう」

「ふふ。では、また。楽しみにしているよ、お嬢さん」

地を這うようなアリスの声はさっぱりと無視をして、強引で傲慢で自分勝手な男は、どこまでも楽しそうに、夜を引き連れて足音も立てずに優雅に去っていった。
残っていたはずの薬瓶も姿を消していたことに気が付いたのは、それから効果が無くなって、やっと落ち着いて作業室の掃除に取り掛かった頃だった。




◆アトガキ



2012.10.27



EROでいくか、AHOでいくか迷った末のこの中途半端さ。

街で知り合いになった女の子から、気になっているバイト先の男子と、もう少し親密になりたいという悩みを打ち明けられたアリスが、あくまできっかけになればという気持ちで試作中だった惚れ薬。
そんな噂をいち早くかぎつけたブラッドが、嬉々として訪れたという話。

PAGE TOP