風に髪を巻き上げられる。
そっと頬にも触れるようなその風に、目をつむったままアリスはふっと笑った。
心地好い。
気温もまどろみを促しているようで、少しだけ寝返りを打つ・・・打とうとした。
固い。
手の平に触れるものは石のようで多少は平らにならされているものの、表面はざらざら、ゴツゴツとしている。
手の下だけではない。
剥き出しの膝の下にもその感触が広がっている。
体の下が全体的に固い。
そこでようやく、自分が草の上にいるのではないと気が付いた。
庭にこんなもの置いてあったかしら。
まさか、玄関前の敷石まで転がってきたなんてこと。
庭で、ちょっとだけうたた寝しただけのはずなのに。
疑問が脳内を静かに満たしていく。
まどろみを享受していたいと訴えていた領域をも侵すその疑問に、アリスはそっと目を開いてみた。
「・・・・・」
見事な青空が広がっている。
その視界には空と、謎の石壁しか入って来ない。
体の脇に手をついて、のろのろと上半身を起こす。
「・・・どこよ、ここ」
家の庭では無かった。
風が吹き抜けていく。
まだ少しだけ眠たい頭が、良く分からないし寝ちゃえばいいと囁く。
それも良いかもしれない。
この景色は寝ぼけた頭で見た夢かなんかだろう。
そう結論付けて、アリスは起こした体を横たえてそっとまた目を閉じた。
「・・い・・おい」
体を揺すられる感覚。
誰かの手が肩にかかっている。
今、自分を起こしに来るとしたら姉さんかしら。
「・・・ん、ねえさ、ん?」
呼び掛けながらも、その手の大きさも力も何だか違うような気がして、疑問に語尾が上がる。
大きなため息と共に、違うと唸るように低い低い声が降ってきて今度こそアリスの目はパチリと開かれた。
昼の明るさを拭い去るような暗い影が頭上から見下ろしている。
「え、・・だれ・・」
「・・・お前こそ、どうしてこんなところにいる」
暗がりを作っているのは長い長い髪で、日を遮って黒く見えたそれは改めて見れば深い青だった。
長い青い髪。
それだけでも、余りにも異質だ。
だというのに、頭上から間違っても機嫌が良いとは言い兼ねる表情でこちらを見下ろしている相手の声は男性のものに感じられた。
こんなに、髪が長いのに・・男?
いや、これだけ長い髪に良く見れば綺麗な顔立ちをしているんだから、声が低い女性なのかもしれない。
声質だけで判断するのは良くない。
「・・・・・」
「・・・・・」
もう一回声を良く聞いてみようと黙り込めば、相手も何故か黙り込んでしまった。
・・・声が聞きたいのに。
何となくまだ夢を見ている延長線のような気分で、そんな場合では無いかもしれないのに、横たわったまま無言で頭上の相手を見上げてしまう。
相手の眉根が寄り、目が訝しげになったかと思えば、徐々にその視線が冷たいものになっていく。
何だろう、何かまずいような気がする。
初めて出会った異性を前に寝っころがったままというのも問題だ。
起き上がろうと手に力を込めるより前に、その手首をぐっと掴まれた。
そのまますっぽ抜けるんじゃないかというような力で引っ張り上げられ、本当に手首が引っこ抜かれてはたまらないとアリスも慌てて立ち上がった。
立って改めて気が付くその背の高さ。
結局見下ろされたまま、アリスは居心地悪く視線をさ迷わせた。
「ええと・・」
「お前、余所者だろう。どうしてこんなところにいる?」
尋問するかのように尖った声音。
だが、その中の一つの単語にアリスの目は瞬いた。
「・・・余所者・・・?」
何故だろう、部外者や除け者といった何だか嫌な響きを感じるのに、どうしてだか嫌になりきれない。
「ああ、そうだ。お前はこの世界の住人ではない、余所者、だ」
そんなアリスの悩んだ顔に気が付く様子も無く、髪の長い男は繰り返した。
それも舌打ち付きでだ。
思わずむっとする。
こっちだって好き好んでこんな状況になった訳じゃない。
・・・そう。
確かこうなったのは誰かが無理矢理自分を穴の中に引きずり込んだのだった。
だから、舌打ちをするならその誰かにして欲しいものだ。
誰かって・・・誰、だろう。
白い・・白くて赤い、そんなイメージ。
まるで真っ白で、純粋過ぎるほどに無垢な。
「・・・?」
そんな印象だけははっきりと思い浮かぶのに、もっと詳しく思い出そうとすると途端にその姿は滲んで消えていってしまう。
どうして思い出せないのかと、ぼやける記憶が腹立たしい。
「何か、白い何かに穴に落とされたのよ」
「・・白い・・だと?そいつがお前をここに連れてきたのか?」
そうだと答えれば、また舌打ちをして視線だけ横に向けて、私になんの断りも無く、最悪だ、あの××××ウサギめ!と罵倒が降ってくる。
だから、それを私相手に言わないで欲しい。
「とにかく、私は・・・」
元の世界に帰りたいの、と当たり前のように続けるつもりだった、その声が途中で途切れた。
こんなわけの分からない場所にい続ける気は無いから、ここがどこだかは良く分からないけれど、家に帰るために地図か道案内を頼めば良いと思った。
思ったはずなのに、何故だろう。
もうそれは無理なのだと、頭の中の何かが言葉を塞き止めてしまった。
「・・・ここは、どこなの」
言いかけた言葉の先を胸の中に仕舞いこんで、別の言葉を紡いだ。
「・・・ハートの国だ」
溜息と共に告げられた名前に、どうしてだか胸がぐっと掴まれた様な鈍い痛みを発する。
それは歓喜に打ち震えるものとは少し違う。
あるべき何かを失ってしまったと気付いて、気付いたのにもうそれが何だったかも思い出せないといったような、どうしようもなく遣る瀬無い気持ち。
でも、絶望はない。
そのことに愕然とした。
もう、家には帰れないと思っているのに、絶望じゃないなんて。
私・・おかしくなってしまった?
「おい・・・・」
目を見開いて固まったままの私を訝しげに覗き込んだ相手は、もう何度目かといった溜息を吐いて踵を返した。
「え、ちょっと待って」
とにもかくにも何も持たない、何も分からないままでいるわけにはいかないだろう。
そう思って、何か知ってそうな相手を慌てて呼び止めた。
至極迷惑そうな顔で振り返った相手は、その静かな深い青い瞳を一度閉じてから、ゆっくりと開いた。
「・・私はユリウス=モンレー。この時計塔と・・・時計の番人だ」
吹き抜けた風に煽られた長い青い髪を、どこかで見たような気がしている。
この場所も、この風も、この人も、その声も。
どうしてだか、初めてでは無いような気がして。
カシャンと、どこかで時計の針が動いた音がした。
◆アトガキ
2013.10.7
ハトアリ発売記念というわけでして、スタート地点に巻き戻ったアリスの話でした。
甘さも何も無くて申し訳ないです。
ダイヤの汽車の中で、何度も体を打ち付けてズタボロのアリスのシーンがありますが、あの後ペーターの後姿を見てよろめきながら後方車両へ追いかけていって。
ジョーカーは、そっちじゃないよって慌てるけど、もし追いつけなくてエースもいなくて。
その先で意識が途切れて、ハートに巻き戻しされていたらどうだろうと思いました。
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