カチャカチャ パラリ
机に座る部屋の主が手元の時計を修理していく音。
その間に、合いの手を打つようにたまに挟まれるのは紙をめくる音。
ふ、とアリスは本のページをめくっていた手を止め顔を上げた。
椅子に座って作業中の相手の、その背後にある窓の外を見る。
塔の外は夕暮れの赤だが、その前の昼もそのまた前の夕方もずっとこうしていたのをぼんやりと思う。
空の色が変わっているのには何となく気が付いていたが、作業に集中するユリウスはもちろん、読書に没頭すれば自分もいったい何時間帯こうしていたかはもう思い出せない。
(そろそろ、珈琲でも煎れようかしら)
眼鏡をかけて長い髪に隠された相手の顔はよく見えないが、ずっと同じ姿勢で作業をし続けている。
小休憩を入れて、目や肩や休ませるべきだ。
立ち上がってキッチンへ向かった。
お湯を沸かすためにやかんに火をかけて、不意に瞬きを繰り返す。
(私・・・ここでシチューなんて作ったことあったかしら・・?)
ユリウスと並んで鍋をかき混ぜている光景。
ユリウスったらエプロン似合うじゃないと思った一瞬の後、愕然とした。
ユリウスがエプロンしていたところなんて、今まで見たことが無かったはずだ。
目を見開いたまま、アリスの思考は完全に停止する。
(・・・・いつから私、こんな妄想狂に?!)
しかも、やけにリアルな光景だった。
自分の想像力がたくまし過ぎることに、ふらりと体がよろめく。
がしっと目の前のシンクに手をついて身体を支えて、もう片方の手で頭を抱えた。
確かに、この時計塔でもう随分過ごしてきて、最初こそ無愛想で嫌味と皮肉ばかりだったユリウスも、だいぶ丸く穏やかになった気がしている。
気がしている、けれど。
(恋とか、そういうんじゃない)
そういうものを求めたことはなかった。
しいて言うなら、家族的な何かなら感じたことは無いとは言えないとか、そのぐらいで。
時に保護者のような立ち位置をとろうとするユリウスに対して、気恥ずかしさや安心感を抱いてしまったりはするけれど、自分ではある程度気心の知れた友人とルームシェアをしているつもりなのだ。
だから、さっき思い描いてしまった謎の光景・・まるで、恋人同士が週末のキッチンで仲良く料理という名の共同作業をしているシーンなんて、空想するのもおかしいというものなのだ。
それが、何故。
(・・・・夜更かしし過ぎね)
思えば夜は寝る習慣だったのに、作業中のユリウスについつられて、というか本の続きが気になって、夜を2回はまたいでしまった気がする。
寝不足で、恋人妄想?
ユリウスの分の珈琲を淹れたら、ちょっと寝よう。
とにかく寝よう。
「・・・おい」
「!!?」
額に片手を当てて猛省しているところに声をかけられて、びくっと肩が跳ね上がった。
「・・・何だ?具合でも悪いのか」
湯が沸いていると言ったのにお前は全く・・、と言って背後から伸びた腕がカチリと火を消していく。
やかんが鳴いているのにさっぱり気が付かなかった。
それより、背後に立っているであろう相手に体が固まる。
「おい・・本当に具合が悪いなら、ここはもう良いから早く休め」
ぶっきらぼうな声。
でも、心配そうにしているのも分かる。
・・・分かるようになった。
ユリウスは、優しい。
「だ、大丈夫」
動揺して早まった鼓動に気付かれないように、すっと立ち位置を横にずらす。
その様子をちらと見て、ユリウスは無言でやかんを持ち上げてアリスが用意したドリッパーへと慎重に注いでいく。
何となくユリウスの方を向けないアリスの視界の端で、コポコポという音と湯気が上がるのが見えた。
ふんわりと漂う珈琲の香り。
そこまで用意したのは自分だけれど、彼が淹れるならそれは間違いなく美味しくなる。
ユリウスにつられてブラックで珈琲を飲めるようになったからだろうか。
飲みたいなと、純粋に思った。
けれど、何も言わないユリウスが珈琲を注いだマグカップは1つだけだった。
自分も飲むつもりだったアリスは、自分のマグカップも並べていたのに、そちらには注いでくれない。
「・・・・・」
じっとりとはいかないまでも、抗議を込めた視線でその横顔を見上げる。
「・・・なんだ」
「なんだって・・・珈琲、2杯分いれてあるんだけど」
「そのようだな」
しれっと答える相手は、その場で自分の分のマグカップを持ち上げて一口飲んでいる。
アリスの眉根が寄る。
「・・・淹れてくれないの?」
「・・・・・・」
「・・・・・・・・ユリウス」
むっとしつつも名前を呼べば、はあと深い溜息が降ってくる。
こちらをちらと見た青い瞳は少し細められている。
そんな顔をしたいのはこちらの方だというのに。
「ぼおっとするほど眠いんだろう。・・・私に合わせなくてもいい、ちゃんと休め」
かけられた言葉に、思わず瞬きをして相手を見てしまう。
ユリウスの顔は呆れているようだったのに、そうやって見ているとふいと視線はそらされた。
「・・・寝る前に飲むものじゃないだろう」
「・・・カフェインが入っているものね」
反射的に入れなくてもいい相槌を打ちながらも、胸の中に広がる暖かさを感じていた。
飲まなくても伝わる、じんわりとした温もり。
アリスは頷いてキッチンを離れる。
「じゃあ、私ちょっと寝るわね」
「・・・ああ」
「お休みなさい、ユリウス」
「・・・・・ああ」
納得して寝ようと思えば、本当に疲れていたのか急に眠気が襲ってくる。
瞼が重い、思考がぼんやりと溶けて行く。
ふぁあとあくびをしながら、慣れたはしごを上る。
横になって布団にくるまれば、ゆるゆると視界も何もかもが暗い闇の中に落ちていった。
「・・・・・・」
キッチンに軽く寄りかかって、アリスがあくびの漏れた口元を片手で覆いながらベッドに続くはしごを上がるのを眺める。
布団に潜り込むまでを見てから、ユリウスはそっと息を吐いた。
さっきまで彼女の手が触れていたシンクの端に、そっと片手を滑らせる。
温もりなど残っていないし、そんなものは何も期待してはいないけれど。
最近、アリスの様子が少しだけおかしいことに気が付いていた。
それはいつでも、ほんの些細なことに対してで。
彼女自身はあまり気にも留めていないのか、その一瞬だけは不思議そうに首を傾げたりするものの、その後は何事も無かったように過ごしている。
何事も無かったかのように、普段どおりに、戻る。
「・・・・・戻る、か」
まるで、繰り返しを重ねたこの狂った世界のように。
レコードを巻き戻して、何度も同じ音を聞かせるように。
普段どおりの見慣れた行動、もう随分と見慣れてしまったアリス。
あの少女が余所者としてこの世界に来たのは、もういつのことだか、何時間帯前のことだか思い出せない。
いや、正確に思い出そうとすれば思い出せるような気もするが。
・・・はたしてそれは正解なのだろうか。
(馬鹿馬鹿しい)
言葉に出さずとも、脳内で吐き捨てる。
こんなことを考えるようになってしまった自分の愚かさに、顔には自然と自嘲の笑みが浮かぶ。
もし彼女が。
アリスがすでに、この繰り返しの狂った世界に取り込まれてしまったとしても。
私には、関係ない。
「何、悪い顔してるんだ?ユリウス」
「!!?」
思いも寄らないところからかけられた言葉に、飲みかけた珈琲を器官につまらせそうになった。
揺れた水面に現れている動揺を押し隠すように、マグカップをキッチンの台の上に置く。
じろりと下げた視線の先に、いつ間に入り込んできていたのか赤い服を着た男が座り込んでいる。
目が合えば、人を食ったような瞳を向けながら、片手をひらひらと振ってくる。
「最悪だ・・・って思ってるだろ」
「・・・・・」
「ぷっ、図星か。ユリウスってば本当に正直者だよなー」
いらっとした気持ちのまま固めた拳を軽く振り下ろす。
避けようと思えば避けられるだろうに受け止めた相手は、殴ること無いだろうと言いながらも笑っている。
「それにしても悪い笑みで見ていたよな。・・・アリスのこと」
にやにやと細められた赤い瞳が、その実、探るようにこちらを見ているのが分かって居心地が悪い。
ふんと息を吐いて腕を組み、視線を逸らす。
「笑顔なんて浮かべてはいない。気色が悪い。視力落ちたんじゃないのか」
忌々しげに言い捨てれば、からからと笑う相手はまたベッドの上のふくらみに赤い視線を戻す。
「何だ、俺はてっきり、ユリウスがやっと彼女のことをやましい気持ちで見ていたのかと思ったのに」
「やっと、とはなんだ、やっと、とは!そんなことがあるかっ」
「うるさくすると、彼女が起きちゃうぜ」
「っっ・・!」
しーっと口の前に指先を立てる相手の明るい茶髪を睨みつける。
「・・・とにかく、そういうつもりはない」
「えー・・・?でも、もうだいぶ一緒に過ごしてきたじゃないか。今まで、一度も?」
「無い!今までもも何も、これからも無いに決まっているだろう」
「ええー・・・」
何でそこで残念だという顔をするんだ。
無いものは無いと言い切って顔をそらせば、不服そうだった瞳がきらりと光った。
・・・ろくな事は考えていない顔だ。
「じゃあさ、ちょっと今覗いちゃおうぜ」
「・・・は?」
「覗いたら、ちょっとはそういう気になるかもしれないぜ。・・・アリスの、寝顔」
「お前はいったい何を言い出す・・っおい、待て!」
よだれとか垂らしてたら面白いよな!と笑いながらベッドに近付くその腕を、寸でのところで捕まえる。
「何だ?やっぱりユリウスも見たいんじゃないか」
「違う!私に人の寝顔を覗き見するような趣味は無いっ」
「・・・でもそれは、見ちゃったら、疚しい気持ちになっちゃうかもしれないからじゃないのか?」
ふーんと、赤い瞳が弧を描いて細まる。
「でも俺は、なっちゃうかもしれないな」
思わず、腕を掴む手に力を込めてしまった。
それに気が付いたエースの顔が更ににやにやとしたものに変わる。
「ユリウスはそんなこと無いんだろ」
「あ・・・当たり前だ」
「じゃあ、見ても構わないじゃないか」
「・・・・・」
違う。
そういうことが言いたいんじゃない。
どうやったらそんな結論に達するんだ。
色々と言ってやりたい言葉ばかりが頭を掠めるが、何の言葉も出てこない。
そんなユリウスの言葉なり行動なりを、にこにこと一見人畜無害そうに笑いながらエースは待っている。
よく見れば、その薄っすら開いた赤い瞳は、人畜無害とは間逆の狂気を孕んでいたりする。
「良いと、思うんだけどな」
「・・・・・・何がだ」
爽やかに笑いながら、ぽつりと呟くエースの言葉を上手く噛み砕けずに訝しむ。
エースは掴まれたままの腕も気にせずに、ベッドの上のアリスを見遣ってまた笑う。
「やましい気持ちになっちゃっても。・・その先にいっちゃっても、さ」
「はあ!?・・お前、自分が何を言ってるか分かってるのか?」
「分かってるぜ?」
即答されて、瞠目する。
向けられた顔があまりにも真剣で、腕を掴んでいた手から力が抜けた。
エースはそこから一歩も動かずにこちらを見ている。
「俺は二人とも好きだ」
「お前が誰が好きかは関係な・・」
「関係ある」
そう言って伸びてきた赤い袖に包まれた腕に、反射的に一歩後ずさるも容易く距離が詰められる。
背後のキッチンにぶつかりそうになってあげた腕に、灰色の手袋に包まれた手が触れた。
振り払う前に掴まれる。
加減を知らない力で握られて、眉を顰めるもエースの手は離れない。
「・・・離せ」
ようやっと告げた文句に、気味が悪いほど静かな顔をしていたエースの顔が崩れた。
「嫌だ」
そういう顔を、悪い笑みとか言うんじゃないかと思うも、仮面のような無表情が崩れたことに無意識にほっとしている自分に気が付いて、ユリウスは溜息を吐く。
本当にこの男は性質が、悪い。
脱力した身体がぐいっと引っ張られる。
「おい、エース!」
「まあまあ、何事も経験だろ」
「私はそんなことは求めていない」
全力で対抗しているはずなのに、片手でこちらを掴んだだけの相手にずるずると引きずられてしまう。
足元に転がる部品や工具を踏まないようにすれば、それだけ抵抗する力が減って、気が付けばベッドの前に立たされていた。
「さーって、寝顔拝見っと」
ふざけた笑みで柵越しに覗き込もうとする頭に、握った拳を手加減無しに振り下ろす。
重い打突音と共に、じんわりとした痛みが握った拳に響く。
頭を抱えてしゃがみ込む相手をふんと見下ろして、ちらと顔の脇にあるベッドに視線を向けた。
「・・・・・」
何故、こういう時に限って。
心の底から、そう言ってやりたい。
毛布を体に巻きつけているのだろうが、胸元に寄せられた足が完全に外に出ている。
ついでに、それはどうにかならないのかと散々言っている寝巻きは案の定肌蹴ていて、白い足が惜しげもなく眼前に晒されていた。
足元にしゃがみ込んだエースとはまた違った意味で、頭を抱えたい。
よっぽど眠かったのか、思えば散々騒いでいたにも関わらず、アリスは全く起きる様子も無くすうすうと寝息を立てている。
・・・こちらを向いて。
「・・・・・・・・はあ」
何だか、とてつもなく疲れてしまった。
不眠不休で時計の修理をしている時より、よっぽど酷い。
額に手を当てて俯けば、俯いた視線の先で頭を抱えていたはずのエースと視線が合う。
「・・・・見ちゃった?」
「・・・・・・」
「俺もちらっとだけど見えた。さわり心地良さそうなあ・・」
足、と言いかけたその背中を蹴る。
両足を揃えて座り込んでいた相手は、うわぁっと叫んで前につんのめってつぶれる。
「・・・何だよ、ユリウスも見たくせに」
「うるさい黙れ」
床に倒れてなお、むっつり、と茶化す相手の、脳天に振り下ろしてやろうとスパナを握る。
「ちょっ、さすがの俺もスパナで殴られたら陥没・・」
転がるように避ける相手に力の限り投げつける。
「黙って当たっていればいい」
「俺、そっちの趣味は無いぜ!・・よっと」
避けつつ床に手を付いて上体を起こして、そのままの勢いで扉を開ける。
「やましい気持ちになっちゃった友人のために、空気を読んで退散しとくよ」
「いらん世話だっ」
笑い声が時計塔の階段を下りて行ったと思えば、その先で気の抜けた叫び声に変わり、転がり落ちていく音に続く。
ぼろぼろになった扉を無言で閉める。
どうせ、落ちた先で足が方向転換をして、また登ってくるに違いない。
入り口前にテーブルを移動させる。
塔の中からは追い出せないが、部屋に入れないようにすることは出来る。
出来るが念のためテーブルの上に椅子も積み上げておく。
「・・・・・・はあ」
エースに振り回されて疲れたところに、余計なことをした。
その場にずるずると座り込んで、壁に後頭部を押し付ける。
仰向けた視線の先で、相変わらず眠り続ける少女。
ここまでうるさくしてもまだ起きないとは、本当に図太い神経をしている。
「・・・・・・」
座り込んだことで顔は見えなくなったが、柵に寄せられた足だけは見える。
いつの間にか夜の帳が落ちて薄暗くなった部屋の中に、浮かび上がるように白く細い・・・。
視線をそらして、口元を手で覆う。
「・・・ちっ」
馬鹿なことを考えた。
これもあの迷惑と面倒ごとばかり持ち込むエースのせいだ。
くしゃっと髪を掴む。
床に流れた自分の長い髪が振った頭に合わせて揺れる。
「・・・・・・」
馬鹿なことだ。
自分の傍にいつまでいられるか、なんて。
そんなことを考え始めている自分の思考回路を切断してしまいたい。
(・・・あいつは余所者なんだ)
余所者はこの世界を巡って行くものだ。
帰らないと判断しようがなんだろうが、いつか自分の元を離れていくことに変わりは無い。
・・きっと、そうなる。
でもふとした時に感じる違和感が、別の可能性も示唆する。
もしかしたら、すでに巡った円環の先がここに繋がっているんじゃないか、なんて。
その輪を自分のところで断ち切って、その端をこの手に握りこめたら、なんて。
「・・・・・馬鹿馬鹿しい」
そんなことを考えさせる少女の眠るベッドを見上げて、思いも寄らない感情を呼び覚まされたことに重い溜息を吐いた。
◆アトガキ
2013.11.8
時計塔組話を求めていただいたので、どういうシチュエーションにしようかとずっと迷い続けて、辿りついた先がこれ・・だと。
ほら、ユリウスってエースにその手の話で絡まれると、上手く受け流せずについ正直にぽろっと言っちゃったりするので、ね!
そんな二人を見ていると、途端に学生みたいに見えて微笑ましくなります。
何となく、「Return to the starting point」の続きみたいな感じになりました。
PAGE TOP