「アーリスっ!!」
「エース・・・」
時計塔に続く道。
そこからの一歩を踏み出せなくて、アリスはうずくまるように道の端に座り込んでいた。
芝のチクチクとした感触を手の平に感じては、戯れに引きちぎっては投げ捨てて。
むかつくくらいの晴天を、その虚ろな瞳に映していた。
今は、そこに暗い影が覆いかぶさっている。
背後から覗き込むように、腰に手を当ててこちらを見ている男。
陽にあたる髪は淡い茶色に透けて光を弾いていたが、影になった赤いはずの瞳は暗く濁っているように見える。
力無く声を返したアリスを頭上から見下ろしていた男は、うーんと顎に手を当てて何事か考えてから、からっと眩しいくらいの笑顔を見せた。
「じゃ、連れてってあげるよ。それさ、そろそろ渡さないと、本当にまずいんだよね」
それ、と灰色の手袋に包まれた指で指ししめす先、アリスが膝の上に抱えていたもの。
金色の丸く平べったい・・・たった一つの時計。
エースに指さされて、無意識に胸元でぎゅっと握りしめてしまう。
分かっている。
心臓である時計を、時計屋に渡さないといけないということは。
分かっているのだ。
そうして、もう前の彼とは違う、でも役割だけ受け継いだ別人の彼が再び現れるということも。
握りしめて俯くままのアリスを、エースはしばし無言で見ていたがじれったくなったのか腕を伸ばしてきた。
覆いかぶさるような影から、反射的に手の内にあるものを取られまいと丸まるアリスを、エースはひょいっと抱えあげて、そのまま肩の上に担いでしまった。
「お、おろしてよ!自分で・・・自分の足で歩いていくから・・・」
「だめだぜ。そう言って君はもう何時間帯、ここにいたと思っているんだ」
「えっ」
驚いて、アリスは自分を担いでいる男の顔を見た。
エースは、肩越しにちらりとこちらを見て、その赤い目をふっと和ませる。
「見ていたのは、俺じゃないけどな」
それじゃあ、まさかと目の前に聳え立つ時計塔を見上げる。
側面にぽつりぽつりと穿たれた、いくつかの穴。
その内のひとつは、時計塔の主の部屋で間違いないだろう。
今はどの窓にも特に人影がいるような様子は無いが、ずっと地面を見て蹲ったままのアリスを、ユリウスは何を思って見ていたのだろう。
急に大人しくなったアリスに、エースは何も言わなかった。
エースの少し大股な歩みに合わせて揺れる広い背中の裏で、アリスは両手の中の時計をじっと見つめていた。
「ユーリーウース!」
いつもどおりノックもせずに、扉を外れるかのような勢いで開けてエースが部屋に入ってきた。
赤いコートの肩の上には、ぐったりとしたアリスが乗っかっている。
「ユリウス・・・お邪魔、するわね・・・」
丁度腹の部分を肩に圧迫されて、アリスは息苦しそうにしながらも、部屋の主に一声掛ける。
「・・エース、下ろしてやれ」
呆れた目で促せば、エースはごめんごめんと笑いながら、片腕に抱えてアリスを床に下ろした。
床に足がついたのを確認してエースは腕を離したが、途端にアリスの足はかくんと折れてそのまま前に倒れそうになる。
慌ててユリウスが手を出そうとする前に、アリスは抱えていた何かを守るように両腕を胸元に引き寄せて、横向きに転がった。
彼女が守ろうとしたものが一瞬、視界に映ってユリウスの手は伸ばされる直前で不自然に止まる。
「・・・あ」
腕の中のものを見て、一瞬ほっとしてからアリスははっと顔を上げた。
こちらを見て固まるユリウスの視線から隠すように、胸元に抱きしめたものをさらに手で覆い隠してしまう。
そうしてから、ひどく後悔した顔で床に顔を向けたまま俯いてしまった。
そんなアリスを見ていられなくて、ユリウスは視線をそらす。
そして、部屋に沈黙が落ちた。
「・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・うーん」
そんな部屋の状態を見て、エースが一人顎に手を当てて考え込む素振りを見せる。
その声に、ついと視線をあげたユリウスは、エースの赤い瞳と目が合ってしまった。
心の内を読ませない赤い血のような瞳。
だが当てられた手の下で、その口元は軽く弧を描いていた。
ユリウスの眉根が、訝しげに寄る。
「おい、エース。余計なことは・・・」
「するよ。俺にとっては、必要なことみたいだ」
そういう風に笑うエースが引き起こすことは、たいてい碌なことではない。
常日頃から身を持ってそれを体験しているユリウスが制止の声をあげる前に、エースがその言葉の先を封じた。
そして、赤いコートが翻る。
「お前、なにをっ」
アリスに何かをするつもりじゃないだろうか。
蹲る少女の上に覆いかぶさろうとするエースの前に、焦って飛び出す。
その視界が、がくんと揺れた。
アリスは、頭上で交わされる言葉の端々と、背後に立つエースの纏う空気を感じ取っていた。
何か仕出かそうとするエースから離れたほうが良いと思うのに、発せられる気配から動けなかった。
そして、仮に動けたとしても、もうこれ以上事態を悪くさせたくなかったし、かといって腕の中の物を素直に差し出せるほどの踏ん切りも付けなかった。
だから、動けなかったというより、動かなかったというほうが正しいかもしれない。
だって、これは大切な。
大切な・・・時計。
「アーリスっ!」
「おいっ、離せ!エースっ」
明るい声で自分を呼ぶエースと、焦ったようなユリウスの声が聞こえる。
恐る恐る顔を上げた、アリスの目は見開かれた。
「離せ、エース!一体何のまねだ!!」
もがくユリウスの長身を難なく押さえ込んで、その背後に立つエースは笑っている。
笑って、その首元に剣を突きつけていた。
「な、何をしているの・・・エース・・?!」
「何って・・見たら分かるだろう?」
にっこりと微笑むエースは、まさしく悪役にしか見えなかった。
離せと呻くユリウスの腕を捻り、その首元に刃を突きつけている。
「交換しようよ、アリス」
「っっ!!」
弧を描いて開かれた、赤い瞳はぞくりとするような狂気を孕んでいる。
ユリウスの命と、アリスの手の中の物を交換しようという。
「君がそれをいつまでも渡してくれないからさ。こうするのが一番いいかなって」
「でもそれにしたって、あなた・・・あなたにとってユリウスは!」
「うん、大切な友人だ。だから、俺にとっても辛い選択だ」
淡々と話すエースは一見して至極冷静に見える。
だが、やっていることはとても正気とは思えなかった。
アリスの手が緊張で汗ばむ。
「でもさ、このまま時計を直さなかったら、ユリウスは弾かれるかもしれないだろ?だったら、今俺がユリウスを殺しちゃっても、結果は変わらないかな、って」
口元を引き結んで躊躇うアリスをしばし見つめてから、エースの目が一度閉じられた。
その視線から一時解放されて、アリスの気が緩んだ瞬間。
「!うっ・・」
「・・・・・!!!」
ポタ、ポタリ
視界を赤い玉が掠めて落ちて、床に跳ねて広がる。
呆然として、その出所を目で辿る。
エースの手が僅かに横にずれ、ユリウスの首元に赤い線を引いていた。
さっきまで弧を描いていたエースの口元には、今は何も浮かんでいない。
その顔は能面のように無表情で、アリスの背筋を寒気が走った。
もしこれ以上、迷ったり逡巡するような真似をすれば、エースの手は真横に引かれるのだと、確信する。
仮にそれが自分の友人だとしても、彼は躊躇ったりしない。
「狂ってるわ・・・」
「うん、そうだね」
「・・・よせ、エース」
「ユリウスは、黙っててよ」
更にじわじわと引かれる刃に、低く呻いてユリウスは顔を傾けた。
寄せられた眉と額に滲む汗が、ひどい苦痛に耐えているのだと分かる。
垂れ下がる長い藍色の髪は、その顔を完全に隠してしまった。
それ以上、呻く声も出さずに押し黙るユリウスに、アリスは息が出来なくなった。
自分が、先延ばしにした問題のせいで、大切な友人を傷つけている。
だがユリウスは、アリスが迷っている間も、何も言わずに待っていてくれて、今もアリスのことを一言も責めない。
彼の優しさに、甘えてしまっていた。
食いしめた唇から、鉄の味が広がる。
鈍い痛みも、不味い血の味も、ユリウスに受けさせたものに比べれば、遥かに些細なものだ。
アリスは、顔をあげて目の前に立つ男を睨みつけた。
「エース。ユリウスを離してちょうだい」
「やっと、渡してくれる気になったんだ」
そう言いつつも微動だにしない騎士に自ら歩み寄って、手の中に持っていた金色の時計を叩きつけるように差し出す。
それをちらと見てから、エースはユリウスの名を呼んだ。
「ユリウス、左手を出して」
荒い息を1つ吐いて、解放されたユリウスの左手が差し出される。
少し震えるその大きな手の上に、アリスはぬくもりの移った丸い時計を静かに渡した。
力が入らず取りこぼしそうになっているユリウスの手を、両手で包んで、その長い指でしっかりと握らせる。
ユリウスの頭が少し持ち上がって、さらさらと流れる髪の間から、ぼんやりと揺れる藍色の瞳が覗いた。
その目が、良いのかと尋ねているのだと分かって、アリスは頷く。
「・・・いいの。もう、いいの」
しっかりと答えたアリスに、その瞳が閉じられた。
と、同時にエースの手がぱっと離される。
がくりと膝をつくユリウスの体を、慌ててアリスが受け止める。
「っっ!ごめんなさい、ユリウス・・・」
本当にごめんなさい、と抱き付いて繰り返すアリスの背を、そっと伸ばされた大きな手が優しく叩く。
首筋から溢れる血は、藍色の髪をべったりと汚して外套に染み込んでいく。
「お前がいいなら、いいんだ」
「でもっ・・・」
涙が溢れるアリスの頭を、撫でてユリウスは少し長いため息を吐いた。
「やー、良かったよかった!君が全然動いてくれなかったら、どうしようかと思ったぜ」
殺しちゃうところだったよ、とエースは笑って剣を鞘に収めている。
アリスの米神では何かが切れる音がした。
おい、と声をかけようとするユリウスの腕を振り切って、アリスは涙を風に飛ばす勢いでエースに迫った。
剣を鞘に収めたまま、何事もなかったかのような顔をしているエースの襟首を勢い良く引っつかむ。
全体重を込めて下に引き寄せて、降りてきた頭に横から勢い良く振りかぶった肘を叩き込んだ。
自分の腕からみしっと嫌な音がした気もしたが、アリスは聞こえなかった振りをした。
「お、おいアリス・・!」
勢いで軽くよろめいて膝をついたエースは、いって、と側頭部をさすっている。
アリスの攻撃なんて軽くかわせるはずなのだ。
なのに、あえてそれを受け止めた。
そして少し持ち上げた顔には、どこかすっきりしたような笑顔を浮かべている。
だが、鉄錆くさい血臭はいまだ周囲に漂っていて。
無表情のままエースの首元を引っつかんで、さらに胸元辺りに膝を入れようとするアリスを、後ろから慌ててユリウスが羽交い絞めにした。
首元を押さえていたのだろう、背後から回されていた手についている血を見て、アリスの目の前が真っ赤に染まる。
ユリウスに抑えられて動かせない両腕に替わって、右足でしゃがみ込んでいるエースの腰を蹴り上げようとするが、今度こそ身をそらしたエースに軽々とかわされてしまった。
続けて、左足を跳ね上げてつま先で顎を狙うも、ひょいと避けられた上にその足首を掴まれてしまう。
もがいても、エースは口元に笑みを浮かべたまま、離してくれない。
「女の子は、蹴りなんてするものじゃないぜ」
にっこりと笑うエースは、かかとを持ったままさっと立ち上がってしまう。
上げられた足にそって、エプロンドレスの裾が捲りあがる。
露になった膝を、エースは空いている方の手でさらりと撫で上げた。
「やっ」
必死に隠そうとするも、両腕はユリウスに押さえられていて動かせずに、アリスの顔は羞恥で真っ赤に染まる。
にやりと笑うエースの表情に、ユリウスは慌ててアリスを解放した。
それと同時に、アリスの足も解放される。
声にならない唸り声をもらして、アリスは裾を手早く直した。
行き場のない怒りがアリスの中に溜まる。
「・・・・・」
大きく二回深呼吸を繰り返す。
再び爆発しそうになる怒りを、何とか収めてアリスはくるりと背後を振り返った。
こちらの様子を窺っていたのだろうユリウスの目を真っ直ぐに見つめれば、戸惑ったように反らされる。
塔に引きこもるために日焼け知らずの、健康的よりは少し白い首筋に走る赤い直線を目に焼き付ける。
その長身を両腕でぐいぐいとソファの方に押し出した。
「今度は何だ・・・」
何も言わずに体当たりをするように全力で押してくるアリスに、ユリウスは文句を言いながらも渋々従ってくれた。
座らせて、救急箱を探し出してくる。
それを見て、ユリウスはため息を吐いた。
「こんな傷、お前がそこまで気にするようなものでも・・・」
言いかけてアリスを見上げた瞳がぎょっと見開かれる。
「おっおいっ、そんなに私が死にそうに見えるのか?」
「っっ!!見えないわよ!見えるわけないでしょ!!」
「だったら、泣くな!」
包帯を巻く視界が滲む。
手元に、溢れた水滴がこぼれ落ちた。
「・・・本当に、ごめんなさい」
エースの言うとおりだ。
自分が我がままだったばかりに、ユリウスを危険な目に合わせた。
エースのやり方は到底許せるものではなかったが、最悪ユリウスを失うことにも成りかねなかったのだと、今更ながらに思い知って血の気が下がる。
もう、これ以上大切な友人が目の前からいなくなるなんて、考えたくない。
「怪我ももちろん・・それにあなたの仕事のことも・・・私、自分のことしか考えてなかった・・」
「仕事のことも怪我のことも、もう過ぎたことだ」
ユリウスの声音はとても静かで、アリスのことは相変わらず怒りもしない。
アリスの決断を何も言わずに待って。
結局、最悪の事態を招いたというのに、責めもしない。
包帯を巻き終えた両手を、爪が刺さる程に握り締める。
「あなたはっっ・・・もっと怒っていいのに!!私のせいでこんな目にあって!・・文句の1つでもあっておかしくないのに」
なんで何も言わないのよと、勝手に詰るアリスに対してもやはり何も返さない。
ただ静かに、彼女の行き場の無い怒りを受け止めている。
「・・・なんで・・・」
拳から力が抜ける。
強張りがほどけるアリスの手を、大きくて少し荒れた両手が包み込んだ。
「それはお前が、他人の死を悼み、時計を大事に出来るやつだからだ」
「そんなこと、当たり前でしょう」
「お前の元いた世界では、な。・・ここでは違う」
皮膚を突き破った爪先につく血に眉根を寄せて、指先で拭い取り、手の平に絆創膏を貼る。
「こんなの、痛くないわ・・・」
「私にとっては、痛いんだ」
手当てをしてから、見上げてくるその顔には哀れみは浮かんでいない。
それが救いだった。
「・・・引きこもってでも、きちんと直してちょうだい」
何を、とは言わなかったが、伝わらないわけが無い。
言えば、途端に呆れたような表情を浮かべる。
「あなたが順調に修理を進められるように手伝いもするし、料理だって作りに来るわ。だから・・・」
「ああ、分かった。好きにすればいい。だが、修理する順番は変えないからな」
ため息を吐きつつ呆れたような顔の中、でも深い藍色の瞳だけは困ったように細められていて、アリスもつられて少し笑った。
◆アトガキ
2013.3.26
書きたかったネタを何とか形にしてみたものの。
思ったより、在り来たりな展開になってしまったような気もします。
でも、ひとまず満足。
あ、アリスの持ってた時計が誰の者かはご想像にお任せします。
そしてエースが最後どこに行ったのかは・・・。
「じゃ!」とか軽く手を上げてさーっといなくなったとか、
まあ、そんな感じです。
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