Sorriso



「わぁ・・・」
時計塔のユリウスの部屋の隣。
物置だという彼の言葉を信じてずっと覗かずに来たが、ただ物が詰められているという訳ではなかった。

物置というには片づけられた小さな部屋の中には1台のピアノ。

流石にグランドピアノを置くようなスペースではないからアップライトだけど、それでも十分な存在感だった。
カバーを上に開けると、真っ白な鍵盤がキラキラと輝く。
人の出入りがあまりないこの部屋にあって全く埃を被っていないという事は、案外ユリウスがたまに弾いているのかもしれない。

そっと鍵盤に触れてみる。
澄んだ音が響いて、消えていく。
絶対音感があるわけではないから分かりはしないが、やはりずっと放置されているわけではないらしい。
そう言えば、前にゴーランドのところでユリウスと会った時、彼がじっと部屋の奥を見つめていたような気がする。
思い返してみれば、あの部屋の奥にはゴーランドのピアノがあった。

(ずっと仕事ばかりしている人だと思っていたけど、案外こうやって息抜きしてるのかしら。)

ピアノ用に仕舞われていた椅子に座ると、得意な曲を弾いた。
前にゴーランドのところで弾いた曲だ。
元の世界にいる時に姉さんに習った曲。
残念ながら才能は無かったようで、姉のように何でも弾きこなせるようにはならなかったが、こうやって1曲でも弾ける曲があるのは嬉しい。

そうして弾いているうちに、頭の中にあるメロディが蘇ってきた。
遠い昔。まだ幼い少女の頃。
あれは母が亡くなって間もなくだっただろう。
悲しんでいる私と妹のイーディスに姉さんが弾いて、歌ってくれた曲。

知らない旋律に知らない言葉。
あとからあれはイタリア語だったと聞いたが、かの言語はいまだに学んだことがない。
この世界ではもうあの曲の意味はわからないのだと気付き、少し寂しさを感じた。

(どういう意味だったんだろう・・・)

頭に残っているのは出だしのピアノの音と、曲全体の柔らかな雰囲気だけ。
とても好きで何度も弾いてとねだっていたのに。
曲のタイトルも、確かSから始まったことくらいしか覚えていない。

「こんなことなら、ちゃんと習っておけばよかったわ。」


弾きながらアリスがそう呟いた時、キイと小さな音を立てて部屋の扉が開いた。

「お前は、姿が見えないと思ったら何をしているんだ・・・。」
そうして溜め息をついてみせる。私の滞在先の主人。
それだけではなくて、今はとても大切な人。
「お帰りなさい、ユリウス。」
仕事だと彼が出かけてからだいぶ時間が経っていた。
自ら留守番を引き受けたとはいえ、こうして彼が戻ってくると自然と笑顔になってしまう。
「弾けたんだな。」
呟くようにそう言って、ユリウスは私の隣に立った。
彼の指先が白い鍵盤に触れると、先程と同じように澄んだ音が鳴る。
「まさか時計塔にピアノがあるなんて思わなかったわ。」
「・・・そうか。私は仕事しかしない人間だからな。」
ユリウスは部屋の奥へ行くと、いつも使っているのとは少し違う工具箱を手に戻ってきた。
ピアノの下にもぐり、静かに作業を始める。
「もともと調律を依頼されてこのピアノはここへ来た。依頼主がいなくなったから、仕方なくここに置いているだけだ。」
しばらくして調律を終えたユリウスが立ち上がる。
工具箱を戻しに奥へ向かうユリウスの背中に声をかけた。
「ユリウス、ピアノ弾けるの?」
棚に箱を置いた手が一瞬止まる。少し困った顔をして、彼が振り向いた。
「弾けるには弾けるが、あの破壊的音痴よりもましなくらいだ。お前だって弾けるんだろう?」
破壊的音痴。聞かなくたって誰のことかはわかる。
「私は姉さんからちょっと習った程度だから。簡単な曲しか弾けないわ。」
そう言って席を立つと、少し無理やりにユリウスを底に座らせた。
「ね、何か弾いてよ、ユリウス。」
お願い、と言うと、仕方ないとぼやきながらユリウスは鍵盤に向かった。

静かに部屋に流れるピアノの音。
少し高めのキーが紡ぐその旋律は、
「これ・・・」
「『Sorriso』お前の世界にもあったんだな。」
私の驚いた顔を見て微笑むと、ユリウスは静かに歌い始めた。
昔聞いた姉さんのよりも幾分か低い音程。
それでも遠いあの日に聞いた、確かにあの曲だった。



「アリス、Sorrisoって曲、覚えている?」

あれはいつの記憶なんだろう。
最初に弾いてもらった時よりも、もっと大人になってから。
穏やかな午後の陽ざしの中で、姉さんが微笑んでいた。

「あなたもいつか、大切な人が出来てここを、私のもとを去っていくと思うの。でもその時に、悪いだなんて思わないでね。」
「姉さんと離れるなんて、今は想像したくないわ。」
そんな私に優しく微笑むと、姉さんはそっと私の歩を両手で包み込んだ。

「 Ti prego, non essere triste,
perche io gia ricevo d ate tanta felicita da non meritarla.」



ピアノの最後の音と、ユリウスの声が消える。
まるで夢を見ていたみたいだった。
聞いていた時間はきっと数分なのに、何時間もどこか遠い世界へと旅立っていたような気がする。
気がつくと、頬が濡れていた。
どうしてこんな優しい思い出なのに、涙が出るんだろう。

ユリウスは私を見て少し驚いた顔をすると、何も言わずに体を引き寄せて抱きしめてくれた。
温かい彼の体温。
まるで、あの思い出のようだった。

「ユリウス、」
「なんだ。」

「Sorrisoってね、イタリア語なんだって。」
イタリア語・・・、耳元でユリウスが呟く声が聞こえた。
「私が元いた世界の、違う国の言葉。私は知らないの。」
黙って聞いてくれていた彼が、少し戸惑いがちに言った。
「・・・帰りたいか?」
「まさか。今は、ここが、私の居場所よ。」
ここが。ユリウスのいる場所が。
そう思いを込めて強く言うと、ユリウスはそっと抱きしめていた腕を緩めた。
顔を上げると、まっすぐに私を見る彼と目が合う。

「私にとっても、・・・お前が居場所だ。」

柔らかな微笑み。
私がこの世界で一番好きな人。

「Sorrisoの意味、知っているか?」
「ユリウス、知っているの?」
少し首を傾げて言うと、不意を突いて頬に口づけが落とされる。
「ふふ、なんだかユリウスじゃないみたい。」
思わず笑顔になる。
そんな私を優しい瞳で見つめながら、ユリウスが言った。

「Prego perche quel tuo sorriso gentile non si oscuri mai.」






◆ghの史絵那さんよりいただきました!

※Sorrisoは志方さんの「Navigatoria」というアルバムにある曲です。
 歌詞部分のすべての著作権は、志方あきこさんです。
※イタリア語の歌詞ですが、文字化けの恐れがあるのでアクセント記号は無しです。
(という、注意事項も一部お借りしてしまいました、すいませぬ)

本当にありがとうございます!
ピアニストユリウス、素敵過ぎですよ。
あの低くて静かで落ち着いた声で歌われたら、確実に腰砕けます。
アリスシリーズはもちろん、志方あきこさん好きとしてはたまらないですね。
歌詞の内容も、ユリウスに当てはまるなと・・・そしてそう思うだろうユリウスに、切なさが・・・!

相互リンクもさせていただいている、史絵那さんのサイトはコチラです。
gh

2013.02.08

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