すっかり暗くなった仕事帰りの夜道。
いつまでも暖かくて今年の秋は過ごしやすいと思っていたけれど、暦の上ではもう冬だと油断していたら日が落ちた途端に冷気が足元から這い上がってくる。
「さむ、寒い…」
呟いても寒さが和らぐはずがないのに、何故口に出してまでわざわざ寒さを確認しているんだろうか。
それもこれもこんなに晴れた夜空がいけないんだ、と見上げた先には暗い紺色に散らばる星の瞬きと煌々と照る丸い月が浮かんでいる。いつになく眩しさを振りまくそれらは、空気が澄んでいることと冷気が降りてくることを表していた。
晴れた夜空が嫌いなわけではない。
寒いのが苦手なのだ。
かじかんだ手をポケットの中でぎゅっと拳を握って自家発電を促しながら、早足で屋内たる住処を目指す視線の端を何かがトットと駆け抜けていった。
「猫?」
連れ添うように仲良く路地を曲がっていく長い尻尾をつい目で追ってしまう。
群れている猫をみるのは都会では珍しい。子猫では無いが、兄弟か連れ添いなのだろうかと通り過ぎざまに路地をつい覗き込んでしまえば。
「…ぇ」
さっきの2匹の姿はもう見えなくなっていたが、ここいらではなかなかにお目にかかれないような美しい毛並みの猫が、長い毛と尻尾を優雅に揺らしながら路地の先を抜けていくところだった。
ちょっと気になるのも致し方ない。
猫が可愛いのがいけないし、どう考えてもこの路地の先へと誘われていると勝手に結論づけてそっとそのふさりふさりと揺れる尻尾に付いていくことにした。
こんな晴れた月夜だ。これは噂に聞く猫の集会でも行われているかもしれない。
寒くて早く家に帰りたかった気持ちを少しだけ我慢する。
どうせ帰っても一人暮らしで、誰が待っているわけでもない暗くて寒い部屋が待っているだけ。
おあつらえ向きに明日は休日となれば、仕事を頑張った自分へのご褒美として何か良いことがあってもいいじゃないか。
わくわくした気持ちで、でも極力足音は立てないように静かにそっと距離を保ちながら路地を進み、月が照らすその路地裏の先へ一歩足を踏み出した。
「ぅっ、?!!」
真っ直ぐに差し込む月の光が眩しくて思わず目を瞑れば、急な立ちくらみに襲われる。目眩と少しの吐き気にぐらりと上体が傾ぎ、体を地面に打ち付けるのを避けるために両手を地面に向かって伸ばした。
「にゃぉう」
猫の鳴き声だ。
前方から、いや後ろだろうか。真横からかもしれない。
ぐらぐらと揺れるような頭を深呼吸を繰り返して宥めながら、妙に近く、甘やかに鳴く声の方を向こうとして開いた視界に映ったそれにはっとする。
猫の両手だ。
いつの間にこんなに近いところにいたんだろうかと、視界を上げ見渡す。
いない。
おかしい、猫の一匹も見えない。
どころではなく。
「にゃぉう」
「ここ、どこ?」と呟いた声は、声にならなかった。
いや、自分ではちゃんと話したはずだったそれが、猫の鳴き声として発せられたのだ。
思わず口元に添えた手の平の感触に、またもぎょっとしてそれを凝視する。
肉球だった。
ぷにぷにのそれをガン見して、そっと視線を外し、そしてまたそっと己の手だと思っているものを動かして。
「…にゃぁ」
言葉にするなら「嘘だろう」だった。
認めたくはないが、己の手足として動くその4本の足がとらえるのはちくちくふわふわとした草と地面。夜目が利いているのか、そこそこの明るさで見渡した景色はどこぞの洋風の屋敷の庭という印象を受けた。
いや、でかい塔もあるけどこの屋敷、…もはや城ではないだろうか。
「……、っぷし」
さんざんうろついて分かったのはとにかく大きな城だっていうことと、自分の家の近所にはそんな建物はなかったということと、どれだけ探してもあの路地裏が見つからないということ。
そしてとても寒いということだ。
さっきまでは、半ばパニックになりながら慣れない四つ足でヨタヨタと周囲をうろつきまわって寒さも感じていなかったのに、呆然と立ちすくんで広い夜空とおかしなくらいに大きな月を見上げれば、不意に夜風に体を舐められて思わずくしゃみが飛び出てしまった。
ふるふると首を振って、少しでも風をしのげる場所をと向かった先は石造りの城の玄関だった。
「………」
無言で見上げる。
扉は大きく、取っ手は高く遠かった。
思わずまた自身の手、前足を持ち上げて眺める。
届いたとして、あの取っ手を掴んで開けられるとは到底思えなかった。
諦めてトボトボとまた歩き出す。
ベンチの上も足元も寝心地は到底良いとは思えなかった。
噴水ではちょっと水を舐めたけど、冷たさに全身の毛が逆立った。
水面を覗き込む。
黒い靴下と丸い薄茶色の模様が入った、三毛猫がこちらを覗いている。
こんな洋風のお庭に、和猫の代表はとうてい似つかわしくなくて耳を伏せて溜息を吐きながら、噴水の縁からトンと降りた瞬間だった。
「んにゃぉう?!」
『■■■■、■■…』
いつからそこにいたのか全く気が付かなかった。
猫の感覚が死んでいる。あ、私は人間でした…元とか言いたくはない。
急に持ち上げられた視界に、真っ赤なものと白と光を反射して鈍く光る緑色の宝石がある。
気だるげに瞬きを繰り返す緑の瞳を睨みつけて、首の後の皮を掴まれている不快感に思わずその白い頬を殴った。
『■■■■』
何を言っているのか分からなかったが、不意にぞっとするような気配に包まれてざあっと毛が逆立ち、本能が尻尾を丸めて警報を鳴らす。
目の前の白い頬についた引っかき傷に爪を出していたことに気がついたけれどそれどころではない。逃げ出さなくては。
暴れてもがくもがっちりと掴まれた手は緩められる気配はなく、それどころかもう片方の手が知らぬ間に青白い光を放つ骸骨を掲げている。
「にゃぁー、にゃっ!!」
持ってるとかじゃなくて、浮いているような骸骨から夜風どころでは無い冷たい気配がする。
これは何か良くないものだ。端的に言えば、お前死ぬぞと言われた気がした。
《アルシム》
『◇◇ッ!…◆◆◆◆、◆◆◆◆』
どさっと何かの中に乱暴に放り投げられた。
また別の声が聞こえたけれど、やっぱり何を言っているかは分からない。
慌てて立とうとして狭いそこに上手くいかずに顔を壁にぶつけてひっくり返る。 上の方から、驚いたような声と低く気だるい不満げな声、そして驚いていた声が何かを話して、それっきり。
内容がわからないまま途切れた話し声に、やっと大勢を整えて顔を上げればひどく狭い切り取られた丸い天井の向こうは外ではなく石造りの屋内のようだった。
周囲を見渡して、触れる金属の床と湾曲した壁にまさかという思いが浮かぶ。
ここはもしかして、もしかしなくとも鍋の中じゃないだろうか。
このままここにいるとやばいんじゃなかろうかともう一度見上げた視界に、ひょいと水色のものが覗いた。ぱちりと瞬く金色の瞳と目が合う。
「に、にゃ…!!?」
『◆◆◆◆◆?◆◆◆◆、◆◆◆◆◆◆』
何事かを呟いたかと思えば、両手がぐわっと降りてくる。
思わず喉の奥で「ひっ」と悲鳴が上がった。猫の視界は低く、人間の手はやけに大きく感じる。反射的に尻込みをして底の隅っこにぎゅっと縮こまった体は、いとも簡単に持ち上げられてしまった。
『◆◆、◆◆◆◆◆◆◆◆』
今度は首の後ろを掴まれることもなく、そっと抱えられてそしてゆっくりと地面に降ろされる。びくびくと縮こまる背中と、耳の間を暖かいものがゆっくりと撫でていった。
恐る恐る見上げれば、水色の髪とカフェの店員のような腰エプロンをした青年が、困ったように眉を下げてこちらを見下ろしている。
どうやら労ってくれているようだと気づいて、体のこわばりも溶けてきた頃。
『■■、■■■■■■■?■■■■■■■■■■』
『◆◆◆◆◆◆◆。…◆◆、◆◆◆◆◆◆◆◆』
撫でる手の持ち主の背後から、ぬっと大きな影が現れて目の前が暗くなった。
見上げればさっきの赤い髪の男だ。
すごいでかいし、またこっちを見てるし怖い。
微かに震えて尻尾を巻きながらじりじりと距離を取ろうとするこちらと、背後の男を見て水色の髪のお兄さんは溜息を吐いて何事かを告げる。
それを聞いて少し不満げに何かを返事しながらも、赤毛の大男は少し距離を取ってあくびをしながら壁に腕を組んで寄りかかった。
『◇◇?◇◇◇◇◇◇◇?…◆◆◆』
『◆◆◆◆◆』
カタンと音がした方を見れば、この部屋の入口らしきところから、ずるずると全身に布を巻きつけた怪しい人物が中を覗き込んでいた。
思わずまたびくっとして水色の髪のお兄さんの足元に身を寄せれば、安心させるように背をとんとんと叩くお兄さんが、親しげな声で入り口の人物と話し出す。 お兄さんが平気なら、いい人なんだろうか。
赤毛の大男よりは砕けた様子で話している様を見るに、怪しげな身なりをしているが悪い人では無いのかもしれない。じっと見ているのに気がついたのか、色付きの丸眼鏡の視線がふいにこっちを向いた。
『◆◆』
『◆◆。◆◆◆◆。◆◆、◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆』
『……◆◆、◆◆』
『◆◆◆◆?◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆』
こちらを指差してお兄さんと変な布の人がやり取りをしていたかと思えば、「はあ、やれやれ」と言わんばかりの動作で、屋内にも関わらずかぶっているつば付きの帽子を直したその布の人がおもむろにこちらに向かってしゃがみこんだ。
『…、◆◆、◆◆◆』
何を言っているのかは分からないが、指先で招かれているのは分かった。
お兄さんの側にはいられないのだろうか。
不安になって水色の髪を見上げれば、困ったように金の瞳が細められた。優しい手付きで背中と言うかお尻の辺りをトンと押される。そんなところを触らないで欲しいと言いたいが、今は猫のようだから致し方ない。
「…にゃぅ」
本当に向こうに行かないといけないだろうか。
見上げて鳴けば、後ろ頭をかいてからもう一度トントンと背中を押された。
…ここにいてはいけないらしい。なんとなくしょんぼりしながら入り口の側の布の人へ近づく。
歩きながら、ふと壁際でじっとしている赤髪の大男の方をチラと見た。
「っ!!!」
瞑っていたと思っていた緑の瞳がじっとこちらを見ている。やばい、このままここにいたら今度こそ捕食されそうだ。
思わず飛び上がって、今度こそ一目散に入り口の人物へと駆け寄ってその布の中に潜り込んだ。
『■■■■、■■。■■■■■■■』
『◆、◆◆◆◆』
気だるげな声は大男の声だ。
宥めるような声は水色の髪のお兄さん。
『◆◆、◆◆◆◆◆◆◆』
なんだかいい匂いがする布にくるまって外の様子を伺っていたら、不意にその布をかき分けて伸びてきた手にあっさりと脇を持ち上げられて、気が付けば腕の中に抱かれていた。
早業だ。びっくりとして意外と居心地の良いその腕の中から、帽子の下を覗き込んでこれまたびっくりした。
ちょっと下がった眉が特徴的な、儚げな美人だった。
『◇◇っ…、◆◆。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆』
目が合うとその人はウェーブのかかった柔らかそうな髪を揺らして、驚くほどに柔らかく笑った。そしてゆったりと背中を撫でてくれる。
低い声から男性だと分かったがとても耳に優しく静かな声だ。
ここにきて、ようやく安心出来た気がする。
「にゃおう、にゃおん」
言葉は通じないけれど、優しくしてくれたから「ありがとう」と伝えた。
ついでにすりすりと撫でる手のひらに身を寄せれば、驚いたように丸眼鏡の向こうの瞳が僅かに丸くなって、そして柔らかく細められた。
あのあと、てっきり私はお家の中に入れてもらえると思っていたのだが、ところがどっこいそうは上手くいかないもので。
「にゃーぅ」
『◆◆。◆◆◆◆、◆◆◆◆◆◆◆◆』
「…にゃおーう。にゃー」
『◆◆◆。◆◆◆◆◆?◆◆◆◆◆◆、◆◆』
困った様子で足元から離れようとしない私を、庭の方へと押し出そうとする手からするりと逃げてまた足の裏の方へとくるりと回り込む。
さっきからその攻防戦だ。
お部屋に入れて欲しい。いや、屋内で風がしのげれば、それだけでいい。
だというのに、この寒空の中こんなに哀れにも不満げにも鳴いているというのに、この優しげで線の細い男性は一向に分かってくれない。
何かを喋って溜息を吐いているのは申し訳ないが、本当にちょっと玄関の隅でいいから、…いや石畳は寒いからちょっと布でも一枚いただきたいけれど!
ぐるぐると足の周りをうろついて、一向に離れようとしない私にとうとう諦めたようにその人は石段に座り込んでしまった。
「にゃ…にゃ、にゃう」
まさか、この人も一緒に夜をここで過ごす気じゃなかろうか。流石にこの展開は予想していなかったがそれは駄目だ。風邪を引いてしまう。
一変、おろおろとその体に手をかけては離し、伺うように顔を覗き込んでは耳を伏せる。
ああ、話ができればいいのに。
『…◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆、◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆』
何かを静かに話しながら、側に座った背中をそっと撫でてくれる。
「っぷし」
夜風に鼻先をくすぐられて、ぶるりと体が震えてくしゃみが飛び出た。
《サティルクナード・ムルクリード》
不思議な音が奏でられたかと思えば、ふわりと体が暖かいものに包まれる。布でもかけてもらったのかと思ったけれど、そうではなくて。
驚いたように自分の体を見渡して、その場でくるくると回り始めた私を見下ろしてまた布の人はくすくすと笑う。
よくわからないけれど寒くなくなったのなら僥倖だ。この人をこれ以上こんな寒い夜空の下に留めておく理由も無くなった。
思えばこちらを撫でてくれる細い指先が少し冷たくなってきた気がする。
「にゃお!にゃおん」
慌てて立ち上がって冷たい指先を肉球で挟み込む。駄目だ、肉球じゃあ到底温められそうにない。
ぐいぐいと座り込むその脛の辺りを鼻先や額で押し出せば、ようやくなにか伝わったらしい。ゆっくりと立ち上がるその布の端を口で掴んで、建物の方へ引っ張ればちょっと叱るような声と共にゆっくりと歩きだしてくれた。
玄関前で止まる膝下辺りに更に体を押し付けてから、ぱっと離れてひとり庭先まで戻った。
きっとこれで伝わるだろう。
「にゃーおう」
あの帽子の下で眉を下げて困っている顔を思い浮かべながら、また「ありがとう」と「おやすみなさい」を告げた。
『っ…、◆◆。◆◆◆◆』
たぶん伝わった。小さくそっと振られた指先が布の中へと消えて、その人は室内へと戻っていった。
良かった。
私も今はなぜか急にぽかぽかになった体だけど、いつまた寒くなるか分からないから、少しは風を避けられそうな建物と植木の間、草が少しだけ柔らかい場所を探し出して今度こそ目を閉じた。
よく分からない冒険をしてしまったけれど、私は仕事から帰ってきっと玄関先で寝ちゃっているんだろう。
起きたらきっと、くしゃくしゃになった服やら何やらにげんなりしながら、休日を過ごすんだ。
っていう夢を見たんだ。
そんな言葉で始まる、いわゆる夢オチだと思っていたのだが。
「…にゃ」
そっと出した声は猫の鳴き声だったし、何度瞳を閉じて開けてを繰り返しても目の前の光景は変わらない。
そこは昨晩、寝床に決めた植木の陰ではなかった。
「メェ」
目の前には何度見ても黒い顔、白いもこもこの羊の群れがいたし、何なら自分はいつの間にかその中に埋もれているようだ。もこもこに全方位囲まれている。
日差しで温まったふわふわはとてももこもこでこのまま二度寝をしたくなる。
どうして羊に囲まれているのかは分からない。
分からないけれどひとまずその謎は放っておいて、うーんと猫流の伸びをしてみればふわんと緩んだ体がぽかぽかとしてくる。
『■■』
メェメェと鳴く声を子守唄に、うとうととまどろみかけていた体が急にぐんと持ち上げられた。
ぱちくりと目を開けた眼前に、赤いものが。
「んにゃおう!!」
『■、』
反射的に猫パンチを食らわせてしまったが、ぽつりと喋る声は同じように言葉少なく低くても、その赤いものは黒縁メガネの向こうの瞳だった。それに見上げれば赤毛ではなく黒い髪をしている。
うわ、間違えてしまったと急に縮こまって耳をぺたんと下げた私に何を思ったのか、前髪の下の赤い瞳と口元が不意に不気味な孤を描く。
『◇◇◇◇っ!◆◆、◆◆◆◆◆◆◆◆』
『■■■』
足元から少し高い声が上がって、目の前の不気味な笑みがすとんと真顔に戻る。
怖すぎる。ガチガチに固まった体でうろうろと視線を泳がせれば、体がぐらりと揺れて背中が何か布のようなものにぶつかった。
そのままゆっくり手が離れていく。
私のがっちり固まった体は、背後の別の人間に抱きかかえられているようだ。
ドキドキと飛び出しそうな心臓を我慢して、そっと見上げれば柔らかな黄緑色の瞳と目が合った。にっこりと人好きのする笑顔を薄茶色の髪がサラリと縁取っている。
その目がこちらの体の強張りように気がついたかのように丸くなって、その瞳がついと前方へと向けられる。つられたようにそちらを見上げて、またびくりとした。
でかい。赤い目と黒い髪の不気味な笑顔の男性は、今はほぼ無表情だがこれまた巨人のようにでかかった。持ち上げられている時に地面を見なくてよかったと心から思う。
『◇◇!◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆、◆◆◆』
『■■■■』
ぷんぷんといった表現が似合いすぎるような声音が、目の前の巨人を責めているのが分かる。責められた巨人は、ぽつりと言葉をこぼした。
その足元ではさっきまで自分を囲んでいた羊が、もこもこふわふわと群れをなしている。
その頭や背中を撫でる手はとても柔らかく優しげだ。
…もしかしたらさっきの不気味な顔は幻覚だったんじゃなかろうか。
『○○○○!○○○○○○○!』
少し高い少年のような声に呼ばれたように、巨人と私を抱えている誰かが振り返ったのが分かる。
その先では元気な膝小僧を覗かせた茶色い髪の少年が、ひょろりと細長い青いくせ毛の青年の手を引いて歩いてくるのが見えた。
『◇◇◇。◇◇◇◇◇◇』
『■■■■■■■■■』
嬉しげに弾んだ声が頭の上から降ってくる。
巨人は何かを言いながら近づく二人を迎えて、駆け寄ってきた少年の髪をそっと撫でた。…、すごく優しげな顔だ。やっぱり先程の不気味な笑みは見間違えだったのだろう。
『○○○○○○○○○!』
『■■■■、■■■■』
こちらの声に応えるように、元気な声と少し眠たげな声が返される
親しげで和気あいあいとしたアットホームなやり取りを、何故か腕に抱かれたまま眺めていればふとこちらを向いた青いくせ毛の青年と目が合った。
オーロラだ。
どうしてかそう思ったけれど、ひどく凍てついた空の下で光る緑の光が一直線に身を貫いたように感じたのだ。
一歩近づく、その肩にかけられた上着が風にふわりとなびいて、近づくにつれて細身で分からなかったそのでかさを感じる。
『◆◆◆◆◆◆…?』
無意識に腕の中で縮こまって、その隙間に潜り込もうと尻込みした私に気がついたのだろう。私を抱く人物が訝しげに声を上げた。
『■■、■■■■。■■■■■■■■■■』
何かを諭すような声音と共に立ちはだかる壁を怖怖と見上げる。
首からぶら下げたものは何かと思えば聴診器だ。医者なのだろうか。
こんなになんか怖い気配をした医者がいたら、診察=死になったりしないだろうか。
ぐるぐると取り留めもない事を考えながら、これ以上下がれないところまで体を押し付けて縮こまる。
手が、ぐわっと伸びてきた。
駄目だ。
『◇っ!』
『○○!!』
二人の驚いたような声が重なって聞こえる。
『■』
そして、続く1音だけの低い音、そして衝撃。
猫になって初めての高い場所からの一世一代のジャンプをして地面に軽く激突する。猫のジャンプからの着地法なんて知らないのだから、仕方がない。
よろりと立ち上がって、一目散にその場を離れようとした眼前になにかがぬっと現れて私はそれに思いっきりぶつかってしまった。
ぼよんと跳ね返されてびたんと地面にまた倒れ込んでしまった。踏んだり蹴ったりだ。
しょぼしょぼと立ち上がる私を囲む8本の足、もこもこから伸びる複数の黒い細い足。そして無音。
すごく、すごく居たたまれない。
「………にゃぅ」
『●、●●●●●』
『◆◆◆◆◆、◆◆◆◆◆◆…』
そっと膝小僧が目の前に現れて、こわごわと小さく細い指先が様子を伺うように伸ばされる。
その横に、ふわりと茶色いコートの裾が広がって戸惑うような声が聞こえた。
『■■■■■■』
『■ー、■■■■■■■■■。■■、■■■■■』
上の方から低い声と溜息が降ってきて、灰色の上着と中身のない袖がふらりと視界で揺れた。
近づく指先が誰のものか分かる。怖い。
顔から少し離れたところで止まった指先はそれ以上近づいてこない。
ふらふらと誘うように揺れているそこから、不思議な草の香りがした。
『■■■■■■■■■■■■…』
《ポッシデオ》
うわんと耳が少しおかしくなったような気がしたけれど、それは一瞬だった。
体がふんわりと暖かいものに包まれる。
それは気が付けば無くなっていた、昨晩の感覚に似ていた。
これは一体なんなのだろう。
またふんふんと自身の体の様子を見て、その場でうろうろと回っていればよろめいた体が差し出されたいた指先にとんと当たって、驚いた声と共に手のひらにキャッチされる。
『■っ、■■■■■■■』
キャッチしてくれた手に押し戻されるようにその場で姿勢を直されたかと思えば、何だかやけに自信無さ気な指先がゆるゆると伸ばされてこわごわとこちらの毛並みに埋められた。
変な人だ。
すごく怖い気配をしているのに、こんなただのちっぽけな猫を怖がっている。いや、さっきまでそんな素振り一切なかったし、確かに瞳の奥を覗き込むような鋭い目をしていた筈なのだけど。
指先はびっくりするほど臆病で、何だかすごくぎこちなかった。
「あ、皆さん」
不意に人垣の向こう側から聞こえた声に、跳ねるように身を起こした。
ついでに耳が盛んにぴくぴくと動く。
だってそれは、私の知っている言葉、日本語だった。
◆アトガキ
2021.12.04
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