面影



ふと、自分の手をまじまじと見た。
念願の編集の仕事につけて、先輩の雑事を手伝って取材に行ったり、写真の撮り方を教わったり、ひたすら校正をするのに事務所に泊り込んだり。
名前を出して連載をもらえるような仕事はもらえてはいないけれど、女性が仕事につくことにまだ厳しい社会の中で、こうして色々と任せてもらえることだけでも十分嬉しい。
失敗して説教をされることだって少なくなくは無い。
でも、叱ってもらえるだけ良いと、挨拶をしても何をしても無視をされた時期を考えると、そう、思えた。
やりがいがある。
まだまだ、やれることも教えて欲しいことも一杯ある。

「・・・・・」

紙をトントンと机の上で揃えて、他の人がみな帰ってしまった事務所の中にその音がふと響いて。
何気なく見た自分の手も指先も、荒れ放題になっていた。
思わずくすりと笑ってしまう。
冬の季節の、ストーブを点けても足元から這い上がる冷気を感じる寒い事務所の中。
トサと紙を机の上に重ねて置いた。

「・・・女性の指じゃないわね」

姉さんの指は、家事で荒れていても美しかった。
白くて細い指は、優しい石鹸の香りと姉さんのお気に入りの花の香りのクリームの香りがした。
その手で頭を撫でてもらって髪を梳いてもらえることが幸せで。
その時ばかりは、すぐにもつれてしまう自分の可愛げの無い髪も、何だか特別に許せる気がした。
ちゃんとした淑女で、本当に憧れだった。
・・・いいえ、今でも憧れている美しいレディ・・だった。

「・・んーっ」

いつの間に頬杖をついて、自分の荒れた指先を遠い目をして見ていたアリスは、ぐーっと伸びをして勢い良く立ち上がる。
随分遅くなってしまった。
もういつものお店は空いていないだろうから、夕飯は家にあるものを適当にしてしまおう。
それで暖かいシャワーを浴びて、ホットミルクに少しだけお酒を垂らして、毛布に包まってゆっくり読書をしよう。
そう考えれば、少しだけ心がうきうきとして早く帰りたくなる。
真っ直ぐに、誰も待ってない狭いアパートだけれど。

「いたっ」

帰り支度をしながらマフラーを巻こうとして、指先のささくれにマフラーの繊維が引っかかった。
ささくれが引っ張られて深く裂けて、小さく痛む。

「ハンドクリームなんて、買ってあったかしら」

思えばリップクリームも切れてしまっていた。
乾燥して荒れた唇をそっと指先でなぞる。

荒れた、指先。

ふるふると首を振る。
それは、思い出さないと、もう箱の中に仕舞った記憶。
大切に仕舞った、夢のような日々。

「こんな時に思い出すなんて・・嫌だわ」

だって、これじゃまるで自分が弱い女みたい。
寂しいと泣いているみたいに、ぎゅっと締め付けられた心を無理やり無視する。
あれは夢だ。
少しだけ、長い夢を見ただけ。

男性のくせに、長くて器用な指先。
季節なんて無い世界で、いつも荒れていたその指に見かねて買ってきたハンドクリーム。
面倒くさいと一言たれた文句。
それでも、気が付けばハンドクリームの缶は空っぽになっていて。

「・・ふふっ」

思い出して思わず零れた笑みに、ハッとして手を当てた。
誰に見られるはずも無い事務所の中で、隠したってどうしようも無いと分かっていても。

・・馬鹿みたい。

そう思いながらも、羞恥心に顔に少し熱が集まる。
それは、そんな記憶を思い出している自分にか。
そんな、もう手の届かない記憶に、まだ縋っている自分を思い知らされてか。
・・・まだ、忘れられない気持ちを。
うっかり大切に仕舞いこんでいた自分に気付いてか。

カチコチカチコチ・・・・。

ふと、事務所の時計の針の音が耳につくようになった。
あの部屋は時計だらけでいつでもその音が響いて、まるで囲い込まれているようだった。
普通だったら時間に追われているような気分にさせられているだろうに。
彼がいるだけで、包まれているような安心感があった。
こんな、誰もいない暗い雑然とした場所に響く、無機質な音ではなくて。

もっと、柔らかく・・温かかった。

不意に周囲から音が消えて、体が温もりに包まれたような気がしてアリスはハッと振り向いた。

「・・・・何て、ね」

背後に広がるのは誰もいない事務所、ただそれだけだ。
体を掠めたと思った温もりも、ストーブを消した部屋の冷気にさっと冷えだす。
あの人がいたような気がしたなんて。
後ろに立って・・・。
そんなことを感じた自分に、自嘲気味の笑みを零す。

「・・帰ろう」

言い聞かせるように、無理やり足を動かす。
後ろは振り向かないように。
前だけを見て。

ガチャリ・・・パタン。

誰もいなくなった事務所を、アリスは出て行った。




◆アトガキ



2014.3.6



久しぶりに書いたハトアリが、アリスオンリーだけになってしまいました。
優しい世界を振り切って帰ってきて、自分の夢のために日々をたくましく生きてきて。
でも、ふと足元を見下ろしたら、後ろに立っている誰かの長い影が伸びていて。
ハッとして振り向いちゃったりする。
振り向いて、でも誰もいなかったりして、振り向いたことを後悔する。
そんないじらしい、アリスとか良いなと思います。

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