「私、フィガロといるときが一番自分らしい気がします」
ふふ、と笑みをこぼす瞳はどこか虚ろでとろんとしている。
それもそのはずで、ここはシャイロックのバーで彼女は普段飲まないお酒を飲んでいた。
決して強要したわけではない。たぶん、今日はそんな気分だったのだろうと思う。
そして、俺はそんな賢者様に悪ノリをしてしまった。
「随分と嬉しいことを言ってくれるね。でも、どうして?」
お酒に弱いという彼女がそれでもちょっと羨ましそうに見ているから、一口飲んでみるかいと進めて。断られると思ったそれを賢者様が飲んで、見事に酔っ払って。
だから、つい悪戯心が疼いてしまったのだ。
いつも胸に秘めている、押し込めてしまっている想いを吐き出させるように。
口に慣れた、短い呪文を唱える。
非難するようなシャイロックの視線は無視をした。他には誰もいなかったから、こんな機会は滅多に無い。
それに、籠絡はされてくれない上にどこか警戒心を持ってるくせに、どうしてか俺のことを信頼のような何かに満ちた瞳で見てくることが多いから。
真意を知りたかった。今なら、少しお酒の力を借りて素直にさせた心を零してもらえると踏んだのだ。
「私、本当に何も無いんです」
柔らかい頬をカウンターにぺたりとくっつけて、その額から背中に髪が広がっている。いつもの彼女なら絶対にしない姿勢だ。
今にも寝てしまいそうに瞬きを繰り返しながら、何とか意識を保とうとしているのが分かる。
「いい子でもないんですよ。善人でも、ましてや聖人君子なんてとんでもないんです」
「そうかな」
「そうなんです」
賢者様はいい子に見えるけどなあ、なんて言えば噛み付くように「フィガロの目は腐ってます」なんて言われて、ついおかしくて笑ってしまえば、その眉根がぎゅっと寄せられて非常に渋い顔をされた。
「どうして、そう思うの?」
「本当の、私は…」
いい人なんかではないんです。
困った人がいても、誰にだって手を差し伸べるわけじゃない。自分の都合が一番で、余程親しい人でもなければ見て見ぬ振りだって平気でします。
「でも、ここの人は、魔法使いはみんないい人で、」
私も、その中に加わりたいし、いい人だって思われたくて。
「ええ?みんな?そうかなあ」
「みんな、いい人です。賢者なんて肩書ひとつで、こんな何も無い人間に良くしてくれるんです」
中央の国の魔法使いたちは真っ直ぐで、明るく手を引いてくれます。
「オズも?」
「オズは、困っていたらちゃんと気付いてくれますし、真剣に話を聞いてくれます」
「ええ?買いかぶりすぎじゃないか」
東の国の魔法使いたちは根が真面目で、気遣い上手でとても親切です。
「でもさ、ほら距離を感じたりしない?」
「確かに距離はありますが、それは相手を傷つけてしまう距離から身を引いているだけで、とても分かりづらいけど、間違いなく優しさだと思います」
西の国の魔法使いたちは自由な心で、喜びや素敵なものを共に分かち合う心があります。
「賢者様にそうおっしゃっていただけて、光栄です」
「いつも、楽しさをくれるから、私ももらった嬉しさを分かち合いたくなるんです」
北の国の魔法使いたちはいつだって本音で話してくれます。
「いやいや、それこそ買いかぶりすぎでしょ」
「自分の思いや心に忠実で、だから自身は偽らないでしょう。だから私もちゃんと自分の心に向き合って、本音で返さないとなって身が引き締まります」
「随分と前向きに捉えてるけど。本音でって、それなら北の魔法使いたちといるときが一番、賢者様らしくなれるんじゃない?」
あ、俺が北の魔法使いだって知ってるからか。
「そうじゃないんです。言ったでしょう、私はいい人なんかじゃないって」
「……」
「いつだって素直で正直、そんな純粋な人間じゃないんですよ」
嘘だってつく。上手く生きるには、本音を隠すことも他に同調することも必要だ。そうやって、生きてきた。
「北の魔法使いたちのように、いつだって自分に自信があって本音を偽らずにいられたら素敵だなと思います。でも、それは私じゃない」
南の魔法使いたちは、心から優しくしてくれる。でもそれは、ただ他人に同調しているわけではなくて。
「上手くいえないんですけど、自分の本心をちゃんと持った上で、相手の心に寄り添うってとても難しいことだと思うんです」
口で言うのは簡単だ。「辛かったね」も「悲しかったね」も、悲嘆にくれる相手にはとても暖かい毛布のような温もりであることに変わりはない。
でも、辛さも悲しさも自分は感じていないのも確かで。
「自分の気持ちに裏切らず、偽らず、相手の気持を汲み取って心を配ることが出来る、南の国の魔法使いたちはとても優しい」
言い終えて、ふうと小さく息を吐く。呼気に混ざるアルコールが、未だその頭を酩酊させているだろうにそれを抑止してまで、本音を引きずり出させる俺は、到底「お優しい南の国のお医者さん」ではないだろう。
「それで?俺が賢者様を自然体にさせてるって?とても優しい南の国のお医者さんだから?」
言いながら、ひどい皮肉だなと思った。たぶん、今の顔はミチルやルチルに見せられるものではないだろう。
「…?、っ」
だと言うのに、賢者様はふっとその瞳をこちらに向けて、そして柔らかく笑った。
「そういうところですよ、フィガロ」
「なに、」
「いい人ぶろうとしているところ、いい人ぶろうとしてちょっと上手く出来ていないところ」
似てるような気がして。とくすくすと笑う、その顔から目が離せない。
「ごめんなさい。勝手に、そう思っているだけなんですけど」
はぁ、とそろそろ限界なのだろう。どこか熱っぽい呼気を零してふっと、まつげがその瞳を覆い隠していく。
「フィガロが、いい人じゃないって言ってるんじゃないんです。優しいですよ、フィガロは」
こんな、下手くそな人間にも親切にしてくれるんですから。
「籠絡、なんてしなくとも…してほしいことがあったら、いつでも言ってくださいね」
「随分と熱烈な告白でしたね」
「はは、まいったなあ」
言うだけ言って、ことんと寝落ちてしまった賢者様を見て笑うしか無い。
そろそろ店を閉めるのでというシャイロックに溜息をついて、すっかり寝入ってしまった賢者様を抱きかかえた。
魔法を使ったことを咎めているのだろう、シャイロックには俺がこの場から逃げ出したいと思っていることもきっとバレている。
先手を打たれてしまったからにはなす術無く、賢者様を送り届ける他はない。
「俺と似ている、ねえ」
たかが十数年程度しか生きていない人間と、二千年も生きた魔法使いが?
冗談も程々にと言ってやりたいくらいだ。
昔の自分なら「俺の何が分かる?」と、きっと気分を損ねていたかもしれない。
次の瞬間には息の根を止めていただろう。
くったりとその身を預けてくる腕の中の賢者様は、賢者としての力はあるようだが基本的にはか弱いただの人間だ。
落としただけでその身を簡単に損ねてしまうだろう程に、細くて柔い。
「自分らしくいられる、か」
でも本当は、ちょっとだけくすぐったく思った。
俺だって、賢者様にはもう色々とバレているようだけど、まだまだ隠しているあれやこれやがあって、いい人なんかじゃない俺自身のこともその中には多分に含まれている。
それも、どれも全部自分だ。
ただ、相手によって見せる自分を変えているだけで。
賢者様も、そうなんだろうか。
「ばらばらの俺をひとつひとつ拾い上げてくれる賢者様は、やっぱり優しいいい子だよ」
今日はちょっと強引にしちゃったけれど、きみがそんな風に思ってくれているのなら、俺もそんな賢者様をひとつひとつ拾い上げて。
いつかまた月のきれいな晩に。
酒を肴に、俺ときみを見せ合いっこしようか。
2022.3.23
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