一
ガタン ドサッ
食欲が無いと言っていたから、自分の食事を終えてから簡単な野菜のスープを作ってもらって、その皿を持って部屋に向かっていた。
2階まで上がりきる寸前に聞こえた異様な物音。
あいつがいるはずの部屋の中から聞こえた気がして、皿の中身が揺れてはねるのも構わずに急いで扉を開ける。
「ああ・・ユーリか・・」
体調が悪いとベッドに横になっていたはずの相手は何故だか壁にもたれて座り込んでいる。
窓から入る夜空の光が届かない窓枠の下、暗がりでも分かるほどその顔に血の気は無く、ひどく青白い。
「?!何があった・・?」
慌てて皿を机の上に乗せて、床にぺたりと座る相手に手を伸ばした。
・・伸ばそうとした。
「・・・い・・めん・・」
「?」
その声は小さすぎて何を言ったのか良く分からなかった。
訝しげに手を止めた隙に、ふらりと立ち上がった相手はそのまま中途半端に開け放たれた窓辺にそっと手をかけた。
折れそうな細い手首と指先。
明かりも燈していない暗い部屋の中に冷たい風が吹いて、部屋を出るときは窓は閉まっていたはずだとぼんやり思い出す。
夜空の下の結界魔導器の光を受けて、透けそうに白い肌が淡く浮かび上がる。
「おい・・・?」
声をかけるのと、相手の眉がくしゃと下がって口元が歪んだように弧を描いたのは同時だった。
白く小さな手の平がひらりと振られて、はっとする。
「っっ!!!?」
伸ばした手をすり抜けるように、一瞬のうちに相手は窓辺をひらりと飛び越えた。
窓枠から身を乗り出せば、眼下で音もなく猫のようにしなやかに着地をした、その次にはよろめいてふらついている。
「馬鹿やろう・・っ」
体調悪い奴が何してやがる。
怒りに任せて怒鳴りそうな声を冷たい夜気と共に無理矢理飲み込んで、窓枠を乗り越えた。
ふらついた体を気合いで立て直す。
ユーリが舌打ちをしたような音が頭上から聞こえて、それに背を押されたように走り出す。
ダンッと背後で着地をする音。
追い掛けて来る気でいるのか。
馬鹿な奴・・ユーリ・ローウェル・・・金色の、あいつに似ている。
自分はここに居ても何にもならない、迷惑しかかけない存在だ。
放っておけば良いのに、何だかんだ口は悪くともお節介な世話やき。
本当に、エドワードに似ているな。
この世界と元の世界が混ざって、気持ちが、悪い。
「はあっ・・はっ」
冷たいはずの夜の空気が心地好い。
それは走っているからか、それともそう感じてしまう程に自分の体温が熱を帯びているのかが、もう分からない。
後ろから追って来る足音が煩わしい。
出来る限り素足の足音を殺して下町とやらを駆け抜ける。
細い裏路地を幾つも曲がって撒こうとするも、下町育ちの相手のここはまさにホームグラウンドだ。
ちょっとうろついたぐらいじゃ知り尽くした相手には敵わない、か。
特徴的なブーツの走る足音がつかず離れずついて来る。
でも追い付かれるのは駄目だ。
もうこうなってしまったからには逃げ切る他はない。
上がる息がうるさい。
鼓動が体全体を振動させて、今にもバラバラに弾け飛んでしまいそう。
体が限界を訴え始めている。
いくつか曲がった道の先に壁。
錬成陣を書く時間は、無い。
「・・・・っ」
なかなか追い付けないことに苛立ちが募る。
この町で育ち、ずっと生きてきたからには分かれ道に出会う度に相手だったらどの道を行くだろうことぐらい分かるのだが。
体調・・悪いんじゃねえのかよっ
全力で走っているのに、出遅れたスタートダッシュが取り戻せない。
曲がる度に期待して、そして見えない背中に焦りが生まれる。
あんな顔で、あんなふらっふらの体で。
それでこんなに走っていて大丈夫な訳が無い。
何があいつをそうさせているのかが良く分からない。
そのことにも苛立つ。
「・・・・!」
微かな足音から、相手が選ぶ道を間違えたのが分かった。
そっちは行き止まりなはず。
勢い込んで角を曲がって・・・目にした姿に瞠目した。
「なっ・・・・にやってんだ馬鹿っ!!!」
今度こそ、深夜なのも気にする余裕も無く怒鳴った。
相手はあろうことか身長よりだいぶ高いその壁の隙間に指をかけてよじ登り、そのまま乗り越えようとしていた。
すでに半身を向こう側に向けていた、その顔がちらとこちらを振り返る。
見上げるこちらと視線が合う。
闇の中に揺れて消えそうな、仄暗い青緑の瞳。
また。
・・・まただ。
訝しげにも、そしてどこか泣きそうにも見える顔がふっと逸らされて壁の向こう側に消えた。
「!!くそっ」
壁の向こう側に何があるか、その先の道に先回りするにはどっちへ向かうのが早いか。
踵を返して路地裏を抜け出てその先の坂を下る。
追い付け、追い付け。
焦る気持ちばかりが先を行く。
坂の先を左に曲がれば、向こうを走っているはずの相手を捕まえられるはず。
絶対に追い付いてみせる。
・・・必ず、捕まえる。
風に流される髪を頭を軽く振って後方へ流して、取り戻した視界の先に・・・見つけた、背中。
「おいっっ」
聞こえているだろう声を無視される。
まあ、こんだけ逃げてんだ、今更声をかけたくらいじゃ足を止めてくれないことぐらい分かる。
分かる、が・・・あいつ、振り返りもしねえっ!
そのまま行ったら下町を出ちまう。
下町を出るってことは、ここ帝都から出るということ。
帝都から出るってことは、・・・・結界魔導器の下から出ちまうってことだ。
分かってんのかよっ!!
心の中で思いっ切り罵倒して、もしもの時のためにと左手に持った愛刀をぐっと握り込む。
手合わせをしてみて、そこそこ強いことは分かっている。
でも魔物を相手したことも見たことも無いと言っていた。
結界の外に出て途端に魔物とかちあったら、さすがにあいつだって上手くかわせるか分からない。
・・その上、あの真っ青な顔だ。
「っんの馬鹿やろうっ、いい加減止まりやがれっ!!!」
一瞬びくっと首を竦めた相手は、それでも振り返らずに走っていく。
くそったれっ
後ろから吠えるようなユーリの怒声が聞こえて、思わず首を竦めた。
怒っている。
これは相当怒っている。
こんなに走って、なお怒鳴れる体力があるのだ。
このままだと間違いなく体力面で負ける。
追いつかれて捕まってしまう。
というか声が真っ直ぐ聞こえた今、振り向かずとも撒けなかった相手にはもう完全にその視界の中に捕捉されてしまっているはずで。
降参すべきか。
上をちらと見上げる。
もう少しで宙に浮かぶ光の輪から抜ける。
ユーリが教えてくれた、あの輪は魔物とやらから人を守っている結界魔導器というものだそうで。
その結界から抜け出たらどうなるのか。
魔物とはどんなもので、すぐそこで人が出て来るのを待っていたりするのか。
・・・今の自分で戦えるのか。
すでにばってばてのふらっふらだ。
元から弱り切った体力で町中を全力疾走で鬼ごっこし続けていたのだ。
これ以上は無理。
その魔物とやらから逃げ切れるかどうかってところだ。
むしろこの状態ではユーリがその魔物ポジションじゃないか。
でも、ああ教えてくれたからにはさすがに結界を抜けてまでは追って来ないだろう。
そう考えて、輪の外へ、駆け抜ける。
あっのやろう!本当に出やがった!
盛大に舌打ちをする。
鞘を投げて昏倒させられればいいのだが、それくらいは軽く避けられてしまいそうな気もする。
相手に続いて仕方なく輪の外へ、結界を越える。
草原だ。
みずみずしい草を踏みしだいてその草いきれを感じる。
同時にもう一人分の草を踏み締める足音も聞こえる。
まさか、危険だと説いたやつがこうも簡単に結界を越えて来るなんて思ってもみなかった。
どこまで来るつもりなんだ、一体。
お人よしにも程があるだろう。
ざっと吹き抜けた風に冷たさなんて分からず、ただ追われるままに目の前の暗い木々の合間に身を滑り込ませた。
鬱蒼と繁る夜の森。
走る自分の息が響いてから、急に別の気配が近付くのを感じた。
身構えようと立ち止まる。
両手を構えて呼吸を何とか少しずつ大人しくさせていく。
ガサッ
草木が揺れて、四つ足の獣と奇妙な鳥が現れた。
自分の腰程の見たことも無い、声も聞いたことも無い獣だが、おそらくはこれが。
高く一声鳴いて襲い掛かる獣。
腰元から取り出した扇を構える前に、その体が横殴りされたように吹っ飛ばされていった。
「蒼破刃!」
紛れも無いユーリの声と共に、青い光が到達して残る鳥形の獣を吹っ飛ばす。
舌打ちしそうになる。
これで自分だけ逃げるわけにはいかなくなってしまった。
扇をありったけの力で振りあげる。
表面に描かれた錬成陣に光が走り、よろりと立ち上がって尚もこちらに向かって突進してくる四つ足の獣の体を上空に跳ね上げる。
・・・低い。
腕の力が足りず、眼前の獣の体は思うより吹き飛ばない。
仕方が無いので落ち切る前にその背後に回り込み、首筋に片手を伸ばして振り向き様に噛まれないように押さえ込む。
腕と脇に閉じた扇を抱え込み、全体重をかけて鋭く研がれた扇の縁を叩き込んだ。
肉を断つ感覚、骨に刃が滑って鳴る嫌な音と擦れる僅かな振動。
目をぎゅっと深くつむりたくなるのを気力だけでこじ開けて、限界な体力の薄れた視界で事切れる獣を見た。
手から力が抜ける。
倒れた獣の首からずるりと扇の刃が抜けて、森の湿った土と葉の上にとさっと倒れた。
その音を最後に辺りが静かになる。
いや、これだけ木々が風に揺れてざわめいているのだ、こんなに静かなわけがない。
あたまがぐわんぐわんと揺れて、考える側からそれらは霧散していく。
ひどい目眩に耳鳴りがして頭を抱えて膝を地につけた。
不意に生温い風が耳の先を揺らす。
傾いだ視界の側で鋭い嘴がカチカチと開閉を繰り返すのが見える。
「・・・・・」
ひどく重いくせに、やけに浅い息が自分から漏れる。
胸が、肺が痛んで、息をするのも煩わしい。
扇は取り落としてしまったな、と他人事のように思う。
突き出された嘴に、無意識に固めた拳を突き出した。
ザ・・ シュ
鋭利な固い鳥型の獣の嘴に手の甲の皮膚と肉をえぐられつつも、拳でその喉元を押し返す前に、頭上から銀色の光が落ちてきてその脳天を貫いて地面に串刺しにしたのが見えた。
危うく拳ごと貫通させられるところだった。
危ないな、と思うも声は出ない。
「・・はぁっはっ・・・はあっ」
自分より大きい呼気が闇夜から降ってくる。
立ち塞がるように黒い影が聳えて、無意識に体を引いた。
「いつっ・・っ・!!?」
嘴から手を引き抜こうとして傷口を引っ掛けて短く呻いた直後。
事切れた獣の体が横に蹴り飛ばされていくのと同時に、体が衝撃を受けて視界がぐるりと回った。
体を打ったような痛みは無い。
後頭部と背面に当たる地面は少し湿って柔らかい程で。
それよりも首筋に押し当てられた刃の硬質さを余程感じた。
「・・・・・ユーリ・・」
ぱさりぱさりと闇と同化しそうな、細く長い髪が視界を遮っていく。
暗がりで見えたその表情はひどく歪んで見えた。
「何してんだよ、死ぬつもりかよ」
今、まさに刃を突きつけているとは思えないほど、静かな声が降ってくる。
間近に視線が合わさって、相手の瞳は真っ黒になった。
その闇の中に映っている自分は、一体どう見えているのだろうか。
怒りを押し殺したようにひどく落ち着いた声が、やっと落ち着いてきた脳内に沁みこんでくる。
死ぬ、つもりだったのだろうか。
「探し物とやらは見つかったのか」
探し物、サガシモノ。
自分はそんなことを言っただろうか。
別の世界から来ましたなんて自分で聞いても頭が沸いていそうな発言はとても出来なくて。
探し物をしていて辿りついたのだと曖昧にぼかした気がする。
でも元の世界ですら辿りつけなかった真実なんて、この世界でどう探せばいいのだろうか。
そう考えてしまえば、不意にもうどうでも良くなってしまって。
全てを放り投げたくなった。
自暴自棄か、と頭の隅が冷静に自分の状況を分析している。
そんな風にぐるぐると考え始めれば、目の前の相手は深い息を一回吐いて手にしていたものをすっと下げた。
「なあ」
体を起こしたユーリが左手を差し出してくる。
ぼけっとそれを見ていたら、眉をしかめてこちらの右手を掴んで、体がグッと引き上げられた。
取り合えず上半身を起こし地面に座ったままなおも見上げていたら、あーやら、はぁやら、何やら呻いて片手でわしわしと髪をかき上げている。
「・・・手が空いた時にでも」
引っ張る力に抗わずに立ち上がれば、また少し目線が近付く。
「俺も、・・その探し物とやらに付き合ってやるから」
頭上に伸ばされた手がぱさぱさとこちらの後頭部を叩いて、視界の端を枯葉の欠片が舞い落ちていく。
「・・・ユーリ」
暗闇の中で蛍のような光が瞬きを繰り返す。
刃を向けても余りにも静かなその様子に、我を忘れそうになったけど。
どうやら少しずつ落ち着いてきたらしい。
危なっかしさは残しつつも、考えるだけの余裕が出来ているのが見て取れて正直ほっとした。
突然現れて、自分が何処にいるかも分かっていないくせして、聞いても必要最低限のことしか言わない。
だからこいつが何を探してるのかも、知らない。
未だ迷子のような目をしたその手をとって歩き出す。
もっとちゃんと聞いてやれば、今日みたいなことは起こらなかっただろうか。
・・・聞いても、はぐらかされる光景しか想像が出来ないけれど。
お互いの手がべとついていて、帰ったらまずは手当てだなと思う。
器用なくせして、馬鹿な奴。
それでも、あの時も、今日もこうして手をとってしまったから。
手が離せなくなったなんて、俺も馬鹿になったもんだと自嘲した。
◆アトガキ
2014.3.28
全力で下町を駆け抜けて逃げる話が書きたかったのです。
もっと言えば、怒鳴って追いかけてくるユーリから、全力疾走で逃走する話を書きたかったというか・・。
ま、逃げられっこないんですが。
だが、それがいい。
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