芳香



「すいませんー、誰かいますかー」

 都会から離れた、山や自然に囲まれたとある場所。乱立する、校舎や寮や蔵や謎の建物の合間をうろうろと彷徨う。
 宗教系の学校だと説明は受けているが、毎年増えるはずの生徒数は1学年片手の数に収まるほどしかいない。その数少ない生徒も、みな課外授業で出払っているのか、グラウンドのようなところを覗いても人っ子一人いなかった。

 正直ここは苦手だ。ただでさえ迷子癖があるのに、ここは来るたび建物の配置が変わる。
まっすぐに目的地に辿り着けた試しが無い。
 さっさと要件を終わらせて帰ろう。きっとこの大きめの建物なら1人くらい誰かいるだろう、とガラス戸を開けて暗い廊下を覗き込んだ。

「……失礼しまー、」
「誰、お前」

 ぞわっと背筋を悪寒が這い上がる。
 一瞬前まで周囲には誰もいなかったはずなのに、真後ろに何かがいる。圧迫するような何者かの熱が背中を通じて侵食するほど近い。
 頭上から降ってくるような声に振り仰ぐより前に、動いた視線の先でガラス戸に何かがぬっと映り込んだ。
それはこめかみを掠めるように近づいて、眼前に迫って視界が遮られた。
 トン、と軽い衝撃。
 軽く傾く視界は薄暗い天井を映し、後頭部を支え覗き込む人物を知覚する前に、意識は暗転した。





「誰、お前」

 五条悟は、やっと任務を終えて帰ってきたところだった。
戻って早々に見つけた、コソコソうろうろと忍び込む怪しげな人影に思わず舌打ちを打つ。
後ろから呼び止めて指で突けば、呆気なく胸元にもたれて意識を失った体を仕方無しに受け止めて顔を覗き込んだ。
 小柄な女。黒く丈の長いシャツなのかワンピースのような簡素な服から、細い足が覗いている。簡易的にポンポンと調べてみても、大したものを持っている様子はない。
六眼で覗き込めば、有りふれた呪力とは、ちょっと違うような妙な気配がした。

 面倒くさ。

とはいえ、侵入者をそこに放置しておくことも出来ず、五条悟はその小さな体を俵担ぎして歩き出した。
 任務任務、続けて任務。行ってみれば雑魚ばっかでストレス発散にもならなきゃ、疲労ばかりが貯まる。さっさとこの妙なやつを誰かに適当に預けて、授業なんてサボって休みたい。廊下を歩く見覚えのある影を見つけて、これはラッキーと片手を上げて呼び止めた。

「夜蛾せんせー!」

 名前を呼ばれた担任は、呼び止められたことを意外に思うように一拍してから足を止めてこちらを向いた。
普段、やらかしてはその拳骨から逃げたり、報告書を書かずに呼び出しを食らったりと、向こうから呼びかけることの方が多く、逆は少ない。
 意外に思うのも無理はないが、ちょっとムカつくなと思っていれば、急にぎょっとした様子から眉をしかめてこちらへ向かってきた。

「コラ!!!」
「は?、っっっってぇ」

 ドスドスという足音が聞こえそうな大股で近づいてきた担任は、こちらが俵担ぎした女の顔を確認するやいなや拳骨を落としてきた。
 担いでいた女のせいで頭を庇えずにもろに食らった衝撃が、脳天からつま先までを走り抜けた。思わずうずくまる肩からずり下がった女を、大きな手が意外にも丁寧な動作で抱き上げるのを顰め面のまま見送った。





「はあー!!最っっっ悪」

「……おかえり」
「うわ、うるせー」

鈍く痛む箇所をさすりつつ、教室の引き戸を手加減なしに開ければ呆れた顔の同級生に迎えられた。

「折角俺がわざわざ疲れてるところをさぁ、捕まえてやったってのに」
「呪霊?」
「いや。なんか、ヘンな女。校舎に入ろうとしてた」
「え、結界の中にいたのか?」

 高専の敷地は結界が貼られていて、外からは見えないようになっている。基本的に部外者は入ってこない。中にいるなら関係者のはずだ。

「アラートは鳴ってなかったけど」
「じゃあ関係者だったんじゃない?」
「でも、なんかこそこそしてっから」
「……まあ、私でも声をかけるかな」
「だろ?!」
「誰かは言わなかった?」
「……」

 沈黙が落ちる。
 問答無用でおとしたのは自分である。無言の五条に、なんとなく分かった夏油は呆れたようなため息をついた。

「迷子だったのかもしれないよ」
「んなもんの相手いちいちしてられっかよ」

「だりぃ」と舌を出せば、夏油は嫌そうに侮蔑の表情で目を背けた。
 どうせいい子ちゃんな傑はちゃんと話を聞いて、迷子なら案内するべきとか考えてるんだろ。こいつのそういう正義感ぶったところ面倒くせえと、五条は乱暴に椅子に座った。

「それで?放置してきたのか」
「んなワケねえだろ。夜蛾せんがちょうど来たんだよ」
「で、殴られたんだ?ダッサ」

 窓際の硝子がけらけらと笑う。
 どいつもこいつも好き勝手言いやがって、こっちは疲れてんだよ。ふて寝を決め込もうとしたが、それより早く廊下を近づいてくる呪力を感じて、のろのろと顔を上げる。また殴られるのはごめんだ。

「硝子、いるか」
「はーい」

ガラッと引き戸を開けた担任に、気だるげに答えた家入を夜蛾が手招いた。

「すまんが、手伝ってくれ」
「怪我人ですか」
「いや、まあそうだな」

 微妙に歯切れの悪い担任の言葉に首をかしげつつ、家入は担任の後について教室を出ていった。残された五条と夏油は顔を見合わせる。この分だと、授業はナシだ。
 ラッキー、部屋で寝よと立ち上がりかけたところで、再度担任が顔を出した。

「お前らは自習だ」
「はあ?!」

 大人しくしてろ、絶対に問題を起こすな、と毎度のことのように付け加えられてイライラが増す。
 ピシャリと閉められた引き戸をじっと見ていれば、「悟」と声がかかった。

「だってさ。大人しくしてな」





「で、なんでここにいるんだ。お前たちは」

 教室であわや一触触発の空気になったが、その瞬間結界が揺らいだのが分かった。思わず殴りかけている手を止めて、お互いの顔を見てから足をそちらに向けて走り出す。  正直、呪霊でも暴れていればストレス発散にちょうど良いと思った。校舎が半壊しても、グラウンドがえぐれても問題なし。暴れた呪霊が全部悪いってこと。
 互いの顔に同じ思考を読み取れば、後はどちらが先につくか競争だった。

「おい、倒すなよ。私が飲み込む」
「早いもの勝ちだろ?」

 たどり着いた呪具の保管庫前では、険しい顔の夜蛾が立っていた。急ブレーキで立ち止まれば、冒頭のセリフだ。

「結界がおかしくなったから」
「なにか出たなら、救援にと思いまして」

 そんな殊勝なたまか?と夜蛾は眉間を揉んだ。しれっとついた、手伝いにという態の言い訳には気付いたが、夜蛾はため息で流すことにした。

「そうか。いい心がけだ。自習はやめて、代わりにここで見学だ」
「は」

 絶対に手を出すなよ、大人しくしていろと注意されてしぶしぶ待機をしていれば、現れたのは先に連れて行かれた硝子と。

「あ、さっきの女」

 指さした先で、担任に引き渡したはずの女が、腕にたくさんの呪具やら何やらを抱えて倉庫から出てきた。





 何か声をかけられたような気がして視線を向ければ、先程まではいなかった二人の男の子が並んでこちらを見ていた。そのうちの1人、白髪に黒いサングラスの方から、指をつきつけられている。
 私か?いや、知らない顔だなと思いながら、先程自己紹介をし合った横に並ぶ女生徒に視線を向ける。

「きみ、呼ばれてるよ」
「いや、私じゃないですよ」

 ひらひらと手を振られて、ならなんだろうと振り返る。他には誰もいない、薄暗い保管庫しかない。前を向き直してぎょっとした。眼の前にそびえ立つでかい影がある。

「無視すんなよ」
「え」

 でかいし、怖い。近づくと思った以上の背の高さが陽の光を遮って、その影の中で黒いサングラスがさらなる威圧感を醸し出している。思わず一歩後ろに下がる。
 下がろうとした。

「あぶな」

 足元がもつれて、あまり慌ててはいない声色の硝子に腕を掴まれたが、腕が緩んだことで抱えていた物がいくつかこぼれ落ちた。

「あ」

 ごつん。カラカラ、カラ。

 重たいものが落ちた後に、軽いものが転がっていく音。その音が立っていた黒髪の男の子の足元で止まる。

「ん?」

 ひょいと足元から拾い上げて、しげしげと覗き込む様子にざっと血の気が引いた。

「手を離して!捨てて捨てて!」
「え?コレを?」

 貴重な呪具だろう、と戸惑いを含んだ声が返ってくる。そんな悠長にしている場合ではないと焦るが、これ以上抱えているものを落とすわけにもいかず、急いでシャツワンピの裾に包んで抱えた。

!」

 野太い声、呪物を包んで上げた視界に鋭い刃が飛んできた。

ストッ

 軽い音とそぐわない、鈍く重い衝撃。抱えていた他の呪具に被さるように前のめりに倒れ込んだところを、側に立っていた白髪の男の子に支えられる。
 恐る恐る額に手を伸ばす。

「馬鹿!触るな」

 間近で怒鳴られてビクリと体が揺れる。額からズキズキとした痛みと、徐々に視線が定まらなくなってきた。自分の鼓動が大きく聞こえる。周囲がざわざわとうるさい。

「しっかりしろ!!!」

 ハッとした。眼の前に青い光があった。ちかちかと内包した光を反射させる、きれいな宝石のような瞳。

「硝子!」
「分かってる」

 指先が酷く冷たくて、体の内部が燃えるように熱い。
 そしてとても、いい匂いがした。ゆらりと視線がブレる。近づいてきた指先にうっとりして、くんと嗅いでからぺろりと舐める。
 相手のぎょっとした顔すら可愛らしくて仕方がなかった。うっすらと口を開いたところで、変な力が流れ込んで来て拒否反応に身を捩る。バラバラと何かが足元に転がった。それすらも分からない。

「……大人しくしてろよ」

 また、指先が近づいて眉間を優しく小突いた、気がした。





 赤く明滅する瞳が虚ろになって、硝子が注ぐ呪力がやっと回り始めたのが分かった。  倒れたそいつを横にして、散らばる呪具や呪物を拾い集める。いくつかはひどく反抗を示したが、呪力で抑え込んで今はなんとか落ち着いている。

「彼女はダムピールだ」

 半分吸血鬼、半分人間。血を好んで人を襲うことはほとんど無く、普段は普通に人間として暮らしている。
 彼女が抱えていたものは、吸血鬼狩りで使用されたと思われる十字架や杭といった呪物だった。殺傷能力の高い呪具として扱われているものもある。真実はどうか知らないが、儀式や呪術を経てそういった逸話を持つに至った物は稀に血を求めて暴れだすため、定期的に吸血鬼の末裔に協力を頼んで血を提供してもらっているそうだ。

「ホンモノかどうか分からないんだったら、その辺の生き物の血でもいいんじゃねえ?」

 落とした衝撃で、封印が解けた筒から飛び出した銀の小さな釘に額を打たれたは気を失ったままだ。担任の説明を聞いて愚痴ったが、様々な血で試した結果、一番封印に適していたのが彼女及び、最もそれらしい血だったという。
 成分で何が違うのかは未だ研究中。硝子は、血を提供する彼女の治療を頼まれたらしい。

「あとで血を分けてもらえるんだって」

 その血で何をするつもりか分からないが、いつになく楽しみな様子の硝子は救護室のベッドの上のの様子を観察している。

「目の赤いのは無くなったね」

 まぶたを開いて様子を見て、手元のカルテに書き込んでいる。思い出すのは、ぼおっとした淡い赤い光だ。
 と、同時に指先を舐められたことを思い出して、顔が熱くなる。

「あ、起きた」

 ばれないように顔を反らした。





「うわ、ごめんなさい」

 思い返してみても、面倒くさがって一気に持っていこうとしたのが悪かった。
 傷の具合を聞かれて傷んだ額に恐る恐る手を触れれば、何事もなかったかのようにさらりとした皮膚に触れた。見上げた先で、協力者として紹介された女生徒、硝子がピースをしていた。

「え、すごい。ありがとう」
「いいって。こっちのバカが悪いから」

 すっかりきれいに治っているのを鏡でも見せてもらえば、くいっと親指が示した先で、小さな椅子に姿勢悪く座っている男子生徒がいた。白髪の子だ。静かすぎて気が付かなかった。
 不機嫌そうに顔をそらされた。白髪から覗く耳元が赤い。

「ごめんなさい。たぶん私、暴走したよね」

 ハッキリと覚えているのは、黒髪の子に注意しようとして額に衝撃を受けたところまで。その先はどこか飛び飛びの記憶の中で、芳しい香りに誘われたこと、そして暗転。思い出そうとして打たれた眉間を撫でる。

「別に。……悪かったな」

 ぶっきらぼうな声は、後半がよく聞き取れなかった。聞こえただろうかと、硝子を見上げるとにやにやとしている。

「指先エロく舐められて、照れてやんの」
「っくそ、硝子!」
「うわ、やっぱり舐めてた!ごめんなさい」

 慌てて謝れば、視線が交わった気がするが、丸いサングラスに遮られていて分からない。あれ?何かすごくきれいなものを見たような気がしたのに。

「青くて、きらきらしてた?」
「何?」

 上手く言えなかったので、何でもないと首を振る。

「そうだ!呪物!あれ、どうなった?大丈夫だった……?」
「今、傑が見張ってる」

 ハッとしてベッドから飛び降りる。こんなのんびりしてる場合じゃないと慌てて走り出そうとすれば、遠慮がちに肩を掴まれた。

「そんなに焦んなくてもいいって」
「でも、」

 ひとつ暴走したのだ。他の物がどうなったか分からないし、落として壊してしまったものもあるかもしれない。貴重な物だと分かっていたのに、安易に取り扱った自分が悪いのだ。

「大丈夫だろ、呪具のひとつやふたつ」

 あっけらかんと言われて、白髪の男子生徒をぽかんと見る。え、そんな粗雑な感じでいいの?視線を滑らせた先の硝子は、小さく首を竦めた。
 何に対しての仕草だか分からなかったが、この様子では走っていっても歩いていっても問題はなさそうだった。

「えっと、ご案内お願いします」
「……おう」





「あ、起きたんだ。大丈夫?すまなかったね、私も安易に触ってしまった」

 何か起こって他の物に連鎖したら一大事と、まとめてグラウンドに移動させられたらしい呪物を、結界のようなもので囲い更に周りをうぞうぞと得たいの知れないいきもので囲っている。それらの飼い主は、今にこにこと笑顔で聞いてきている黒髪の男子生徒、傑くんだそうだ。
 シンプルに怖い。

、ドン引きしてるじゃん」
「え、」

 ウケると目を細めて笑う硝子を見て、ちょっと慌てたような傑くんは周囲に見張りとして配置した呪霊とこちらを交互に見て眉を下げた。

「怖がらせちゃったのなら、ごめんね」
「きも」
「悟」

 硝子の反対側から聞こえたつっこみに、さっきまでの優しげな声音はどこ行ったと言わんばかりにどすの利いた声がもうひとりの男子生徒、悟くんの名前を呼ぶ。本当に同じ声帯使っている?二人は仲が悪いのだろうか。
 今にも喧嘩がおっぱじまりそうな気配を感じて、硝子さんの方に一歩寄る。

「お前らー、が怯えてんぞ。やめろー」

 うわ、ふたりともこっちを見ている。慌てて両手を振った。大丈夫、こちらのことは気にしないでください、どうぞお二人でどうぞ。
 乾いた笑顔をなんとか披露しつつ、集められた呪物の方に近づきたいがその前にいる呪霊が怖い。え、普段こんなのがいるの?私の住んでる方にいるのとはちょっと見た目が違うね。わぁ、どろどろだ。

「ごめんごめん、仕舞うね」

 近寄りがたくしていることに気がついた傑くんが、呪霊を退かしてくれてなんとか並べられた物に近寄れた。えっと、これは血をぶちまければいいやつで、こっちはちょっとサックリ刺せばいいやつ。こっちはなんだっけ、あれ?見たことないかもしれない。
「んーコレって、」
「何」
「うわ」
「は?なんだよ」

 どういった呪物か、書類を見ようとすればひょいっと視界に何かが入り込んで手元が陰る。見上げれば、影を作り出す悟くんが聳え立っていた。本当に背が高いな。首も痛い。
 いちいち近いな、悟くん。さっき向こうに傑くんといたんじゃなかったっけ?と思いつつ、書類に視線を戻した。暗い、と思っていれば影がすっと動いた。
 書類に影がかかっていることに気が付いたのかどうなのか、場所を移動して一緒に書類を覗き込むようにしゃがみ込んでいる。ヤンキー座りが様になるなあ。

「おい、邪魔するなよ」
「なんねえようにしてんだろ」

 ええと、何か体の一部を燃やして?その灰を……まぶす?髪の毛でいいだろうか。

「あ、なんかハサミとか刃物持ってますか?」
「そこにちょうどいいのあんだろ」
「これはちょっと」

 呪具のハサミを指差されるが、持った途端に指を落とされそうなので辞退したい。

「メスでいい?」
「たぶん?ありがとう」

 硝子ちゃんすごいな。メス常備してるんだ。治療時に使うかもしれないから?ふーん。

「こいつらにナニかされたら、それで刺していいよ」
「え、」

 返答に困ることをさらっと言われ、親指でくいっと差された二人を見遣る。

「硝子。私がそんなことするわけ無いじゃないか」
「っは、どうだか」
「悟じゃあるまいし」
「はあ?傑の手の早さには、……っておい!?」

 本当に仲悪いなと二人のやり取りを横目に、受け取ったメスを片手にピンと張った髪の毛の束に当てる。良く研がれたメスがプツプツと髪の毛を落としていくのを眺めていれば、その手ががしっと止められた。急に加えられた衝撃で、はらはらと髪の毛が落ちてとぐろを巻いていく。  驚いた様子でこちらの手を抑える顔を見れば、薄っすらとサングラスを透かした先で寄せられた眉根が見えた。

「どうしたの?」
「どーしたの、じゃねえだろ。急にあぶねえことすんな」
「もしかして、心配してくれたんだ?」
「しっんぱい、とかじゃ」

 眉間のシワがすごい。何やら言っているが、要約すると慣れない刃物で前触れ無く変なことをするな、ということらしい。

「大丈夫大丈夫。このくらいすぐ伸びる」
「あのな」
「心配してくれてありがとう。いい子だ」

 メスを持ってる手は抑えられているので、もう片方の手を伸ばしてその若者にしては稀有な白髪を撫でる。さらさらとしていて、指通りがいい。
 嫌そうに振り払われたので、払われた手で自身の髪をつまんでみる。ちょっとぱさついているかもしれない。キューティクルが存在する謎の白髪に憧れつつ、自身の手首をぐるりと簡単に覆ってしまっている大きな手を軽く叩いて外してもらった。

「硝子ちゃん、メスありがとう。でも研ぎ直さないといけないと思う。ごめんなさい」
「いいよ、それくらい。それより、ソレどうするの?」
「燃やして灰にする」
「じゃ、はいコレ」

 メスを受け取った手が、今度はライターを出してくる。すごい手品みたいだな。

「わ、ありがとう」

 ひらひらと手を振られつつ、草を避けて切った髪を集めて火をつけた。独特の匂いを発して、少量の灰が出来上がった。

「というか、長さが必要じゃないんなら、言ってくれれば切ったのに」

 言われて、切ってザンバラになった髪の毛を触られる。そんな惜しまれるようなものでは無いが、正論だ。

「……こっちは髪の毛を結べってさ」

 隣で顔を背けていた悟くんが、手元の書類をばさばさめくって1枚の書類を指差す。手についた灰を払いつつ、紙面に目を滑らせる。呪物のひとつである蝋燭に髪の毛を数本巻いて結んで火をつけ、それでシーリングワックスを溶かして、書物に封をする。……手の込んだ封印の仕方だ。
 先に集めた灰を必要な分だけ該当する呪物にまぶしたり、ペンダントに詰め込んだ後に、ぶちぶちと髪の毛を数本まとめて抜く。黙々とろうそくに巻いていると、視線を感じた。
 うわ、という顔と目が合う。肩を竦めてみせた。





 さっきあれだけ言ったのに、全く堪えた様子も無く前置きなしに自身の髪の毛を引っこ抜く姿を見せられる。
 まあ、急に爪を剥がし始めたりなんだりするよりマシかもしれない、と思った矢先に、ひとまとめに集められた呪物の中から、ひとふりのダガーを持ち上げてカバーを外したそれで躊躇なく片腕を切り裂いた。
 真っ赤な血が溢れ出て、呪具に降り注ぐ。

「っ!!」

 思わず、硝子の名前を呼びそうな自分を止めて、ついでにすぐに直そうとする硝子自身も止めた。硝子がこちらを暫く見つめたあと、前のめりになった足を下げるのが分かった。
 六眼には、暴れだしそうだった呪具が、浴びた血を啜ってその呪力を大人しくしていく様が見えていた。

「……もういい」

 がこちらを見て、そして呪具を見る。

「分かるの?すごいな」

 だらだらと血を流したままの腕を硝子へ向ける。

「ついでに採血しちゃおう。今取れそう?」
「ごめん、採血管がない。後で注射でとっていい?」
「わかった」
「じゃあ、治すね」

 頷くに硝子が反転術式をかけていく。瞬く間に治った傷を見てが驚いたように、硝子を見た。
「へえ、すごい!すごい便利だね」
「まあね」
「ありがとう、硝子ちゃん」

 血に塗れたナイフを置いて、が笑う。笑って、硝子に手を伸ばした。
 硝子の頭をゆっくり撫でるの、拭われなかった血が地面に滴った。





「うわー、すごい!傷ひとつもないよ」

 両手の平を見て、手の甲を見て、それから腕も見てとしきりに体を見渡して、は感嘆の声を上げた。髪だけがザンバラではあるが、そこはあまり気にしていないようだった。

「爪も全部揃ってる。感動した。硝子ちゃん、天才!」

 硝子がその様子を割と微笑ましそうに見守っていたが、言葉の端々に引っかかるものはあったようで、折角の称賛も受け取らない。
暴れだしそうだった呪具、大人しかったはずなのに彼女の体の一部を奪い取るように取り込んだ呪具、ボロボロの体だったそれが彼女の血を浴びてギラギラと輝き出した銀の装飾。
ひとしきり呪具に自身を提供して、全てを封印し直せば何事もなかったかのように静かに棚に収まったそれらは、紛れもない呪いの道具だった。

「こっちも貴重なもんもらえたけど、こんなにもらって大丈夫だった?鉄剤出す?」

散々流した血に加えて、一緒にやっちゃおうとばかりに押されて採血をしたの顔は、さすがにちょっと青白くなっていた。
とりあえず興奮してる様子の体をそっと医務室のベッドに寝かせる。大人しく布団をかけられた相手が目を閉じた。

「大丈夫。あと、あまり薬とは相性が良くない。このままで」
「そう」
「悟くんもありがとう」
「……」
「いつもどの程度あげれば満足するのかよくわからなくて、気付いたらここで寝てることが多かったから、とても助かったよ」

目を瞑った青白い顔の中で、にっこりと笑みを浮かべる。

「今の子はすごいね。でも便利だと大変だから、……頑張ってね」

吐息を零すような声を出してから、すうっとひとつ息を吸ってそして静かになった。

「おい」

つい確かめるように、嗜めるような同級生の声を無視してその顔を覗き込む。
規則正しく繰り返される、微かな呼吸音。ゆっくり上下する胸元。
薄っすらと開いた口元から目が離せない。
薄い唇、その中にしまわれている赤く小さな舌先を思い出して、腹の奥が熱を持ったのが分かった。








2025.6.9





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