※必ず読んでください!※
・某朝ドラになった小説のパロディです。
ユーリとフレンという恋人たち(フレユリ)と主人公で話が進みます。
BL表現がありますので、苦手な方は読み進めず回れ右してください。
性表現があります。
・読後の苦情は受け付けません。
上記注意事項を踏まえて、自己責任で読める方のみどうぞ。
「・・っく・・んっあ・、ぁ・・」
自分は性行為になんて興味は無い、・・・とは言わないけれど。
不意に聞こえた常よりも高いその声に、ぴくりと眉が跳ね上がる。
PCの前に座ってマウスを握っていた手はしばらく止まって、そしてイヤホンを手にして耳に埋め込んだ。
お盛んね。
ただ、そうシンプルに思うだけだ。
彼らと私の距離感は、そんなあっさりしたもの。
「ごちそうさま、今日も美味しいよありがとう」
「はいはい」
にっこり眩しい笑顔を向ける相手に、お粗末さまでしたと自分も同じように笑顔を返す。
綺麗に空になった皿とコップを自分のものと一緒にして持ち上げようとすれば、さっと相手にとられる。
「いいよ、洗い物は私がする」
「いいんだ。君は今日休みなのにわざわざ僕のために早起きして作ってくれたんだから、これぐらいさせてくれ」
「・・・ありがとう」
返してもらえそうにない食器を託せば、相手はまたにっこりと微笑んだ。
カウンターキッチンの向こうに立つワイシャツ姿の男は、しわのない白シャツの袖をまくり上げて皿洗いを始める。
その姿も様になっているなあと思いながら、つい彼の座っていた席の隣に並ぶ椅子をちらと見てしまう。
その視線の先を相手も目で追ったようで、困ったような顔をする。
「ごめん。起こそうとしたんだが・・」
「分かってる」
眉根を寄せて寝室に続く扉を見る相手に、大丈夫だと頷く。
申し訳なさそうな顔をする相手に、つい言ってしまいそうな余計なひと言を何とか飲み込んだ。
昨日は随分お盛んだったものね、なんて。
言ったら最後、どこの嫉妬深い独占欲の強い女だと思われてしまうか。
全くその気は無いし、言うとしたらからかい半分、というよりからかうつもり100%なくらいなのだが。
以前、冗談のつもりで言ったらまさかの大事になりかけたので、その辺りは出来る限りつっつかないようにと肝に銘じている。
私だって、今のこの状況に何の不満は無い。
むしろとても居心地がいいくらいなのだ。
壊したくなんか、無い。
「・・全く、君が折角朝ご飯を作ってくれたっていうのに」
溜息をつく相手に微かに笑って、洗い物を終えて出てきたその手に鞄を渡す。
受け取った相手は慈しむように柔らかく目を細めて、ありがとうと言いこちらの頭をそっと撫でた。
「じゃあ、行ってくる」
「ええ、気を付けて行ってらっしゃい」
手を振る相手に手を振り返した。
扉の向こうに消えて行くスーツ姿の男。
凛々しく端正な顔立ちにスラッと均整のとれた体つき、優しくてしっかりしていて頼りがいのある、まさに理想の夫と言える。
そんな彼が、・・・私の夫。
「・・・・・」
扉の鍵をかけて、踵を返そうとした。
つ、つぅ・・。
「んっ・・・ちょっと!?」
瞬間、背中を走る感覚につい小さく声を上げて仰け反ってしまう。
何するの!?と睨みつけた相手は、すぐ横の壁に気だるげに寄り掛かったまま意味深な笑みを浮かべている。
「・・・・ふぅん?」
こちらに伸ばしていた左手をすっと戻して、腕組みをしてこちらをじっと見ている。
いつの間に起きてきていたのか、部屋の扉を開けた音にも足音にも全く気が付かなかった。
猫みたいだ。
「背筋、弱いんだ?」
「・・・からかうのは止して」
全く、起きてきたと思えばこれだ。
目を細めてこちらを見る相手の顔から視線をそらして、その脇を通り過ぎようとした。
「!!・・、何っ・・」
「昨日、聞こえてただろ・・?」
「・・!?」
腰に回された腕にぐっと抱き寄せられて慌てて相手の両脇の壁に両手をつっぱねれば、その分上半身を傾けてわざわざ離そうとした距離をまた近づけてくる。
耳元で囁くように言われた言葉に、燃えるように全身が熱くなった。
恥ずかしさより、怒りの様な不快感が先に立って迷わず壁に付いていた片手を振り上げた。
「おっと、危ないな」
「・・・離して」
振り上げた手の平は相手の頬を張るより先に、たやすくその手に阻まれる。
少し痛いくらいに掴まれた手首と、未だ腰に回されている腕から逃れようと身を捩れば、掴まれた手首に唇を押し付けられた。
「あんたが大人しくしてるなら」
吐息交じりに夜の顔で笑いながら、悪戯に手首から腕の内側に舌先を這わせてくる。
ぞくりとした感覚が背筋を震わせて、囲った腕に伝わった小さな身じろぎにまた相手は愉快そうに笑う。
「・・・言いつけるわよ」
「冗談、冗談・・・んな怖い顔すんなって」
何とか睨みつければ、相手の両手はそっと離れて行った。
肩を竦めている相手を、信じられないようなものを見る目で見上げてしまう。
「・・・・あなた、ゲイなのよね?」
「・・・・・んー」
視線を明後日の方向へ向けて、後ろ頭に手をあてている男を更に訝しげな顔で見る。
「んー、じゃないわよ。・・・本当にフレンに言いつけるわよ」
「・・わぁかったよ。・・悪かったって」
ぽんぽんと頭を宥めるように叩くこの猫みたいな男は、同居人。
そして、私の夫の恋人だ。
「ユーリの分の朝飯は無いわよ」
「・・・へいへい」
この決して安くは無いマンションの一室にて。
私は、私の夫と、その夫の恋人である「男」と一緒に暮らしている。
私と夫であるフレンとの間で性行為を行うことは無い。
行っているのは、この男同士の恋人たちだ。
立場上結婚を迫られていたフレンと出会い、しっかりとした説明をされ納得したうえで私たちは結婚した。
私は性行為・・SEXが特に好きではないしやりたいとも思わないので、今のこの状況に何ら不満は無い。
夫がいて、見た目も申し分ないその男は自分に優しく、とても大切にしてくれて稼ぎもあり生計をしっかり養ってくれている。
身体を強引に求められることも無く、私としては好条件すぎる至極幸せな日々を送っているのだ。
たとえ、世間から見てこの関係が不純なものだと判断されようと。
私たちはこれで、バランスがとれたきれいな三角形を描いている。
私は今、嘘偽りも無く、幸せだと言い切れる。
「冷蔵庫にサラダが入ってるから食べてね」
「・・・用意してあるんじゃん」
呟きながら、焼いたパンを皿に移してユーリは冷蔵庫からサラダを取り出した。
電子レンジを覗けば、案の定ラップのされたプレートが入っている。
スクランブルエッグとウィンナー2本。
自分の分は無いと言いながら、しっかり作っておいているその姿を横目に見ながら席に座った。
隣の席は空席で、すっきり爽やかな笑顔で起きだして部屋を出て行った相手を思い浮かべる。
・・あいつ、どんだけヤれば気が済むんだよ。
ちょっと痛む腰をさすれば、不意に目が合った同居人に反射的に眉をしかめてしまった。
相手はそんなこちらに嘲笑うでも何でもなく、パチリと瞬きを一つして何でも無いようにまた洗濯物を干す作業に戻っていく。
「・・・・・」
緩く肩に流れる髪を揺らして、細い折れそうな腕で上に取り付けた物干し竿にタオルをかけていく。
洗濯ばさみをつける度に背伸びをするその小さな背を、ぼんやりと眺めた。
こいつは、フレンの奥さん。
・・・んで、俺はフレンの恋人で。
「・・・・・」
肉好きなフレンのために焼いたのであろうウィンナーは、休みの日だというのにあいつのためにわざわざタコの形になっていた。
フォークの先でそれをつつきながら、フレンの嬉しそうな笑顔が容易に想像出来てまた眉をしかめた。
ブツンと、外側の皮を突き破ってフォークを突き刺せば、まだ少し暖かい肉汁がじんわりと染み出てくる。
無言のまま口に放り込んでもぐもぐと咀嚼する。
続いてスクランブルエッグを口に放り込んで・・・少し目を見開いた。
「!・・・・」
フレンは、味音痴だ。
あいつに料理を作らせると料理と言う名の殺人兵器が出来上がるので、料理をするのは奥さんであるか、俺。
んでもって面倒くさがりな俺は気が向いた時にしかキッチンには立たないので、もっぱら料理すんのは。
だから各自の味の好みをはちゃんと知っている。
フレンの実家では卵焼きは塩派だからと、スクランブルエッグは甘さ控えめで作るはずだ。
・・・とは言ってもフレンは味音痴だから、何味で作っても文句なんか言わないだろうけど。
それに対して、このスクランブルエッグはたっぷり砂糖が入っていて、甘くて・・美味い。
おそらくは自分用に味付てくれたのであろう黄色いそれをじっと見つめていれば、洗濯物を干し終わったのか空の洗濯籠を抱えたが近づいてきたのが分かった。
「・・・甘さ、足りなかった?」
「・・・・・いや、丁度いい」
「そか、良かった」
にこりと微笑んで洗濯籠を元の場所に戻しに行く、そいつの背で髪がふわりと揺れる。
思わず、溜息をついた。
先ほど触れた体、柔らかな肢体に甘い香りのする髪。
いかにも女性らしいそれらに嫉妬しながら、少し複雑な想いが沸き起こる。
「・・・・・」
フレンだって、やっぱりああいうのが良いんじゃないだろうか。
抱き心地は比べものにならないくらい、ふにゃりと柔らかくてどこをとってもふにふにと触り心地がいい。
指先に吸い付く様な肌も、鼻をくすぐる匂いも。
俺が・・・女だったら良かったのだろうか。
自分は男であることをそう疎ましく思ったこともないし、男である自分をフレンが好いてくれていることもちゃんと分かっている。
でも、夫婦のやり取りとして仲の良さげな二人を見ると、途端に疎外感を感じるのだ。
自分が女だったら、フレンと何のわだかまりも無く二人で結婚して二人きりで暮らしていたのだろう。
・・・・の存在も、必要なく。
「難しい顔してると、消化が悪くなるよ」
「っ、・・何だよ」
「はい、カフェオレ」
「・・・・・」
急に視界に飛び込んできたそいつが、つい今まで考えていた相手だったのと思ったより顔が近くてびっくりして仰け反る。
その反応に少しだけ驚いたように目を丸くしてから、ハイと片手に持っていたマグカップを渡してきた。
無言で受け取って一口飲めば、熱すぎない程度に温められたそれはやっぱり自分好みの甘い味だった。
「本当、嫌なくらい出来たオンナ」
「・・・・え?」
つい、自嘲気味の笑いが漏れれば、用事を済ませたとばかりに踵を返しかけた相手がさっと振り返った。
その顔に、はっとした時には遅い。
まじまじとこちらを見た相手の眉根がきゅっと寄せられて、ついでにその口元にも力が入ったのが分かる。
何か言いたそうに動いた口からは何の言葉も出ず、すっと伏せられた目元に影が落ちる。
そのまま逃げるように方向を変えた相手に、俺の口はまた余計なことを言う。
「言いたいことがあんなら、言えよ」
俺だって、何が言いたいのか良く分からなくなっていた。
ただ、なんとなく無性に苛ついていた。
背中を向けて一度立ち止まったは、何も言わずにまた歩き出した。
その背が角を曲がり見えなくなって、そしてしばらくしてからバンッと少し大きめな音が部屋の中に響いた。
部屋の扉が力強く閉じられた振動が床を伝わって足の裏に微かに届く。
ふっと、口元に笑みが浮かぶ。
自分ばっかり苛ついてるのが嫌で、少しつついてやったらこの反応だ。
俺も大概、嫌な奴だなと自嘲した。
甘すぎるカフェオレを飲み干して、シンクに置く。
今、少しだけきれいにとれていたバランスが崩れそうな気配がして。
不安定な今の状態をどうしたいのか、よく分からなくなった。
居心地も、状況も悪くは無い。
世間体なんか気にせずにいられるこの状態に、満足すらしている。
二人も特に問題があるようなそぶりも無く、本当はおかしいと指を差されるような関係なはずなのに気持ち悪いくらいうまくやっている。
だから、ふと突いてみたくなるのだ。
綺麗に見せているその中身は本当は違うんじゃないのか、と。
上手く取り繕っているだけで、もしかして無理をしているんじゃないかと。
俺以外がその本心ではどう思ってるかなんて、本当はよく分からなかったから。
***
バタンと大きな音を立てて扉を閉めて、ベッドに体を投げ出した。
嫌な奴。
・・・分かっていたけど。
「・・・・・・ふぅ」
うつ伏せにしていた体を仰向けにして、ベッドに差し込む光を遮るようにカーテンを閉めた。
それでも明るく照らしてくる日差しから、逃れるように両腕で目を隠した。
暗闇の中に浮かぶのは、理解のある夫とその恋人の意地の悪い笑みだ。
「・・・・・」
玄関での出来事を思い出して、眉根がまた寄る。
今でこそこの程度の悪戯で済んでいるが、一緒に住み始めた当初はそれは酷かった。
まず、こちらの存在を丸無視してきた。
フレンはちゃんと説明したのだと言っていて、あの生真面目な性格にその言葉は疑いようが無かったのだけれど、納得して求婚を受けた自分と違って相手はまだ納得がいっていなかったようだった。
射殺しそうな視線でこちらを睨みつけてきた相手の顔を、一生私は忘れないだろう。
フレンが心底愛していてその愛を一身に受けていることは明確なのに、そしてその恋人同士が引き離されないために私がその場にいるというのに。
『フレンに指一本でも触れたら、刺し殺す』
一緒に住み始めて数日後。
それまで同じ部屋で過ごしても、目線も合わなければ言葉も交わさずずっとこちらの存在なんて無いかのように無視してきたというのに。
フレンが仕事で出かけている間に、壁に付き飛ばされて初めてかけられた言葉がそれだ。
いきなり振われた暴力と痛みで沸き起こった怒りが、その言葉にすうっとおかしなくらいに引いていったのが分かった。
そうか、この男は私の夫となった男を心底愛しているんだな。
そう分かったら、何だか目の前の相手が急に可愛く思えてきた。
『!!っ、何、笑ってんだよ!!』
こみ上げてきた思いに逆らわず思わず笑ってしまったら、まあそうだろう、火に油を注いだがごとく相手の怒りは更に爆発をしたのだけれど。
首元を締め上げられて尚も笑っていたら、殺したそうにしていた目から徐々に鋭さが消えて。
力が抜けた手から首元が離されてずるずると壁を滑りその場に座り込んで、少し咳き込んだ。
見上げた先で、怒っていたはずの相手は何故か泣きそうに顔を歪ませていた。
自分だってこの変な結婚生活が上手くいくものかどうか、世間にどうみられるか本当の関係性がバレてしまったら、など不安がないわけじゃ無かった。
けれど、それ以上にユーリは不安なんだなとようやく理解した。
『フレンは、あなたのものよ・・ユーリ』
見上げた相手と視線を合わせてしっかりと告げれば、一瞬震えたようにみえた拳を握りしめて、何も言わずにユーリは背を向けた。
たぶん期間にして1か月くらいだったろうか。
その後もまるで拾ってきたばかりの猫のように毛を逆立たせて、こちらのやることなすことに一々反応して睨みつけてきて、視線が合えばすっと逸らすを繰り返す。
そのくせこちらが知らぬふりをすれば、ちらちらと様子を窺うように視線を寄越して。
口を利かない私たちにフレンが心底困っていたのは分かっていたが、こればっかりは相手の気持ち次第だなと私は大した手を打つことはしなかった。
ただただ、ユーリの分もご飯を用意し続け掃除や洗濯物をし、そして言い渡された通りフレンには触れないようにとだけ、気を付けていた。
そうしてやっと、独り言のような短い単語でやりとりを交わすようになり、徐々に視線が合うようになった。
そんなときだった。
「・・・・よっ・・と」
棚の上のものをとろうとして、椅子の上に立ち爪先立ちで指をめいいっぱい伸ばした。
指先が目当てのものが入っている箱に触れ、引っかけるようにして引きずり出す。
そこまでは良かったのだが、伸ばした手で受け止めた箱の中身が思ったより重かったのが悪かった。
勢いよく引っ張り出した箱を受け止めた体は仰け反って、そして椅子の上で爪先で立っていた体はあっけなくバランスを崩した。
「っあ・・・」
小さく上げた声を最初に拾ったのは誰だったのだろう。
ずるっと足の裏が椅子の角を滑って、咄嗟に割れ物が入っていた箱を守るように体を丸めた。
背中からガス台の上に落下する。
ガンッと鈍い音がして、そのまま掴まるものを見つけられないままに頭をまた角に打ち付け、腰を側面に滑らせて椅子とキッチンの狭い隙間に滑り落ちた。
お尻の下にフローリングの固く冷たい感覚と、誰かが慌てたように近づいてきた音。
それが誰だか分からないままに、視界は暗転した。
「っ・・僕より近くに・・・ったんだ!!」
「・・・・、・・・」
怒鳴るような誰かの声が聞こえた。
ぼんやりと浮上した意識と共に、瞼をうっすらと開く。
「骨折でもして・・・大怪我をしていたらどうするつもりだったんだ!!?」
どうやら自分は、自分の部屋のベッドに寝かされているらしい。
その傍で怒っているこの声は・・・。
「フレン・・・・・?」
そっと動かした視界の中で金髪が揺れて、すぐさまこちらを覗き込んでくる青い瞳と目が合った。
「大丈夫かい?!どこか痛いところは・・・無いわけが無いよね」
焦ったようにこちらのあちこちをさすって覗き込む相手に目を白黒させて、そしてその後ろに立っているもう一人の同居人の姿を見て、はっとして咄嗟に体を引いた。
不自然に離れた距離と、宙に浮いた手をフレンが戸惑ったように見つめる。
それに少しだけ引きつった笑みを返して、大丈夫だと何とか告げた。
本当は、後頭部も背中もひりひりと痛んでいた。
でも、ユーリの前でフレンに心配なんてされるわけにはいかないと思ったから。
だから、フレンが押し黙ったことにも気が付かなかった。
「ありがとう、心配してくれて。もう大丈・・」
「嘘だろう」
「・・・え」
「そんな笑顔で僕が誤魔化されるとでも思ったのかい」
「・・えっと・・」
怖いくらい静かで、真剣な顔をした相手にたじろいだ。
こんなフレンは見たことが無い。
どうしていいか分からずにベッドの横に立つ相手を見上げていれば、その手がすっと伸びてきた。
傷の具合を確かめようとしているのだろう手に動揺する。
ユーリが、見ている。
「!」
その手から逃げようと身を捩った肩を、ぐっと掴まれた。
もう、どうしていいか分からなかった。
強張った体はそれ以上動かなくて、逃げ出せずにいればフレンの手が再び後頭部に伸びた。
少し強めに傷を確認するように触れてきた手が打ち付けたと思われる個所に触れた。
途端に、びくりと肩を竦ませてしまう。
「・・・こぶに、なっているな。・・・・すまない」
「違う、フレンのせいじゃ・・ない」
「でも、すまない」
労わるように撫でる指先から逃れることはできなかった。
怖い。
ユーリの視線が、どんな目でこちらをみているのか分からなくて、どうしようもなくて俯いた。
「・・・・・ユーリ」
「・・・・・・」
「出て行け」
「!!?」
部屋の中に何も言わず立っていた相手に、フレンが怒りを押し殺した声で告げるのにびっくりして顔を上げた。
「この部屋からも、・・・そしてこの家からも」
「・・・ま、」
待って、と言おうとした。
何を言い出すのだろう、自分の恋人に言うセリフでは無い。
険しい顔をしたフレンと、そしてこちらを見ずに動き出したユーリの背中を忙しなく見比べる。
自分が意識を失っていた間に何があったのだろう。
こんなに険悪な二人の姿を見るのは初めてだった。
・・いや険悪なのは二人では無い。
「フレン、どうして・・・」
一方的にユーリを怒っているフレンに、戸惑いながら声をかけた。
ユーリは静かに部屋を出て行き、そして玄関の扉が開けられて・・閉まる音がする。
「追いかけなきゃ・・・ねえ、フレン・・フレンってば!!」
「っ・・あいつは、倒れた君に何もしようとしなかったんだ!!」
ぎゅっと拳を握って、目をきつく瞑ってフレンが声を吐き出す。
「僕が駆け付けるまで突っ立ったまま、本当に酷い怪我だったらどうするつもりだったのか・・・僕の奥さんだって、分かってるくせに・・・・!!!」
確かに、ユーリはキッチンが見えるリビングにいたような気もする。
「で、でも驚いて動けなかっただけかもしれないし・・」
「・・・・・。それに、君は住み始めて少ししてから僕の手を避け続けていたよね」
「っ!・・そ、れは・・」
「ユーリに言われたんだろう?僕に触れるなとか、何か。だからさっき、僕の手を避けようとしたんだろう?・・・ユーリがいたから」
「・・・・・っ」
言葉に詰まった。
違うとは、言えなかった。
こちらの顔を覗き込んで、フレンは顔を歪めた。
「やっぱり・・」
「ち、違うの」
「違わないだろう」
「でも、でもそれはユーリがあなたのことを愛しているからで!」
「・・・僕は、君のことだって大切にしたいと思っているんだよ」
絞り出すような声に、胸が締め付けられた。
そんなことは分かっている・・つもりだった。
フレンは恋人が一番大事で、でも世間体のために身代わりの花嫁となった自分のこともちゃんと好いていてくれた。
まるで本当の夫婦のように、大切にしてくれた。
そんな自分も、フレンのことは愛ではないが好きだと思っている。
一緒に暮らしても良いと思うぐらいに、信頼して心を配っている・・つもりでいた。
でも、そうか。
ユーリとの仲を尊重するあまり、神経質になっていたのかもしれない。
あからさまにしたつもりはなかったが、その手を避け続けていたのは事実だ。
そうして知らぬ間に、フレンのことを傷つけていたのだろう。
分かっていなかったのは、私だ。
「・・・フレン、私・・ごめんなさい」
「君が謝ることじゃない」
「ううん、ごめんなさい。・・・だから、行ってちょうだい」
「・・・・・・」
「私、二人とも大切なの。二人が仲良くしているのが好きなのよ、だから」
ちゃんと、ユーリを連れ戻してきてちょうだい。
困惑した顔が、それを聞いて泣きそうに歪む。
だってほら、あなたはユーリのことが一番に大切でしょう。
こんなことで、二人の仲が終わってなんか欲しくは無い。
「これじゃあ、私があなたと結婚した意味が無くなっちゃうわ」
だから、お願い。
にっこりと笑って言ったはずだったのに、ポトリと何かがシーツに落ちた。
フレンがくしゃりと泣きそうな顔で笑って、指先を伸ばしてくる。
避けずに受け入れれば、すっと目元をなぞったその指先には水滴が光っていた。
「・・・本当に、君には敵わないな」
指先に光る涙をぺろりと舐めて、そしてフレンの手が頭をそっと撫でてきた。
次に近づいてきた顔にはさすがに驚いて、でも仰け反る間もなく米神に柔らかく触れたものがあった。
「・・目が、真ん丸。そんなところも可愛いよ、僕の奥さん」
「っ!?・・フレンっ、ふざけてないでさっさと行ってちょうだい!」
「はいはい」
ちゃんと安静にして、何かあったらすぐに僕の携帯に連絡するんだよ。
だいぶ強く打っているようだから、動き回らないこと。
部屋を出て行ったと思ったらすぐに戻ってきて、大丈夫だと言っても聞かずに無理やり寝かしつけられた上に、くどくどと小言のように言い聞かせてくる。
不器用な手つきで氷嚢を作ってくれて、そうして「行ってきます」と扉を閉めて行った。
「・・・・・」
家の中に静けさが満ちた。
振り返した手をベッドの上に落とす。
フレンのことだ。
長い付き合いのはずのユーリの行き先に何処か目星を付けているのかもしれない。
思ったよりは慌てずに、でも少し早足で出て行ったその背中を見送った目をそっと閉じた。
熱では無いのに、額に置かれた氷が愛おしい。
すぐにでも追いかけて探しに行きたいだろうに、自分の怪我を心底心配してくれるフレンのことが、愛おしい。
でもそれはやっぱり、愛ではなくて。
「・・・・・」
額に垂れ落ちてきた滴を拭って、そして薄暗くなった部屋の中でそっと身を起こした。
熱を持つ背中と、少しくらりとする頭を支えて立ち上がり、クローゼットを開ける。
また、フレンを傷つけてしまうな。
怒るかな。
でも、こんなことになってしまったのだ。
いくらフレンが連れ帰ろうと、きっとユーリは気まずいだけだろう。
怒鳴られていたユーリの顔をぼんやりと思い出そうとする。
結局、部屋を出ていくときの何の感情も浮かんでいない静かな顔と、その顔を覆い隠すようになびく綺麗な黒い髪しか思い出せなかった。
ユーリにだって、あんな顔をさせたいわけがない。
自分に向けられることは無いけれど、フレンに向ける色んな表情。
笑う顔、拗ねた顔、勝ち誇ったような顔・・・。
ユーリもまた整った顔立ちで、そうしてころころと変わる顔や時折見せる妖しげな顔はとても魅力的なものだった。
「もっと、話してみたかった・・かな」
恋人同士、二人にはもっと笑っていて欲しい。
二人が目を合わせないような仲には、なって欲しくなかった。
「・・よし」
着替えて最低限の荷物を手早く整えて、部屋を出る。
素敵な旦那と、猫みたいなその恋人と。
短かったけれど、3人で過ごした部屋とはこれでお別れだ。
「ごめんね。・・・二人とも、お幸せに」
玄関の扉を開けて、閉めて。
鍵をかけた。
その鍵を郵便受けの中に滑り込ませる。
カチャンと、思ったより軽い音が、胸の中に重さを増して響いた。
「・・・・っ、ユーリ!」
息を切らして、自分を呼ぶ声が聞こえる。
やっぱりばれたか、と思う反面、部屋に奥さんを置いて来たのかと驚く。
夜の公園の、塔の形をした遊具の一番上。
滑り台に投げ出した爪先の脇に、こちらを見上げて荒い息を繰り返す相手を見下ろす。
「・・・・何で来たんだよ」
全く来ないとは思わなかった。
だからフレンも知っている、幼馴染同士二人で良く遊びに来た公園に来てしまったのかもしれない。
「・・・出て行けなんて言って、悪かった」
「・・・・・」
相変わらず、堅苦しい奴。
90度直角に上半身を倒して謝る相手を無言で見つめる。
「怒ってたんじゃ、無かったのかよ」
「ああ、怒っている」
「・・・・だったら」
もう良いから放って置けよ、と続けようとした。
「でも、やっぱり君のことが好きなんだ!」
いきなり大声で言いやがる相手に、うっかり足を滑らせそうになった。
薄暗くなったとはいえ、ここを何処だと思ってんだ。
誰もいないようには見えるが、ここは公園で、公共の場だ。
誰が見て聞いてるか分かったもんじゃねえってのに、こいつは・・・。
「馬鹿か、お前・・」
「ああ、馬鹿でも何でも構わない。僕は君を愛している、ユーリ!」
「・・・・本当に・・お前な・・」
呆れて口元が引きつった。
出て行けと言われたことも、その前の出来事も吹っ飛んでしまいそうになる。
片手で顔を抑えて深い深い溜息をついていれば、何を思ったのかスーツ姿のままフレンが遊具を上ってこようとしているのが視界の隅に入った。
そういや、帰ってきてすぐにあれだったのか。
「そこから動くなよ、ユーリ」
「・・・奥さんは、どうしたんだよ」
息を少しだけ切らせながらも辿りついた相手のスーツについた汚れを惰性で払ってやれば、ぐっと首元に腕が回されて抱きしめられる。
目の前にスーツの胸元が押し付けられて、目の前が真っ暗になった。
というか、息が出来ない。
「ちょ、フレン・・苦し・・離せよ」
「離しても、どこにも行かないかい」
「・・・分かったって。いかねーよ、だから離せ」
ゆるゆると腕が解けて、その両手に頬を包み込まれる。
「・・冷えてる・・ごめん」
「話を聞けって」
夕暮れの風に吹かれてた分、冷えた頬にその手は確かに温かかったがそれより前に確認すべきことがある。
「お前の、・・奥さん!・どうしたんだよ・・大丈夫・・だったのか」
自分が言える立場では無いことは分かっていた。
倒れた姿が眼裏に浮かび上がる。
血こそ出ていなかったがぐったりと横たわったその小さな体に、恐怖の様なものを感じて近づけなかったのは確かだった。
・・フレンは、俺があいつを避けていたことを知っているし、あからさまに嫌悪していたから。
いつかその身体を突き飛ばした時の感触を忘れることは無かった。
細くて折れそうな手足、華奢で軽い肢体。
あんなに大きな音がしたのだ、最悪の事態も考えられた。
でも、動けなかった。
自分がやったと思われるかもしれない、ってのもある。
でもそれより、もし今こいつが死んだらどうなるのだろうと、そう考えてしまったから。
結婚した事実は残る。
もう他に奥さんを見つける必要は無い。
そして俺たちは・・二人で暮らすことが出来るかもしれない。
「家で、安静にさせて・・・そして僕と君の帰りを待ってる」
「嘘だ」
「嘘じゃない。僕に、君のことを追いかけるように言ってくれたんだ」
「・・・・・」
「・・ユーリ」
「・・最低な奴だって、思ってるだろ」
「ユーリ」
「自分でも最低だって、分かってる・・・・わるかっ」
「ユーリ!」
遮るように呼ばれた声に、知らず俯いていた顔を上げる。
「それを言う相手は、僕じゃないだろう」
「あ・・・、ああ・・そうだな」
「良かったな、彼女ならきっと分かってくれるし、ちゃんと聞いてくれるよ」
「・・・そうかよ」
「生きててくれた彼女に・・・僕の奥さんに、感謝するんだな」
「・・・ああ」
彼女と一緒に暮らし続けて、少しずつ相手のことが分かってきた。
確かに彼女なら、話をきっと聞いてくれるだろう。
でもそんなに信用してるのかと思えば、ちょっとだけ・・ほんのちょっとだけ嫉妬心がまた湧き上がる。
さあ、帰ろうと差し出された手に思いっきり自分の手の平を打ち付けた。
バチンと音がして、痛っとフレンが呻く間に滑り台を滑り降りる。
「待てっ、ユーリ!」
「ああ、はいはい。ちゃんと待っててやるって」
慌てたようにスーツ姿で滑り台を滑り降りて追ってくる相手に苦笑する。
スーツ、くしゃくしゃだな。
きっと彼女は苦笑いをしてそれをクリーニングに出すのだろう。
そんな生活も、悪くはないかと小さく息を吐いた。
「ちゃんと、謝らなきゃな・・」
家の中は、不自然な程に静まり返っていた。
そのことに先に靴を脱いで部屋に上がったフレンは気が付かないようで、ただいまーとそっと中の方に声をかけている。
相手が寝てしまっているとでも思っているのだろうか。
でも、何だかどこにも人の気配が感じられず訝しげに眉根を寄せた。
「おい、フレン・・・」
言いかけて玄関を彷徨った視線が違和感を確実にする。
の、靴が無い。
ついでに後から玄関に入り、扉を閉めようとしたユーリの耳に小さな金属音が響いた。
扉を動かしたことで、郵便受けに入っている何かが音を立てたようだった。
急いでその蓋を開ける。
「?どうかしたのか、ユーリ」
「・・おい、これ」
取り出したものを見せれば、フレンの目が見開かれる。
この家の、鍵だ。
俺とフレンと、そしてフレンの奥さんであるが持っていたはずの鍵。
それがここにあるということが、何を示すのか。
俺もフレンも分からないわけが無かった。
「・・・出て行った・・ってことか・・」
呆然とお互いの顔を見つめて、そして弾かれたようにこちらに向かってそして閉めたばかりの扉をフレンが開ける。
「っておい、あいつがどこに行ったのか分かってんのかよ」
「分かるわけが無いだろう!」
「ちょっと、落ち着けって」
「これが、落ち着いていられると思うのか!?何処かで倒れているかもしれないんだぞっ」
頭を打っていたのに無理に動いて、そうならない保証は無い。
取りあえず落ち着けと言ってから、そのスーツのポケットから携帯を奪い取る。
「まずは、奥さんの実家とか知り合いに電話して確認しろ」
「・・・っ」
「周辺は俺が走ってくる。お前の方が向こうについて詳しいだろ。知人とか仕事先の奴とかあいつを知ってる奴なら誰でも、片っ端から連絡しろ」
「あ・・ああ」
「但し、本当のことは・・・言うなよ」
「でも、ご両親には・・・」
「大切な娘さんが出て行ったと聞かされて、どうなるか・・分かってんだろ」
「だがっ」
「どうしても見つからなかったら、だ。それまでは、喧嘩したとか言ってごまかしてそっちに居ないかだけ確認しろよ」
俺だって、大ごとにはしたくない。
「絶対、探し出して・・今度こそ、ちゃんと謝るから」
「・・ユーリ」
「だから、それまでは・・」
「分かった。お互い、最善を尽くそう」
しっかりと頷いた相手の顔を見て、もう大丈夫だろうと分かる。
頭は固いが、そこらへんはきっと上手くやるはずだ。
さっきと違う理由でもって部屋を追い出される。
帰る道で、ぽつりとフレンが言った言葉が思い出された。
『僕たち二人が大切だから、ちゃんと連れ帰って来いと言ってくれたんだ』
大切だなんて、嘘だったのかよ。
フレンに嘘ついたこと、謝らせてやる。
・・・って、その前に自分か。
夕暮れはとっくに過ぎ去って夜に包み込まれていく街中を、少しの人影も見落とすものかと走り抜けた。
思ったよりズキズキと痛み始める頭を早々に持て余してカフェに入って、取りあえず温かい飲み物を頼んで席に座る。
それから、これからのことを考えながらぼうっと肘をついていれば、いつの間にか転寝をしてしまっていたようだ。
片手で握っていたカップの中身は、もうとっくに冷えていた。
閉店なので、と申し訳なさそうに告げる店員に慌てて頭を下げれば、またぐらりと視界が回る。
よろけた体を何とか椅子を掴んで支えて、びっくりした様子でおろおろと手を拱いている店員さんに再度頭を下げ、逃げるように店を出た。
実家には戻れない。
今頃、戻っているかもしれないフレンと・・そしてユーリに、家を出たことはばれてしまっているだろう。
ユーリはあれで目敏いというか、小賢しいというか。
狼狽えているフレンと、冷静にアドバイスするユーリの二人の姿が何となく想像できた。
フレンの性格上、自分のことを探し出そうとするのをユーリが宥めて、そして止めてくれたらいいのに。
・・・取りあえず、出てきてしまったからにはもう戻れない。
居場所も気持ちも落ち着いて、そうしたら連絡を入れるからそれまでは何処か見つからない場所に。
「・・・どこか」
取りあえずは、痛む頭を休ませたい。
それがましになってから、また行先を考えればいい。
財布はちゃんと持ったしカードも入っている。
取りあえずネットカフェでもカラオケでもいいからどこか手短なところと考えて、夜の街をふらりと歩き続ける。
その目に、ホテルの文字が映る。
ホテルの方が静かでいいかもしれない。
まあ、このホテルはラブホだから他に、どこか・・・・。
ゆっくり休みたくて、この近くにどこかホテルがあっただろうかと踵を返しかけた。
「っ?!」
「興味、あるの?オネエサン」
その手首をぐっと掴まれる。
ねっとりとした声。
背後の見知らぬ男の存在に、すっと血の気が下がった。
「俺と一緒に行ってみない?」
「いいです遠慮します、離してください」
「まあまあ、そんなつれないこと言わずに、さ」
さ、じゃない。
こんなことなら、さっさとカラオケでもなんでも入ればよかった。
自分の迂闊さに後悔しても、大の男の力に敵うはずもない。
手首を外そうともがけば、もう片方の手首もまとめて掴まれた。
ひっ、と喉の奥で悲鳴が上がる。
「脅えた顔も、かわいいねぇ」
ずるずると路地の暗がりに引きずり込まれる。
その道の両端にはいかがわしい色をしたネオンを光らせる建物しか無い。
もがいて叫ぼうとした口元にすぐさまもう片方の手が覆いかぶさった。
口元に当てられた汗ばんだ手の平に嫌悪感を覚え、鼻と口を塞がれていて息が苦しくて喘ぐ。
頭の痛みと相まって、意識が朦朧としかけた。
「何だ、もう抵抗はやめちゃったの?つまんねーな」
言いながらも引きずる手は離れず、下卑た笑いが耳元を犯す。
手首を絡め取って、ぐったりとしかけた背中をぐいぐいと押してくる密着したその体が気持ち悪い。
突っぱねる爪先から徐々に力が抜けて、足がもつれてその場に座り込んでしまえば舌打ちが降ってきた。
「おいおい、もう自分の足じゃ歩けません・・ってか」
仕方がねえなとしゃがみ込んで、持ち上げようとしてくる男の体を残った力を振り絞って突き飛ばそうとした。
途端、側頭部に衝撃が走る。
バンッと、音というより振動が脳を揺さぶって目の前が真っ赤に染まった。
「手間かけさせやがって!!」
もはや声も出ない腕を強引につかんで立たせようとする。
その男の体が、不意に視界から消えた。
しばらくして、どさりと重いものが地面に落ちる音が聞こえる。
見えないし、分からなくて両腕で己の身体を囲ってそのまま身を出来る限り縮こませる。
目をぎゅっと瞑って、出来るなら耳も塞いでしまいたかった。
自分の吐く息の音と、鼓動がうるさい。
何が起こったか分からないけど、もう動けないし何もしたくない。
「・・・おいっ」
「やっ!!!」
肩を掴んだ手を咄嗟に振り払った。
触らないで、話しかけないで、やめて放っておいて・・触らないで。
「おい、あんた・・」
「やだっお願いもうそれ以上近づかないで触らないで、来ないで!!」
「・・、・・・」
「!!っ」
名前を呼ばれて肩がビクッと跳ねあがる。
「」
もう一度、今度はそっと確認するように名前を呼ばれて、おずおずと顔を上げた。
名前を呼ばれたことなんか、無い。
そんな間柄じゃないと思っていた相手の顔が、思いのほか近くにあって恐怖で喉が引きつって変な声が出た。
「・・」
伸びてきた手に、反射的に首を竦めて目をぎゅっと瞑った。
それからしばらく経っても、体に触れてくるものは無い。
そっと目を開けて様子を窺う。
相手は変わらずそこにいてじっとこちらを見ていて、またビクリとした。
「悪かった・・・ちょっと待ってろ」
そう言って、おもむろに着ていた上着を脱ぎだす。
それはふんわりと風をまとって、頭から蹲る爪先までを覆い隠した。
目の前が暗くなって、そしてやっと何だかほっと息を吐けた気がした。
そのままじっとしていれば、暗がりの向こう側で何か話す声が聞こえる。
ユーリが、まさか来てくれるなんて思ってもいなかった。
被せられた上着はぬくもりが残っていて温かい。
このほんのり鼻腔をくすぐる匂いはユーリのものかと思えば、何だか居たたまれない気持ちになって小さく身じろいでしまう。
不意に背中に何かが触れた。
びくっとして離れようと身じろげば、今度は頭の上に微かな重みが乗せられる。
首を竦めれば、柔らかくぽんぽんと叩いて、それからゆっくりと撫でられた。
労わるような触れ方に意外さを感じつつじっとしていれば、そっと小さな呟きが耳に届いた。
「悪かった」
「・・・・・」
「倒れたあんたに何もしなくて、悪かった」
見ていて危ないとは、思ってた。
でも、もう少しで取れそうだったから、手を貸すほどでは無いと思った。
そんで・・・倒れたあんたを見て、最低なことを考えてた。
「・・・・・ユー、リ」
「フレンにも散々怒られた」
「・・・」
「・・・・・ガキっぽいことしまくって、本当・・どうしようもねぇな、俺」
謝って済むことじゃねえし、許さないってんなら俺が出ていくから。
「ユーリ」
「もうすぐ、フレンが来るってよ」
「ユーリ、来てくれて、ありがとう」
言うだけ言って、すぐに話をそらそうとする相手の名前を繰り返し呼ぶ。
暗がりの中、頭の上の温もりにそっと動かした自分の手を触れさせる。
すぐさま離れて行こうとする手を、その小指の先を何とか握った。
「どこにも行かないで、あの家にいてちょうだい」
「・・・・・」
「フレンを愛してあげて。私じゃ愛してあげることは出来ない・・あなた以上には、とても」
「・・・」
「信じてくれなくても構わない、でも言わせて。私、二人が好きなの。二人が幸せそうにしてくれれば、それで」
「何だよそれ、・・・・むかつく」
「・・・・」
「・・むかつくほど出来た、嫌な女だなあんた」
「・・・・・ユーリ・・」
「俺も嫌な奴だって、もう分かってんだろ。案外、気が合うかもしれねぇし・・・もうちょっと一緒に暮らしてみねえ?」
掴まれた小指は振りほどかれることは無く。
どこか探るように、どこか決まり悪そうにしながらも言葉を紡ぐその内容に、かけられた上着の中で目を見開く。
「い、いいの?」
「・・・何だよ、嫌なら嫌ってハッキリ・・」
「ううん、そんなことない、嫌だなんてこと・・・私もあなたのこと、好きになれそう」
「・・っへ?いや、俺そこまでは言って無い・・」
「・・・二人とも、僕がいない間に随分と仲良くなってるみたいだね」
どこからか聞こえてきたその声に、思わず見えぬ視界の中びくりと肩が跳ねる。
何故かユーリもびくっとしたのが、小指を通して伝わってきた。
そのことに首を傾げる間もなく、今度こそ小指が振りほどかれる。
「・・・・、遅くなって悪かったね」
「あ、ううん・・・来てくれてありがとう、ごめんなさ・・やっ?!」
急にぐらりと体が揺れて浮遊感に悲鳴を上げる。
「その謝罪は、帰ってから聞いてあげるよ」
「あ、あの・・フレン・・?」
「こんなに体を冷やして・・・しかもユーリの上着に包まってるなんて・・」
「え、ええと・・・」
「まったく・・・どっちにヤキモチ焼いていいのか分からないじゃないか」
ふう、と盛大に溜息をつきながらフレンが歩き出す。
「明日が休みで良かったよ」
「・・・・・」
「・・・・・」
「今日の反省会をしなくちゃならないからね。ああもちろん、は安静にしていて欲しいし、君の部屋にお邪魔してもいいかな」
「・・・・・ええと・・」
「あっと・・・フレン・・?」
「僕たちがちゃんと仲良くやっていけるよう、一度じっくり腰を据えて話し合わなきゃいけない。そうだよね、二人とも?」
「・・・・・」
「ユーリ?」
「・・・ハイ」
「は?返事」
「・・・・はい」
快い返事が聞けて良かったよ、と締めくくるフレンの声を最後に、家に着くまで恐ろしいまでの沈黙が続いた。
ぐっとこちらの身体を抱えるフレンに、少しだけ恐怖を感じたのは気のせいでは無かった。
***
怪我からの発熱でしばらく起き上がれずにいた私の看病をフレンが買って出て、しかしその病人食に半殺しにされそうになった衝撃も一生忘れない。
慌てて料理担当を代わったユーリによって、私は何とか死地を乗り越えたといっても過言ではない。
フレンに料理だけはさせるなと初めてまともに顔を合わせて会話したユーリは、怖いくらい真剣な顔だった。
怒ったフレンがその怒りを料理としてぶつけてきたのではないことが分かってほっとしつつ、その味音痴さに戦慄を覚えたものだ。
そして、気力と体力がようやっと戻ってきた頃に、二人並んで正座をさせられてこんこんと、それはもう立てないくらい長時間のお説教されたのだった。
そんなゴタゴタをきっかけに、私とユーリの距離はそれはもうびっくりするくらいの速度で縮まったといっても良かった。
但し最初の距離が遥か遠かった分近づいたというだけで、いまだに仲良しという程には至っていない。
あくまで同居人として認められたというぐらい。
「・・・・・・」
フレンを怒らせると怖いことは、ユーリの方が良く知ってるくせに。
それこそ、私よりうんとその付き合いは長いのだから、尚更なはずだ。
だというのに、セクハラ紛いの戯れをしかけてきては、こちらの神経を逆なでするようなことを愉しげな顔で言うのだ。
本当に言いつけてしまおうか。
「・・・・・はぁ」
深い溜息を吐いた。
止めよう。
今の状況が良いなら、わざわざ波風を立てる必要は無い。
ばれない様にユーリがやっているなら、自分もばれない様にするしかないのだ。
ユーリの真意を図りかねている以上、いたずらに突っつくことはしたくない。
リビングのソファに仰向けに寝転んで、日差しの明るさから隠れるように片腕を顔の上に置いた。
暗闇の中で思い浮かぶのは、俯いたの顔。
きゅっと引き結ばれたその口元。
「・・・・・」
何か言いたいことがあるのに、我慢してるようにしか見えない。
我慢して飲み込んで・・・それで・・?
この先もそうやってずっと生きていくつもりなのだろうか。
『信じてくれなくても構わない、でも言わせて。私、二人が好きなの。二人が幸せそうにしてくれれば、それで・・・』
それで、本当にお前も幸せなのかよ。
いつかの言葉に問いかける気持ちは、素直に口に出すことなんて出来ずに歪んでいく。
「・・というわけで、折角の週末なんだけど明日から出張に行くことになった」
「・・・・ほんと、急だな」
ユーリがフォークにパスタを巻く手を止めて、眇めた横目でフレンを見ている。
その視線を少し困った顔で受け止めつつ、仕方ないだろうとフレンは言う。
「問題起こしたやつらだけでどうにか出来ねーのかよ」
「僕が行った方が、穏便に済むならそれに越したことは無いよ」
「3日間でどうにか出来そうな話なの?」
取りあえずと与えられた3日間で、問題とクレームは収束出来るものなのだろうか。
私も思わず食べる手を止めて聞けば、フレンはにっこりと微笑んだ。
「どうにかしてみせるよ。・・可愛い恋人を今以上に拗ねさせたくは無いし、可愛い奥さんにも心配させたくは無いしね」
「「・・・・・」」
そういうことを、真顔でさらっというのがフレンという男だ。
フレンの横でユーリの半眼になった目と、ちらと視線が合う。
おそらく私もそこまででは無いが、少し・・いや大分呆れた目をしてしまっているのだろう。
ユーリが視線を逸らして、深い溜息を吐く。
「誰が拗ねるかよ」
「拗ねてくれないのかい?」
「・・はぁっ?!」
天然な夫と、素直じゃない恋人のやり取りは見ていて面白いが、それならそうでやらなければならないことが出来た。
残りのパスタを取りあえずそのままに、席を立つ。
「?」
「旅行鞄は、少し大きめのあれで良いわよね」
「!いいよ、大丈夫。準備くらい僕だけで出来るから」
慌てて立ち上がろうとする相手を制して、笑顔を向ける。
「明日、朝早いんでしょう?夕飯ぐらいゆっくり食べて、しっかり休んで」
着替えなどは自分でやってもらうとしても、洗面道具やタオルといった最低限の日用品の準備ぐらいは手伝える。
むしろそれもせずに奥さん、なんていう立場にいるなんてこと、それこそ出来なかった。
別段、強迫観念にかられているわけではない。
私も、ユーリには負けるがフレンのことが好きだから。
彼のために何かしてあげたい、ただそれだけだった。
ガタン
「?・・ユーリ?」
「ごちそーさん」
急に荒く椅子を引く音がした。
振り向けば、少し怖い顔をしたユーリが食べ終わった皿とコップを持ってキッチンへと歩いていく。
椅子に座ったまま、そんなユーリの姿を少し唖然とした顔で見ているフレンと目が合う。
お互いに、小さく首を傾げた。
急に機嫌が悪くなった様子のユーリにフレンも戸惑った様子で、私もまた、何かやってしまったのだろうかと思うも、何も分からなかった。
押し黙ったままさっさと食器を洗って片付けて、足音も荒く部屋に戻っていく。
扉がバタンと閉められた音がした。
「・・どうかしたの?」
「・・分からない、けど・・」
困ったように眉を下げる夫である男に、苦笑を返す。
食べ終わった食器を取り上げて、目線で促す。
後はやっておくから、恋人のところにいってあげて、と。
「・・・っ・ごめん」
そうして慌ただしく席を立ちながら、小さくありがとうと呟いて頭をそっと撫でられる。
へそを曲げたユーリを宥めるのは、もちろんその恋人であるフレンの役目だ。
明日から出張で、もしかしたら予定の3日間からさらに伸びることもあるかもしれない。
離れてしまうならなおさら、仲直りできるのは今のうちだ。
それに、機嫌の悪いユーリと二人きりで数日間過ごすのは、さすがの私も回避したい。
「頼んだわよ」
言えば、にっこりと微笑み返してくれる。
そうして踵を返すフレンを見送る。
その背中が消えて行った扉が、パタンと閉まる。
「・・・・ふぅ」
この分なら、大丈夫だろうか。
何でいきなりユーリの機嫌が急降下したかは、本人に聞いたってどうせ答えてはくれないだろうし、出張から帰ってきた後にでもフレンにこっそり聞こうと思う。
恋人を愛する隙間にでもちゃんと私のことも見てくれるフレンに、それだけで私は幸せだと思える。
あれも持った?これは忘れてない?と、少しバタバタとした朝を越えて、フレンは無事に出かけて行った。
今日から、最低でも後2日間。
フレンが出張で居ない。
「・・・・・」
思えば3人で一緒に暮らし始めてフレンがいない、ユーリと二人きりの夜を過ごすことなんて初めてだ。
フレンは、たとえ会社の誘いで飲みに行ったりして最終電車を逃しても、タクシーできちんと帰ってきた。
ユーリは普段何をしているのか、時折ふらりと出かけて夜が遅いことも無くは無かったが、意外にもちゃんと帰っては来る。
何度か外泊をしてきたこともあるが、それはきちんとフレンに報告をしているらしい。
何も言わずに外泊なんてした日にはフレンの説教が待っていることを、長い付き合いのユーリは良く知っているからだろう。
外泊の報告をフレンから聞いている私も、夕飯を作ったのに余ってしまったということはほとんど無い。
つまり、ユーリなしで過ごした夜はあっても、フレンなしの夜は過ごしたことは無かったのだ。
さて、どうしたものか。
正直、少しばかり不安も無くはない。
昨日の機嫌の悪さは一応収まってはいるようだが、と洗濯を始めながら何気なくソファでぼおっとしているユーリの様子を探る。
「・・・何だよ」
さりげなく見ていたつもりが、バレバレだったようだ。
誤魔化すことは諦めて視線を合わせれば、少し眉根が寄っている。
やはり、まだ少し機嫌は悪いらしい。
「今夜はユーリの好きなものでも作ろうか?」
「・・・いらねえ」
当たり障りない質問で間を繋いでみたが、思いがけない言葉が返ってきて驚いた。
「?・・ユーリも、出かけるの?」
「出かけちゃ悪いのかよ」
「・・そうじゃ、無いけど」
思わず言いよどんでしまった。
寂しいと、思ったわけでは無いと思おうとして、ふとガランとしてしまう静かなこの部屋の光景を思い出していた。
フレンがユーリに出て行けと言ってユーリが何も言わずに出て行って、そんなフレンに追いかけてちょうだいとその背中を追い出した。
その後の、自分だけが残されたこの部屋の中の静けさを、何となく思い出していた。
フレンは仕事で出かけているし、自分もパートのようなものだが仕事がある。
思えば、昼間はユーリだけの時が多く、仕事から帰ればユーリも出かけて部屋には誰もいないことだって少なくは無い。
それでも、夜になれば二人とも帰ってきてくれるから。
「・・・、そうじゃないけど・・なんだよ?」
重ねて問われて、答えに詰まる。
一人きりにはこの部屋は広い、とあの時感じた思いがふつりと胸の内に浮かんでじんわりと広がる。
だからと言って、それを素直に言うほど自分は子供ではない、はずだ。
ましてや、相手がユーリなら、・・なおさら。
「あんたって、いっつもそうだな」
「・・・、え?」
不意に聞こえた、怒ったような低い声。
気が付けば俯いていて、持ち上げようとしていた洗濯籠に落としていた視線の上に、いつの間にか影がかかっている。
慌てて見上げた先に、光を遮って顔に影を落とすユーリがいる。
暗がりの中、二つの宝石みたいな瞳がじっとこちらを睨みつけてくる。
「・・・いつもって・・」
「何か言いかけて止めるだろ。それ、うざい」
「・・・っ」
「結局言わないなら、言いたそうにすんな。言いたいなら、さっさと言えよ」
「なっ・・」
思わず、睨み返してしまった。
色々と言いかけて、結局言わずじまいのことは良くある。
だがそれも考えた末のことで、余計なことは言わない方が良いと飲み込んできたものだ。
「勘違い、しないで」
「はっ・・俺が何を勘違いしてるってんだよ」
「貴方のためじゃない。私は・・私のために言わないと判断してるだけで」
あなたにそんなことを言われる筋合いは、無いと。
そう言おうとすれば、ぐっと眉根を寄せた相手の顔が急に近づいて、びっくりして下がろうとした体はベランダに続く窓に突き飛ばされるように抑えつけられた。
ダンッと窓ガラスが鈍く振動する。
顔の脇に置かれた拳が、その音を鳴らしたのだと遅れて気が付いた。
「・・・俺には関係無いって?」
「・・ユー・・リ」
「他人に等しい俺には、あんたにそんなこと言う権利なんてねーってか?」
「・・・、そんなつもりじゃ」
そんなつもりじゃないと反射的にそう返そうとして、でも言えなかった。
さっきの自分のセリフは、そう言ったも同然だ。
自分たちは、何だかんだで丁度良い距離感を保てていると思っていた。
近づき過ぎず、拒絶し過ぎず。
でも、それはフレンを間に挟んでいて、保っていられた距離だったのだろう。
「・・あいつがいないと、こんなにも脆いもんだな」
「っ」
思ったことを言い当てられてその瞳を凝視した。
そして、やっと分かる。
言い当てられたのではなく、相手もそう感じていたのだと。
私たちは反発しあい背中合わせに立ちながらも、目の前の鏡の隅にお互いの姿を探り合っていた。
「・・・・なぁ」
急に、ユーリの纏う気配が変わる。
それに驚く間もなく、するりと腰に手が回されて引き寄せられる。
慌てて逃げ出そうとする体は、見た目に反して力のあるその胸元にぐっと抱き込まれてしまった。
鼻腔に届くユーリの香りに、体中の熱が急激に上がる。
「やっ・・」
「・・・本当に?」
何かを確かめようとする手が、腰元を探って撫で上げて背筋から首筋へとゆっくり這い上がっていく。
髪の隙間を縫って項をくすぐるように指先が往復する。
驚愕にそれ以上声も出せないでいる内に、腰を抱いていたもう一つの手が尻の上に伸びて、服の上から持ち上げるようにやんわりと揉まれ、やっと意識を取り戻した。
「何っしてるの・・・離して、ユーリ!!」
「・・嫌だ」
目を、見開く。
てっきり意地の悪そうな笑みを浮かべているだろうと思っていたのに、見上げた先のユーリの顔が怖いくらいに静かなもので、また体が固まった。
何を、考えているのだろう。
感情の浮かんでいないその顔を凝視することしか出来ない。
何も、分からない。
「はな、して」
「離さない」
体が小さく震えだす。
それが、ユーリから与えられる刺激からだとは思いたくなかった。
「・・お願い」
「・・・・・」
「ユーリ・・」
恐怖がこみ上げる。
見上げていたユーリの顔が、くしゃりと歪んで不意にその手から力が抜ける。
よろめくようにその腕から逃げ出して、ガタリと鳴る窓ガラスに縋りつくようにもたれかかる。
小さく上がる自分の息が、ガラスを曇らせるのを泣きそうな気分で見た。
顔を上げて、でもその瞳は見ないままに、思いきり右手を振り上げた。
バチン
ユーリは、避けなかった。
打った手の平に即座に熱が集まって、ひりひりと痛みだす。
叩かれたユーリの頬もそうだろうと思うも、もうそれ以上目の前の相手のことは考えられなかった。
顔も見ずにその脇を通り過ぎて、何とか部屋の扉を開けて閉じてベッドに倒れ込む。
こんなこと、最近もあった気がする。
なのに、何故かその時とは何かが違ってしまっていると、分かっていた。
分かってしまっていた。
「・・・馬鹿っ・・ユーリの・・ばかっ!」
呻くように枕に縋りついて、出てきた嗚咽をこらえる。
それでも溢れ出す涙は止まらずに、枕を濡らしてその色を濃くしていった。
「・・・・・」
叩かれた頬がひりひりと痛む。
のろのろと持ち上げた手の甲を押し付けて、視線を床に落とした。
今さらながらに、後悔が胸にこみ上げる。
でも、やらずにはいられなかった。
今度こそ、その飲み込み続ける言葉の先を言わせたかったのだ。
吐き出させたかった。
「・・・上手く、いかねえな」
へたくそな自分に反吐が出る。
ただ確かめたかった、それだけだ。
でも恐怖に脅えてこちらを拒絶する姿に、今日こそはと思った手は止まってしまった。
あんな顔を、させたい訳じゃなかった。
本当に、知りたかっただけなのだ。
「情けねえ・・」
さて、今夜はどうすっかなと思う。
フレンには怒られるかもしれないが、どっかそこらで夜を過ごした方が良いかもしれない。
『僕が出張でいないからといって、彼女を一人にはしないでくれ』
昨日の夜、フレンが言っていたことを思い出す。
普通なら自分の奥さんと男を一つ屋根の下に置いておくなんてしないだろうけど、世間様とは違って俺たちは俺たちだけの独自の関係性がある。
信用し過ぎだろうと思うも、そんな相手の期待に応えたくてつい分かったと返してしまった。
「・・・つってもな・・」
このままこの家の中にいたって、を追い詰めるだけかもしれない。
弱弱しく懇願するその顔が目の前から、消えない。
いつか、家を出たを探して街中を走り回って路地裏のいかがわしい界隈で見つけた時の、蹲るその姿を思い出す。
見知らぬ男に乱暴をされて、弱り切ったその小さな体で必死に周りの全てを拒絶していた。
余程怖い思いをして、俺の姿にも気が付かなかったほどに取り乱していた。
「・・・・・」
どうして、フレンと結婚することを承諾したのだろう。
下世話な話、男ほどでは無いにしろ女にだって性欲ぐらいあるだろう。
そう思って、一緒に住みだした当初はフレンに触るのにも警戒した。
フレンにその気が無くとも、あいつはあんな容姿だし女性の方が自然と引き寄せられてくるのが常だった。
だから、この女も気を引いてその気にさせようとするかもしれない。
俺には無い、女という武器を持ち出されれば、一つ屋根の下で何もないなんてそんなことあり得ないんじゃ無いか、と。
だから何かがある前にと、壁に付き飛ばして脅しをかけた。
なのに、本当に何も無かった。
・・いや、今でも無い。
フレンは毎日律儀に帰ってくるし、俺が外泊してる間に何かがあったとしても、隠せるほどそこのところは器用じゃない。
長い付き合いだ。
そういう事柄に関しては、嘘も隠し事も無いと信用できる。
「・・・・・」
それに、自分を一番に愛してくれているというのも、実感している。
これに関しては、疑うのも馬鹿らしいぐらいだ。
だから、問題はフレンじゃない。
・・・だ。
「・・・・・仕方、ねえよな」
ひどく傷つけた自覚はある。
これで何も言わずに外泊なんてした日には、もうこの溝はこの先ずっと埋まらないだろう。
彼女がいくらフレンに気付かれないように取り繕おうとしても、その内きっとぼろが出る。
そうして、俺は間違いなく地獄を見るのだ。
仲直りなんて、柄じゃないけど。
暫く思案して、財布を持って上着を羽織って出かける支度をした。
ちょっと、出かけてくる。
閉ざされた扉の向こう。
静かな部屋の中にそう言おうとして・・やっぱり止める。
もしこれで、帰ってきたらがいなかったら、これまた柄にもなく落ち込むかもしれない。
それでも、きっと居てくれるだろうと、何となくのことをそう信じてみようと思った。
何で、ユーリはあんなことをしたんだろう。
どんなに考えても何も分からない。
夜の顔をしたのは最初の一瞬だけだった。
後はずっとこちらを観察するようにしていて・・・。
「・・・っ」
思い出す度に、身体が強張る。
なのに、脳は考えることを止めてはくれない。
私たちはそういう関係ではない、はずだ。
私だって、友人くらいには近づけたと思っているくらいなのに。
・・・ユーリは違ったのだろうか。
「・・・・・」
不意に、足音がしてユーリが部屋の前に立ったのが分かった。
思わず息を殺す。
心臓が変な風にバクバクと音を立てて、ぎゅっと体を縮みこませた。
部屋には鍵がかけてあるから、無理やり踏み込まれることは無いと分かっていても、扉の向こうに立つ相手が何を仕出かすかと脅えていた。
「・・・」
しばらくしてユーリは何も言わずに扉の前から歩き去った。
そうして、暫しの後に玄関の扉が開いて、閉まる音がする。
出かけたのだろうか。
今夜は・・帰って来ないのだろうか。
そっと枕に押し付けていた顔を上げた。
身を起こす。
シーンと静かな部屋。
誰もいない、静まった家。
先ほどの出来事があって、忘れかけていた光景がまた。
今度は現実となって目の前に広がっている。
「・・・・ユーリ?」
居ないと分かっていても、つい口にしてしまった。
鍵を開けてそっと部屋から一歩踏み出す。
フローリングの床から素足にひんやりと冷たい感覚が伝わる。
「・・・・・」
暗いリビングとキッチン。
何も映していない黒い画面のテレビ。
窓の外は眩しいくらいの日差しなのに、部屋の中はガランとして薄暗い。
フレンが仕事に出た後、ユーリがごろごろと過ごしているソファの上に転がるクッション。
そっと触れても、ただ布の柔らかさだけがそこにある。
ベランダの前、洗濯籠が置き忘れられたように所在無さげにしている。
まるで、今の自分みたいだと思った。
そおっと、何故か静かに扉を開けてしまった。
何となくだ、と心の中で言い訳しつつも、真っ先に見たのは足元で。
の靴がちゃんと出かけた時と同じままに、きちんと揃えて置かれているのに自分でも思いがけないほどにほっとした。
出掛けてはいない。
「・・・・ただいま」
でも、やっぱりやけに静かな家の中に、緩んだ気持ちがまた緊張していく。
ついそっとかけてしまった声に、返ってくる声は無い。
靴を脱いで玄関に上がり、の部屋の前を通り過ぎる。
「・・・・・」
寝てしまったのだろうか。
それでもいい。
また家出なんてされた日には、今度こそ死にもの狂いで探す必要がある。
暗いリビングにちらと視線を向けて、取りあえず買ってきたものを下ろそうと足を踏み入れた。
「っ!!?」
ぎょっとして立ち止まってしまった。
真っ白い素足が、ソファの端から零れ落ちていた。
上げそうになってしまった声を何とか手を当てて堪えて、そっと近づいてみる。
ソファの上で、がクッションを抱えて丸まっている。
そっと耳を澄ませば、すうすうと規則的なリズムを刻む寝息が聞こえて思わず脱力した。
「ただいま・・・」
聞かせるつもりは無かった呟きに、ん・・と身を捩る相手につい体が強張る。
体勢を少し変えてまた静かになったに、勘弁しろよと額に手を当てた。
ソファにかかっていたひざ掛けを拾い上げて、暫しの逡巡の後にその小さな体にかける。
もうすでに一仕事終えた気分ではあったが、買ってきたものを無駄にする気はなく、ユーリはキッチンへと足を向けた。
「・・・?・ん?」
何だかほかほかと温かい。
柔らかなひざかけに包まれているからだと気が付く。
寝るときにかけたかなと思い出そうとすれば、その他にも温かい空気が流れてくることに気が付いた。
それは、とても良い匂いと共に風に乗って運ばれてくる。
ぼやけた視界で辺りを見回す。
「・・・ん」
どのくらい眠ってしまっていたのだろう。
気が付けば窓の向こうは夕暮れで、電気を付けないままのリビングは薄暗い。
だが、キッチンから明るい光が漏れて広がっていた。
そこに誰かいるようだ。
「・・・はよ」
ぼおっとそこに立つ相手を見ようと瞬きを繰り返せば、こちらを見たらしい相手が先に声をかけてきた。
その声に、そこに誰がいるのかやっと気が付く。
そして今日からフレンが出張に出かけてしまって、ユーリと二人きりなんだということも思い出した。
「っ・・ユ・・」
それと同時に、今日何があったのかも即座に思い出して体が瞬間強張った。
凝視して固まるこちらに、何を思ったのか。
キッチンで何やら作業していた手を止めて、ユーリがこちらに歩いてくる。
咄嗟にソファの上で後ろにずり下がれば、一瞬立ち止まったその足はそれでもまたこちらに向かってきた。
その一瞬に見えた、どこか傷付いたような顔にまた何も分からなくなる。
「・・・・・・ユー、リ」
ソファの肘置きに背が当たってそれ以上下がれなくなり、ひざ掛けに包まったままクッションをぐっと抱きしめた。
傍まで来た黒い影は、髪をふわりと風になびかせてストンと目の前にしゃがみ込んだ。
視線が合う。
どうしていいか分からずに視線を逸らして彷徨わせれば、すっと手が伸びてきた。
ぎゅっと目を瞑る。
「・・・・よく眠れたか・・なんてそれこそ言える義理じゃねえな」
「・・・ぁ」
頭をぽんぽんと撫でられる。
「手、大丈夫か」
「・・・・え、っと」
言葉に詰まる間にも、さっさとこちらの右手を取って手の平をまじまじと見つめてくる。
ユーリに平手をした、手。
咄嗟に見た相手の頬は、長い黒髪に隠されていて赤くなってしまったかどうか良く分からなかった。
撫でられた頭が、何だかふわふわとしている。
まるで、いつかの時みたいだと記憶を再生しつつ、今回手を出してきたのは目の前の相手なんだけどと不思議に感じた。
今のユーリからは、手を出してきたときの様な怪しげな雰囲気も、機嫌が悪い様子も一切ない。
おかしいくらいに、こちらの様子を気遣ってくる。
何があったのかとこちらが聞きたいくらいに、今までに無い状態とこの距離に戸惑った。
「あ・・・??」
急に香った甘い匂いに、ついすんと鼻を鳴らせばユーリの目が少し丸くなった。
「ああ。・・・そのプリンを作ったんだけど・・・一緒に食わねえ?」
本当に何かおかしなものでも食べたんじゃないだろうか。
思わず凝視すれば、居心地悪げにしていた相手の顔が徐々に気難しいものになっていく。
「・・何だよ。いらねえってんなら」
「私の分も・・?作ってくれたの??ユーリが?!」
「な、」
「た、食べたい」
「・・・・・」
跳ねあがった眉が、溜息とともに静かに収まる。
何でだか分からないが、ユーリがプリンを作ってくれたのだから、食べないわけが無い。
甘党だが面倒くさがり屋のユーリは、デザートを買ってきたりすることはあっても自分で作ることは珍しい。
そんな彼が、わざわざ材料を買ってきて作ってくれたのだという。
・・・フレンでも無い、私の分も。
「後ちょっとだから、もう少し待ってろ」
言うだけ言って人の頭をまたぽんぽんと叩いて、さっさと立ってキッチンに戻っていく。
全く持って行動が読めないユーリの、その手が触れていった頭が温かかった。
「・・・美味い」
全く持って悔しいことに、ユーリの作ったプリンはとても美味しかった。
プリンの甘さも程よい固さもさることながら、均一に固まるカラメルの少し焦がしたような香ばしさも丁度良い。
綺麗にホイップされた生クリームと、サクランボが見つからなかったとぼやくその代わりに乗せられていたのは桃缶と缶詰みかんだった。
何これ、である。
カフェのデザートメニューで見たことあるけど、意外と高くて手を出すことは無いそれに似ている。
ようするに、お金がとれる出来栄えと文句のつけようのない味だ。
「ん。まあまあだな」
斜め向かいで自分の分を頬張るユーリは、まんざらでもない様子だった。
ちなみにユーリの分のプリンの方が二回り位大きいのと、クリームがてんこ盛りなのは見なかったことにする。
「・・・デザート、自分で作った方が安上がりじゃない・・・?」
こんなに美味いのなら、コンビニなんかのを買うより自分で作った方がいいんじゃないかと思ったが、ユーリは嫌そうに顔を顰めた。
「面倒くせぇ」
まあ、そう言うとは思ったが。
「それに、コンビニのはあれはあれで美味いだろ。新しいもんとか試すのも好きだし」
「・・まあ、そうね」
女子なはずの自分より上手いであろう手作りプリンを前にし、それしか返す言葉は出ない。
加えて、ユーリのように甘いものをいくら食べても太らない体質では無いから、それならば美味しいものをと厳選してしまうし最終的に見るだけで諦めたりもする、そんなこちらの気持ちも察して欲しいと、つい恨みがましく見てしまった。
「・・・・何だよ」
「・・・ユーリはいいよね」
「?何が?」
「いくら甘いものを食べても太らないし・・・」
促されてつい言ってしまえば、スプーンを口にくわえてユーリはパチクリと瞬きをした。
いつにない幼い顔に、でも嘆息しか出てこない。
それでもプリンは美味しいと、最後に残った一口を噛みしめる。
「いや、俺も食べ過ぎたら腹も出るだろ」
「・・・・・」
本当か?いや嘘だろうとつい視線を合わせれば、何を思ったのか空になった皿をユーリが奪い去っていく。
「え、何して・・いや、いいそんな・・!!!」
「もうちょっと分けてやるから、そんな恨みがましい目でこっち見んな」
仕方ねえなと心底面倒くさそうな顔に、いやいや違うと首を振るもプリンと生クリームが1:4くらいの割合で盛られた皿を強制的に戻される。
足りなくて見ていたんじゃ無い。
生クリームに埋もれたプリンを見下ろしてスプーンを持つ手が少し震えた。
斜め向かいで、スプーンを片手にじっと皿を見下ろすを、こちらもじっと見てみる。
もう脅えた様子はどこにも見えない。
内心ほっとした。
それから疑問。
太る太らないを気にするような体形にはとても見えないし、抱き寄せた腰回りだって適度に柔らかさがあった。
思い出せば、溜息を吐きそうにもなるが。
「食べたって、適度に運動すりゃいいだろ」
そういって、視線を合わせた相手がこっちを穴が開くほど見てきて、思わずたじろいだ。
何だ・・・?
何かを言おうとして開かれた口が、閉ざされる。
また、その動作かよ。
思わずむっとした。
さっきは言えよと促す前に、ぽろっとその内心を吐露してきたことに驚きつつもちょっと嬉しかったような、そんな気もしたってのに。
ま、内容はともかくとして。
それにしても、また、それか。
「ああ、もう言いてえなら言っちまえよ!」
何度飲み込めば気が済むんだと、つい苛立って声を荒げてしまった。
そのことに、斜め向かいの相手が驚いたように目を丸くする。
またやっちまったと思いながらも、逃げ出したくなる気持ちをぐっと堪える。
「お前が何言ったって、ちゃんと聞く。だから、言えよ」
食べ終わったスプーンを置いて、椅子に座り直す。
怒ったように、もしくは困ったように眉間に力を入れていたが、そっとスプーンを置いた。
シーンと、急にリビングに静けさが広がる。
「・・・怒らない・・・?」
口を開けては閉ざし、逡巡する様子に早くも待ちくたびれて苛々してきたところにそんな言葉がかけられる。
「それ以上だんまり続けてる方がイラつく」
苛々した態度を隠さずにそう言ってやれば、観念したように溜息を吐いた。
俺の方が吐きたいっての。
「・・・ユーリは、さ」
言いづらそうに、視線を余所に逃がしたまま肘をついた片手を口元に当てて、がそっと口を開いた。
言えって言ったのはそっちだからね、と心の中で言い訳のように前置きをして口を開く。
「ユーリは、さ」
神妙な顔で続きを待っているユーリは本当に聞くつもりなのだろう。
観念して、半ばやけくそ気味にその先を続けた。
「適度に運動すりゃいいって・・そりゃ、あなたたちは毎晩運動・・・もどきをしているんだろうけど、そうでなくてもユーリは・・」
「・・・は・・」
「ユーリはきっと甘いもの食べても太らな・・」
「は、いやいや待て」
「待ったなしよ、聞くんでしょ」
「いや、ってかさっきの・・」
「何よ」
言えば、何故か今度はユーリが言いよどむ。
人に散々、言えと脅してきたくせに、何だろうその態度は。
「聞くんじゃないの?」
思わずむっとして低い声で言えば、ユーリの眉がぴくりと跳ねあがった。
今さら怒ろうったって、そうはいかない。
もうこうなったら全部言ってやろうと、テーブルの上に置いていた拳を握る。
「ユーリは、甘いものいくら食べても太らないでしょ、ずるいわよ!」
「・・・・・そこじゃ・・ねえ」
どこか呆然とした顔でこちらを見ているユーリに今度はこちらの眉が跳ねあがる番だ。
「なら、何よ」
「っ・・あー・・くそ・・っ」
「・・・何、言ってよ」
いつもと逆のパターンに、何だかこちらも拍子抜けしつつ相手の出方を窺う。
食べかけのプリンを乗せたテーブルを挟んで。
一緒に住み始めておそらくは初めてといってもいいぐらい、私たちはまともに喧嘩のようなものをしようとしていた。
お互いの手札が何か分からないけれど、ずっとため込んでいた何かがお互いの間にいたフレンがいない今、堰を切ったかのように溢れ出そうとしていた。
全部、たたき出してやると、は全身に闘気を満ち溢れさせる。
普段、大人しい奴が怒るとこわい。
まさにそれを目の前でやられ、ゆらゆらと立ち上るようなものが見えるような気がしてユーリは小さく呻いた。
やっぱ触れない方が良かっただろうか。
いや、でもこんな機会、滅多に無いだろう。
今までのおかしなくらいそれなりに上手くいっていたバランスは、結局のところあいつが・・フレンが間にいたからだ。
でも、フレンがいたからこそ、俺たち自身はなかなか本気でやり合おうとしなかったのかもしれない。
ならば、これは好機だ。
お互い、積もり積もっているであろうものを吐き出す絶好の機会だ。
馬鹿なことをしているし、言おうとしているのも分かっているけれどこれを逃してまたもやもやとしているなんて、性に合わない。
「っ・・あー・・くそ・・っ」
「・・・何、言ってよ」
怒気を孕んだ静かな声に促されて、顔を上げて視線を合わせる。
覚悟を決めて、拳を握った。
「・・・あんた、SEXが嫌いなのか?」
「っ」
まさか、そこをいきなりつつかれるとは思ってもいなかった。
何か、諦めたかのように溜息を吐いて顔を上げた相手に真っ直ぐ見られて、ストレートに聞かれた言葉に衝撃を受ける。
そして、これもまた今の生活をする中で、目を瞑って居られない事柄なのだと理解した。
言われた言葉を胸の中で反芻する。
ユーリはそれ以上口を開かず、静かに待っている。
胸の内に問いかける。
「嫌い、と言い切るほど、拒絶はしないけど、でもやっぱり好きじゃない」
思ったままを正直に答えた。
ユーリはそれを聞いて難しい顔をする。
「・・俺たちがやってんの聞いて、あんたどう思ってんの」
おそらくはこれが聞きたかったのだろう。
「特に何とも。仲が良いなとは思ってるよ」
「っ・・・本当に、何ともないのかよ」
仲が良いと言われたところで、瞬時に顔を赤らめるユーリに可愛いなと場違いなことを考えれば、何故か変なところにつっかかってきた。
「何ともない・・けど」
「・・・不感症?・・じゃねえよな」
自分が仕掛けたことを思い出したのだろう、口元を手で覆いながらぶすっとした顔で言っているその内容に、こっちもつられて顔が赤くなった。
無礼千万もいいところだと睨みつければ、チラリと視線を寄越される。
「・・・不感症じゃねえなら、むらっときたりすんだろ」
「・・・むら・・・」
相手の言葉をつい反芻してしまう。
何が聞きたいのだろう。
何故こんな話をしているのだろうと、早くも手札を全部ぶちまけたくなったがこんな話、フレンがいない今しか出来ないのは確かだ。
ぐっと我慢して、何が言いたいのかと先を促す。
「あー・・・んじゃ、自分で処理してんのか・・?」
「は、・・・」
「・・・・・オナ」
「いい、わざわざ言い換えなくてもそれくらい知ってる」
額に手を添えて、何故かわざわざ言い換えようとするユーリの言葉を瞬時に遮る。
何て事を言い出すんだと思いつつも、ふとそうかと閃く。
この二人は男同士でしかしたことが無いから、そういう女性のことが気になるのかもしれない。
それに男性はたまったりするとか言うし、女性にもそういうことがあるのかと心配・・・じゃないかもしれないが、とにかく確認したいのかもしれない。
「男性ほどじゃないけど、ムラ・・・とはまあしないことは無いけど、その心配はいりません」
「・・・・んじゃ、やっぱり自分で処理してんのか」
「・・・・・」
何で、そこに引っかかってるのだろうか。
心配いらないと言っている、女性の羞恥心ギリギリの返答に悟って、ここはその手札をもう引いて欲しいというのに。
「・・・フレンが帰ってくる前に、手伝ってやろうか?」
「・・・、・・・・・・は」
何を、とは言わなくとも分かるが、何でそんな流れになったのだろうか。
いや、私の中ではこの話題は、私が答えた時点で終わったも同然だったというのに。
おかしい、いや、おかしいよね。
だって・・・。
「あの、ユーリがそんな気を遣わなくても女性は大丈夫だから、ね」
「・・・・・」
「そもそも、ユーリ、ゲイでしょ?」
納得しろよと言いたい気持ちを堪えて、再確認する。
あれ、そういえばこの前聞いた時、ユーリはなんて答えただろう。
思い出せな・・。
「いいや」
「え」
思考回路がブツンと切れた気がした。
脳内が真っ白だ。
「・・え?」
「俺、ゲイなんて一言も言ってねえけど」
「え、だって・・・」
「ああ、フレンはゲイ」
「え、で・・」
「俺は・・・そうだな、両刀?どっちでもいける」
「は・・」
言葉がすべて意味を持たない、ただのぶつ切りにしかならない。
前提条件が、あっさりと覆されてパクパクと口が開閉を繰り返すも、結局は何の言葉も出てこない。
そんなこちらをしげしげと見ていた目が、すうっと細まる。
すっと背筋に嫌な汗が流れた気がした。
「自分でやるより、気持ちよくなれるぜ?」
「いっ・・・いい、いいいらないっ」
「・・・何でだよ」
何でも何も、無い。
「フ、フレンに私が殺される・・んじゃないかなー・・・」
フレンに悪いと言おうとしたが、想像したらそれ以上に何かすごいことになりそうで顔が引きつった。
家出して、ユーリが探しに来てくれたその帰り道。
あの恐ろしいくらいの沈黙は二度と味わいたくない。
フレンの黒いオーラを感じた瞬間だった。
「・・・あー・・・まあ、そこはばれない様にすりゃいいんじゃね」
「だから、それはもう良いって!」
この話は、これでおしまい!と締めくくれば、まだ何か言いたそうにするも、取りあえずユーリは大人しく引き下がった。
今後の自分の身の安全を、考えなければいけないのだろうかと一気に気分が落ち込んだ。
性欲が無いわけじゃ無い。
わざと声を聞かせてやれば、むらっとしないことも無い。
そういうことだろうか。
まあ、この件はフレンとも話さねえとなんねえかと取りあえず結論づける。
「で、あんたからは?」
いつも飲み込んでいるその言葉の続き。
結局この話題は、俺が気になってることになっちまったから。
今度はそっちから、普段言いたそうにしてることを言えと、再度促す。
「え・・えっと・・え、もしかして今まで意地悪してきたのって、さっきのことが知りたかったからとか、なの?」
「意地悪?」
急に何かを思い出したかのように混乱したように言ってくる話に、ついていけずに聞き返せば、頬を少し赤くして怒ったような顔で、だから!とは口を開く。
「いつも、何かふざけて近寄ってくるでしょ・・・セクハラ・・」
「ああ・・・ん、まあそう・・だな」
「・・・今度から、聞いてちょうだい」
それだけじゃないけど、とは言わずに胸の内に仕舞う。
言ったら最後、じゃあ何のためにと聞いてくるのは容易に想像がつく。
まあ、俺も男だし・・・?
とは、ゲイじゃないと暴露した今、まだ言わない方が良さそうだ。
フレンにされるのは気持ち良い。
自分一人では得られない快感を得られる。
でも、男に生まれた以上、やられっぱなしってのもいただけないと思うわけで。
受けばかりじゃなくて攻めにも回りたいってのは、本能なんだろうか。
フレンとはどうしても悔しいことに、何度仕掛けても受けになってしまう。
・・・体力馬鹿過ぎだろ、あいつ。
そのストレスを、その奥さんで紛らわせてみてるなんて知られたら、笑顔で首を絞められかねない。
ここは、慎重にいくべきだなと心に決める。
「他には?」
「・・・・ユーリ、嫌なオンナっていつも言うでしょ」
「・・・・・まあ、そうだな」
「私、出て行った方がいい?」
「っ、・・」
そうか。
これが、こいつが一番聞きたいことなのかと即座に理解した。
結婚した事実は残る。
それは、が倒れた時に俺が思ったことで、おそらくその後に家出したも思ったことなのだろう。
俺たちは、合わせ鏡を見ているみたいだった。
「前は、そう思ってた・・・それこそ毎日」
「・・・・・・でしょうね」
もう良いだろ、書類上の関係ならいなくなれよと、という存在を心の底から厭わしく思っていた。
「もう、刺し殺すのは止めたの?」
さっきまでのやり取りなんて無かったかのように、切り替えられた静かな顔と声音に過去の自分の言動のひどさを思い出す。
「・・・もう、しねえよ」
「で」
「いろよ、ここに」
ひどいとは思ったが、あの時の自分の心に偽りがあったわけでは無い。
あの時も本心でそう言ったし、今も本音でそう告げた。
だから、謝らない。
それが分かったのかどうかは知らないが、はちょっと泣きそうな顔して小さく笑った。
「うん、分かった」
「・・・・・」
「ありがとう」
「・・・別に」
礼を言われることじゃない。
そもそも、書類上のこととは言え正式な奥さんであることに変わりは無い。
逆に言えば、俺の方がただ愛情に縋っているだけの存在だ。
世間からみたって、出ていくなら俺の方だと分かっている。
だから、こいつが倒れた時にも出ていった。
そんなことを考えていれば、は少し目を伏せて首を横に振った。
「今日、ユーリは出掛けて夜帰って来ないと思った」
「?・・ん」
まあ、帰らないっていう選択肢があったのは確かだ。
でもここで、フレンに言われたからと言う気にはならなかった。
「でも、帰ってきてくれてありがとう」
「・・・あんなことした男と二人っきりでもか?」
ふざけたようにそう言えば、視線が少しきつくなる。
「・・・それでも。やっぱり、寂しかったんだと・・・思う」
徐々に小さくなる声に、頬杖をついていた肘がかくんと落ちた。
寂しい・・・?
「いや、まあいつもいたフレンがいないし・・な・・」
「それもあるけど、でもこの家に一人いると・・・」
「・・・・ああ」
何となく、分かった。
やっぱり俺たちは合わせ鏡みたいだ。
お互いの中にお互いの不安や不満を見て、でも考えてることは立場や視点が違うだけで結局は同じこと。
「俺も。・・あいつの後、あんたも仕事行って一人でここにいるとさ、本当にここにいていいのかって思うよ」
「え・・・ユーリが?」
「俺が思っちゃおかしいかよ」
「だって、ユーリはここにいるべき人でしょ。そもそもフレンの恋人はユーリなんだから」
確信を持って真っ直ぐに言い切られると途端にこそばゆくなる。
そりゃ、そうなんだけど・・な。
「・・あんただって、正式にあいつの奥さんなことに変わりねぇだろ。誰かがここを出ていくってんなら、出ていくのは俺の方で・・それが正しい・・」
さっき思っていたことを言葉にすれば、何故かの眉が跳ねあがった。
怒った顔をして、がテーブル越しにこちらにぐっと顔を寄せる。
その勢いに、つい顔を仰け反らせてしまった。
「・・っ、何・・」
「何はこっちの台詞でしょ、あなた本当に何馬鹿なこと言ってんのよ」
「・・はぁ?」
馬鹿って、ひでぇなと言い返す間もくれない。
「あなたがフレンの恋人だから、私、ここにいるんじゃない!大前提でしょ!それを失くしちゃってどうするのよ?!」
「・・・・・」
「いつもいつもだらしなくごろごろして、猫みたいに掴みどころなくって、フレンがいないところで意地悪するわセクハラするわ・・」
「・・・おい」
「ほんと、嫌な奴って思ってたけど」
「・・・ほんと、お互い様だな」
「そうよね、でもあなたがいなくてどうするのよユーリ。前にも言ったじゃない、私じゃフレンは愛してあげられないって・・・あなたが、愛してあげなくてどうするのよ・・」
「・・・・・」
「あのね、寂しいって言ったの、さっきのあれナシ」
「はあっ?!」
「あなたたちが二人で堂々とやっていくっていうなら、私笑顔でここ出ていくから。そしたら二人でちゃんと仲良く暮らしていけるっていうならそれで・・」
「・・そっちこそ、いきなり何言ってんだよ」
「・・だって、ユーリいつも不安そうにしてるじゃない」
「・・・・・」
言い当てられて、つい言葉に詰まってしまえば、ほらとの瞳が和らぐ。
「私がいたら、きっといつまでも不安に感じるでしょ」
「・・そんなこと、ねーよ」
「嘘」
「っ・・・」
きっと、この不安はどうしたって拭え無いんだろう。
見透かされた思いに、どうしようもなくなる。
視線を上げた先で、仕方が無いなという風に笑みを零すに、これまたいつも感じている不満が膨れ上がる。
その手首を掴んで引っ張った。
「っや、何ユー・・・んっ?!」
バランスを崩して倒れ込んでくる相手の、頬から顎を支えるように固定して、口づけた。
見開いた目に、してやったりと目を細めてやる。
意地悪だと、がいう表情を意識して浮かべてやれば、何が起こったのかやっと分かったの顔が羞恥と怒りで赤くなった。
「・・真っ赤」
「何、すんのよ!!!」
「いつもいつも聞き分けの良い女の顔して、まるで何かの手本みたいに行儀良い奥さんぶって・・」
「そんな、ぶってなんか・・」
「そんでお前は幸せなのかよ」
これも、ずっと気になっていたこと。
「?・・幸せよ?」
「本当かよ」
何してくれてるのと思いながら、本音をぶつける。
離れても、まだすぐにでも鼻先が触れ合うほどの距離。
そんな見たことないほどに間近にある相手の、黒だと思っていた瞳が実は深い紫色だと知って、綺麗だなと頭の隅でぼんやりとそう思う。
疑うように眇められた視線に、真っ直ぐに視線を返せばそれはそっと逸らされた。
「俺が居る時点でなんだけど、あんたはちゃんと幸せなのかって・・・」
そんなことを気にしているとは思いも寄らなかった。
「あいつ・・・フレンはあんたのことちょっとむかつくくらい大事にしてると、思う」
「ええ。まさに理想の旦那様で、自慢してもし足りないくらいに私のこと大切にしてくれてるわよ」
「・・・・・」
ちょっとむっとした顔に、今度はこっちがしてやったりという表情を浮かべてやる。
「自分を大切にしてくれる理想の夫がいて、・・・その恋人でもある、ちょっと意地悪だけど魅力的な同居人もいて、幸せじゃないわけないじゃない」
逸らさずに言い切れば、間近な瞳は見開かれた。
やっぱり宝石みたいな綺麗な瞳で、ユーリは中性的な顔立ちだなまじまじと見てしまう。
フレンが惚れ込むのも無理は無い、私から見ても魅力的な人であることは確かだ。
少し頬に赤みがさして、その視線がふいっと逸らされる。
「あんたが・・・幸せなら、フレンもきっと幸せだろうよ」
「・・・・?」
「でも、もし」
「・・・うん?」
「もし、あんたがここじゃないどこかに、ここ以上の幸せを見つけたんなら」
「・・・・・」
「俺が出て行けって、言ってやるから」
「・・・ユーリ」
コツリと額が触れ合う。
「押し黙ったりすんなよ、・・・ちゃんと言えよ」
真剣な相手の瞳に、小さく頷いた。
「でも、本当に私今、幸せなんだけど」
「・・わぁかったよ」
間近に見つめ合って、お互いぷっと噴き出す。
久しぶりに、何だかしっかり息をしているような気がした。
こんなに身軽な気持ちで心から笑えてることが、心底嬉しかった。
「フレン、もうすぐ着くってよ」
私の方にもメールは入っていたが、ソファに寝そべって携帯をいじりつつも律儀に教えてくれるユーリにキッチンから分かったと返事を返す。
じゃあ、そろそろ焼きはじめれば丁度いい頃かなと、フライパンに火を点ける。
出張から帰ってくる肉好きなフレンのために、今夜の夕飯はハンバーグだ。
油と少量のバターを溶かして、温まったところでハンバーグの種をくっつかないように並べていく。
肉が焼ける食欲をそそる良い匂いがキッチンからリビングに広がっていく。
そうして3人分が焼き上がり、付け合せの茹で野菜とスープを温めたところで、玄関の扉が開いた。
「ああ、とっても良い匂いだ」
「おかえり」
「おかえりなさい」
ただいま、とにっこりと笑顔を向けてくるフレンの鞄とコートを受け取る。
「土産、なんかねーの?」
「そういうと思ったよ、ほら」
差し出された銘菓の包装をキラキラした目で早速開け始めるユーリに、つられて顔がほころんでしまった。
甘党の彼の好みを良く分かっている、フレンのチョイスは大当たりのようだ。
「パン焼くね、フレンは2個?」
「んー、3個にしようかな」
「分かった。・・ユーリは?」
「・・んー・・」
「ユーリ、パンいくつにする?」
「ん・・フレンと同じで」
「・・おい、ユーリ・・」
「大丈夫」
意識はほぼ土産に向かっている、どこか上の空なユーリの返事にフレンが呆れて何か言おうとするのを遮る。
そんなこちらの顔と、銘菓に夢中なユーリを交互に見てフレンはネクタイを緩めていた手をおもむろに止めた。
何やら考え込む仕草に、何かあったのだろうかと聞こうとする前に、その顔が静かに上がる。
そしておもむろに、にっこりと微笑まれる。
つられたように微笑み返しながら、何か違和感を感じていた。
・・・・この感じ、何だか前にもどこかで。
「僕が出張中に、何だか仲が良くなったみたいだね」
何か、あったのかい?と輝かんばかりの笑顔を向けられる。
その笑顔の向こうに、何かが一瞬揺らめいた気がする。
それは、そう・・確かいつか家出してユーリの後から迎えに来てくれたあの時のような。
「仲良く?・・ちげーよ」
「・・ユーリ?」
早くも銘菓を頬張りながら、ユーリがしれっと答える。
そちらの方を向くフレンの視界から外れて、どっと冷や汗が出た。
ユーリが言った通りだった。
「俺たち、喧嘩したんだよ」
「は?君たちが・・喧嘩?」
「そ。真剣勝負の大ゲンカ」
「それは・・・」
言って、リビング内を見渡している。
私たちが喧嘩したとして、何故家具や内装をチェックしているのだろうと思うが、これもまたユーリから先に聞いていた流れ通りだった。
「んで、皿とコップ割っちまった」
「・・・やっぱりか」
言って項垂れた様子のフレンが、はっとしたようにこちらを振り向く。
前触れも無く両手を掴まれて持ち上げられ、じっくり見たと思えば今度はこっちの両頬を包み込んでくる。
訳が分からなくて目を白黒させていれば、リビングから拗ねたようなユーリの声がした。
「俺より先に、そっちかよ」
「当たり前だろう!君は怪我なんてしょっちゅうしてるじゃないか。僕が何度言ったって聞かないし。それより、可愛い奥さんの方を心配するのは、当然だろう」
きっぱりと言い切る目の前の夫は、まるで王子か騎士のようだった。
お姫様でも何でもない自分は気恥ずかしいだけだが、じっくり検分するフレンを突っぱねる訳にもいかず。
「あの、フレン・・怪我はしてないから、大丈夫・・」
「うん、もうちょっと、じっとしていて」
「・・・・・」
女性の肌に傷なんて付けたら、ユーリ、君を軽蔑するよと背後の恋人に言いつつ、やっと満足したのかそっと頬を包む両手は離れていった。
「それで、」
「ああ、はいはい。片付けは俺が全部したっての」
「それなら良かった」
こちらの手を再確認しようとしたフレンが、にっこりと微笑んで今度はユーリの方に歩き出す。
ぎょっとしたようにお菓子をくわえつつ離れようとしたユーリは、あっけなく襟を掴まれて捕獲されている。
「おい、こら・・やめろって・・」
何も無いから離せと暴れるユーリの手や顔やらを、今度は見ているのだろう。
折角焼いたハンバーグやスープが冷めてしまうとやっと思い出して、パンを焼くためにキッチンに戻った。
何だかんだと愉しそうな二人に、笑みが零れる。
そして、ユーリには感謝した。
あれからフレンがいない次の日も、最初の不安なんて嘘だったかのように穏やかに過ぎていった。
私もユーリも、二人してほこりを溜め込み過ぎていたようだった。
ほこりを吐き出して空気を入れ替えてスッキリした気持ちで。
陽の当たるぽかぽかとしたリビングで二人で昼寝するくらいになっていた。
とはいえ並んでお昼寝ではなく、私がソファでユーリは毛布を敷いた床の上で。
ユーリの、ゲイじゃない発言に私が警戒しまくったせいもある。
結局あの後はそういった手出しはされずに済んでいて、フレンも帰ってくるしこれで一安心と思っていた三日目の今朝。
今日帰るよというフレンからのメールに返事をポチポチと打っていれば、ユーリがソファの後ろからそれを覗き込んできた。
「おはよう、ユーリ」
「ん・・・おはよう」
相変わらず朝は気だるげに、ソファの背にもたれかかる相手に苦笑する。
「朝ご飯、出来てるよ。ヨーグルトはもう砂糖混ぜておいたから、後は好きなジャムを・・・」
「・・・・・」
「ユーリ・・?」
やけに静かな相手に、起きだしてきたがまだ眠いのだろうかとソファに寄り掛かるその顔を見ようとすれば。
「・・・・・」
「・・・どうかした?」
「あんたの、それ」
「うん?」
そこそこしっかり開かれている目と寄せられた眉。
やけにしかめっ面をしている。
何か機嫌か、もしくは気分でも悪いのだろうかと首を傾げて肩の横にあるユーリの顔を見返せば、その瞳はすっと逸らされた。
「俺的には悪くねーんだけど・・」
「?」
何やら言いよどんで、後ろ頭をかいている。
「何、気になるから言ってよ」
散々言い合った後に、何だかこの言葉は私たちの口癖になりつつあった。
朝から重い溜息を吐きつつ、朝ご飯の並ぶテーブルにのそのそと歩き出して椅子に座るユーリを見て、ココアを用意するために動き出した。
「はい、どうぞ」
「・・・サンキュ」
フレンの出張前には、こんなやりとりをする自分たちなんて想像が出来なかった。
いや、想像はしてみたら楽しかったけれど、きっと現実にはならないだろうと半ば諦めていた気もする。
そんなことをしみじみと思っていた。
「・・って、ソレ・・なんだけど」
「え?ごめん聞いてなかった。それ?、って?」
「あんたの・・その態度」
「・・・私の?」
聞き返せば、頷きつつココアを一口飲んでユーリはまた溜息を吐いた。
「ぜってぇ聞かれる」
一体誰に、何を聞かれるのだろう。
分からないままにユーリの顔を見返せば、ユーリの眉間にしわが寄った。
「分かってねーの?あんた、・・・態度が変わり過ぎ」
「え」
「俺への!態度が変わってんだろ。気付いてねぇんだろうけど・・大分」
瞬きをして相手を見返せば、むっとした顔でパンを頬張ったその顔がまたそっぽを向く。
それの何が悪いのだろう。
「えっと・・何か良く分からないけど、元に戻した方が良いのかな?」
「・・戻せるのかよ」
「・・・・・」
いきなり、何でまたそんなことを言い出すのか。
つまりユーリは、折角和解できたと思ったのにまた険悪なムードで接しろと言っているように聞こえる。
その疑問は、呻くようなユーリの言葉であっさりと理解した。
「戻せるとは思えねえな・・・こりゃ間違いなくフレンに問い詰められんぞ」
たぶん、あんたに対してはそんな強くは聞かねえだろうけど。
今までそこそこ距離の合った俺たちが、自分のいない間に急に仲良くやってんだ、何かあっただろうって・・まあ、あいつじゃなくても思うだろうけど。
言って、その瞳がこちらをちらと見る。
思わず、首を横に振った。
「ちょっと・・そういうことしてないでしょ!」
「そうだな、SEXはしてな・・」
「ハッキリ言い直さなくていいって」
「まあ、そういうこと。で、どうすっかな」
朝から何て話題だと思いつつ、いつかのお説教が脳裏に過って顔が引きつる。
笑顔でじわじわじりじりと、まるでゆっくりいたぶるかのように尋問してくる夫の姿が目に浮かぶ。
そう、あの眩しい笑みのままきっと聞いてくるのだろう。
僕のいない間にユーリと・・何か、あったのかい?と。
「・・・こわい」
「だろ?・・・何か対策を練った方がいいな」
「・・・・・」
正直に、話し合いで和解しましたと言ったとしよう。
今までの態度があまり良いとは言えないから、すぐに納得してくれるかどうか。
仮にその場では納得してくれたとしても、それぞれ1対1になった時に、どんな不満がお互いにあったのか僕にできることは無いかと、やたらと親身に聞いてくる姿もまた、容易に想像できた。
でも、ぶちまけた不満は私とユーリだからこそ言えた本音であり、フレンに言うのはさすがに憚られる。
今幸せかどうかということももちろん、・・・夜のこと、などなど。
言えない。
さすがに、そんな不安や不満をお互い持っていてそれを話し合いで解決した、だなんて。
「何か良い案はあるの?」
考え込んでいるうちに朝ご飯をペロリと平らげたユーリに、詰め寄る勢いで聞けば難しい顔をしてユーリは唸った。
「適当に何か壊すか」
「え?」
言ってうろうろと視線を彷徨わせる相手に、今聞いた言葉は聞き間違いかと視線で問う。
「急に仲良くなりました、じゃ、やっぱ怪しいだろ」
「・・そうね」
「だから、俺とあんたは大ゲンカしたってことにすりゃいい」
「え・・」
「実際に喧嘩みてぇなことしたし、あながち間違ってないから真実味もあって良い」
「でも・・喧嘩の内容は・・・?」
「お互いの反りが合わなかったのがフレンがいなくなって爆発。お互い手が出て物を壊しちまって・・・で」
「で・・・、そうね。フレンに怒られると分かって収束、和解ってとこかしら」
「ん、まあ上出来だな」
全部嘘でもねえし、と言いながら何か壊してもいいもんあるかと聞かれて、考えた末にコップと皿を1つずつ割ることになった。
本当に割ってしまったカップや皿はもったいなかったけれど、このぐらいはしといた方が良いと、自分で床に叩きつけて割った破片を片付けながらユーリが言う。
手伝おうとすれば、危ないから下がってろとキッチンを追い出された。
「ごめんなさい、フレン」
「君が謝ることじゃない。どうせユーリだろうし」
言いながら、テーブルについて隣をちらと見る。
「うっせ」
そんなフレンの視線に、ぶすっとした顔で答えたユーリの頭にフレンの拳骨が落ちた。
鈍い音にユーリが呻いて、心の中で謝罪する。
ユーリばかりに非が行っている。
「あのね、フレン・・その・・」
「ん?どうしたんだい」
「割れちゃったユーリの食器を、今度の週末買いに行かない?・・・出来れば、3人で」
迷った末に付け加えれば、少し驚いたようなフレンの顔と痛む頭を擦っていたユーリの顔が上がる。
ユーリの表情に、やっぱり余計なことを言ったかなと思いつつも、もう口に出してしまったことに小さく決心する。
「フレンとは、2人それぞれで出かけたりはしていたけれど」
「・・・・・」
「3人で出掛けたことは無かったなって、急に思ったの」
「・・そうだね」
静かな顔で話を聞くフレンが何を思っているかは良く分からなかった。
「でも、折角3人で暮らしているんだもの。夫婦とか恋人とか、そういう概念に捕らわれ過ぎていて、それぞれが仲良くするためにその間にもう一人はひとりぼっちで過ごすなんて・・・寂しいなって少し・・」
「・・・・・」
言いながら、一瞬ひやっとした気配を感じたけれど、それはすぐに収まった。
フレンには怪しまれてしまったのだろうか。
ユーリとは本当に何も無いのだけれど、そう思われても仕方のないことを言ってしまったかもしれない。
さっきのユーリの、折角回避したところを何でつっつくんだという顔。
「そう、だね・・・僕たちは3人で共に暮らす家族だ」
家族。
フレンが何気なくいった言葉にハッと顔を上げる。
つい向けてしまった視線は、迷わず濃い紫色の瞳と合う。
ただの同居人だと思っていた私たちは、そうだ、家族なのだ。
何だか、とてもしっくりして綺麗な三角を描いていたと思っていたそれは、急に丸みを帯びて円を描いた。
「・・それに、そうか」
そこに顎に手を当てて不意に呟くフレンの声が聞こえる。
その続きを待てば、見上げた先の夫の顔は輝くような笑みだった。
一瞬どっちの意味合いを持つ笑顔か分からなくて、まるで審判を待つ気分になる。
「君たちは、僕がいない間にそういうことで喧嘩したのか」
「え・・ええ、まあそういうこと・・かしら」
「二人とも・・・寂しくさせてごめんね」
眩しい。
まさに一点の曇りも無い青空。
その中で輝く太陽のごとく眩しい。
「えっと・・それで買い物は・・」
「もちろん、行こう。今回のことで休みが少し多めにとれるから、二人とゆっくり過ごせて今から僕は嬉しくて仕方ないんだ」
ええ、そのようねとは思っただけに留めておいた。
並びのユーリの顔が眩しすぎて日陰を探すが如くにげんなりした表情だったのが、おかしくてつい笑ってしまった。
「・・・君が楽しそうで、僕もうれしい」
不意に、真っ直ぐな笑みを向けられる。
自分の胸の内にあった不安や、ユーリの不安を見透かしたかのようだった。
つい、またユーリと視線を合わせてしまう。
ユーリもまた、少し驚いた表情をしていた。
「・・そうね。今からどこに行こうか楽しみだわ」
その顔を見て、隣の心底嬉しそうな夫の顔を見て。
心から笑って、私もそう返した。
end
◆アトガキ
2014.10.29
元となる小説を最後に読んだのはいつだったか、もう思い出せないくらい前ですが、あの小説の3人のぬるま湯のようなゆらゆらと不安定で、でも柔らかく居心地の良さそうな関係が印象深いです。
好き嫌いが分かれる作品だとは思いますが、もしそんな関係性があるなら主人公の位置に収まりたいくらい私は好きです。
とはいえ、読んだのは本当に随分前なので、設定だけ借りた全く別作品ではあるのですが、思いついたらもう書きたくて書きたくて仕方が無くなってしまいました。
長くはなってしまいましたが、最近の中では思い描いた展開通りに描けたかなと自己満足に浸っています・・・、ふぅ。
もし、これ好きだ!っていう同士さま。
もしかしたら、またこの設定で何か書くかもしれません。
いつか・・・いつか、ですが!
background by web*citron