「もうさ、みんないい子!びっくりするぐらい、いい子でさあ」
自身の生徒を語る五条先生はいつだって楽しそうだ。どこか自慢げで誇らしげ。
「強くなったなあって思うんだよね。…もう、大丈夫かなとか」
施術室の寝台に腰をかけて、開いた足に頬杖をついて話す声音が柔らかい。
「ま、最強の僕にはまだまだだけどね!!」
さっきまでどこか遠くを向いている顔がぱっとこちらを向いて、口角がこれみよがしにきゅっと上がる。
「なんです、急に。縁側の隠居爺みたいになってますよ」
「えーこのピッチピチなGLGをつかまえて、その言いぐさは無いんじゃなーい?」
「ずっと慣れないことしていて疲れちゃったんですか」
「慣れないこと?」
爺と評されたことに盛大にむくれていた顔が、ぽかんとこちらを見る。その隠された瞳を見返す。
「硝子さんから聞きましたよ。高専時代の五条先生はそれはもう手のつけられないワルガキで口も悪けりゃすぐ手も出るし、口を開けば煽り文句と下ネタと罵倒のオンパレードなヤンキーだったって」
「っ硝子ーー!!!、なーんでそーいうこと言っちゃうかなあ、ぁあーもー…」
うわっと顔を上げたかと思えば、頭を抱えてその長い両膝の間に突っ伏して項垂れてしまう。
その様子につい笑みが溢れれば、へにょりと垂れた白髪の隙間から拗ねたような視線を感じて、更に声を上げて笑ってしまう。
「多少はマシに…いや、今もそんなに変わらないか」と硝子さんにばっさり評されていたことは黙っておこう。
「慣れてるとか、慣れてないとか…どうでもよくない?」
「そうですね。でも五条先生は頑張ってるように見えます」
「僕が?」
「ええ。たくさん、頑張ってます」
「何ソレ、なんか格好悪ぃ」
普段通りならきっと「でしょー?僕頑張ってるよね!もっと褒めてくれてもいいんだよ」とでもふざけてるところだろうに。
ふてくされたようにそむけられるその顔に手を伸ばして、阻まれることもなく触れた指先をさらさらと垂れ下がる白い髪に通した。
跳ねのけられることもなく、190センチの大柄な身体を屈めたまま意外にもじっと大人しくしているのを「おや」と思う。
本当に、疲れているんだろうな。
梳くように少し沈ませた指先を通して頭皮と、巡る呪力を撫でる。しばらくそうしていれば、膝の上に置かれていた腕が持ち上げられて、腰元にぐるりと巻き付いた。そのまま弱くはない力で引き寄せられる。
「いいこいいこ」
「…もっと褒めて」
「五条先生、頑張ってますねーよしよし」
「ちょっそれ犬猫にやるやつ!」
わしゃわしゃと白い髪をくしゃくしゃにすれば、腹回りに顔を寄せたまま抗議の声を上げる成人男性の頭を、懲りずによしよしと撫で回してやる。
なんだかんだで、憎めないな。
「いつもお疲れさまです。あんまり、頑張りすぎないように」
子供の頃の有り余る体力を無くしてしまうのだから、適度に手を抜く小狡い手を使ったっていいだろう。
「じゃあ、いい子の僕にご褒美としてさ。明日の任務、一緒に行こう?」
「…仕方ないですね。特別ですよ。と言っても、任務の内容には全く貢献出来るとは思えないんですけど」
「そんなの、付いてきてくれるだけで良いんだって!え、本当にいいの?」
「であれば。明日は予定は詰まってないので、学長から施術室をおやすみにする許可をいただければ大丈夫だと思います」
「よし今から学長のとこ行こう」
今すぐ行こうさあ行こうと五条悟がざっと立ち上がれば、腰元に腕を回されている筧は簡単にヒョイッと持ち上げられてしまう。天井が近い。
「待って、待ってください。ちょっとまだやることがあって、それを後でまとめて持っていく予定なのでその時に私から話しますから。そもそも任務は何時からなんですか」
「昼過ぎだったかな」
「じゃあ、折角今日は早く休めるんですから、先生は上がって早く寝てください」
「えー、一緒に夕ご飯食べようよ、奢るよ?」
「話し聞いてました?今日中にまとめたい書類があるんですよ」
「そんなの明日でも良くない?任務の前にやればいいじゃん」
待ったと声をかけているのに、聞かずにずんずん歩き出してそのまま施術室の扉を出てしまうところを、伸ばした手で扉の枠を掴んで抵抗する。本当にこの人、色々やることが急だし勝手だ。
「今日出来るだけやっちゃいたいんですって。明日の午前中は授業で生徒のみなさんと手合わせするって聞いたので」
「あー…そういやそうだったかも」
「…忘れてたんですか」
「あは、いやいや。ほら、みんな僕がいなくてもしっかりしてるしさ」
「五条先生が生徒さんたちに手合わせの指導してるところ、見てみたかったんですけど」
「!」
そう説明すれば、驚いたように目を合わせられる。
「今からと明日の分は早めに仕事始めて…出来るだけ早く終わらせたら手合わせ、見学させてもらえますか?」
すとん、と床に降ろされて両足で立って見上げれば、五条悟は一拍置いて大きく頷いた。
「いいね、分かった。でも僕からも学長には言っておくから」
「ありがとうございます」
「待ってるから。僕の格好いいところちゃんと見に来てね」
「分かりました」
「あ、応援は僕にしてね」
そう言って、部屋の主に笑顔で手を振って。
いつになく丁寧に、静かに部屋の扉を閉めた。
「え、今からですか?」
少し遅くなってしまったが、学長はきっとまだいるだろうと書類を片手に学長室に向かっている途中、廊下で呼び止められる。
焦った顔の若いスーツの男性は見慣れない顔だが補助監督の一人だろう。
準2級呪術師と一緒に出た別の補助監督と連絡が取れなくなったから、一緒に来て欲しいと言われて迷うも一瞬だ。
迷う一瞬で、失う命があるのがこの業界。
「2級の討伐依頼ですか」
場所はそんなに遠くないと言われて、急かされるまま手にした書類と要件は一旦一緒に持って出て車に乗り込んだ。
遠くないと言っていたが、もう随分と走っている気がする。これでは無事に戻っても日は跨いでしまうだろう。
2級の呪霊の討伐依頼に準2級の呪術師が向かったのに連絡が取れなくなった理由はいくつか想定されるが、たぶんおそらく2級以上の呪霊が出たのではないかと予想する。
これはもしかしたら判断を誤ったのではないか。急いで付いてきてしまったが自分も準2級、これでは最悪死体が増えるだけの結果になりかねない。
これは万が一を考えて一報入れなければと急いで携帯を取り出した瞬間に、車がつんのめるように急停車した。
「あそこです!」
補助監督が焦ったように指し示す先に、黒い帳が下りている。
「分かりました。急いで向かいます。万が一のことを考えて他の方にも連絡を取っておいてください」
きっと彼は新人だったのだ。青い顔でこくこくと頷く男性に、安心させるように頷いて車を下りて走り、その勢いのまま帳をくぐり抜けた。
瞬間、眼前に生臭く生温い風が吹き付けられる。
「!!?嘘、」
グロテスクな色合いが眼前に広がり、その奥に内包した闇と目が合った。聞き慣れない異音が空間を占め、その音の源が今まさに眼前でその口をぽっかりと空けていた。
待ち伏せされていた。
喰われると下した脳の判断を撥ねつける勢いで、覆いかぶさる湿気た暗がりに自ら腕を深く差し入れる。
「っ、!!!」
粘着質な嫌な音を立てながら喉奥へ叩きつけた拳から、爆発的に自身の呪力を放出する。
ばぐんと噛み合わされ突き刺さる鋭い刃が前腕に大きく穴を穿つのと同時に、口腔内に触れた部分を介して問答無用で呪力を打ち込んで、呪霊の呪力を上書きし制圧していく。
抵抗する呪霊に腕ごと振り回されていたのが、ぼごりと一瞬震えるように波打ったその形が膨張して破裂する。
「ぅっぐ」
吹き飛んだ身体が壁と床に叩きつけられて、衝撃で噛んでしまった舌から血の味が口の中に広がった。
吐き出しつつ、身を起こすがくぐり抜けてきた帳はまだ上がらない。
建物の中に顔を向けて固く目を瞑る。
探せ、探せ、見つけ出せ。
焦りながら首を巡らせていれば、ぼんやりと階下に光る物がある。
呪力だ。
呪霊のものか、先に入った準2級呪術師のものか分からない。分からないが、いかなくてはならない。救うため、祓うため。
怪我をしていない方の腕で地面を押して身体を押し上げ、立ち上がって走り出す。
瓦礫と破片を踏み砕いて光を感じた場所に近寄れば、それは倒れた人間だった。
「!大丈夫ですか」
呪力が見えるということは、まだ生きているということだ。慌てて抱き起こして声をかければ、薄っすらと目が空いた。
「あ、救援…」
呻いてなんとか起き上がるその呪力は、今にも途切れそうなほどに弱々しい。
「雑魚は、殲滅、したんすけど」
報告よりも数が多く、雑魚と2級相当が入り混じった呪霊に苦戦。
応戦しつつ駆け回っていたが、呪力切れを起こしかけていた。
「先程、出口付近にいたのは祓ったんですが、…まだ奥にいますね」
あまりの急な呪霊の出現に咄嗟に対応できたとは言え、ただ呪力をぶち込むという荒業をしてしまったので呪力をごっそりと使ってしまった。相手が更に上の等級であったのなら呪力量を上回ることが出来ず、制圧しきれなくて死んでいた。 失くしてしまった呪力はすぐには増やすことが出来ない。そして目の前の青年呪術師も呪力切れ間近のジリ貧だ。
目を閉じれば今にも途切れそうな細い経絡、そして奥の闇の中に轟々と見えるのはさっきより多い呪力をもつ呪霊。
「ひとまず撤退しましょう」
まずは生き残ることを優先すべきと、増援を期待して一旦退避しようと提案したが青年呪術師は首を振った。
「補助監督が、俺、…っ」
ぐっと握りしめられた手に喉が引きつった気がした。
彼と一緒に来ていたはずの補助監督の姿が見えず、連絡も取れないということは。…そういうことなのだろうか。
「あの、筧さんですよねっ…!俺、あと一発、それだけは打てるんです分かるんです」
手を銃の形に変えて、呪力を打ち出す。それは見た目によらず繊細な操作でもって追尾を行うことが出来るのだと。
「筧さんは、呪力の流れを見ることが出来るって聞きました。七海さんが、言ってたんですけど弱点をつくことで効率よく少ない呪力で倒すことは可能だって。俺、絶対に撃ち抜きますから」
核を、呪力の源を教えてくれればいい、と訴えるように縋られて戸惑う。 呪霊にも、人の丹田にあたるような呪力の源があるのだろうか。あれば確かにそこを叩けば呪力を途切れさせ消滅させることが出来るだろうが、負のエネルギーの集合体と言われる呪い、あれはいわば呪力の塊だ。
そして青年の残呪力量。
到底出来るとは思えない、一次避難するのが最善手だ。
「…分かりました、いいです俺だけでやります」
「え、待って駄目ですよ」
「あいつと、付き合ってたんです。あいつだけここに置いていくなんて出来ない。敵を置いて逃げるなんて出来ない」
撤退する判断をしたことが伝わったのか、青年呪術師はうつむいてボソリと吐き出すように語ったことに衝撃を受けた。
混乱している間にも、ずんずんと怪我した身体を引きずって奥へと進んでしまう青年呪術師を慌てて追いかけた。
ギュルギュルギュルと嫌な音が近づいてくる。まずい、この距離はもう気付かれている。
一か八か。
「、分かりました、私が囮になります」
自身の経絡を操って足元に呪力を集中させる。体術や身体能力は並の呪術師以下であるが、一時的に呪力で身体能力を向上させることはできる。
とはいえ、体力が限界を迎えるまでだ。どこまでやれるか。
リーチの内側に入らない距離で気を引いて、相手の纏う呪力に触れることが出来たら儲けもんだ。経絡操術で呪霊の呪力を出来るだけ操って、動きを止めることぐらいなら出来るだろう。
その隙に目を閉じて、呪霊の核を探す。あるだろうか。いや、探し出す。
そしてそれを、青年呪術師に伝える。
やれるだろうか、やるしかない。
「俺にもそれ、出来ますか」
足元を指差して言われたことに、策を練っている思考回路では理解が出来ない。
「足元、呪力集めてますよね。俺の呪力も、指先まで。それ以外はもう外してしまっていいんで」
僅かな呪力を出来る限り集めたいと請われる。
「全部、すっからかんになってもいいんで!!」
他人の経絡をある程度操る事はできるが、自分以外の呪力の源をいじったことはない。何が起こるかわからないからだ。
蛇口を全開にしろと言われて、栓を思い切り回すことは出来る。
だが水源が枯れたらそれまでだ。
ギュギュギュギュギュギュ、ギュ
「やってくださいっ!!」
悩む暇など無かった。
伸ばした指先が青年呪術師の呪力に触れて、経絡を辿りその水源へ辿り着き…栓を思い切り回した。
そしてその身体を思い切り突き飛ばし、飛び退る。青年呪術師と筧の間をしなる触手が通り過ぎて床を抉って戻っていく。
飛び退った距離を一気に詰めて、蹴りを放つ。
空振ったつま先が引き戻される触手の纏う呪力に触れる。
「、っっぅ」
触れた先から呪力を繋げて瞬時に流し込む。
バチンと爆ぜるように触手がちぎれ飛ぶが、しばらくしてまた生えてくるのが分かった。やはりもっと胴体に近づかないとダメそうだ。
青年の方へと伸びる触手を伸ばした指先で掴んで引きちぎり、その勢いで更に本体へ肉薄する。
視界の端で青年呪術師が必死の形相で構えているのが見えた。
顔色は真っ青、身体は震えてがたがたと揺れている。それでも指先一つ、己の命の全てをそこに注ぎ込んで、守りたいものを救うために踏ん張っている。
その意思を遂げさせてやりたい。
「!ぐ、ぅっ」
近づき過ぎていると分かっていた。
肋骨の窪みに叩き込まれた打撃に肺から空気が押し出されて、気道が詰まり息が止まる。呼吸を止めたせいでより鋭敏になった感覚が、伸びた指先に集まって押し出され触れた。目をぎゅっと強く瞑る。
流れ込む呪力が止まった呼吸分、相手の体内を瞬時に駆け巡りある一点で大きく爆ぜる。閉じた瞼の裏に、一際禍々しく散る火花を映した瞬間。
「ぃ、けぇえええ゛え゛え゛!!!!!」
視界を端から閃光が横切った。
火花にぶつかって、目前で大輪の花火が咲いた。
衝撃。
暗転。
「おっかしいな、既読にならない」
「あーっ!くっそ、勝てねえ…っ」
「悟ー、せめて携帯は手放してやれよ」
携帯片手に軽くいなされた真季が五条悟の足元に転がって悪態をついているのを、パンダがやれやれと呆れた目でぼやく。
それらを軽く無視しながら、繰り出される手足を避けて五条悟は首を傾げた。
「はーあ、折角僕の格好いいところを見せるつもりだったのに」
「誰にだ?」
「格好いいところぉ?そんなんどこにもないだろが」
「こんぶ」
言われたい放題言われて、さすがに携帯を尻ポケットに入れてため息を吐いた。
「タツミン、誰か見てない?」
「タツミンって、辰巳サンか。見たか?」
「おかか」
「今日は休みとかじゃないのか?」
観に来ると言ったのに、時計はもうすぐ正午を指す。
誰も見ていないのなら書類仕事が終わらなかったのかもしれない。
「ま、手合わせはまたいつでも見せられるし」
いっか、と午後の任務のことを考えて自然と上がる口角を見た2年ズが「こいつはまた良からぬことを考えているな」と引いているのをスルーする。
「はーい、じゃあ今日はここまで。解さーん」
辰巳を迎えに行ってそのまま一緒に出ればいい。昼飯も一緒に食べよう、何を食べようかと、五条悟がうきうきしながらたどり着いたのは誰もいない施術室だった。
嫌な予感がした。
移動した先、学長室で夜蛾正道から「筧辰巳は顔を出していない」と告げられて、瞬時停止した思考が目まぐるしく動き出す。
最後に見たのはどこで、誰と一緒にいたのか。
何故、もっと早くに既読がつかないことを疑問に思って動かなかったのか。
自分がこれから向かわなくてはいけない任務を脳内で再確認する。
駄目だ。誰にも回せない。
「伊地知、辰巳の居場所を探して、大至急」
コール1つで出た補助監督に前置きなしで話し出せば、戸惑った声をあげる電話の相手に舌打ちを鳴らす。
「僕の任務から外れていいから、さっさとして」
言いながら自身は任務先への最短距離を測る。
こんなもの片手間で終わらせられるのに。
距離さえなければ、瞬き一つで済みそうなそれは、だがしかし自分と同等の力を持つものがいない今、誰かに押し付けることも敵わない。
すぐに向かいたい気持ちを殺し、移動を繰り返す自身の判断に反吐を吐きそうだ。
伊地知潔高はブツッと有無を言わさず切られた携帯に即座に指を滑らせた。
今、どこで誰が任務にあたっていて随行している補助監督は誰か。
そもそも五条から捜索依頼を出された女性、筧辰巳に任務は振られていたのか。
彼女の勤務スケジュールを調べれば、前日も今日も学外へ出る予定は無い。施術室にいるはずだ。
補助監督らから届く現状報告を次々とさばいて、任務随行リストを潰していきながらたどり着いた施術室はやはりもぬけの殻。
更に言うなら、今日”ここにいた形跡”すらない。
反転されていない「不在中」の札を見て、ならばいつからいなかったのかを逆算していく。
他の補助監督や事務員から筧辰巳を最後にどこで見たのかを聞き出して、昨日はいたことを確認して廊下を行く。
「伊地知、辰巳を見なかったか」
学長である夜蛾正道に呼び止められれば、まさに今求めている人物の名前が出されて思わず肩を跳ねさせた。
何かあったかとサングラス越しの視線が厳しいものになる。
「任務に随行させると悟が言っていたが一緒じゃないのか」
例え五条が勝手に伝言を承ったとしても、彼女なら許可を取るために一度は自ら顔を出す人だ。自分の持ち場を一言も言わずに勝手に離れ、他人の任務に随行をするなど余程のことがなければ無い。
考えている間にも、次々と動いている他の補助監督からの連絡が入ってくる。
消していったリストに残った名前はあと数名。移動中や手が離せない状況もあり得る。
分かり次第報告を入れますと伝え、伊地知はまた足早に廊下を駆け抜けた。
意識が薄っすらと浮上して、目を開ける。
木目がきれいな天井から視線を滑らせれば、襖そして畳。
自分が横たわっているのはどこかの和室だと脳が告げてくる。
和室…、どこの和室だろうか。
「っ!!?」
はっとしてがばりと身を起こし、激痛に呻いてまた白いシーツの上にうずくまった。ぐわぐわと揺れる脳をひとまず置いて、右腕を確認した。
取れてはいないがざっくりと貫かれた腕はある程度の処置をされたのだろうが、呪霊に食いちぎられかけたことを思い出せば鋭い痛みが走って、汗がじわりと湧き出す。
歯を食いしばっていれば、目を固く瞑って自らの経絡を確認する。
どこも欠けてはいない。ほっとしつつ痛みの緩和と活性化を促すために右腕に呪力を集めていれば、風が動いて襖が空いた音がした。
目を開けた先、見知らぬ相手が和服を捌いて傍らに座ったところだった。
「誰ですか、ここは」
「単刀直入に言わせていただきますが、高専を辞めていただきたいんです」
「…は?」
何も名乗らずいきなり言われた内容に反射で声を出せば、不愉快そうに顔を顰められた。
こっちもその顔を仕返してやりたいが、どうにかしてかあの場所から移動させて手当をされている事実は無視できず、ひとまず名乗って傷の手当の礼を述べれば、鼻白んだ風に軽くため息を吐かれた。
「死なれたら寝覚めが悪いので。でもそうですね、助けた礼にでも先程の申し出を受け入れてもらえませんか」
「理由はなんですか」
「五条の分家とでもいえば、お分かりになりましょう」
存外おつむはしっかりしていらっしゃるようなので、と小馬鹿にされたようなくすくす笑いが付け加えられる。
五条、五条ね。
施術室に突撃サマンサをかましてくる巨人を瞬時に思い浮かべて、スンッと表情筋が仕事を放棄した。
「私、あの人に無理やり高専で従事しろと連れて行かれたんですが、聞いてないんですか」
「あら、そうでしたか。それはお気の毒に」
全くね、と内心相づちを打つもここで勝手に「分かりました、じゃあ辞めますね」という気にもならない。
何せ理由に全く納得がいっていないので。
「ああ、職でしたら次の職場をこちらで斡旋いたしますので、心配はいりません」
「そんな心配誰もしていませんよ。まずは貴方があの人と直接お話したらどうですか」
貴方の望みと五条悟の言い分は違うようですよ、と言外に告げたが、わざわざそんなことでお手間を取らせたりはしないものです、と平然と返された。
報連相って知らなさそうな顔してるもんなと察する。
いかに自分がお前より優位な人物であるかを態度でぐいぐい示してくるが、こちとら一般社会で揉まれて生きてきた一般ピープルである。
「怪我の処置と保護、感謝いたします。お礼はまた後ほどさせていただくということでよろしいですか」
言い合いで気が逸らされていた分の痛みがぶり返すも、そんなもの呪力の蛇口をちょいと捻ればカバーできない程ではない。
汗が流れ落ちる首筋や背中が張り付いて気持ちが悪いが、これ以上この得体のしれない和室で不愉快な人物相手に時間を過ごすほうがストレスだ。
ぐらつく身体を踏ん張って、帰りますと告げてさっさと襖を開ける。
「お待ちなさい」
「っ」
開けた襖の先に見えない壁が現れた。
ぶつかる寸前で歩みを止めて、未だ畳の上で正座をする相手を辟易した顔で見下ろす。
「止めておいたほうがいいんじゃないですか」
「何を、力も何も無い者が…」
「これは念の為の確認なんですが、一般的に無断で仕事を欠勤したら問題になるってご存知ですか?」
「はぁ?」
それが何か?とでも言いそうな態度に、こちらもため息を隠せない。
「関係ないと思ってるようなのでもう一度丁寧に教えてあげますね。私、今日これ、無断欠勤中なんです」
「だから何」
「貴方にはない常識を同僚はちゃんと持っているので、まずは私に連絡を取ろうとするはずです。私の端末返してください」
「知らないわ」
「連絡が取れないとなれば、居場所を探されます」
憎々しげな顔を隠そうともしないで見上げてくる口元が何かを言おうと開きかけた瞬間だった。
ドゴンっと外から重いものが打ち付けられるような音が響いて、部屋全体が鈍く振動した。顔を出して外を見ようとも、張られた結界が邪魔で外の様子が伺えない。
「今の音、なんで」
なんですか、と言おうと座る相手を見下ろした瞬間、耳元を轟音が駆け抜けていった。
「…は、」
急に見通しが良くなる。
正確にいえば、廊下がきれいにえぐれてお外がよく見えていた。
空も見える、実に天気がいい。
不意に、今日の午前中は五条先生と生徒の手合わせを見る予定だったことを思い出していた。
見られなかったな、と雲ひとつ無い青空を見上げてついたため息に、自分が思いの外楽しみにしていたことに気付かされた。
「はぁ、がっかり」
「そうだね、僕もがっかりしてる」
あまりの状況に現実逃避した頭が、つい現状を無視してこぼれた独り言に返事が帰ってきた。
青空が不意に陰る。
「…自分にね。ぁーあ、タツミンボロボロじゃん。帰ろっか」
急に現れて嘆いて、一瞬で結界を破壊して人の腕を取って、また嘆いてそれから 何事もなかったかのように帰ろうと促してくる男。
いつでもどこでもマイペース極まりない、五条悟の登場だった。
そして他の何者にも目をくれず、さっさとこの場から退場しようとしている。
「あ、ご、五条さ」
黙っていれば良かったのではと、自分でも分かるようなものだがこの人には分からなかったらしい。一般常識が通じないから仕方がないんだなと察するが、空気を読んで黙っていた。
傍らの呪力がぼこぼこ煮えたぎるような不穏な気配を感じている。
手を出すべきかどうしようか。一瞬迷ったが沸騰したお湯が煮こぼれる寸前、掴まれた手を伝って呪力を回した。
「どうしてそういうことするの」
案の定、煮えたお湯に水をかけたように少しだけ収まった呪力は、不機嫌なその 精神と呼応するようにまた波を荒立たせている。
それを添わせた呪力でなだめつつ、見上げた彼女の頬を額から流れた汗が滑り落ちていった。
「早く帰って、お風呂入りたいんで」
「……、その前に、硝子んとこでしょ」
どでかいため息を頂いたが、これ以上ここで時間を食うのは止めてくれたらしい。玄関はどこかと開けた視界の中を見渡す視界がぐいと持ち上げられて揺れる。
「ちょ、ちょっと!下ろしてください、歩けます」
「落ちるから、ちゃんと捕まっててくださーい」
「や、あのホント無理!無理ですって」
ひょいと片手で抱えられて、驚いてできる限り身を離そうとすれば仰け反る背中をぐっと寄せられる。
怪我の処置をされたとはいえ風呂も入ってないし、汗だくだ。
近づきたくないと必死で突っぱねるも、無遠慮な顔はあろうことか引き寄せついでに首筋にその高い鼻を近づけてくる。
くん、と嗅がれたのが分かった。
絶叫する。
「ははっ、タツミンうるさいよ」
「は!?意味がわかりませんセクハラです!やめ、なんでまた嗅ぐんですか?!最悪!!」
「えー?言うほど気にならないよって証明?」
「聞いてませんよそんなこと」
「いいよ別に。僕は気にしないから」
「はーぁ?!そういう問題じゃないんですよ、嗅がないでって言ってるんです!!!」
「僕は嗅ぎたい」
「はっ?!」
ぎゃあぎゃあと喚く間に辺りの景色が目まぐるしく流れていく。
「なんだ、元気じゃないか」
そうして「はい、とうちゃーく」と急に下ろされて、気がつけば目の前には隈がお友達の医務室の主がいた。
あまり抑揚のない言い方に動かない表情筋の家入硝子は、辰巳の腕を取ってさっさと包帯を外したかと思えば様子を確認して丁寧に術式を施していく。
「おかえり、辰巳」
「ただいま、硝子さん」
その瞳がふっと上を向く。視線が合って口元を緩めれば、家入の口元もきゅっと微かに上げられる。
「ちょっとー僕もまだ言ってもらってないんだけど」
「五条さん、迎えに来てくれてありがとうございました」
「……、んー、そうそう僕すっごい良いところで現れたと思わない?」
「…。えっと、ド派手な登場でしたね」
「僕、コソコソするの性に合わないんだよね。あ、惚れ直した?」
「前提条件が揃って無いですね?」
なんか、一瞬変な間があった気がしたけど、続く普段どおりのやり取りに気の所為だろうかと内心首を傾げる。
会話を縫って、家入が五条を呼んだ。
「伊地知が待ってるぞ、そら行って来い」
「伊地知マジビンタ」
しっしと片手で追い出されてぶつくさ言う長身を慌てて振り返る。
「本当にありがとうございました」
「ん、」
ひらひらと後手に手を振られて、なんとなく背中を見送ってしまう。
いなくなった自分を探し回ってくれたのだろう、随分と迷惑をかけてしまった。あとで伊地知さんやきっと手伝ってくれた他の職員さんたちにもお礼をしなければ。
「で、どこにいたんだ」
「ああ、五条の分家って言ってたけど、名乗ってくれなかったんですよね」 「そうか」
まあ、この分だと名前も知らないその分家とやらは最悪、手ひどく潰されるだろうなと反転術式を施しながら家入は思った。
何もなかったから良かった。
でも次もそうとは限らない。
たどり着いたとき、いつもよりずっと少ない呪力に急いで術式をぶっ放してしまったが、辰巳はその両足でしっかり立っていた。
腕に穴が空いて、肋骨にもヒビが入っていて、それでも筧辰巳は呪力のコントロールが人一倍上手いから経絡を操って自身のカバーができる。
ぼろぼろ、弱すぎと言えば、耐久力はあるのだと言っていた彼女の背中がしっとりと汗ばんでいて。耐えられても痛みがなくなるわけじゃない。
「ヒーローみたいでしょ」なんてふざけても言えない。
知ってる一人の命と、知らない複数の命を天秤にかけること。
守りたいと思う命ひとつ、駆けつけられないで何が最強だろうか。
◆アトガキ
2021.12.04
書きたいところだけ。
Icon by 十八回目の夏