選ばない果てに



誰かの手を取るのが怖い。
唯一を選んで、その誰かを失ってしまったら、きっと私は立ち直れないだろう。
思い出の中の、母を失った父の背中を思い出す。
壊れてしまった世界の前に呆然と立ち尽くす、その美しい姿。
だが、自分ではあんな美しい者にはなれない。
きっと見っとも無く取り乱してしまうだろう。
例え、大好きで大切な唯一の姉さんが死んでしまったとしても、きっとあんな風には・・・。
・・・・・?

「・・リスっ・・アリス!!」

なんて顔してるのよ。

そう言ったつもりだったけれど、自分の声が自分の耳にも届かないなんて、おかしな話だ。
瞼がひどく重たくて、ゆっくりと瞬きをする。
頬に添えられた大きな手にぐっと力が込められたのを微かに感じる。

「アリス!目を閉じるな、しっかりしろ!!」

いつも静かな深い海の底のような藍色の瞳が、水が溢れ出てしまうように荒れ狂っているように見える。
ぼんやりとした意識の中で、海から水が溢れているなんてどんな幻覚よと場違いにもうっかり笑ってしまいそうになる。
ぐっと詰まったように歪んだ相手の面と、食いしばるような口元に心配になる。
ただでさえの仏頂面が、そんな怖い顔になっちゃったら今度こそ誰も近寄らなくなっちゃうわよ。

「笑って・・」

無茶を言うなと、いつものように呆れた顔をして叱ってくれれば良いなと思っていたが、ユリウスの視線はとうとう反らされてしまった。
綺麗なその瞳も良く見えない。
・・・残念だわ。

「ジョーカーっ!!ジョーカーいるんだろう、さっさとお前たちの季節を終わらせろ!!」

どこかへ向かって叫ぶユリウスの荒げた声を、遠い世界にいるような気分で聞いている。
まるで海の中に落ちたみたいにゆらゆらと自分の意識も体も漂って、周りにあるはずの何もかもが遠い。

「・・・そんな無茶を言わないでくれよ、ユリウス」

おどけたような声音が降ってくる。
目の前が翳る。
暗闇の中で濁った赤い瞳が、覗き込んできた。

「俺たちにそんなこと、出来るわけが無いのは君だって分かってるよね」

体に回っている腕に力が篭った。
腕。
ユリウスの腕だ。
ああ、どうやらまだ自分の体は在るようだ。
もうすっかり感覚もなくなりかけて、水に溶けて消えてしまったかと思っていたのに。

「俺たちだって、残念だと思っているんだよ。だって彼女はとても優秀な模範囚になりそうだったんだから」

「・・・ふざけるな、誰がそんなものにっ」

「それももう、無理そうだけどね」

ひょうひょうと話す声、押し殺された声。
意味など分からないただの音のように、聞こえた傍から泡となって消えていく。

「ああ、でも」

音がポンッと高くなった。

「嘘つきの季節が終われば、彼女がここで消えたことも忘れる。君はここで彼女が居なくなったことを忘れてそのまま・・・」

「っ!!!」

「そんなひどいこと、ユリウスにしないでくれよな」

影を作っていたものがふっとどこかへと消える。
変わりに視界に入った色彩は、鮮やかな赤色だ。

「もし、そんなことをユリウスにするんなら。俺はジョーカーさんの傍に付きっ切りでいなくちゃならないな。・・・ジョーカーさんが蘇った直後にすぐに殺せるように、俺がジョーカーさんの背後にずっと立ち続けてあげるよ」

「・・はっは・・それは笑えない冗談だね、エース」

「うん。冗談じゃないから、笑えないよね」

「・・・忘れて、ちょうだい」

「!!アリス!」

覗き込まれていると思っても、もうそれはただの空想かもしれない。
熱くって冷たかった時間が過ぎれば、後はもう何も感じない。
眠る前の、ゆるゆると意識が漂うような、ただそれだけだ。
ならばこれも、ただの寝言なのだろう。

「私は、この世界に・・・最初からいなかったの。それで、いいのよ・・。忘れてちょうだい」

そもそもここは、私の夢の世界だったはずだ。
あまりにも長くってうっかり忘れてしまっていた。

「馬鹿か!忘れられるわけが無いだろうっ」

そう言って欲しいなんて願ってしまった耳に、私にとってあまりにも都合が良い幻聴が聞こえる。
母の死に、言葉も何もかもを失ったような父の姿が頭を過ぎる。
あのような姿に自分はとてもなれないと思ったけれど、そんな相手がいるなら自分が生きていた意味も少しはあったんじゃないかと思っていた。
そんな姿を心のどこかで追い求めていたというなら、作り上げられたこの夢の世界が辿りついたこの終点は、何て優しい。

「・・駄目だ、アリス・・往くな!」

選ばなかったのに。
私は恐れていて誰も選ばなかったのに。
ごめんなさい・・・そして、ありがとう。



「・・・そう言って、アリスは微笑みましたとさ」

「そんなくだらない長話をわざわざするためにお前はここに来たのか、ナイトメア」

時計を修理する手を止めずに、藍色の長い髪をした男は吐き捨てた。
ナイトメアは机にもたれかかって、相手のそんな様子を腕組みをしてじっと見下ろす。
そして、長い溜息を吐いた。

「・・何が言いたい?」

邪魔だ、出て行けとその瞳が言っている。
その心の中に、自分を邪険にする気持ちと罵倒しか浮かんでいないのを読み取って、ナイトメアはもたれていた机から立ち上がった。

「いいや、何でもないさ」

ふんと鼻をならして、相手はまた時計の修理だけに没頭する。

「・・・でも、そうだな」

「何でも無いんじゃなかったのか」

心底迷惑そうに、それでも律儀に返事を返してくる男を見て苦笑めいた笑いが漏れてしまう。

「この話を聞いて、お前はアリスのことをどう思う?」

「・・・・・は?・・いきなり何を言い出すかと思えば。そんな名前も今はじめて聞いたばかりの女のことを、どう思うも何も無いだろう」

「・・・・・」

「それ以上用が無いのなら、さっさと出て行け」

「・・・分かったよ」

スパナを投げつけられそうな予感に、ナイトメアはやれやれと首を振って扉を開けた。
ちらと肩越しに振り返って、相変わらず視線の一つも寄越さない頑なまでの態度を取るその姿を見遣る。

「・・誰にも言わないでおいてやろう。寛大な領主に感謝するんだな」

そう言って、扉をパタンと閉めた。

「・・・っ!」

修理をしている途中の時計に、何かがポタリと落ちてきた。
愕然として、その水滴を見つめる。
芋虫のくだらない話に付き合うのはこれが初めてではない。
嘘つきの季節はこの領土に暑い夏をもたらしたから、汗でもたれたんだろうと思い込もうとして、思い込めない自分に腹が立つ。
くだらない、訳も分からない無駄話。
アリスなんていう見たことも聞いたことも無い女が出てくる、長ったらしい話。
もう一滴、勝手に溢れた水を手の平で受け止めて握りこむ。
修理中の時計にこれ以上落ちたら困るから、そうしたのだと。
言い訳めいた思いと共に、工具から手を離した。

「・・・・・」

背を反らせて椅子にもたれ込む。
仰いだまま、目をぐっと瞑った。
それ以上、海から水は溢れてこなかった。



「ねえ、ジョーカー」

「・・んだよ」

「何だか、ここにさ」

そう言って、ぼけっと監獄の廊下にしゃがみ込んだ片割れは、隅の牢屋の中を指差している。
常から、馬鹿だ阿呆だと思っていたが、とうとういかれ過ぎたのかもしれない。
壊れた玩具のように、言葉を垂れ流している。

「・・・すごく良い感じの囚人がいたような気がするんだけど・・覚えてない?」

「ああ?知らねえよ、そんなもの。だいたい、囚人に良いも何もあるかってんだ」

うざったくて言葉を投げつけ返す。
それにも何も反応せずに、ジョーカーは何も入っていない空の牢屋の中をぼんやりと見ている。

「いや、ここには入ってなかったのかな・・んー、でも入っていたような気がするんだけど、どうだったっけ?」

「・・・おい」

それ以上ぐちぐち言うんだったら、俺様がじきじきに黙らせてやろうかと鞭を片手にその脳天を見下ろす。

「ああ、でも本当にいたような気がするんだ。とびっきりの、囚人さん・・」

ジョーカーはどこか遠い目をうっとりと細めて、誰もいない牢屋の中をじっと見ていた。




◆アトガキ



2013.9.10



ジョーカーの国にて。
誰かを選んで、その誰かを失うくらいならと選ばずにいたアリスが、
誰か(この場合はユリウス)をかばって死ぬという話でした。
ユリウスは、アリスの死さえも嘘にして欲しいとジョーカーに頼むけれど、記憶ならともかく死んだものは嘘には出来ないと告げるジョーカー。

・・・ジョーカーの国で起こったことは、どこまで無かったことになるのかなと思っております。
ちなみに、最後。
アリスのことを覚えているのは、夢魔だけになっているという設定。

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