ここ数日、ムルがやけにくっついてくる。
元々ムルは距離が近かった。朝も気がついたら上から顔を覗き込まれているし、ご飯の時間に呼びに行ってはそこらを気まぐれに飛び回っている彼を捕獲し、そのまま食堂に連れて行くのもしょっちゅうだ。
大概はすぐに次に興味を持ったものに気を惹かれ、気が付けばいなくなっているのが、ここしばらくは誰かが声をかけたり、わざわざ気を惹かなければそのままくっつきっぱなしなのだ。
今日もまた。
「わあ、美味しそうなムニエルですよ」
「んー」
「ほら、外のこんがり具合と中の白身のふわふわ具合が絶妙ですね」
「ん~そうだね!」
「爽やかなレモンの香りが食欲をそそるなあ」
なんとか横の席に着席させたものの、椅子をぴったりくっつけて真横にひっついたまま首元に抱きついたり、頭をなでたり頬を擦り寄せたりとなかなか離れてくれない。
今朝はムルの大好物のムニエルで、朝食から魚が食べられる贅沢さに日本人としては感動しているのだが、目の前のお皿からの香ばしい香りにも、楽しげに返答はしつつなかなか手を伸ばそうとしない。
「……ムニエルが早く食べられたがっているので、私は先に食べますね!」
顔というか首元を固定されているため非常に食べにくいが、私だってネロの作ったムニエルは大好物だ。冷めるのをただ見ているなんて出来ない。ぐぐぐっと力尽くで頭を傾けてムニエルを一口頬張る。
「んー今日のスペクターフィッシュもおいしい……」
「ははっ、ありがとさん。ちょうどいいやつが手に入ってさ。……こら、賢者さんの食事の邪魔すんなって」
「にゃーん!怒られちゃった」
隣のムルのことは無視し始めて美味しいごはんに舌鼓を打っていれば、見かねたのか魔法舎のシェフがキッチンから出てきて、ムルの首根っこを掴んで引き剥がしていった。
両肩をぐいと押されて今度こそ隣でご飯に手を付けたムルに、ネロはやれやれと首筋をさすりながらキッチンへと戻っていく。
「やあ、賢者様」
ふとテーブルにかかった影に見上げれば、どこからかその騒動を見ていたのか意味ありげににこりと笑う南の国のお医者さんが立っていた。
「フィガロ。これからですか?」
「うん。良かったらここ、座ってもいい?」
どうぞと示せば、向かいの席に片手に持っていた皿を置いてから椅子に座る。
すぐに食べだすのかと思いきや、そのまま肘を付いてこちらをじっと見る視線に首を傾げる。
「?どうかしましたか」
「んー、いや。今日もムルがべったりだなと思ってさ」
手のひらを翻して、横で最後のムニエルの欠片を口に放り込んでいる西の魔法使いをひらりと指し示す。つられて横を向けば、食べ終えたムルは皿を一瞬でどこかへ消して、またすりすりと首筋にすり寄ってきた。
「そうなんですよね。どうしてでしょうか」
「だってさ。ムル、賢者様の邪魔ををするのはどうして?」
「邪魔とまでは……」
「んー……」
数日前から依頼か用事の無いときはやけに距離が近いなと思っていたのだが、その時にもムルは自身で不思議そうな顔をしていた。そして同じくらいワクワクとした顔と、あとそうだ、あの顔は。
「何だか引っ付きたいくらい好きって気がするから!」
「……へえ」
そうだ、瞳をうっとり細めてこちらを見る様はまるで。
「宗旨替えでもした?」
フィガロの言葉に、すり寄ってくるために視界でちらちらと揺れる紫の髪の内側を覗き込めば、猫のように細められた瞳がこちらをじいっと観ている。
普段よりも心なしか熱を感じるその瞳からそっと視線をそらして、向かいの魔法使いに視線を向ける。
「フィガロ」
「ん?」
「もしかして私、今何か変な魔法とかにかかってますか?」
「いいや」
「そうですか……」
気が付かない間に、西のジョークグッズとかにある惚れ薬的なものが自分にかかっているのかと思ったが、フィガロの反応から魔法のような何かではなさそうだ。
では、なんだろうか。そういえば、やたらと首筋とかの匂いを嗅がれている気がする。
ムルは猫っぽいから例えばまたたびみたいな何かを服にくっつけてしまっているだろうかと思うも、身に覚えはない。
それでも一度考えてしまうと気づかぬ内にということもある。
色々と心配になってきて服をパタパタとはたいてみたり、袖口や襟元をちょっと引っ張って変な匂いでも無いか確認していれば、ムルは喜々として真似をし始める始末だ。
「わ、ムル。どうしてそんなに匂いを嗅ぐんですか?」
普段よりさらに近い距離と、人前で体臭を嗅がれるという羞恥で賢者の体温は上がってくる。
「もしかして、何かその……変な匂いとかしますか?」
めちゃくちゃ勇気を出してそっと聞いてみれば、その宝石みたいなエメラルドグリーンの双眼が光を包括しながらパチパチと瞬きを繰り返して、そしてふわりと細められた。
「んーん。むしろ、その逆だよ!ああ、匂いに例えるなら、とっても良い匂いかも」
うっとりと撓った瞳が獲物を捕捉したようにこちらをじっと覗き込む。
トントン、と軽い振動と共に声をかけられてはっと視線を向ければ、長い指でテーブルを叩いた相手は困ったように眉を下げてこちら、というよりムルの方を見ていた。
「ムル、何となく分かったから、賢者様の匂いを嗅ぐのは止めたほうがいい」
「フィガロ、何か分かったんですか」
「んー、まあたぶんね」
注意をしつつも特に大きな問題は無いということだろうか。いつの間にか食べ終えた食器を持ってフィガロが立ち上がる。その動作に合わせて羽織っていた上着の袖がふらりとゆれる。
「賢者様」
「はい」
「困ったことがあったら、遠慮なく俺に言ってね」
「?」
何か分かったのなら教えてほしかったけれど、フィガロはそれだけ伝えて食堂を去っていってしまった。
その日の午後は特に外に出る用事もなかったため、書きかけだった報告書と最近の出来事を賢者の書にまとめるため図書室にこもっていた。
「……」
どうにもお腹が重だるい、気がする。昼食が美味しくてちょっとだけお代わりをしてしまった後に、おやつの時間にはこれまたしっかり甘いものを食べてしまったからだろう。
どうにも食べ過ぎのような息苦しさも感じている。
それに加えて食後特有の眠気も相まって、段々と文字の上を目が滑るようになってきていた。
「っ!?ム、ムル」
カツン、とペンを落とした音でハッと顔を上げればいつからそこにいたのか、机の足元からじっと翠の瞳が覗いている。
「あははっ!賢者様、目が丸くなった!」
悪戯を成功させたと言わんばかりのムルがするりと机の下から出てきて、脇に立ってするりと身を寄せる。
「眠い?目が溶けちゃいそうだよ」
「いや、えっと、そうですね」
「じゃあ、一緒にお昼寝しよう!!」
《エアニュー・ランブル!》
一瞬の内に眼の前の図書室の机と椅子が消え去って、どーんと一台のベッドが現れた。
更に上から、真っ白いシーツにふかふかの枕と布団も降ってくる。
「ほら、賢者様」
「え、ぅわあっ」
片手にペンを持ったまま残された椅子に座り込んで唖然としていると、その片手をぐっと引かれ、そのまま顔面からボスンと布団の上に着地する。
そうして強制的に横にされれば、思ったより体が重かったのを自覚する。もぞもぞと楽な姿勢をとって、深く息をつく。
「はい、あーん」
「ん?んぐ」
ふうと息をついたすきに、空いた口にぽいっと入れられたのはシュガーだった。
ほろほろと溶けていく甘さを感じていれば、あっという間に体から力が抜けて瞼が重くなってくる。
「おやすみ、賢者様」
良い夢を!と最後に明るい声がして、図書室の明かりがパッと消えた。
「……さま、起きて」
ん、とそっと肩を揺さぶられる感覚に、小さく漏れた自身の声を耳に聞きながら意識がゆっくりと浮上する。
さらりと髪を梳く感覚が優しくて、無意識にまどろんでいればくすくすと笑い声が降ってくる。
「ほら、ムルも」
「にゃーん」
優しい手が離れて、暖かかった腰元が急に風を感じるのに合わせて瞼をゆっくりと開ける。
辺りは少し薄暗い。目の前にいる誰かの影の更なる暗がりの中でパチパチと瞬きを繰り返せば、目にうつるのは影に染まった白いシャツと濃い色のパンツに包まれた細い腰元だった。
「わ、えっ、はっ!フィガロ?」
「うん、おはよう賢者様」
慌てて起き上がれば、手を口元に当てて笑う南の魔法使いに賢者は目を白黒させて辺りを見渡した。
自分は今どこにいて、何をしていたのか。
目に映るのは暗い図書室で、でも自分がいるのは何故かベッドの上だ。
図書室のど真ん中に置かれたベッドに座り込んですっかり混乱していれば、笑いを収めたフィガロに落ち着くよう宥められる。
「ミチルとリケが、図書室で賢者様が寝てるって大慌てて呼びにきてさ」
「わ、…本当にすいません」
「謝らないでいいよ」
どうして寝てしまったのか。
しかも図書室で勉強がしたかっただろうに、タイミング悪く図書室に来たミチルとリケに、こんなところで寝てしまった姿を見せてしまったなんて。
情けないし、恥ずかしい。次に会った時にどんな顔をすればいいのだろうか。
「そんな顔しないで。二人とも心配してたから、後で声を掛けてあげて」
「う、はい……分かりました」
「それより、具合はどう?」
「え?えっと、」
「……んー、まだちょっと微熱があるかな」
聞かれたことに答える前に、フィガロによって前髪をそっと脇に避けられ額に手のひらを当てられる。
その手のひらがひんやりと感じられて少し気持ちいいと思えば、それは顔に出ていたのだろう。眉を少し下げた表情で頭をそっと撫でられて、急にこの状況が恥ずかしくなって一気に顔が赤くなる。
部屋が暗くて良かったと思いながら、徐々に落ち着いてきた頭で目覚める前のことを思い出せば、ムルによって召喚されたベッドでうっかり寝入ってしまったのだとわかった。
「すいません、ムルは?」
「たぶん、シャイロックのところに行ったんじゃないかな」
「そうですか。……これ、どこの部屋のベッドでしょう」
ムルがどこからか魔法で出したベッドだ。どうやって元の場所に戻そうかと考えていれば、視界の中にすっと手のひらが差し出される。
「ベッドは俺が元に戻しておくよ。きみには、はいこれ」
「あ、シュガー」
「賢者様、具合悪かったんでしょう。声を掛けてねって言ったのに」
「すいません。ちょっと疲れてたんだと思います」
叱るようなたしなめるような声に答えれば、その不思議な緑色の菱形の瞳孔が少し丸くなる。
「あれ、気付いてない?」
「え?」
「そっか」
うーん、と少し悩むように口元に手を当ててから、フィガロは不意にこちらを向いた。
《ポッシデオ》
わっ、と思う間もなく視界が眩んで、微かなめまいに襲われて目をぎゅっと瞑ってしまう。
次に目を開けたときには、もう見慣れてしまった賢者の部屋のベッドの上にいた。
「ごめんごめん。急でびっくりさせたよね。でもこの方が手っ取り早いかなって」
どうすればいいのかとベッドの上でしばし固まっていれば、不意に下腹部が波打って嫌な感覚がじわりと広がった。
「!、っ」
「あ、もしかして始まっちゃった?」
立ち上がろうとして、動けば流れ出てきそうな経血に動揺してベッドの端で蹲っていれば、フィガロの言葉にはっと顔を上げる。
「うん、大丈夫。月経だよね?」
「……知ってたんですか?」
「なんとなく、そうなんじゃないかなって」
「そうですか。こちらに来てから来なかったから、てっきり……」
目まぐるしい日々に翻弄されていて、定期的なそれが来なかったことにすら気付いていなかった。
移動も多く泊りがけの任務もあると思えば、いっそそのまま止まっていてくれたほうが良かっとさえ思い、沈鬱な気持ちになる。
「そんな顔しないで」
「……」
「辛いし煩わしいだろうけど、女性の体に必要な生理現象だからね」
フィガロは当然のようにきっぱりと言いきった。
「痛みはある?」
「少し、あります」
「わかった。痛み止めを出すね」
「他に必要なものは持ってる?あ、カナリアを呼んで来たほうがいいかな?」と、ひとつひとつ問診のように聞かれれば、相手はお医者さんだったと今更ながらに思い至って、少し落ち着いてくる。
「じゃあ、賢者様さえ良ければ、俺からカナリアに必要なものを揃えてすぐ持ってくるよう伝えておくから」
「何から何まで、すいません」
「違うよ」
「え?」
「今、迷惑かけたって思ってるでしょ、賢者様」
「はい」
《ポッシデオ》
フィガロが呪文を唱えて、どこからか手のひらより少しはみ出るくらいの袋状のものを取り寄せる。そっと手のひらで撫でるようにしてから「はい」と手渡されて、戸惑いつつも受け取ればそれはじんわりと温もりを帯びていた。
「あ、湯たんぽ」
「中身はお湯じゃないから、すぐに冷めたりしないけど。熱くない?」
「大丈夫です。あったかい」
「そう、良かった」
袋をそっと覗くと、重ねて入れられた布の間に何かすべすべとした石のようなものが入っていた。
「温石だよ」
「いい匂いがします」
「布に鎮静効果のあるハーブを包んでるからね」
袋を抱きしめれば、すうと落ち着く薬草の香りがしてお腹の中にじんわりと熱が伝わってくる。
様子を見ていたフィガロを見上げて、ベッドの上で動きは最小限だけど、少しだけ居住まいを正す。
「フィガロ、ありがとうございます」
「うん」
笑顔で礼を言った賢者に、フィガロは鷹揚に頷いて見せた。
生徒から、正しい答えを返された先生みたいに優しい眼差しを送られる。
「じゃあ、カナリアを呼んでくるから。ちょっと待っててね」
「はい」
ひらりと振られた手に小さく振り返せば、白衣の裾がするりと扉の向こうへ消えて、パタンと扉が閉ざされた。
「あ、フィガロだ」
カナリアに言伝を頼んで夕飯を取ってから、フィガロがシャイロックのバーを訪れれば、そこには探していた魔法使いがカウチで優雅にくつろいでいた。
「いらっしゃいませ、フィガロ様」
「うん」
店主の言葉に答えながら、カウチを横目にカウンターに座る。
「うちのいたずら猫が何かご迷惑を?」
「そうだね」
「これは失礼致しました。……ムル」
「ごめーん!」
機嫌よく無邪気に答える魔法使いに、かつて天才と呼ばれた面影は無い。
「でも、すっごくいい匂いがした気がした」
ムルは空気を嗅ぐようにすんと鼻をならした。
「いい匂い、ね」
賢者様が聞いたら面食らうだろうな、と想像する。
何を指しているかに気付いたなら、きっと戸惑って、もしかしたら気を悪くするかもしれない。そんなデリカシーに欠ける発言でも、ムルが言うなら驚かれるだけで許されそうだ。
そういうところ、ずるいんじゃないかと思う。
「ねえ、フィガロ」
「愛すべき相手のものを奪ったら、取り返しに来てくれると思う?」
ムルは仰向けに転がったまま、その宝石のような瞳をうっとりと細めている。
その姿を視界から外せば、「どうぞ」とシャイロックから声がかけられる。
「経験則でいいよ」
「悪いけど、略奪愛は趣味じゃないんだ」
「えー、そんな無粋な言葉じゃないよ。これは駆け引きさ」
注文せずとも出されたグラスに戯れのように指を伸ばして、フィガロは無言でその冷たい表面を指先で撫でた。
「じゃあフィガロは、愛するものを奪われたらどう思う?嫉妬する?怒る?」
「……」
「今の賢者様を俺のものにしたら、あの月は俺のことを見てくれるかな」
つついた振動で細かな気泡が一瞬きらめいて水面を目指して一気に駆け上り、シュワと弾けて消える。
「ムル」
バーの店主に静かな声でたしなめられたカウチの猫は、にゃーんと機嫌よく良い子の返事をした。
2024.6.2
篭絡されちゃったかな。の話。
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