COSMOS



夕暮れ時の真っ赤な太陽が地平線に沈んでいく。
強い風に吹かれた髪をかき分けて、アリスは静かに深呼吸をした。

「怖いですか?」

隣のペーターが静かに微笑む。
そっと見上げるように視線を合わせると、アリスも同じように微笑んだ。

「少しね。・・・だけど、決めたから。」

そうしてもう一度太陽を見る。

空を赤く染めて沈んで行く太陽。
どこか遠い国では、きっとあれは朝日だ。

「きっと、うまくいきますよ。」
「そう思う?」
ペーターは迷いなく答える。
「ええ、きっと。」
真っ赤な瞳が優しげに細められる。
アリスは目を閉じて、自らに言い聞かせるようにもう一度呟いた。
「そうね、きっとうまくいくわ。」

夏の終わりの少し冷たい風が、二人の間を吹き抜けた。


***


ユリウスはいつものように直した時計を傍らに置くと、眼鏡を外して眉間に手をあてた。
何故だろう、今日はいつもより少し疲れた。
コーヒーを飲む気にもなれず、少し外の空気を吸おうと塔の階段を昇りはじめた。

さっき窓から外を見た時は昼の時間帯だった気がするが、あたりはすっかりオレンジ色に染まり、夕方の雲がゆったりと空を流れていた。
塔の屋上に出ると、途端に風がその長い髪を攫ってゆく。
それを片手で軽く払う。
そのまま遠くに視線をやろうとして、背後に気配を感じた。


見たことのない少女が、そこに倒れていた。

茶色の髪、水色のエプロンドレス。
二十に届かない位だろうか。
堅く閉じられた瞼に不安を覚えて顔に耳を近づけると、微かな呼吸が感じられた。
ユリウスはホッと胸をなでおろす。

顔無しではない。だが、知っているどの役持ちとも違った。
まず余所者に間違いないだろう。
この少女はここにいるべきではないし、この世界に引き込んだはずの誰かはルール違反だ。
自分はそれを見て見ぬふりをしていい立場ではない。
しかしこうして彼女の静かな呼吸を聞いていると、なぜか懐かしい気持ちになった。

こんな感情は今までで初めてだった。


***


真っ暗な闇の中をどこまでも落ちていた。
遠く、遥か上に丸く切り取られた光が見える。
あれはきっと元いた世界に繋がっているのだろう。
だけど、そこは今行きたいところじゃない。


気がつくとアリスは冷たい石の地面に横になっていた。
ふと、自分を覗きこむ心配そうな瞳と目が合う。
次第に視界がはっきりとしてくると、懐かしい顔がその瞳に映って揺れた。

長い髪は深い青、それよりも少し明るい色の瞳。独特の機械油の匂い。

自然とその頬に一筋の涙が伝っていた。
「・・・ユリウス!」
名前を叫んで、長身の割にほっそりとしたその首元に抱きつく。


ずっと、ずっと会いたかった。
彼は今きっと自分のことを何も知らない。それでも、その顔を見たら止めることが出来なかった。
彼は間違いなくユリウス=モンレーだった。
もしここで撃たれるならそれでもいいと思った。


***


どのくらい時間帯が過ぎたのだろう。
彼女がいるのが当たり前に感じてしまう位の昼が、夜が、そして夕方が過ぎていった。

突然時計塔に現れた少女は、当たり前のようにユリウスの部屋で生活をし始めた。
今までの自分であれば、何が何でもそれを阻止したはずだが、何故だか彼女を拒むことは出来なかった。
理由はわからない、だが、彼女の透き通った瞳を見ていると、自然とある感情を抱く。
今までの自分は決して考えない様なこと。


一緒の部屋で過ごす。
ただそれだけだった。

自分は時計を修理し、彼女は何が楽しいのかわからないがそれを黙って見つめたり、本を読んだり、頼んでもいないのにコーヒーを入れてきたりした。
街に買物に行ったり、他の領土に交渉に出かけたり、ハートの城で開かれた舞踏会にも一緒に行った。
今まで一人で生きてきたのに、二人でいる時間がこんなにも自然に流れている。
それでもまだ、自分が抱いている感情に付く名前に知らないふりをし続けた。


***


アリス。

夢とも現実ともわからぬ狭間。
名前を呼んだのは、いつだって道案内をしてくれた白うさぎの声だった。

見慣れた天井に気がついて、夢から覚めたことを知る。
少し離れたところでユリウスが時計を修理する音が聞こえて、ベッドを借りて眠っていたことを思い出した。

(もう、時間が来たんだわ。)

声に出さずに呟く。
アリスはいつかあの小瓶をかざしてみた時のように、天井に向けて手のひらをかざした。

もし今手元にあの小瓶があったら、心の準備が出来たのに。

ペーターと来なかったから、アリスはあの小瓶を持っていない。
だからこそ、ペーターは教えてくれたのだろう。帰る時が来たことを。


 ―もし自分をここに送ってくれたのがナイトメアだったら、きっと時計塔を到着点になどしなかったと思う。
  ユリウスに会わずに、目的を達することだってできたから。
  だけど、私に一番近いペーターだからこそこの道を用意してくれたのだと思う。
  彼と一緒に、最後の時を過ごせる道を。

きっとどう選んでも、この瞬間は痛いのだから。


***


胸騒ぎがした。
理由など分からない。だが、とにかく時計塔に戻らなければと強く感じた。


誰もいない部屋。
何一つ変わらなかった。
彼女が来る前と同じだ。買ってきたはずのパジャマも、カップもない。
彼女が読みかけだった本も、きちんと元の場所に戻されていた。

「アリス!」

ユリウスは階段を駆け上った。
今まで一度もこの階段が長いなどと感じたことはないが、今日だけはこの建物が塔であることを恨んだ。


***


屋上の扉を開いて、ユリウスは言葉を失った。
そこに広がっていたのは、いつもの石の壁ではなく、どこかの草原だったからだ。
自分は夢を見ているのだろうか。
振り返ると今開けたはずの扉も消えていた。

夢にしては、この風の感触ははっきりしている。



「早かったですね。」

後ろの方から声がした。
振り返ると白うさぎが立っていた。

そう言えば、だいぶ姿を見ていなかったように思う。
アリスと行った、舞踏会の時もその姿を見せなかった。

「・・・ペーター=ホワイト。」
ペーターはどこか遠くを見ているようだった。
その視線の先を追うと、地平線を目指して沈もうとする夕日が見えた。
真っ赤に空を染めて沈んでいく太陽。
二人の上空はもう既に夜の様相を呈していて、それがこの世界ではありえなかったことをぼんやりと考える。

「アリスは帰りましたよ。・・・解っているから追いかけてきたんですよね。」
本当は、言われる前から答えを知っていた。
ユリウスがもう一度ペーターの方を向くと、白うさぎは寂しげに、しかし優しく微笑んだ。

***

始まりは同じ、ハートの国だった。
この世界で幸せになってほしい。そう思ってペーターはアリスを連れてきた。
アリスはユリウスと出会い、お互いに惹かれあった二人は一緒に暮らしていた。
そして、彼女はハートの国を選んだ。

そして終わりの日が来る。
きっかけは一発の銃弾だった。
城下町に出たユリウスは銃弾を受け、静かにその命を散らしていった。


***

「あなたを失った彼女を見ていることが僕にはできませんでした。」
ペーターの声はまるで独り言のようだった。
「・・・あとを追ってしまうのではないかと心配で、」
その言葉に、ユリウスがはっと顔を上げる。



『運命を変えることはできます。』
泣きじゃくるアリスをそっと抱きしめて、ペーターは言った。

ユリウスは、アリスを庇って銃弾をその身に受けた。
つまり、その瞬間アリスがこの世界にいなければ運命は変えられるのかもしれない。

『あなたはこの世界に来た時に戻って小瓶がいっぱいになる、つまりあなたのゲームの終わりと同時に元の世界に戻るんです。』


ペーターが言葉を切ると、二人の間に秋口の少し冷たい風が吹き抜けていった。
ユリウスは傍らに立つペーターの向こうに太陽を見た。
いくらペーターが色白だといっても、これはむしろ・・・、
「・・・お前、体が・・」

「ユリウス=モンレー!!」

ユリウスの言葉を遮るように、ペーターが叫ぶ。
「何を躊躇っているんですか!?僕がここにあなたを呼んだ理由くらい、頭の良いあなたなら分かりますよね?」
ペーターはユリウスの手になにかを押し付けると、言った。

「アリスを、よろしくお願いします。」
穏やかな笑顔。
自分はこのペーターの顔を知っている。アリスといる時の顔だ。
知らないはずの記憶が、少しずつ自分の中に戻ってくるのがわかる。
そっと手を開くと、いつか見たことのある小瓶がそこにあった。

「必ず、幸せにしてあげて下さいよ。・・・あなたなら、それが出来るんですから。」

そう言うと同時に、ペーターはユリウスを崖から突き落とした。



***


真っ赤な夕日が最後の光を放つ。
それに染められた草原はどこまでも穏やかで、まるでこれからすべてが終わるなんて嘘みたいだ。
ペーターはその夕日に、すっかり透けてしまった自分の掌をかざした。
これだけ物騒な世界に生きていて、こんなに穏やかな終わりを迎えられるなんて思わなかった。
それだけでも、彼女のことが愛おしくて堪らなくなる。


「酷いなぁペーターさん。俺を追いてっちゃうつもり?」
突然、辺りの静けさを破って声が響き渡った。
誰の声かなど尋ねずともわかる。来るであろうことも予想出来ていた。

「全く、・・・なんで来たんですか?」
ペーターは瞳を閉じて、少し不機嫌な声を出した。
そうしないと、彼の前で涙を見せるような無様なことしてしまいそうで怖かった。
何も答えずに、エースはペーターの隣に腰を下ろした。

そっと手を握られる。しかし、ペーターにはもうその温もりを感じることはできなかった。


「これが、対価・・か。」
エースが呟くように言う。
頷いて、出来るだけ明るく聞こえるようにペーターは答えた。
「彼女の幸せの為です。安いもんですよ、僕みたいな・・・僕みたいな役持ち一人で彼女を幸せに出来る、なら、」

時間を戻すことなど、本当ならば役持ちにはできることではない。
その力量以上のことをする対価として、世界に存在していられなくなることは最初からわかっていた。

「怖い?」
真っ直ぐに、エースの瞳はペーターを見ていた。
ペーターは微笑むと、ゆっくりと首を振った。
「いいえ。」
「・・・そっか。」
「ええ。」

ペーターが力強く頷くと、エースはその肩を抱き寄せた。
一瞬、照れ臭そうに笑ってからペーターはそっと身を預けた。

二人を包む夕焼けのオレンジは、まるで焚火の様に温かな色をしていた。



最後の温もりをエースの腕に残して、ペーターは夕闇の中に消えていった。


***


どこまでも、どこまでも落ちてゆく。
次第に辺りの草原も夕焼けも何も見えなくなって、ただの真っ暗やみの中を落ちていた。
あの白うさぎは、説明一つしなかった。
(・・・あいつ、らしいか。)
ユリウスは重力に身を預けながら、静かに笑った。


この闇の先に待っている何かは、きっと想像通りだろう。
白うさぎが世界の理を破ってまで守りたかったのは、決して自分の命でないことはわかっていた。

―彼女のためなら、僕は死さえも厭いません。

はっきりと覚えているセリフ。
これを聞いたのはきっと、1回目の出会いなのだろう。
これだけルールを無視して、何ともめちゃくちゃなうさぎだ。
だが残念ながら、彼の最期の願いを聞いてしまったのだ。

迷いはない。
こんなことはあり得ないと思っていたが、何故だかうまくいくと確信していた。
そして今なら、あの時気付かないふりをした感情の正体がはっきりとわかる。




そうと気づかぬうちに底に着いていたらしい。
近くで息を呑む気配がする。


そっと目を開くと、いつか見たあの日と同じ水色の瞳がユリウスを見つめて揺れていた。





◆ghの史絵那さんよりいただきました。

いただく許可を得てから、掲載までにだいぶ時が経ってしまいました。
なんとも、申し訳ないです。

こちら合唱曲の「COSMOS」からのインスピレーションなのだそうです。
Sorrisoに引き続きしっとりとして美しいです。
詩的な文章で、でも切なさ溢れんばかりです。

ユリウスのためにペーターの助力でタイムリープするアリス。
きっと、ペーターは自分が消えてしまうことは言わなかっただろうなと思います。
「僕に任せてください、大丈夫ですよ」って言って微笑むだけで。
ユリウスの死でいっぱいいっぱいなアリスは、ペーターに説得されて、それでお願いって頼むんだけど、それはペーターを利用してとかじゃなくて、心底信用していたからで。
そしてペーターがどうなったかを、ユリウスは絶対に言わずに生きていくんだろうと。

合唱曲の「COSMOS」は私も歌ったことがありまして。
でも、脳内ソングじゃ物足りません!とばかりに、読むたびにyoutubeに飛んで歌声聴いているのですが。
そして、また小説に戻ってきて胸がいっぱいになります。
みなさんも是非一度、聴いてみてください。
ちなみに、私は「時の流れに生まれたものならば 一人残らず幸せになれるはず」の部分が一番好きです。
はず、という断言しないところが、そうなれたらいいのにっていう、奇跡を望むような切ない心の叫びを感じます。

相互リンクもさせていただいている、史絵那さんのサイトはコチラです。
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2013.06.12

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