最近何かと忙しく、依頼に行けばいいことばかりではない。
面倒事や厄介事を解消しても感謝の言葉すら言わない人もいて、まだまだ魔法使いに対する偏見や溝は深い。そうした時、魔法使いに直接言えない人からすれば賢者はまるで魔法使い厄介ごと相談所の窓口だ。
どんなに丁寧に説明し言葉を尽くしても伝わらないこともある。仕方がないこととはいえ、話を聞き続けた心は徐々に疲弊していく。でもそんな話をバカ正直に賢者の魔法使いに愚痴るなんてこと出来るはずもない。
彼らはたいしたことも出来ないのに賢者なんていう肩書を持っただけの人間を、自分を本当に大切にしてくれている。
例えば元の世界では仕事でストレスが溜まった時どうしていただろう。
甘いものや美味しいものをたっぷり食べて、よく寝ること。
「思いっきり声を出したい、…歌いたい」
でもどこで歌おう?
この世界の歌では無いから誰に聞かれようと、間違っている下手くそだとそれを指摘されることは無いのだけれど、人前ではさすがに恥ずかしさは拭えない。
迷った末にラスティカに相談をしたのは、音楽といえばラスティカだと思ったからだ。
元の世界にあるカラオケというお店のことを話し、防音の魔法を部屋にかけてもらえたりしないだろうかと私用で魔法を使ってもらうことに後ろめたさを感じつつもそっとお願いをしてみた私に、ラスティカは美しく微笑んで「それならば是非、僕にお任せください。賢者様に満足いただける場所をご用意しましょう」と胸に手を当てて頷いた。
そうしてしばらくして渡されたのは小さな鍵。レノックスの魔道具にも似た銀色の手のひらほどの鍵は、五線譜の装飾が施された音符の形をしていた。その鍵を使って扉を開ければ空間が繋がると言われ、半信半疑で自分の部屋の鍵穴に入れて回せば、開いたそこには思っていたより数倍も広大な景色が広がっていた。
どこまでも続いているような野原は春の陽気に包まれ、その中に低めのテーブルとしっかりとしたソファがちょこんと置かれている。テーブルには紅茶を入れられるティーセットが一式と、何やら大きめのスプーンのような謎の物体。この世界には無いマイクについては形状しか伝えられなかったので、これはラスティカが思い描いたマイクなのだろうか。
そよそよとそよぐ風に草が揺れ、上を見上げれば見事な青空に雲がぷかりと浮かんでいる。誰もいない開放的な広い野原で一人だけのリサイタルなんて、贅沢が過ぎるステージだ。
「あ、あー…~♪…っ!??」
んん、と少しばかり恥ずかしく思いつつも、喉の調子を確かめてから歌い始めれば景色が一変した。
緑一色だったはずの野原には花が咲き乱れ、歌に合わせて蝶が光る鱗粉と共に舞い上がる。ラスティカ作のマイクをしっかり口元に当てれば、野原一体に声が響き渡った。
これは少し恥ずかしい。恥ずかしいが、気持ちがいい。
のびのびと歌い続けていれば、どこから現れたのかうさぎや鹿、鳥も飛んで気がつけば辺りは観客でいっぱいだった。
歌に合わせて跳ねて鳴き、飛んで囀り、自分の曲に合わせて調子を合わせてくれるそれに気分も上がる。歌い終わってなんとなくお辞儀をしてみせれば、野原は一層華やかさと賑やかな音に包まれた。
何曲か歌い大分満足したので、名残惜しげに足元に集まる動物たちを撫でてから鍵を手に取れば、野原の景色はまた緑一色に戻り一枚の扉が現れた。
鍵穴に鍵を差し込めば、カチリと回り開けた先には見慣れた魔法舎の自分の部屋が広がっていた。
「ラスティカ!ありがとうございました!!」
「これ、お返ししますね」と音符の鍵を返そうとすれば、ラスティカはゆるりと首を振って両手で私の手を鍵ごと包み込んだ。
「これは賢者様に差し上げたものです。またお一人で歌いたくなったらいつでもどうぞ」
「え!いいんでしょうか」
「ええ、もちろん。共に音楽を奏でられる日も楽しみにしています」
そう微笑んで言うラスティカに、ややまごつきながらも再度お礼を告げる。
その日から時折、鍵を使って歌を歌う時間が増えた。
それはいいことが合った日であったり、任務が上手くいった日であったり、はたまたどうしようもなくむしゃくしゃしたりする時であったり。
思い切り声を出すと、心の中のもやもやとしたものが蒼穹に全て吸い込まれて、気持ちもすっきりと晴れ渡るのが分かった。
「賢者様、最近随分と楽しそうだけれど何かいいことでもあったの?」
アーサーやカインからはとても素敵な笑顔だと臆面もなく言われ、魔法使いによっては頭を撫でられ、ルチルやミチルやリケともなんとなく笑顔がうつったかのように不意に笑い合ったりしてしまう。
いいことだと思いながら魔法舎の廊下を歩いていれば、レノックスと連れ立って歩いていたフィガロから声をかけられた。
「はい、ちょっと楽しみが増えまして」
「楽しみ?何だろう、俺にも教えて欲しいな」
「内緒です」
「ええ、いいじゃない。楽しみはみんなで分かち合うものだよ」
おどけたように長身をかがめて、パチンとウインクをされる。
確かにそれもそうだとも思うが、こればかりはどうしようかとうーんと悩んでいるとこちらの様子を伺っていたフィガロが何かに気がついたようにこちらの腰元に視線を寄せる。
「賢者様、何を持っているの?」
「え?」
「そのポケットの中」
すっと伸ばされた指先が指し示した先、服のポケットの中に入っているものと言えばそれは確かにラスティカからもらった音符の鍵だった。
フィガロは気がついて隣のレノックスが首を傾げているところをみると、最近つい持ち歩くようになったこの魔法の鍵の気配に、双子やオズにも気が付かれていたのだろうか。
「それも、秘密?」
悩んだ末に頷いた。
双子はともかくオズが何も言わないところを見ると見逃されているか問題がないものだと思っていたのかもしれない。
同じように流されてくれないかなと思っていれば、フィガロは諦めたのか上体を起こしてにこりと笑った。
「秘密のある賢者様も魅力的だね」
最近、賢者様が楽しげにしているので賢者の魔法使いもみんな楽しそうで魔法舎の空気はとても明るい。
それはいいことだと思う、…思うのだが、問題は誰にそれとなく聞いてもその理由が分からないということ。
「…うーん」
先程もなにか知っているだろうかと問いかけたファウストに、「何も問題があるわけじゃないだろう」と、しつこく知りたがるなと言外に苦言を呈されて退散したところだった。
でも隠されれば暴きたくなるもの。それも、あの賢者様があれほど浮かれたように、にこにこふわふわとしている理由だと言うなら尚更だ。
次は誰を攻めようか、いっそ賢者様を、可愛らしく秘密を漏らすまでとことん問い詰めてみようかなと思いながら魔法舎をふらふらとしていれば、午後の陽射しに包まれた中庭に、珍しく一人でティータイムを過ごしているラスティカの姿が見えた。
そういえば、ルチルが「今日はクロエと一緒に街に買い物に行くんです」と言っていたなと思いながら近づけば、ラスティカはひとつの鳥籠に耳をすませながらティーカップを優雅に傾けているところだった。
「やあ、ラスティカ」
「フィガロ様」
「今度こそ、きみの花嫁が見つかったの?」
傾けていた首を戻してこちらを見上げるラスティカの、その横にある鳥籠をそっと見やる。
ラスティカの魔道具かと思ったが、それより少し小ぶりで外からも随分とりっぱな銀の鳥籠は、天井に青空を模したガラスが嵌め込まれ、底には花が咲き乱れる草の模様が描かれている。鳥籠の引っ掛ける部分には可愛らしい音符がちょこんとついていた。
中には、片手で包み込んでしまえそうなほどに小さな、一羽の小鳥がいた。
「ふふ、残念ながら違うんですが」
とても愛らしいですよね、と続けるラスティカは目を閉じて小鳥の囀りに耳を傾けているようだった。
魔道具では無いと言われたが魔法の気配がする。どこかで感じたことのあるその気配に、なんとなくラスティカにつられて目を閉じた。
そうして耳に届いた音色にフィガロは、はっと目を見開いた。
驚いて見つめる先にあるものは、鳥籠の中で機嫌よく歌う一羽の小鳥。
「え、それって」
慌てて目を閉じて小鳥の鳴き声に集中すれば、それはやはりフィガロの思った通りの人物の声だった。
灰に一粒垂らした翡翠の瞳を凝らして鳥籠の中の小鳥を見つめるフィガロに、ラスティカはふと思い出したかのように歌うように言葉を零す。
「賢者様は、歌もお上手ですよね」
そのまま何事もなかったかのようにティーテーブルをチェンバロに変えて演奏を始めようとする彼を、フィガロは慌てて止めた。
「待って待って、ラスティカ」
「どうかしましたか、フィガロ様」
「どうかしましたか、じゃなくてさ。どうして賢者様が小鳥になって歌ってるのか説明してくれる?」
不思議そうにフィガロを見上げるラスティカは、何故フィガロがそんなに慌てている様子なのかさっぱり分からない様子だったが、小首を傾げながらも説明をしてくれた。
「賢者様が歌っている歌は、どうやら賢者様の世界の歌のようですが、何度も聞いていると耳に馴染んで心地よくて、ついこうして伴奏を」
少しずれているラスティカを前に、フィガロは額に手を当てた。
この分だと、鳥籠の中で歌っている賢者様は自身が小鳥の姿で囀っているなんてことも知らないし、なんならその歌声を聞かれているなんて夢にも思っていないだろう。
フィガロの知っている賢者は人前ではダンスを踊るのも恥ずかしげにする子だ。ましてや人前でアカペラで歌うなんて、もしも知っていたらポケットの中の鍵は早々にラスティカの手元に返っている。
これは本人に教えてあげるべきかと考える脳裏に、日々を楽しそうに過ごす賢者の笑顔が浮かぶ。
「賢者様の心の曇り空を晴れ間に変える手助けが出来て、僕もとても嬉しいんです」
彼が言うことが事実なら、これは賢者の心の拠り所のひとつでありストレス解消方法だ。取りあげてしまうのも忍びない。
どうしたものかと悩むフィガロの耳に、ラスティカの呟きが聞こえた。
「このまま小鳥になって囀る賢者様も、きっととても可愛らしい」
今日も野原は歌を聞くために集まった観客でいっぱいだった。
最初はこんなにいただろうかと思うも、楽しげな動物たちは危険もなく人懐っこくてとても可愛い。
時折紅茶を飲みながら、歌を口ずさみ、膝の上に乗ったうさぎの耳から背を撫でる。こんな至福の時が他にあるだろうか。
いつまでもここにいたいなと思う心は、ここに滞在する時間が徐々に伸びていることには気が付かない。
「賢者様」
不意に、ここでは聞こえるはずのない声が背後から聞こえ、賢者は肩をびくりと跳ねさせた。
その振動に驚いたのか、うさぎは膝の上から跳ねて逃げていき、止まった歌声にさあっと波が引くように集まっていたはずの動物たちの姿が消えていった。
「えっフィガロ、どうしてここに」
咲き誇る花も消えた一面の草原の中に立つフィガロが、さくさくと草を踏みしめて近づいてくる。
「帰るよ」
「えっと、でも」
「もう十分歌ったよね」
有無を言わさずに腕を取る長身に、明るい日差しが遮られ影が出来る。
暗がりの中で煌めく瞳が、珍しく僅かな焦りを宿しているように見えて賢者は首を傾げた。
「何かあったんですか?」
ふと思い起こすのは、ここで歌を歌いたくなった原因のこと。
二千年生きてきた魔法使いだとしても、絶えず送られる視線や言葉に傷つかないわけでは無いだろう。
「何か、嫌なことでもありましたか?」
自分がここにいる間に、心にも無い言葉で彼が傷ついたのなら。
もしかしたらそれは、賢者である自分が間に立てば彼には届かなかったものだとしたら。
賢者の心配そうに陰った瞳と、見下ろすフィガロの瞳が交わる。
腕を引いて立たせて、それでも見上げる賢者に合わせて少し屈む。
「そうじゃないよ。何でもないよ、本当」
◆オマケ
ラスティカ曰く、この鳥籠は泡の街の蚤の市で見つけたもので、中で歌い続ければいつかは本物の小鳥になるという代物だという。
本物の小鳥。
でもきっと耳をすませば賢者様の声で鳴いてくれる小鳥。
そうしたらもしかしたら賢者様は元の世界に戻ることはないかもしれない。
ずっと、小鳥の姿だけど側にいてくれるかも。
いいな、って思った。
手放したくない。側にいて欲しい。
鳥籠と鳥籠の鍵は、捨てられずにいる。
2021.9.30
2021.12.04一部修正
2024.9.17一部修正
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